エチュードの恋人
「……なあ、俺、今とんでもない巻き込まれ方してるよな?」
「お願い晃。本当に今日だけ、数時間だけでいいから!」
式場のロビー。高い天井に響くクラシック、控えめな花の香り。
私は、中原晃のネクタイを掴んでいた。何年ぶりかに会った男に、必死の形相で。
「“恋人のフリして”って、いきなり何なん?」
「私……高校のときの友達に、“彼氏いる”って言っちゃって。ちょっとだけ見栄で。で、引くに引けなくて……」
「どのくらい前の話?」
「大学四年のとき」
「重症すぎるだろ」
晃は苦笑いを浮かべながら、ふっと私の手元に視線を落とした。
「……そんなに、ネクタイ掴まれても」
「あ、ごめん」
慌てて手を放すと、晃は軽く咳払いしてから、私をじっと見た。
「じゃあ、今日の式で、彼氏のフリしてほしいって?」
「そう。友達に紹介する流れになってて……頼めるの、晃しかいないの」
「俺、今日たまたま招待されてただけなんだけどな……っていうか、偶然隣の席なのが奇跡すぎるだろ」
「ね。運命感じるよね」
「やめろ、今だけ“運命”とか言うの」
苦笑しながらも、晃は腕を組み、ちょっとだけ考え込むふりをした。
「……まあ、やってやれなくもない。俺、芝居は得意だし」
「ほんと!?」
「ただし、やるなら全力で行くからな?中途半端な“ごっこ”はしない」
「うん、全力でお願い。私もがんばる」
「付き合って何年って設定にする?」
「2年くらい?」
「出会いは?」
「大学のゼミで」
「よし、リアリティあるな。それで行こう」
晃がぱんと手を叩いて、私に微笑む。
「じゃあ、今日一日、よろしくな。俺の“彼女”」
「……うん。よろしく、晃」
⸻
披露宴が始まってから、わたしたちの“即席カップル劇”は、予想以上にスムーズだった。
「えーっ!?千紗が彼氏いたなんて、聞いてないよ!」
「ていうか、中原くんと!? ゼミ一緒だったのは知ってたけど!」
「まさか、あのゼミが出会いだったとはね〜」
テーブルを囲む友人たちが、わいわい騒いでいる。私は愛想笑いを浮かべながら、グラスを手に持った。
晃は、まるで“本物の彼氏”のように自然に私の隣に座り、時折さりげなく私の皿に料理を取り分けたりしていた。
「お似合いだよね、2人。いつから付き合ってるの?」
「大学4年の夏からです」
私がそう言うと、晃がすかさず補足するように口を挟んだ。
「俺の一目惚れでした。初めて見たときに、こいつめっちゃ冷たそうだけど好きだって思ったんです」
「ひど」
「でも、実際冷たかったから、何回もフラれて。めげずにアプローチしまくって、ようやくオッケーもらいました」
「うわ〜青春!いいなぁ!いい話!」
友人たちが盛り上がっている。その間、私はこっそり晃の袖をつまんだ。
「話、盛りすぎ」
「アドリブだから。これが即興芝居の醍醐味だよ」
「……本当にうまいんだから」
苦笑しながらそう言うと、晃は少し得意げな顔をした。
「俺さ、演劇部のときから“恋人役”得意だったからな。昔、文化祭で主演やったときとか――」
「語らなくていい」
⸻
披露宴も中盤に差しかかり、会場が少し落ち着いた頃。
「飲み物、取りに行かない?」
「うん、行こっか」
晃と2人でテーブルを抜け出す。ドリンクカウンターに向かうまでのわずかな距離。私たちはずっと“恋人のまま”だった。
「千紗さ」
「なに」
「けっこう笑うんだな」
「え?」
「いや、今日さ、ずっと笑ってるなって思って」
「……演技してるからじゃない?」
「うーん、それだけじゃない気がする」
晃は氷の入ったグラスをカラカラと揺らしながら、私をちらりと見た。
「こういうの、悪くないなって思って」
「“こういうの”って?」
「恋人のフリして、知らない人に“お似合いだね”とか言われる感じ。変だけど、ちょっと嬉しい」
「……演技にしては、楽しそうだったもんね」
「まあな。でも、あれ全部アドリブだったから。ちょっとでもズレたらすぐバレるじゃん。だから呼吸合わせんのに必死だった」
「……ふふ」
晃が首をかしげた。
「なに笑ってんの」
「なんか、真面目に演技の話してるの、あんたらしいなって」
「俺、基本的に真面目だからな。変なところだけ」
「知ってる」
晃が苦笑したあと、グラスの水を一口飲んだ。
「でもさ、さっき千紗が俺の腕つかんだとき、ちょっとドキッとした」
「え、どのとき?」
「乾杯のあと、誰かに“見せて見せて”って言われた瞬間。俺の腕つかんで、“彼氏です”って」
「えっ、うそ、そんな自然だった?めちゃくちゃ必死だったんだけど……」
「めっちゃ自然だった。あれで完全に“付き合ってる感じ”になった」
「……へえ、演技でもそういうのって伝わるんだね」
「いや、むしろ演技だからこそ伝わることもあるよ。感情って、隠すつもりでもちょっと漏れるし」
晃はそんなことを言って、またグラスを揺らした。
「……もう戻る?」
「もうちょい、ここで休もっか」
「うん」
⸻
披露宴もいよいよクライマックス。新婦の手紙と、新郎の挨拶で、会場には涙と拍手が溢れていた。
晃と私は、それを静かに眺めていた。
「……なんか、いいな」
「うん。泣きそうになるの、なんか悔しいけど」
「新婦の言葉、刺さったよな。“一緒に笑える人がいることが、私の一番の幸せです”ってやつ」
「……うん、わかる」
その一言が、なんとなく胸に残っていた。
わたしも、そんなふうに思える人に、出会ってたら――
――いや、今、隣にいるこの人が、その役を演じてるだけだから。
「なあ」
晃の声が、私の思考を断ち切った。
「もしさ、仮に“ほんとに付き合ってたら”どうなってたと思う?」
「……んー……喧嘩ばっかしてたかも」
「やっぱり?」
「うん。でも、たぶん笑ってる時間も多かった気がする」
「それ、わかるわ」
晃が笑う。その笑い方が、すこしだけ本気に見えた。
⸻
披露宴が終わり、帰り支度をする列ができていく。
玄関の外は、もう夕暮れの空だった。
「そろそろ駅……」
「――って、言おうとした?」
「うん。そっちも?」
「うん」
2人で笑ったあと、ふと沈黙する。
その間に、遠くでタクシーが走り去る音がした。
「……なんかさ」
「なに?」
「このまま“バイバイ”って言うの、変に現実に戻る感じするな」
「わかる。スパッと解散って感じ、ちょっと味気ないよね」
「今日だけの“恋人ごっこ”だったのに、終わったら、すぐ赤の他人って」
「……」
「俺、もうちょいだけ一緒にいたいなって、ちょっと思ってるんだけど」
「それって、延長戦ってこと?」
「うん。延長戦」
私は一拍だけ間をあけて、頷いた。
「じゃあ……駅、遠回りして行こっか」
「決まり」
晃が少しうれしそうに笑って、並んで歩き出す。
まだ“恋人ごっこ”は終わってる。終わってるはずだった。
なのに、今日いちばん自然だった時間は、そこからだった気がする。