風の中へ消えた君と、すれ違っただけの令嬢
すれ違った二人の話です。
王都レヴァレンスの城下町は、朝からにぎわいを見せていた。
石畳の広場には野菜や布地を並べた露店が立ち並び、焼きたてのパンの香ばしさが風に乗って流れていく。
そんな人々の喧騒のなか、一人の少女が顔を伏せるようにして歩いていた。
アリス・ロザリンド。
ロザリンド伯爵家の令嬢にして、王宮に名を連ねる名門の娘。
だがその日は、控えめな麻のドレスに身を包み、顔も帽子の陰に隠していた。
貴族らしい絹のリボンも、香水の香りもない。誰の目にも、よくある商家の娘にしか見えない姿。
「……意外と、うるさくはないのね」
つぶやきは、まるで自分自身に向けるものだった。
見上げた空は淡く霞み、城壁の向こうに朝日が差し始めている。
市場に集まる人々のざわめきは、宮廷で耳にする名士の声よりもずっと生き生きしていた。
アリスは足元を見つめながら歩く。
革靴の裏が、石の継ぎ目を確かに踏みしめていた。
こんなふうに町を歩いたのは、いつ以来だろう。
それどころか、一人で屋敷の門を出たのも、はじめてのことだったかもしれない。
「……さすがに少し、緊張するわね」
小声で苦笑し、アリスは手に持った籠を握り直した。
それは名ばかりの“買い物籠”であり、実のところ中にはまだ何も入っていない。
ただ、この町に降りてきた証として、それを持っているだけだった。
なぜ来たのか。
自分でもはっきりとはわからなかった。
ただ、あの屋敷の中でもう少し呼吸ができる場所が欲しかった。
決められた日課、礼儀作法の復習、笑顔の角度まで測られる食卓。
完璧であれと求められ続けることに、疲れていたのかもしれない。
もちろん、それが“役目”だということは理解していた。
ロザリンドの名を継ぐ者として、常に見られ、測られ、選ばれ続けること。
そうでなければ、あの一族の中で生きることはできない。
――それでも今日だけは、ただ“私”でいたい。
そんな漠然とした思いが、胸の奥で静かに息づいていた。
言葉にすれば幼くて、わがままに聞こえるものだと、アリス自身が一番よくわかっていた。
けれど、それでも。
誰に名を呼ばれるでもなく、家柄を背負うでもなく、
“自分が何を選び、何を好きだと思うのか”を確かめる時間が欲しかった。
それが、どれほど叶いがたい願いであるかも知っている。けれど、だからこそ。
その一日が、どうしても欲しかった。
誰にも知られず、誰にも命じられず、
ただ“わたし”として歩ける朝を、心のどこかで待ち望んでいた。
そして、今日がその日だと決めた。
誰の許しも得ないまま、自分で決めた初めての“行き先”だった。
アリスは、指先で帽子の庇をそっと押さえた。
春の風が髪を揺らし、ほんの少しだけ、顔にかかる。
控えめな麻のドレスは、屋敷で着る衣装よりずっと軽く、けれど何故か、その重みが懐かしいようにも感じられた。
ああ、そうだ。
昔、屋敷の奥庭に出入りしていた洗濯女の娘が、似たような色の服を着ていた。
あの子が花を編んでくれたあの日のことを、アリスはふと思い出した。
「……なんでもない日の記憶って、ずっと残ってるのね」
胸の奥で、そんな言葉が芽吹く。
特別ではない一日。それでも、確かに“生きていた”と感じられる時間。
それが、きっと本当に欲しかったものなのだろう。
気がつけば、広場の中央に差しかかっていた。
露店の間を行き交う人々、積み上げられた果物、風に揺れる布地。
そこでアリスは、ようやく気づく。
この町は、誰のためでもない言葉で溢れていた。
値段の交渉も、冗談も、笑い声も、みな“自分の声”で語られている。
そのささやかな自由が、眩しくて、羨ましかった。
「……あっ!」
不意に背中に当たった何かが、アリスの身体をぐらりと揺らした。
足元はさっき通った噴水脇の水溜まり――滑る石畳。
踏みとどまろうとして一歩踏み出したその靴裏が、水を跳ね上げた。
ぱしゃり、と控えめな音。
アリスの前に立っていた青年の上着に、小さな水飛沫が散った。
「す、すみません……!」
アリスはすぐに謝罪の声を上げた。
彼女の足元には、乾いた籠が転がっているだけだった。
だが、見れば見るほど、青年の服の裾には淡く水跡が残っていた。
青年は、自分の服に視線を落として、首を傾げる。
「……ああ、大丈夫です。水ですね。怪我じゃないので」
それでもアリスは落ち着かなかった。
自分のせいで人の服を汚してしまったことが、どうしても気にかかる。
「でも……拭かせてください。せめて、乾いた布を……それとも、新しい上着を……っ」
青年がもう一度やんわりと断ろうと口を開くより早く、アリスは少しだけ顔を上げて、続けて話した。
「……お金は、あります。ですから、迷惑をかけた分は……ちゃんと払います。私の責任ですから」
青年が少しだけ目を見開き、それからふっと微笑んだ。
「いえいえ、これは古着ですから。何度も洗ってくたびれてますし、気にしないでください」
けれど、アリスは納得しきれず、口元に迷いを浮かべたまま首をかしげる。
「でも……わたしのせいで濡れてしまったのに」
その声音には、言い訳でも気休めでもない“本心”がにじんでいた。
青年はしばらく黙っていたが、やがて少しだけ笑って言った。
「……そんなに気にされるなら、こうしましょう」
アリスが目を上げると、彼は朝の光の中で、少しだけ視線を柔らかくした。
「そこまで深く負い目を感じてるなら、よければ――ご飯でも一緒に行きませんか?」
思いがけない提案に、アリスは一瞬だけ目を瞬かせる。
「ご飯……?」
「ええ。謝罪の代わりってわけじゃないですが、もし君さえ良ければ。ちょうど僕も、これから朝食にしようと思ってたところですし」
彼の言葉には、押しつけがましさも、気取りもなかった。
ただ、ごく自然に――この偶然を少しだけ続けたい、そんな気持ちがにじんでいた。
「……わかりました。では、ご一緒させていただきます」
アリスはわずかに口元を引き結んで、静かに頷いた。
人々の流れに逆らうように、青年は通りの奥へと歩き出す。
アリスは一瞬だけ後ろを振り返り、自分がいた広場を見やった。
朝の光はすでに上り始め、屋根の影が徐々に短くなっている。
こんな自由も、長くは続かないだろう。
けれど、もう少しだけ――素顔のままで歩いてみたい。
そう思って、アリスは小さな足音で彼のあとを追った。
◇
案内されたのは、通りを一本抜けた先にある小さな屋台だった。
木の柱に布屋根を渡しただけの簡素な作りだが、鍋から立ちのぼる湯気が心地よく、香ばしい香りが空腹をくすぐった。
「ここ、安いけど美味しいんです。大きな宿の料理より、僕はこっちの方が好きで」
青年がそう言いながら、簡素な木の椅子を指さした。
アリスは少しだけ戸惑いながら、その隣に腰を下ろす。
座面が傾いでいないか、足元が汚れていないか――そんなことが自然と気になってしまう自分に、内心で苦笑した。
「すみません、お嬢さんには少し粗末だったかもしれませんね」
ふと、青年が口にした言葉に、アリスの動きが止まる。
「……なんで、そう思ったんですか?」
「いや……なんとなくです。言葉の選び方とか、姿勢とか。あと……座るとき、ちょっと迷ったでしょう」
「……見てたんですね」
「旅が長いと、人の癖に自然と気がつくんですよ」
アリスは笑わなかった。ただ、黙って前を向いた。
そうしながらも、屋台の向こうで忙しく立ち回る店主の手さばきに、つい目を奪われる。
スープをよそい、焼きたてのパンをちぎり、皿に添えるその動き。
誰も見ていないようでいて、誰かの一日をきちんと支える、あたたかな手。
やがて、ふたりの前に湯気の立つ木の皿が置かれた。
「お待たせしました。肉と豆のスープです。冷めないうちにどうぞ」
「……ありがとうございます」
アリスはそう言いながら、スプーンを手に取った。
金の器でも、磨かれた銀の食器でもない――けれど、指先にしっくりとなじむ質感だった。
ひとくち、口に含む。
あたたかさが舌を包み、塩気の奥に広がる野菜の甘みが、ゆっくりと身体を満たしていった。
「……美味しい」
思わずこぼれた声に、隣の青年が、目を細めて笑った。
思わずこぼれた声に、隣の青年が、目を細めて笑った。
「でしょ? ここの塩加減は絶妙なんです。干し肉も、自家製らしいですよ」
アリスは、もう一口スープを口に運びながら、そっと息を吐いた。
朝のひんやりした空気の中、あたたかさが喉を通っていくのを感じる。
贅沢ではない。けれど、奇妙な満足感が胸に残った。
「こんなに落ち着く場所が、王都の中にあるなんて思いませんでした」
「ここ、観光客はまず来ないですからね。地元の人と旅人ぐらいですよ。……いや、失礼。君がどちらかはわからないけど」
そう言って、青年はスープをひとくち啜った。
アリスはわずかに視線を伏せた。
「……旅人というほどのものではありません。ほんの、気晴らしです」
「気晴らし、か。いいですね。じゃあ、今日は特別な日ってことで」
「ええ、たぶん。私にとっては、少しだけ特別な朝です」
青年は、しばらく彼女の言葉を噛みしめるように黙ったあと、手元のパンをちぎりながら言った。
「ところで。名前を聞いてもいいですか?」
アリスは、スプーンの動きを止めた。
「……名前、ですか?」
ええ。フルネームじゃなくても構いません。呼びかけるときに“そこの人”って言うのも、さすがに不便で」
少し茶化したような口調に、アリスは肩の力を抜くように小さく笑った。
「じゃあ……“アリス”で」
「アリス。いい名前ですね」
そう言いながら、青年はパンの欠片を口に運んだ。
「僕は“セス”と呼ばれています。セドリックはちょっと堅いので、旅ではこっちの名を使ってるんです」
「セスさん、ですね」
「“さん”なんてつけなくていいですよ。お互い気楽にいきましょう」
アリスは軽く頷いて、またスプーンを手に取った。
たった呼び名に過ぎないはずなのに、空気が少しやわらいだ気がした。
「……旅、なんですか?」
スープの湯気越しに、アリスがぽつりと尋ねた。
セスは一口飲み込んでから、うん、と曖昧にうなずいた。
「旅っていうほど格好よくもないんですけどね。あちこち回って、人の話を聞いたり、地図を描いたりしてます」
「地図?」
「ええ。城の中じゃなくて、村と村の間とか。街道じゃない道とか。今は誰も使ってない峠道とか」
「……そういうのを、記録してるんですね」
アリスは少し驚いたように言った。
書物で見た“地図を作る仕事”が、実際に目の前の人の手で行われていることが、どこか現実味を伴って響いた。
「でも危なくないですか? 辺鄙なところを通るなら、盗賊とか、獣とか……」
「まあ、危ない目にも何度か遭いましたけど、慣れるもんです。怖いのは獣より人ですね」
それは冗談とも本音ともつかず、アリスは笑うべきかどうか迷って、結局少しだけ口元を緩めただけにとどめた。
「じゃあ今日は、通りすがりにこの町に?」
「そんなところです。王都の地図はもう大体できてるけど、広場の周りの路地とか、昔の水路跡とか、気になるものが多くて」
「……通りすがりにしては、詳しいですね」
「一度通った道は、けっこう覚えてるんです」
アリスはスプーンを皿に戻し、木の器の縁を指でなぞった。
「……私は、通りすがりですらありません。今日だけ、抜け出してきただけです」
セスは驚いた様子も見せず、ただ「そうですか」と相槌を打った。
それだけの返事が、アリスには不思議と救いに思えた。問い詰めも、詮索もない。続きを話すかどうかを、すべてこちらに委ねる間合いだった。
少しだけ目を伏せて、アリスは言葉を選ぶように口を開いた。
「生まれた家が……少しだけ、窮屈なんです。良い場所ではあるんですけど、何もかもが決められていて」
器の縁をなぞっていた指が止まる。
「どんな服を着るか、誰と話すか、何を答えるか――全部“こうであるべき”が先にあって。自分の意志は、いつも後回しです」
セスは何も言わなかった。けれど、静かに聞いている気配だけは伝わってきた。
「別に、誰かに無理やり閉じ込められているわけじゃないんです。望まれていることを、望まれているようにこなして……。ただ、それがいつの間にか、自分の輪郭をなくしていくみたいで」
アリスはそっと息を吐いた。
言葉にしてしまうと、わがままに聞こえるのではないかとどこかで怯えていた。
けれど、話してしまえば、その重たさは少しだけ胸から抜けていった。
「だから、今日だけは……自分で歩く道を、ほんの少しでも選びたかったんです」
その言葉に、セスはふっと視線を落とした。
パンの欠片を指先でつまんで、テーブルの端に軽く転がすようにしてから、ぽつりと口を開いた。
「選ぶって、案外難しいですよね。選べば選ぶほど、何かを失う気がする」
アリスは目を上げた。
その横顔には、笑っているような、けれど少し遠くを見るような影が差していた。
「僕も、そういう場所にいたことがあります。全部が決まってて、ただ言われた通りにしていれば、何も困らないはずの場所に」
「……でも、出たんですね」
「出ました。怖くて、勢いだけで。でも……そうするしかなかった」
彼はそれ以上多くを語らなかった。
けれど、たったそれだけの言葉に、どれほどの決意が込められていたかは、アリスにもわかる気がした。
「君が今日ここに来たのも、きっと同じようなことなんだろうと思って」
アリスは小さく頷いた。
ただの偶然に思えた出会いが、少しだけ意味を持つ気がした。
「……いつか戻らなきゃいけないんですけどね」
「戻る場所があるっていうのも、大事なことです」
セスは穏やかにそう言って、最後の一口を口に運んだ。
皿の底に残ったスープの名残が、朝の光にきらめいていた。
しばらくして、皿の上の湯気も消え、店主が静かに食器を下げていった。
屋台の喧騒も少しずつ和らぎ、街全体が次の時間へと進もうとしているのがわかった。
「そろそろ、戻らないといけません」
アリスが静かに立ち上がる。
セスもそれに倣い、椅子を引いた。
「今日は、ありがとうございました。……本当に」
「こちらこそ。いい朝でした」
短く交わされた言葉に、取り繕った礼儀も気の利いた言い回しもなかった。
それでも、互いの胸に残るものは確かだった。
「この先、どこへ行くんですか?」
アリスが問うと、セスは少し考えるようにして空を見上げた。
「南の街に回ってから、峠を越えるつもりです。まだ地図に載っていない村がいくつかあると聞いて」
「……道中、お気をつけて」
「君も。気晴らしの一日は、もう少し続けてもいいと思いますけどね」
アリスは笑わなかった。ただ、小さく頷いた。
ふたりの間に、風が通る。
春の風だった。冷たさの奥に、芽吹きの匂いが混じっている。
「……ねえ、セス」
去り際、アリスはほんの少しだけ迷いながら、言った。
「私たち、お互いに肝心なことは話してませんね」
「ええ。でも、それでよかったんじゃないですか?」
彼はそう答え、にこりと笑った。
「“誰でもない自分”で会えたことの方が、たぶんずっと貴重ですから」
その言葉に、アリスはようやく口元をゆるめた。
それ以上は、もう何も言わなかった。
「さようなら、セス」
風にかき消されそうなその一言に、セスは立ち止まりもせず、振り返りもせず、ただ前を向いたまま手を振って答えた。
「また、君といつか会えますように」
そしてふたりは、同じ場所から、それぞれ違う方向へ歩き出した。
セドリックは「旅人」と名乗りましたが、本当はアリスと同じ立場の人間です。
家から逃げてきた者同士だからこそ、互いに言葉少なく通じ合えたのだと思います。