episode 2
咲が神妙な面持ちで家に帰ると、すでに小学校から戻った倫が「宿題でわからないところがあるから教えて欲しい」と言う。
夕食の準備だけ済ませて、祖父の横で算数のノートを広げている倫の元へ行く。
「ジイジは算数わからないんだって」
「はははっ、昔から計算は苦手でなぁ」
「で? どこがわからないの?」
解き方を教えて、倫が計算するのを待ちながら、ふと部屋の隅に置かれた通学バッグに目を向ける。学校で渡された三者面談のプリントを取り出し、もういちど隅々まで読んだ。
――志望校……。それに三者面談。ママ仕事が忙しいんだよな……。
プリントを手に考え込んでいたら、不意に祖父が話しかけてきた。
「サキはもうピアノやらんのか?」
かつて、咲は音楽教室に通ってピアノを習っていた。家にも練習用のピアノがあったのだが――。
父の急死。祖父も介護が必要になって、生活費のためにピアノは売ってしまった。
その日から、やりたいことは全て諦めてきた。
「もうピアノないから……」
「そうか」
祖父はそれきりなにも言わなかった。
ある日の深夜、祖父がトイレのために起きたが、小さな段差につまづいて転んでしまった。物音に気付いた母がすぐに助け起こし、幸いなことに大事には至らなかった。
咲は母に提案する。
「ママ。ジイジが夜中に起きなくてもいいように、紙おむつしてもらったらどうかな?」
「それは考えているんだけど、ジイジが嫌がるのよ。動けるうちは自分でしたいんだって」
「じゃあ、トイレに行く時は付き添うしかないのかな。段差はどうにもならないから、廊下に手すりでもあればいいんだけどね」
「明日からママがジイジの傍で寝るわ」
「それなら私も手伝うよ。交代でやろう」
「そう? 助かるわ、サキ」
母は家族のために必死で働いている。これ以上の負担はかけられない。
この翌朝、咲は遅刻をした。
「それじゃあ、日直は三者面談のプリントを回収して」
「あっ、しまった……」
遅刻をした上に、忘れものまで――。
「毎日ボーっとしすぎじゃね?」
誰かの陰口に、くすくすと笑い声が聞こえる。
いたたまれない様子の咲を見て、陸は手にしていたプリントをサッと机にしまい込むと、「俺も忘れました」と告げる。
「なにやってんだよリク」
クラスの注目が陸へと移った。
「仕方ないな。明日は忘れずに持ってこいよ」
「はーい」
陸のおかげでその場は収まった。
「リク!」
休憩時間の廊下で、咲は陸に呼びかける。
「さっきはありがとう」
「なにが? 俺もプリント忘れてきただけだよ」
「そっか。でもありがとう」
「なんだよ、それ」
「ねぇ、志望校どこにしたの? リクは頭いいから、偏差値の高いところ受けるんでしょ?」
「K高校のこと? 受かるかどうかはわからない。サキはどこを受けるつもり?」
「私は……、家のことがあるから、まだ決めてない」
「おじいさんの具合は、どう?」
「うん。だいぶ足腰も弱くなってきているみたい」
「そうなんだ……」
陸と咲の家は隣同士。陸も事情は知っている。
頼ってくれるなら助けたいが、問題を抱えている家庭では、他人に迷惑をかけたくないという思いから、誰にも助けを求めずに家族間で解決しようとすることが多い。
「なぁサキ。困ったことがあるなら言えよ」
「大丈夫だよ」
答えた咲の指には、絆創膏がいくつも貼られていて、腕には火傷の痕もあった。
日曜日――。
咲がいつも行くスーパーの前に人だかりができていた。なにごとかと近付いてみると、管弦楽団のミニコンサートが始まるところだった。
ふとレジ脇に貼られていたポスターを思い出す。場所も開催日も確認していなかったが、それが今日だったとは思わなかった。
“ミニ”というくらいだから、その規模は小さい。8人ほどが楽器を手に、スーパーの前の空きスペースで演奏をする。
咲の目前にはピアノも置かれている。
女性の奏者が、他の楽器に合わせて鍵盤を弾き始めた。
正式名称をクラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテといい、イタリア語で”強くも弱くも弾けるチェンバロ”という意味を持つ。88鍵、7オクターブ1/4の広い音域を駆使すれば、どのパートにも対応できる万能な楽器だ。
奏者の滑らかな指使いと、弾かれる弦の音色に咲は心を奪われた。
――私も弾きたい。
指が自然と曲に合わせて動く。
スーパーの前は賑やかだった。雑踏の中で鳴り響く管弦楽器。その中で、特にピアノの音だけが咲の耳を和ませていた。
しかしそれはわずかな時間だけだった。視界の隅に、音楽に興味のない買い物客が、忙しなく行き来する姿が映った。現実に引き戻され、小さくため息を吐く。急いでその場から離れて、スーパーの入口へ向かっていった。
まだ演奏が続く中、少し離れたところから一部始終を見ていた歩がいた。