episode 6
そして文化祭の日がやってきた。
校内の至るところでクラスごとの展示発表や演劇、部活動の紹介などが行われ、開催早々から多くの人たちで賑わう。家族も招待されているため、一緒に文化祭を楽しみながら、普段は見ることのない生徒たちの活動を知ることもできる。
この日のために編成された咲たちの音楽隊が、幕の下りた体育館のステージ裏手で準備を進めていた。
緊張をほぐすため、咲はステージを降りて体育館を歩きまわってみる。並べられたイスはすでに観客で埋まり始めていた。
「あっ、お姉ちゃんだ!」
弟の倫が観客席から立ち上がって手を振る。母に連れられ、車いすに乗った祖父も並んで座っていた。
「ママ! よく時間とれたね」
「いつもサキに家のことをやってもらっているから、応援くらいしてあげないとね。それに、サキがまたピアノを弾くって知ってから、ジイジは必ず見に行くって言ってたのよ」
祖父はニコッと笑って頷いた。
「ママもリンもジイジも、サキが頑張って練習してきた演奏を楽しみにしているよ。きっとパパも見守ってくれてるわよ」
「ありがとう。リクやアユミにもたくさん助けてもらったんだよ」
「そう。あとでお礼言わないとね」
校内放送で、間もなく演奏会が始まると伝えられた。
「始まるね、お姉ちゃん!」
「うん。それじゃ、行くね」
ステージに戻ろうとする咲を、祖父が呼び止めた。
「サキ……。頑張らなくていい。思い切り楽しんできなさい」
「……うん。わかった。楽しんでくる」
先ごろ、祖父はリハビリができる施設への入所が決まった。市営なので入所金もだいぶ安く済む。その代わり、部屋に空きが出るまで2か月ほど待つことになるらしい。4人での生活もあとわずかと考えると、寂しくもなる。
祖父の言葉は、頑張るのは子供じゃなくて大人なんだと言っているような気がして勇気付けられた。
吹奏楽部の演奏が終わり、ステージの幕が下りる。
次は咲たちの出番だ。音楽の先生がアレンジした、吹奏楽とピアノのコンチェルト(協奏曲)。
放送では、“特別枠のミニコンサート”と紹介され、より緊張感が高まる。
最初の曲――『ロトのテーマ』には、先ほどの吹奏楽部も応援として加わる。聴衆を惹きつけるホルンの音から始まり、胸が高鳴るテンポで曲が進んでいく。
何度も猛特訓した甲斐があり、みんなは終始落ち着いている。咲も練習の成果を存分に発揮して鍵盤を叩く。マーチングバンドのような元気な演奏は、会場の外にいた人たちにも聞こえたようだ。演奏が終わるまでに、体育館の席は埋まり、立って見ている人が大勢いた。
1曲目が終わり、応援の吹奏楽部は舞台の袖へ。
歩はアルトサックス。咲はピアノ。陸はドラム。ステージに残った3人が『Take Five』を披露する。会場は大盛り上がりで、再び大きな拍手に包まれた。
鳴りやまない拍手の中、演奏を終えた歩と陸がステージを降りていく。
スッと照明が落とされたステージ。ひとり残る咲とピアノにスポットライトが照らされる。その一瞬で、会場が静かになった。
紹介された曲は、シューマン作曲の『トロイメライ』。
1拍目から穏やかで夢見心地な音が流れる。2分半ほどしかないこの曲は、4小節単位のメロディーが音の連なりを変えながら8回繰り返される。4分の4拍子という拍節を曖昧にして、いかに夢想的な曲とするかは奏者の技量に依るのである。
短い曲ではあるが、咲は最後の一音まで指先に気持ちを込めて弾いた。弦の響きが完全に聞こえなくなるまで、会場はシンと静まり返っていた。
トロイメライとは、ドイツ語の“夢”から派生した言葉。夢想、幻などの意味も含まれるという。その言葉通り、儚い夢として諦めるつもりでいたピアノ。こうしてまた弾いているのも夢なのか。
ふと、子供の頃の情景が思い浮かんできた。初めてピアノに触れた日。難しい指使いを克服した日。楽譜を見ながら最後まで弾くことができた日。さらなる高みを目指した日。嬉しかったことや辛かったこと。いつしか目標を持つまでに成長してきた日々が、アルバムをめくるように思い返される。
演奏は最高の出来栄えであった。これまでの集大成として十分満足できるものであった。
ただ、これが本当に最後になるかと思えば、鍵盤を押える指を離したくないという気持ちが残る。
気付かぬうちに滴ったひと雫。手の甲に落ちて弾けた。氷のように冷えていく指先を温めるかのように、手の上を滑っていく。
満員の会場から、拍手が鳴り響くのが聞こえた。