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黒い二、三十人の女

作者: 旅歌

 死んだ葉っぱの葬式に

 二匹のカタツムリが出かける

 黒い殻をかぶり

 角には喪章を巻いて

 くらがりの中へ出かける

 とてもきれいな秋の夕方

    ジャック・プレヴェール「葬式に行くカタツムリの唄」


 962年、ザクセン朝のオットー1世、ローマで戴冠。神聖ローマ帝国が始まる。これをドイツの第一帝国と呼ぶ。1806年、ナポレオン・ボナパルトにより作られたライン同盟が帝国より脱退を宣言。ハプスブルク家のフランツ2世の帝位辞退により第一帝国は瓦解。


 1871年 普仏戦争に勝利したプロイセンは、ホーエンツォレルン家を皇帝に抱き、ドイツ帝国を成立させる。これを第二帝国と呼ぶ。1918年、第一次世界大戦末、11月革命により皇帝ヴィルヘルム2世はオランダに亡命。第二帝国は崩壊する。


 1933年、国会議事堂放火事件によりナチスの独裁体制が確立。ヒトラーを総統とする第三帝国が成立。1945年、第二次世界大戦末、ヒトラー、ベルリンで自殺。第三帝国滅亡。四戦勝国による分割統治が始まる。


 2066年、地中海ブルカノ島で大規模な火山噴火。ヨーロッパの政治経済機能が麻痺。《大分裂》時代に入る。そして、ドイツには新たな帝国が誕生していた。我々はそれを便宜上、第四帝国と呼ぶ。が、上記の知識はこの物語とはあまり関係がない。



プロローグ


 それは「風」から起こった。

 国境にある村の街道を薄暮が包もうとしていた。ある村の男が一人、マロニエの枯れ木の下に座ってコイントスをしていた。

「表。表。裏。表。」

 そこに青鹿毛の馬に乗った伝令がやってきた。伝令はどれほど休まずに駆けてきたのか、さぞ疲れた様子で馬を止めた。

「ちょっと休ませてもらってよろしいですか?」

「どうぞどうぞ。」

 伝令は馬を拭き、自身は水筒から水を飲み、大きく息を吐いた。

「こんな夕方に外でなにをしているか気になりますか?」

 村の男は、コインをしまうとそう話しかけた。

「いえ。」

 伝令は正直だった。特にこの男のしていることに興味はない。馬を繋いで休むのにちょうど良い木があったから寄ってみると、そこに先客がいたというだけの話だ。だが、ここで険悪な雰囲気を作って、あらぬ攻撃を受けるのも伝令としては避けたかった。これらの書状を無事に届けることが自分の務めだ。

「いえ、しかし、なにをなさっておいでですか?わたしが邪魔にならなければ良いのですが。」

 伝令は丁寧に取り繕うことにした。

「シマシマカタツムリを観察していたんですよ。ほら、マロニエの木の幹を歩いている。大家族で。」

「シマシマカタツムリですか。珍しいですね。」

「ええ、この辺りにはよくいるんですよ。白黒の縞模様が見事でね。」

「どれどれ。いないじゃないですか?どこに?

 伝令は、目を凝らしてマロニエの枯れ木を探したが、目当てのものは見つからなかった。

「もうずっと上の方へ登っていってしまいましたよ。マロニエの木のずっと上の方へ。」

「では、そろそろ行きます。」

「全然、休んでないじゃないですか。」

「都に娘がいるんです。会うのが久しぶりなもので、早く仕事を終わらせたくて。では!」

 正直、あまり人と会話をするのが得意ではない伝令だった。ここにいても休まらないと判断したのだろう。娘の話は、本当か嘘か、この場を立ち去るための方便だったのかもしれない。

 さて、その伝令が走り去ろうとした時、秋の始まりを告げる一陣の風が吹いた。風は夕暮れに染まる都へと向かう伝令の持つ書状を一通、マロニエの枯れ木の下に吹き飛ばした。それを村人が拾った。彼の名はレプゴーといった。



第一章 妄想の間違い


 ファーデンは自分の機嫌が悪いことに気がついていた。その理由も当然分かっていた。大公が閣議の場に現れない。それも今日が初めてではない。この一ヶ月、大公をなに度迎えに行ったことか。そして、ノックをする前、毎回大公の部屋から聞こえてくる馬鹿馬鹿しい騒ぎ。例えば、今日はこうだ。

「ポリーさん・・・ポリーさん。どうしてそんなに機嫌が悪いのですか。ポリーさーん。・・・ふう、ご機嫌を直していただけませんか。ルシーさん。なんとか言ってあげて下さいよ。あなたから言ってもらえれば・・・無理ですか。そうですよね。無理ですよね。ポリーさんは、あなたの目には入っていないというわけだ。それでは、アマーリエ。あなたはどう思います。そうペンギンやシマウマの白黒には意味がある。ペンギンは、空の敵からは海に溶け込むように背中が黒。水中の敵からは空に溶け込むように腹が白。そう、アマーリエ。あなたは天才だ。それが、ポリーさんには、分からない。では、ドロテーアさん。シマウマは?そう、群れで固まった時、外敵から単体を区別できないように、縞でごちゃごちゃにするんです。しかも!しかも!白い部分と黒い部分で表面の温度が変わって気流が起きる!イコール涼しい!ポリーさん聞いているんですか。じゃあ、パンダはどうだ?意味があるんですか、竹やぶの中に、白と黒!保護色か?保護色かと聞いているんです。ポリーさん!あ!また、どうして、そういう態度を取るんですか。少しはわたしの気持ちになってみたらどうです。大体、ポリーさんは、わがままが過ぎますよ!ねえ、アンナさん。ほら、わたしがいいたいのは、パンダは、特に外敵や、あ!なにするんですか、あぶないじゃないか!おしおきです!ポリーさーん!・・・痛い!!」

 ノックをして部屋に入ると驚くべきことが分かる。誰もいないのだ。大公以外誰も。ポリーとかアマーリエなどという女ーーーのつもりだろうか?ーーーはどこにもいない。

 最初は唖然として問いただしてみたが、言を左右にするばかりの態度にも苛立ちが募るので、最近は楽しむことにした。とはいってもそれで機嫌が良くなるわけでもない。

「お楽しみのようですな、大公」

「ファーデン、ここには入らないようにと言っておいたはずだが」

「ここに入らないと、大公とお話しが出来ませんゆえ」

「閣議の時間があるではないか!」

「閣議の時間をご存知だったとは」

 自分でも驚くほど、声に毒がこもってしまう。

「ふん。嫌味を言うようになったか」

 大公のおかげ、とさらに言おうと思った時、不意に大公が叫んだ。

「ファーデン!わたしは殴られたよ。」

「殴られた?」

 個人としてなら目の前にいるこの男がどこで誰に殴られようとファーデンにとってはどうでも良いことだが、いくらその能力に疑問符がつくとはいえ、この男がこの国の統治者であることに間違いはない。それが闇雲に殴られたとあっては、統治のありようを疑われるし、権威のあるべき姿を問われることになる。よって大辟に当たる罪と規定されているのだ。

「いったい誰がそんな、死罪にあたりますぞ。」

「ポリーさんだ。」

「ポリーさん?」

 かつてこれほどまでに、石壁に虚しく撥ねつけられ、大理石の床に跳ね返された言葉があっただろうか。

「そうだ。ポリーが殴ったのだ!」

 誰も座ってはいないゴブラン織のソファを指差し奇声をあげた大公をファーデンはじっと見つめた。苛立ってはいけない。機嫌の悪さを相手に誇示するのは無能者のやること。ここは楽しむべきだ。ファーデンは大公の真似をしてソファを指差した。

「ポリーが、大公を殴ったのですか?」

「いや、ファーデン。それはアマーリエだ。アマーリエは、非常に気のきく娘だ。気性も穏やかで人を殴ったりはしない。」

 付き合いきれない。いずれにせよそのソファには、ポリーとアマーリエが座っているらしい。二人がけのソファだ。二人座っていることに異論はない。他の椅子に目を向ける。そこにも誰かが座っているのだろうか。

「皆のもの。下がっておれ。」

 大公は一人一人に挨拶や目配せをしていたようだが、彼女たちが退出したところで、部屋の景色は一切変わらない。最初からずっとここには大公とファーデンしかいない。この笑うべき事態が数ヶ月続いている。統治者は閣議に現れず、部屋にこもっては妄想の女性たちと愚論を交わしているというわけだ。ある時、なに人いるのか尋ねてみたが、明確な答えは得られなかった。

「大公、もはや無理に閣議にいらっしゃる必要はありません。補佐官であるわたしが大公のお考えを伺った上で議を諮ってまいります。まずは・・・」

「ゼルペンティーナ、早く行け。」

 どうでも良い。そのような女、いてもいなくても構わない。ファーデンは深く息を吸った。今日は喫緊の問題を処理しなくてはならない。それも苛立ちの原因なのだ。

「エスターライヒの動きですが。」

「エスターライヒ?」

「お耳に入っているはずです。エスターライヒが我が国境に軍を進めております。」

「知っている。エスターライヒの馬鹿ルドルフめ。しかたない、軍を出してやれ。このままでは国境領の住民がかわいそうだ。」

「お待ち下さい。そのことを申し上げに参ったのです。今、軍を出せば、大規模ではないにしろ戦争になります。現在我が国には、戦争を続けるだけの財力がありません。ここは宥和策をとって、一時エスターライヒに国境領の一部を割譲してはどうでしょう?」

「割譲?」

「そうです。おそらくそれでエスターライヒは軍を退くでしょう。」

「あの野蛮人のルドルフに我が国土を蹂躙させろというのか。国境の住民はどうする?」

「国境領の住民だけで被害をとどめるのです。国境紛争であれば、外交戦術でいくらでも被害を食い止めることはできます。必要なのは外交官と彼に持たせる周辺大使への献上金程度、非常に安上がりです。戦争が起こさずに和睦を計り、その後わたしのすすめる方法で・・・」

「結婚か。」

「さようで。結婚によりエスターライヒに匹敵する権勢を得、しかるのちに、取りかえせば良いのです。」

「補佐官は、なにかというと金と結婚だな。」

 本来はそうではない。エスターライヒのような強国と戦争をすれば国そのものが侵略されてしまう。エスターライヒもこちらの事情を分かっているし、全面侵攻までやるつもりはない。お互いの譲歩が大事なのだ。国境領が生贄になると言うならその通りだ。だが生贄が人間ではなく羊なのには意味がある。

「補佐官の案は受け入れ難い。我が国土を馬鹿ルドルフなどに蹂躙されてたまるか。そんなことはわたしの正義と信念が許さん。国境へできるだけの軍を送れ。」

「正義と信念でございますか。」

「そうとも。たとえそれが茨の道でも、右手に正義、左手に信念を持つならば、わたしはためらいなく棘に傷つき、臆することなく茨をかき分けるだろう。それに、わたしは結婚は考えていない。わたしには、ポリーや、アマーリエや、ゼルペンティーナがいる。それより、お前こそ結婚を考えるように。三十歳をすぎているだろう。あ!いや、無理か。」

 年齢のことなどファーデンにはどうでも良いし、結婚も急ぐ必要などないと思っている。それに大公に正確さを求めること自体間違っているが自分は二十九歳だ。ファーデンはそう思いながら奇妙な寒気のようなものに襲われた。

 まさか今の大公の言葉に自分は少し傷ついたのか、それで結婚は早いだの、実際の年齢だのを自分の中で言い立てたのだろうか。補佐官は大公にかしずく。この国では逆だ。補佐官が大公を見下し嘲るのだ。そういう関係を構築しなければならない。

「では、失礼します。大公。わたしは二十九でございます。」

「おまえは、ずっと二十九だな。」

「どういう意味です?」

「わたしは温室に行く。シマシマカタツムリの産卵に立ちあいたいのでな。」

 大公の甲高い靴音が徐々に小さくなってやがて聞こえなくなったのとほぼ同時に、機械的な呼び出し音が響いた。ネイダフからの通信が入ったのだ。

「ネイダフか。」

「当たり前だ。これは、お前と俺だけの回線だろ?」

「確かに。」

「機嫌が良いとはいえないようだな。エスターライヒの件か?大公に進言をしたが、お分かりいただけなかったという表情だな。」

 ネイダフはファーデンにとって分身のような男だ。軍略、政治志向、統治哲学、全てが自分と同方向を向いており、かつ同水準だ。お互いの心が読み合えるように会話が成立する。大公とは大違いだ。

「あの方は、あまり聡明ではないからな。それに、お前は犠牲を強調し過ぎる。」

「そうではない。犠牲という言葉に過度に反応しているのは大公の方なのだ。要は効率だけの問題であって、正義や信念の問題ではないのだ。」

「舌先に正義、唇に信念・・・。ところで、大公が科学院の研究者にロボットを作らせているそうだな。もしや明日の視察というのはそれか?」

 大公には科学院にお気に入りの研究者がいる。いつも「博士」としか呼ばないが名前はある。ベーゼ。それが彼の名だ。これまでにもいくつかのロボットを製作しているが、はっきり言って期待外れで無益な物ばかりだ。奇跡でも起こらない限り軍事利用は無理だろう。おそらく明日の物もただの召し使いロボット止まりだと想像している。

「ところでネイダフ。わたしは二十九歳だったな。」

「俺と同じ歳なのだ。そうだろうな。」

 ひとしきりネイダフと会話をした後、ふと確認してみたのはなぜだったのだろうか。

 


第二章 家族の間違い


 国境の村は平和だった、今の所は。今は平和な村の、今は平和な家に、今は平和な家族がいた。家長はプワスキというなめし職人で、うだつの上がらない平凡な容姿の男だ。誰も数えてはいないが今年で三十五歳になる。

 プワスキは三人の女性と住んでいる。三人とは母、妻、娘。母は彼の実母でペルネルという。平凡な男を生んだ平凡な女で特筆すべきはなにもないが、強いていうなら妙に信心深いところがある。妻はエルミルというが、これが平凡な男の妻にしてはなかなかの面立ちで肌も白く背も高い。娘はマリアヌという。これは変わった娘で面立ちは母親譲りで整っているのだが、しゃべることが少しおかしい。急に大人びたことを言ったかと思えば、幼児のような下品な言葉を口にする。

 今、三人は食卓についている。スープを一さじ、すっと吸って母のペルネル夫人が、

「あ。」

 と幽かな叫び声をあげた。

「髪の毛?」

 毎日、こういう些細なことから始まるのだ。家長プワスキを苦しめる女三人の諍いが。そして諍いというとほど上品に終わることもない。

「髪の毛?いやだ、気持ち悪い。」

 ペルネル夫人は途端に嫌悪の声をあげたが、それはスープを作ったエルミルへの当てつけの芝居以外のなに物でもないし、そのことはその場の誰もが分かっていた。

「ちょっと待って、取ります。」

「そうしてちょうだい。」

 エルミルはキッチンから新たなスプーンを持ってきた。こういう所はそつがない。そして当然その分義母のスープは冷めていく。

「違うわ。お母さま。これ豚の毛よ。」

「豚の?」

「そうよ。縁起がいいのよ。スープに豚の毛が入っていると。・・・しかも立ってる。」

 スープに豚の毛が入っていること自体、人の毛が入っていることとさして変わらぬ不快感があるが、エルミルはそれを縁起の問題にすり替えた。もちろん、スープに豚の毛が入っていると縁起が良いという説を聞いたことがあるものはこの場にはいない。おそらくこの村にもいない。世界中でエルミル以外にそれを知るものはいないだろう。

「そうなの?」

「でも変ね。牛のスープなのに。その分、きっと良いことありますわ。近いうちに。」

 ペルネル夫人の憎めない所は、こう言った些細な虚偽に反駁できず、なんとなく納得してしまうところにある。

「そのまま召し上がってくださいな。」

 マリアヌは母と祖母のやり取りを全く聞いていない様子で小さな声で鼻歌を歌っていたが、一同が鎮まるとその歌の内容が動物の排泄物についてのおぞましいものであることがはっきりした。とはいえ、いつものことだ。


 ぐちゃぐちゃ混ぜ合わせる。

 どろどろこね合わせる。

 子牛の糞。

 子豚の糞。

 子犬の糞。

 子猫の糞。


 だいたいこんな内容だ。この娘が常軌を逸すれば逸する程、力関係はペルネル夫人に有利になる。よく世に言う「あなたの育て方」の論理が発動するからだ。エルミルは当然、これを止めなければならない。

「マリアヌ、食事中よ。マリアヌ、おやめなさい。同じことをされたら、いやでしょ?」

「どういう意味?」

「あなたが食べている時、わたし、そんな歌歌ってないでしょ。」

「だって、お母様、歌唱力ないもん。」

「歌唱力の問題じゃないでしょ。」

「お母様、女のひが皆んて、豚も食わないわよ!」


 子馬の糞。

 小鳥の糞。


 ペルネル夫人がよく聞こえるように鼻を鳴らす。だが、この権力構造は脆いことをエルミルは知っている。マリアヌを「育てた」のは彼女だけではない。彼女の夫プワスキにも責任の一端はある。ではそのプワスキを「育てた」のは誰か。この論理の行き先、つまりこの諍いの着弾点が必ず自分に来ることをプワスキは端から理解していた。だからこそ、プワスキは苦しいと感じるのだ。

「あなた、黙ってないでなんか言ってよ。」

 常套句が来た。どう答えれば良いか、この諍いを被弾する気はない。

「いいじゃないか、混ぜてるのは子供の糞ばかりだし。」

 スープから立ち上る芳しい蒸気がさっと引いた。いや、そんな気がした。

「髪の毛、取りましょうか。」

「もう良いわよ。豚の毛なんでしょ。」

「ええ。」

 マリアヌは発言だけでなく、時に突飛な行動も取る。この時、彼女はなにも言わず、祖母のスープ皿に手を突っ込み、髪の毛だか豚の毛だかわからない物体を見事に取り出した。そして、一同が見守る中、それを自分の口に入れてしまった。

「いやだ、なにしてるの!この子は、早く出しなさい!」

 エルミルはそう叫んだ途端、はっとして付け足した。

「縁起は良いけど、出しなさい。それは、ほらお母様のものなんだから。」

「わたしは別に良いわよ。」

 ペルネルが冷たい表情でそう言うと、マリアヌは、ごくりと音を立てて、それを飲み込んでしまった。エルミルは自分の発言の矛盾をこれ以上詮索されるわけにもいかず、この娘の奇異な行動を無言で見ているしかなかった。

「それより、今、この子、子牛の糞とか子豚の糞を混ぜた手をわたしのスープに入れたわよね。」

「母さん。混ぜてないよ。」

 プワスキは母親を諌める気もなければ、妻や娘の行動をかばう気もなく、ただ事実を述べただけだった。

「本当に誰に似たのかしら?下品ね。髪の毛入りのスープは作るし・・・。」

「豚の毛だよ。縁起物だってさ。」

「髪の毛よ。一体誰の髪の毛だか?」

「誰の?そりゃ、エルミルの・・・違うのかい?」

「豚の毛よ。」

「牛のスープなのに?」

「母さん。ただの、豚の毛だよ。」

 珍しくプワスキは妻の味方をし、母をなだめた。表面上はそう見えるが、彼は決して妻の味方をしたわけでも、妻の言い分を認めたわけでもない。この不毛な騒ぎをやめて欲しいのだ。ただ、それだけだ。

 だが終わるはずはないことも分かっている。毎日のことなのだ。なぜ、男一人に女が三人なのだろうか。お隣のナハバール家は年老いた父と二人の兄弟だ。靴屋のシューマッハも妻と男の子が一人。レプゴーさんに至っては、親も妻も子もなく男一人で暮らし、村人たちの尊敬を一身に集めている。彼は本当に善人だ。村の誇りだとさえ思う。

「そうだ。いつか言おうと思っていたのだけど。エルミル。あなた、食前のお祈りが短いわよ。」

「そうですか?」

「そうよ。神様への感謝が足りないのよ。」

 神様。そうだレプゴーさんは自分にとって神様のような存在だ。いや神様は恐れ多いな。神様の言葉を伝えてくれる代弁者。この村の光であり良心だ。

「だって、お母様みたいに長々とお祈りしていたら、スープが冷めてしまうわ。神様からいただいた食べ物をより美味しく食べるのが義務だと思ってますから。」

「また、そうやって屁理屈ばっかり。いつかきっとバチがあたりますからね。」

 口に出していることや心で思っていることが実際に起こることがある。というより起こることもある。この時、なに気なく食卓から窓際に移動したペルネル夫人が、薄暮の中にこの村の光を発見したのだ。

「あら、あそこにいるのレプゴーさんだわねぇ。」

 プワスキは慌てて椅子から立ち上がると窓際へ駆け寄った。光はその目で見なければ光ではない。

「ほら、なにかお読みになってるわ。この村で字が読めるのレプゴーさんだけでしょ。」

 間違いないレプゴーさんだ。もう辺りはほの暗いのに夢中になってなにかを読んでいる。神様の教えのような大切なものが書かれた尊い書面なのだろう。

「ちょうど良いじゃない。上がっていってもらいましょうよ。」

 と言ってペルネル夫人はおっとり刀で飛び出していった。

 プワスキは目を閉じて待った。外から聞こえてくる母とレプゴーさんの会話のような声が徐々に明瞭になって近づいてくる。やがて足音が玄関の数段を叩き、その人が入ってきた。風が動く。声、その立てる音、目を開くと、そこに光が佇んでいた。すぐに声をかけられず、息を飲むことにも失敗しそうになった。

「やあ、プワスキ。」

 その声を聞くや否や、プワスキはまくし立ててしまった。

「レプゴーさん!最近、来てくれなかったなぁ。寂しかったよ。聞いて欲しいことがたくさんあるんだ。というより、もう悩みだらけといった有様で。」

「なにを言っているんだ。プワスキ。こんな寛容なお母上と、美しい奥方様と、聡明なお嬢ちゃんがいて、悩みだって?それは求め過ぎというものだよ。」

「そうおっしゃらずに、息子の悩みを聞いて差し上げて。」

「わたしは神を愛していますが、神に仕える者ではありません。妻もおりましたし・・・独り身になって、皆さんの健康をお祈りする時間は増えましたが、悩みをきくなど出過ぎた真似をすれば、慈悲深い神様もお怒りになるかもしれません。」

「でも、村中の人がみんなが、あなたの清い心にすがって生きているのに、どうか、お慈悲を。」

 その場に跪いたペルネル夫人を冷ややかに見ていたのはエルミルだった。

「とりあえず、お座りになったら?今、ジンをお持ちしますから。お好きでしょ?ジン。」

 エルミルの「ジン」という冷たい声音にペルネル夫人は膝のはたいて立ち上がった。

「妻の作ったジンは最高ですよ。髪の毛の先までジンと来る。」

「あなたこの間、美味しくもないし不味くもないって言ってたじゃない?」

「うまいなんて言ってないよ。ジンと来るって言ったんだ。」

「美味しいですよ。エルミルさんの作るジンは。」

 レプゴーは笑顔を讃えて、エルミルの方を見遣った。エルミルはその笑顔に応じようとはせず、ジンを取りに動いた。

「おや、飲んでもらったことがありましたっけ、うちのジンを。」

 ペルネル夫人が椅子を引きながら言った言葉をレプゴーもエルミルも捉え損ねた。ペルネル夫人には先ほどの「お好きでしょ?」という言葉も引っかかっていた。

「母さんは不粋だな。嘘・・・というかなんと言うんだっけ?」

 レプゴーが言葉に詰まるとマリアヌが大声を出した。

「社交辞令!」

「そうだ、それだ!社交辞令ってやつで言ってくださったんだ。でしょ?」

 プワスキが嬉しそうに笑っているので、ペルネルはそれ以上の詮索をしないことにした。エルミルはジンを取りに行くため納屋に向かう途中、聡明な娘の頭を撫でた。

「そう言えば・・・」

 招待した客が喋りやすい空気を作ろうとしたのか、ただ単にジンが来るまでの時間つぶしだったのか、この時ペルネルがこの噂話を持ち出さなければ、この物語は存在しなかったかもしれない。不確かな噂話。しかし明瞭な回答が待っていた。

 ペルネル夫人は先日、使い古してはいたがお気に入りのサンダルの紐かけに小さな綻びを見つけた。小さいが放っておくとサンダルが壊れてしまう程度の大きさはあった。数日そのまま履いていたが気になりだすと止まらない性格のせいか、他事に集中できなくなってしまった。というより老齢による諸々の誤謬をサンダルの綻びのせいにしただけかもしれないが、とりあえず靴屋のシューマッハの所に持って行くことにした。

 ところが靴屋は隣村に出かけており、その妻だけがいた。この妻というのがペルネル夫人と同世代だが妙に商売に熱心なところがあって、とりあえずサンダルを預かって夫が帰り次第修理して届ける、今は別のサンダルを貸すのでそれを履いて帰って欲しい、お代も後日で良い、と強く申し出た。

 数日後、約束通りサンダルを届けに来たのだが、この妻、熱心なのは商売だけでなくお喋りも盛んだった。自ら届けに来たのは、夫のそばから少しでも離れ、同世代のペルネルとお喋りに花を咲かせる魂胆だったのではないかと疑痛くなるほどだった。その話の中で、夫が隣村で仕入れて来た話として教えてくれたのが以下のことだ。

「それでね、靴屋のかみさんが言うには、隣の村に来ていた行商の中に、国境の川の向こう側の丘の方で兵隊の行列のようなものを見たなんていう輩がいるらしいってことを、飲み屋で誰かが話しているのを、その旦那が小耳に挟んだなんて言うんだよ」

 「ようなもの」、「なんていう」、「らしい」。不確かな噂話。しかし明瞭な回答が待っていた。ちょうどエルミルがジンを用意して戻って来た所で、レプゴーは思いつめたような顔をして呟いた。

「そうですか。ついに・・・いたずらに皆さんを心配させたくはないのですが、実は少しきな臭い動きがあるんです。」

「どういうことだい?」

「はい。この国の隣の国は、エスターライヒという大きな国ですが、最近、国境に兵隊を集めているんです。」

「ま、まさか!隣の国が攻めてくるっていうのか。だが、この国は、一度だって国境を侵されたことはない。大公のオイレン様は偉大な領主様だ。この国境を常に守って下さる。だからきっと今回も平気だろ。」

「しかし、プワスキ。オイレン様は前の大公様なんだ。オイレン様は亡くなり、今はそのご子息がこのシュピーレン大公国を統治しておられる。名をシュピーゲル様とおっしゃる。」

 村の誇りでもあるレプゴーは、当然、世の事情についてもよく知っている。さすがはレプゴーさん、とプワスキはひとしきり感心していた。

「それで、新しい大公様だと、どうなんだ?それは、うまいのか、まずいのか?」

「どのような方なのか。」

 レプゴーは天井を見上げ黙った。

「とりあえず、お飲みになっては?」

「そうですね、ありがたく頂戴します。」

「すっかりお待たせしてしまって。」

 エルミルが夫と義母に嫌味に近い表情を浮かべると、

「待ちくたびれたよ!」

 とマリアヌが応じたので、一同はとりあえず座ることにした。

「レ、レプゴーさん。これからも、できるだけ分かったことをわたしたちに教えて下さいませ。なにしろ、わたしたちの中で文字が読めるのはあなただけです。大公様からの布告もあなたの目を通して知るほかないんですから。エルミル。早くおつぎなさい。」

 エルミルは薄い笑みを浮かべて、ゆっくりとジンを注いだ。

「ところで、レプゴーさん。こんな夕暮れ時になんの用でこの辺りに?」

「あ、ああ、あのマロニエの枯れ木。あそこに近頃、シマシマカタツムリの家族がいるんだよ。大家族で。それを観察、というか眺めていたんだ。白と黒の美しい柄が見事でね。」

「なにかをお読みになってましたわね。まさか!その隣の国の件、なにか便りが?」

 ペルネル夫人は前のめりになって尋ねた。

「大公様の布告か?」

「は?一体、なにの?」

「ほ、ほら、さっき読んでいた・・・あそこで・・・読んでいたからレプゴーさんだと分かったんだ。」

 レプゴーは確かに手紙を読んでいた。内容をよく確認していたのだ。思いがけない内容だったのでより入念に。重要な内容だと分かったのでより真剣に。けれどペルネル夫人が自分を呼ぶ声を聞いた時、すぐに手紙は懐にしまった。まさかずっと見られていたとは。手紙は今、懐にある。そして隠す必要もない。この家族は字が読めないのだから。

「あ!ああ、あれですか。あれは・・・あれは、違います。あれは・・・そう、ごく個人的な手紙でして・・・。」

「個人的な?一体どんな?」

「お母様。」

 エルミルは少し冷たいところがあるが常識的な女性だ。それに対してペルネル夫人は好奇心に忠実だ、というより思ったことがすぐに口に出てしまう。個人的と言ったのに、内容を詮索されるとはレプゴーは思わなかった。

「しかたがないですな。ちょうど見つかってしまったのもなにかの運命でしょうから。これは・・・娘からの手紙です。娘なんていたのか、とお思いでしょうが、実は、ずっと以前に行方が分からなくなっていて、それ以来、いないことにしてたんです。」

「娘さん?」

「ええ、その娘から、今日手紙が来ました。もう会えないと諦めていたのに。神様はわたしを見放さなかった。」

「当たり前だよ。あなたみたいな善良な人を慈悲深い神様が見放すはずがない。それで、なんて?」

 ここまで話してしまったのだ、ペルネル夫人の詮索好きを責めることもできない。レプゴーは説明を続けた。

「はい。娘は今、都にいるらしいんです。」

「都。大公様のいらっしゃる?」

「ええ、ライターシュプロッセに住んでいるそうです。ですから、わたしは都に行くんです。」

 都に行くことはもう決めたのだ。この手紙を読んですぐにそうする必要があると考えたからだ。

「え?村を出るってことかい?」

「プワスキ。いつ滅びるか分からないのがこの身だからな。家内も娘に会いたいと言って亡くなりましたからね。遺言ですよ。いわば。」

 娘のことはあまり人に知られたいことではなかった。不幸な出来事なのだとレプゴーの顔に刻まれていた。ペルネル夫人もそれが分かれば、これ以上の詮索をしないとは思うが。しかし続いてペルネル夫人が言ったことには虚をつかれた。彼女は言ったのだ。やっぱりね、と。やっぱり?やっぱりとはどういうことかと考えを巡らせていた時、ペルネル夫人は自慢げにこう話した。

「だって、レプゴーさん、手紙を読みながらとても幸せそうな顔をなさってました。もう薄暗いのに夢中になって。そりゃ、嬉しいはずだよ!!」

 レプゴーは宙を仰ぎこう答えるしかなかった。

「見られてましたか。お恥ずかしい。」

「しかし、レプゴーさんをこうして迎えられただけじゃなく、こんな素晴らしいことが一緒にやってくるなんて!エルミルの言う通り良いことがあったわ。」

「え?」

「豚の毛。豚の毛が入ってたんですよ。スープの中に。」

「豚の毛ですか?」

 レプゴーにはペルネル夫人のいうことの真意は分からなかったが、とりあえず笑いながらジンを一口含んだ。

「俺も嬉しいよ。レプゴーさんに娘がいたなんてな。」

「この手紙も神の思し召しだと思うんだ。この・・・手紙。よし、明日の朝、発つことにします、神は先延ばしを嫌う。」

「それにしても、なんだか、ずいぶん、突然だなぁ。」

「手紙というのは突然来るものだよ、プワスキ。幸せもきっとそうなのだろう。求めずに待つこと、それこそが、信仰というもののあるべき姿だ。」

「本当にレプゴーさんは聖人のようだよ。」

「娘のいる聖人ですか?お酒もほら。うん、本当に髪の毛の先までジンと来る。それでは、そろそろお暇を。明日の準備にとりかからなければ。」

 レプゴーは、ジンを飲み干すと玄関と自分との距離を測った。もう一言二言で外に出よう。そしてこのままこの村を出て都に行こう。

「レプゴーさん!」

「なんだ?プワスキ。」

「もう一度、明日の朝、もう一度寄って欲しいんだ。レプゴーさんの家から都へ向かうならこの家の前を通るだろ。その時、ほんの一時で良いんだ。頼む。」

 餞別でも渡そうというのか。それなら今渡して欲しいとレプゴーは思ったが、まあ良い、今日はもう暗いし焦りは禁物だ。賢者は焦らないものだ。さっき明言した通り明日の朝立とう。ここに寄って、家には上がらず、挨拶だけ交わし、気持ちよく出かければ良い。

「分かった。寄らせてもらうよ。」

 プワスキの表情が一気に明るくなった。輝くような笑顔だ。それを見て悪い気分はしない。彼こそ善人なのだ。マリアヌの頭でも撫でて帰ろう。

「おやすみなさい。マリアヌちゃん」

「おやすみなさいませ 黒豚さん!」

「言葉が濁ると、心も濁ってくるよ。またね、マリアヌちゃん。」

 こうしてレプゴーは、プワスキ家を後にした。明日の朝、ここで思いもよらないことが待ち受けているとも知らずに。

「はぁ。本当に素晴らしい人。神に捧げるその祈りの熱烈さ。心からの法悦にため息をつき、つつましげに絶えず床に接吻なさる 。」

 ペルネル夫人が感傷に浸っている横で、エルミルは冷たい表情でジンを飲み干した。そうして、プワスキの恐れていた諍いがまた始まる。

「うちの子が、あのレプゴーさんのお友だちだなんて、鼻が高いよ。それにしても、エルミル、あなた、態度が悪いわよ。」

「あら、ごめんなさい。捨ててしまうのは勿体ないから。」

「ジンの話じゃないのよ。そんなことどうだって良い。あなたのレプゴーさんへの態度少しおかしいわよ。敬意が欠けるというか、避けているというか。あんな信心の篤い清廉潔白な方を。」

「そんなことありませんよ。ただ、あんまり人が良いから、つい、恐くなってしまっただけです。」

「恐い?気持ち悪いじゃないのかい?あたしは聞いたよ。夫とひどく仲が良くて、なんだか気持ち悪いって。マリアヌに言ってるのを。」

「信じられない!神に誓ってそんなこと言ってないわ。マリアヌに聞いてみればわかるわ。」

「この子に聞いたって、糞便の話ししかしないじゃない。神に誓うったって、お前の信じる神様なんてどんなもんかね!この世には偽善者ってやつがなんて多いことだろうね。」

 ペルネル夫人はエルミルが反論せず黙ったので勝利を確信したが、この嫁がレプゴーを避けているように見える理由は測りかねていた。

「全部嘘よ。」

 小さな声でエルミルが言った。

「嘘なのよ。豚の毛なんて。豚の毛が立ったって良いことなんか起こらないのよ。その場で適当なことを言っただけよ。第一立ってなかったし、そもそも、あれ豚の毛じゃないんですもの。」

「なんですって!」

「だって、お母様、あれ牛のスープよ。豚の毛なんて入るわけないでしょ。あれ、髪の毛よ。あたしの髪の毛よ。」

 プワスキは深くため息をつくと小さな声で呟いた。

「いいかげんに・・・してくれ。」

 もちろん、その言葉に諍いを終わらせる力など微塵もなかった。



第三章 ロボットの間違い


 まるでなにかの「研究室」のような場所だった。彼女が一瞬懐かしさを感じたのは、かつてこういう場所を見たことがあるからだろう。だからこそ「研究室」だと思ったのだから。そこにいかにも「博士」というような人物が入ってきた。やはり一瞬懐かしさを感じたのは、かつてこういう人を見たことがあるからだろう。だからこそ「博士」だと思ったのだから。

 冷たそうな床、ファンの回る天井、得体の知れない器具、生活の匂いのしない空気、そして白衣を着た年寄り。「研究室」に「博士」だ。元来明るくおしゃべりな性格ゆえか、静かにしているのが性に合わず、頭の中で色々考えては笑ってしまった。

「こんにちは。」

「こんにちは!!」

 その「博士」が声をかけてきたので、彼女も明るく挨拶を返したが、「博士」はその明るさがーーー声の大きさか?ーーーが気に入らなかったのか口角を上げながらも眉をひそめた。

「実は君にこれからある実験を手伝ってもらいたいんだ。」

「実験?」

 こういう場所で声を出すと自分の声も無機質に聞こえるというのは、彼女のちょっとした発見だった。

「これから、この部屋にロボットが来る。」

「ロボット?」

「そうだ、ロボットだ。ロボットは分かるね?つまり自動人形だ。」

「自動人形。」

「そうだ。自動人形だ。」

「ええ、知ってますけど。」

「そこで君に手伝ってもらいたいのだが、そのロボットと軽い会話をしてもらいたいんだ。」

「会話?」

「いちいち、間の手をいれんでも良い。」

「あ、すいません!」

「そのロボットは、人間の言うことを聞く召し使いロボットだ。したがって、なにかやらせたいことがあったらそれを言っても良い。」

「なにを言っても?」

「良識の許す範囲でね。出来ないことだっていくらでもある。分かるだろう?例えば、北を南にしろ!とか、世界中の人間を豚にしろとか、神様に会わせろとか、花瓶を持ってこいとかね。」

「え?」

「あるいは抽象的なこともできないよ。小高い山のように死刑しろとか、奴隷を解放するようにスープを煮ろとか、あとは、傘を持ってこいとかね。」

「はあ?」

 この「博士」のような人は、彼女に質問をさせる気はないらしく、どんどん話が進んでいく。とにかく「博士」の開発したロボットの性能かなにかを確かめるため、会話の相手をさせようということなのだろう、彼女はそう理解した。確かに人間とうまく会話ができればロボットとして性能が良いということは分かる。その実験なのだろう。

「わたしは別室から様子を見させてもらうよ。準備はいいかい?」

「あの・・・。」

「なんだ?」

「いえ・・・。」

「なんだね?」

「危険は?」

「危険?危険と言ったのかね?」

 この「博士」がまた眉をひそめたので不興を買ってしまったのかと一瞬怯んだが、顔つきが嬉しそうにも見える。老人の表情は判別しにくいと誰かが言っていたのを思い出して、彼女は不謹慎にも笑いそうになってしまった。

「恐いかね。」

 そう言った「博士」の声は思ったより穏やかに響いた。

「いえ、別に・・・。」

「危険はまったくない。わたしのロボットは人に危害を加えることはできない。そういう風に作ってある。なにが起きても大丈夫だ。」

「なにか起こるんですか?」

 彼女に言葉の一部を曲解され、「博士」は覆わず笑みをこぼした。 

「なにも起こらないよ。ただのトークだよ。いや、トークショーだよ。では。」

 老人特有の軽快なる遅さで「博士」は研究室を出て行った。おそらくどこかからこの実験だか、トークだか、トークショーだかを眺めているのだろう。

 彼女は椅子の上で背筋を伸ばした。一分も経たないうちに、「ロボット」が入ってきた。人間のような姿をしてはいるが、確かに「ロボット」だ。一目で分かる違和感が彼女を襲った。ただ外見が可愛らしい男の子に作られていたためか「博士」の言うように恐怖は全く感じなかった。外見だけでは判断できないが特に危険はなさそうだ。

「こんにちは。僕はロボットだよ。」

 内容もだが喋り方もどこか拙い。「ロボット」が声をかけてきたので、彼女も明るく挨拶を返した。

「こんにちは!!はじめまして。」

「はじめまして。」

「お名前は?」

「マリウスです。ロボットだよ。」

「ええ、知ってるわよ。あ、どうぞ、そこ座って。」

 彼女はそう言って、ふとこの「ロボット」に座る機能はあるのか、もし足や腰の関節が曲がらず椅子に座ることができない作りなのなら、悪いことを言ってしまったな、と妙な罪悪感に襲われた。しかし、結局、それは杞憂でしかなかった。

「いいんですか。座らせていただきます。」

「どうぞ。」

 その「ロボット」は器用に体を動かすと、見事椅子に座ることに成功した。

「ロボットだよ。」

「ええ、知ってるわよ。なんだか、博士から頼まれちゃってね。えーと、あなたはどういうロボットなのかしら。」

「僕はなにでもやるロボットです。」

「なにでもやるの。」

「はい。」

「それじゃあなにをしてもらおうかしら。じゃあ、この部屋を一周して?」

 マリウスと名乗ったロボットは、律儀に部屋を一周した。彼女はそれを眺めながら不毛なことをさせてしまったな、「博士」も落胆しているのではないかと心配になった。部屋を一周するなどということは、おもちゃにだってたやすく出来ることではないか。これでは実験にならない。いや、違う。問題は動作として一周できるかどうかではない。わたしが頼んだことを的確に判断し実行できるかではないか。それなら自分は間違っていない。

 彼女は、先程から色々考えをめぐらせすぎ、無用な心配ばかりしている自分が少し腹立たしかった。そうだ、「一周して」とか「ジャンプをしろ」とかいう明確な命令形ではなく、わたしの願望のような表現は理解できるだろうか。それを汲み取れたらなかなか高性能なのでは?

「コーヒーが飲みたいなぁ。」

 マリウスに一瞬の時差があったようにも感じたが、すぐに返答があった。

「それでは、コーヒーをお持ちしましょうか?」

 見事なものだ。もう一つ、上級編。

「マンダリンをお願いできるかしら?」

「マンダリンですね、かしこまりました。ホットでよろしいですか?」

 喋り方までカフェの給仕のようになっているのはご愛嬌というものだろう。しばらくして、マリウスは注文通りの品を運んできた。彼女の椅子のそばにコーヒーを置くテーブルがないことを見て取ると、この部屋の中から代用できそうな台を運んでもきた。これには「博士」も感心しているだろうと、なんだか彼女も誇らしい気分になった。

 その後、マリウスは彼女の指示するまま、フランス語、ドイツ語、ロシア語、イタリア語を披露し、達者にフォックストロットまで踊って見せたーーー一人でだ!。彼女はロボットが正解を出す度、手を叩いて自分のことのように喜び喝采を送った。

「3394×1642は?」

 という質問にはなによりも早く

「5572948」

 と答えてみせ、

「合ってるわ!」

 と彼女を思わず椅子から立ち上がらせた。ここで彼女の頭の中に先ほどの「博士」の言葉が閃いた。俗にいう悪魔の囁きというやつか。「博士」はなにはできないと言っていたっけ?彼女は一字一句正確に記憶していた。「博士」ができないこととして例示したのは、この7つだった。

「北を南にしろ。」

「世界中の人間を豚にしろ。」

「神様に会わせろ。」

「花瓶を持ってこい。」

「小高い山のように死刑しろ。」

「奴隷を解放するようにスープを煮ろ。」

「傘を持ってこい。」

 花瓶?傘?ここがどうも引っかかる。

「ねえ、マリウス。とっても簡単だと思うんだけど、言ってみて良い?」

「なんでも、どうぞ。」

「花瓶を持ってきてくれる?」

 彼女はなぜ、「博士」ができないと言ったことをわざわざ言ってしまったのだろう。なんでも器用にこなす「ロボット」に嫉妬を感じ嫌がらせをしたかったのか。

 それともコーヒーを持ってくることができる「ロボット」が傘や花瓶を持ってくることができないわけがない、「博士」の思い違いか冗談だと思ったのだろうか。

 それともできないことをやらせてみたらどうなるかという単純な好奇心からだろうか。

 とにかくマリウスは花瓶を持ってくることはどうしても出来ず、次に傘を持参するよう指示したところ、

「傘、傘、傘、」

 となに度か呟いた末、動作を止め音も発しなくなってしまった。つまりは不具合を起こしてしまったようだ。焦った彼女が「博士」を呼びに行こうと立ち上がったのと同時にスピーカーから声が聞こえた。

「それで良い。とても良い実験だった。そのまま少し待っていてくれないか。」

 と。


 一方、別室では博士と二人の男性が、この様子を見ていた。

「いかがです?なんと、すばらしい!わたしは興奮してしまいましたよ。まさかこんな傑作ができるとは。あのロボットは完璧だ。」

 博士の声は明らかに喜色という色で塗装されていた。

「これが新しく開発に成功したロボットだと言うのか、博士?」

「さようでございます。大公」

「補佐官。どう思う?」

 目に不機嫌の陰が宿る冷たい表情の男が丁寧に答えた。

「確かになんでも器用にこなすロボットではありますが。この程度のロボットなら、なに年も前からこの世にあるかと思います。新開発というほどの成果が奈辺にあるのか、博士にお伺いしたい。」

「うむ。博士も今までにたくさん作ってきたようなロボットだ。かつてのロボットを超える、まるで人間のようなロボットが出来たというからこうして検分に訪れたのに。なあ、補佐官。」

「しかし、ロボットとは所詮その程度の物では?」

 この日、大公は科学院のお気に入りベーゼ博士を訪ねていた。補佐官のファーデンはそれに随従している。

「今見ていただいたのが、このロボットへの最終テスト。名付けて対面テストです。」

「はっきり言って、わたしは幻滅を禁じ得ないな。あれが新開発に成功したというロボットなのか。」

「まさしく!」

 大公はあまりの落胆に呆然とし、声すら失っているように見えた。

「博士。貴殿の作った新しいロボットとやらは、大公のお気には召さなかったようだが。」

 ファーデンが冷たく言い放った。

「恐れながら、大公は人間の言うことをなんでも聞く召し使いロボットをご注文あそばされました。そうでしたね。補佐官殿。」

「そう聞いておりますが。」

「そうなのです。しかも全く人間のような。」

 全く人間のような、とはおかしな言い方をする、とファーデンは思ったが、博士は話し続けていた。

「大公は召し使いロボットをご所望なされた。そも召し使いロボットとはなにか、それは人間の忠実な僕である。そのようなロボットを作るのはいとも簡単。過去にもすでに成功しています。難しいのは人間らしさなのです。」

「博士のご高説はごもっともだが、大公のご期待に添えなかったことは明白。まだお話を続けますか?」

「続けますとも。自信を持ってそう申し上げましょう。」

 ベーゼ博士は恭しく一礼すると、なにかの機械を操作した。別室ではすぐにマリウスが動き出し、博士の

「部屋を出なさい。」

 という命令に粛々と従って、その部屋から歩き去って行った。

「わたしが命じたのは、あんなロボットではない。第一、なぜ姿が男の子なのだ?わたしは少女型を所望したはずだぞ。」

 大公はなぜか後半は相当な小声で博士に囁いたが、ファーデンにもしっかりと聞こえていた。そして博士はニヤリと笑った。

「ああ、あの男の子型のロボット、あれは大公が所望されたロボットではありません。わたしがかなり前に作った助手ロボットです。マリウスと名付けましたが。」

「は?新開発に成功したと申したではないか。嘘を申したのか。」

「科学者は嘘など申しません。確かにマリウスは大公がお嫌いな、まさにロボットですな。」

「そうだ!これまでにも散々作ったではないか!そういうロボットにはもう飽き飽きしているのだ。」

「そうでしょうとも。ところで、あちらの部屋に参りましょう。その方が話が早い。」


 彼女の前に博士と2人の男性が現れると彼女は博士に駆け寄った。

「博士!あの・・・わたし、博士にできないと言われたことを、できないと言われてたのに、彼に無理やり・・・やらせてしまって、それで・・・彼を壊して・・・」

 話しているうちに悲しみの感情に支配され涙が流れ出してしまった。

「マリウスのことは気にしなくて良い。それより、君は計算が得意なのかな?」

「得意という程では・・・普通にできる程度だと思います。」

「さっき、マリウスに計算問題を出していたね?メモしてある、君は3394×1642というかけ算をマリウスにやらせたね?」

「はい。」

「マリウスはすぐに5572948と答え、君は、合ってるわ!、と言った。さて・・・」

 博士は言葉を切り、大公とファーデンの方に向き直った。自信に満ちた征服王のような態度で。

「ロボットは人間ではなく、人間はロボットではないのは自明のこと。しかし、しかしです。そのような考えさえ取り払えば、本当の人間のようなロボットを作れるのです!いや、作れたのです。より人間らしいロボットを作るという科学者の追求。その答えは簡単なのです。自分を人間だと思い込んでいるロボットを作れば良い!実は以前それにある程度成功したロボットもあったのですが、人間らしい感情とそれを両立させることができなかった!!今回の開発の最高の成果は感情との両立です。人間らしい感情を持ち、自分をロボットとは認識しない。そこが難しかった。」

「どういうことだ、博士?」

 大公には博士の言っていることがほとんど理解できなかった。

「あの男の子型のロボット、マリウスは古い概念が作った古いロボット。では、もう一方のロボットはどうでしょうか!」

 研究室の空気が、研究室の温度が、研究室の色彩が一変したように思えた。

「まさか!」

 大公は悲鳴のような声をあげた。心の奥から驚いた時、思わず出る地声の響き。博士は大公の質問には直接答えず説明を続けた。

「人間は人間を観て自分が人間であることを知ります。眼差しが人間を形成する。ところがこのロボットはロボットを見ても自分を人間だと思っている。同じロボットを目の前にしても、なお自分がロボットであることに気がつかなかったのです。もはや人間すら超えている。大公、この意味がお分かりになりますか?そしてわたしを驚かせたのは、このロボットにこの実験のことを知らせた時、危険はないかと、尋ねてきました。ロボットなのに同じロボットに対し、不安や恐怖を感じていたのです。そしてご覧ください。泣いている。罪悪感や責任感をも感じている。」

「博士!!素晴らしい!!」

「これが体面テストの結果です。」

 ファーデンはこの少女型のロボットが博士の話を聞いている姿になんとなく不愉快な気分を覚えたが、大公は手を叩いて喜んでいる。

「全員ロボットだったのだな!!なんと言うことだ!!まさにロボット大集合ではないか!!素晴らしいぞ、博士!」

「大集合!!素晴らしい語彙です。さすが大公、詩人でらっしゃる。」

「あれには、なんと名付けた?」

「スラ。」

「スラか。良い名だ。早速、城に運べるか?」

「一週間以内には、確実に。」

「よかろう!」

 大公は小刻みに体を揺すり、感動に打ち震えていたが、ふと一つの疑問が頭をよぎった。

「ところで、なぜ、さっきの男の子のロボットは、花瓶や傘を持ってくることができなかったのだ?」

 答えは簡明だった。花瓶や傘がこの研究所にはないからだ。

「実はそこも一種の実験なのです。この研究所にある物はどちらのロボットにもプログラミングされています。スラが注文したマンダリンをマリウスが持ってきたのは、なにもこの研究所に数十種類のコーヒーが用意されていたからではありません。マンダリンしかないんです。スラはプログラミングのレベルでそのことを知っていたからこそ、マンダリンを注文したに過ぎません。自由意志ではないのです。ただ・・・傘や花瓶がないこともスラはプログラミングのレベルで知っています。それをなぜ最後にオーダーしたのか。わたしが実験前にそのことを伝えたからなのか、その辺りはもう少し研究を続けてみたいと思っています。もしかしたら、さらなる進化の兆しがスラのあの行動委n隠されているのかもしれません。身震いが止まりませんな。」

 諸手を挙げて喜んでいる大公とは対照的にファーデンは冷静に博士の言葉の意味するところを吟味していた。つまり全く人間のようなロボットの開発には成功したものの、未だ未知の領域があるというわけか。このロボットを城に置く、まして大公のそばで使うのは危険なのではないか、科学者の前にだけ現れる危険な橋は科学者だけで渡って欲しいものだ。ファーデンは大公に警告をしようとしたが・・・やめた。代わりに他のことを言ってみた。

「博士。彼女の前で、ロボットについての話をしていて大丈夫なのですか?自分を人間だと思っているというのならなおさら・・・。」

「補佐官殿に優しさという感情があるとは!」

「そうではなく、機能不全などを起こさないか、杞憂ならば良いのですが。」

「その心配はない。自分を人間だと思っているロボットは、そういう話を聞いても自分のこととは思わない。必ず自分に都合の良いように解釈する。そうプログラミングしてありますから。しかし、補佐官殿、お礼を言わなければなりませんかな。」

「なにに?」

「あなた今、このロボットを「彼女」と言った。人間と認めてくださった。」

 そういうつもりはなかったが、そう指摘されてファーデンは苛立ちを思えた。

「ちなみにスイッチはここに備えました。」

 そう言いながら博士はスラの首の後ろに手を当てた。

「スラ。ありがとう。トークショーは見事に終わった。」

「ところで、なぜ、この研究所にはマンダリンしかないのだ?」

「わたしが好きなので。」

 博士がスイッチを押すと、彼女はその場で動かなくなり、その瞳は光を失った。


 その日の夜、ファーデンは再び、ネイダフと通信をしていた。ファーデンは今日見たことを正確にネイダフに伝えた。

 博士の説明によれば、彼が以前作った二つのモードをそなえたドッペルゲンガー型ロボットを応用し、新作は四つのモードを備えたことにより、従順さと人間らしさと強度が選べるということ。簡単に言えば、完全に従順に命令に従うモード、これを強風モードと名付ける。以下、それなりに言うことを聞く弱風モード、口答えくらいはする微風モード。そして、妙にそっけないドライモード。ふざけているとファーデンは冷笑した。

「そして、この四つのモードは完全に独立系なのだと。」

「独立系?」

「互いに干渉しないという意味らしい。まあ結果としては、ネイダフ、お前の言う通りただの召使いロボットのようだ。だが、より人間らしいロボットという発想がそもそも理解に苦しむ。家畜は家畜、奴隷は奴隷、ロボットはロボットで良いのではないか。自分を人間だと思っているロボットになんの意味があるというのだ。そんな物は無益な勘違いということでしかない。」

「お前らしい着眼点だな。」

「しかし、最後に博士に言い返さなかったとは、お前らしくないな。」

「いや、別のことを考えていたのだ。」

「別のこと?」

「なに、国の財源で作られたのだ。その分国の役にたってもらう方法があるような気がしてな。」

「役にたつかな。所詮はよくできたからくり人形だろ。」

「人形にも種類はある・・・。」

「糸のついた方か。」

 ファーデンは、頷くと足音を立てずに闇へと消えていった。


第四章 旅の間違い



「つまり、愛国心や正義感で動いている兵隊は、ある意味で危険なんですよ。目に見えないものですから。その点、傭兵は目に見える金で動きますからね。」

「なるほどね。やっぱりレプゴーさんの話は、為になるというか、深いねぇ。」

 翌朝、約束通りレプゴーはプワスキの家に寄り、改めて旅立ちを告げた。そこで思いもよらないことが二つ彼を待ち受けていた。

 一つはプワスキが玄関先に現れなかったことだ。昨夜遅くまでジンを飲み続けておりまだ寝ているという。そこで、彼はプワスキの母ペルネル夫人、プワスキの妻エルミル、プワスキの娘マリアヌにくだらない話をしながら、プワスキの登場を待たされることになった。長い付き合いでプワスキの粗忽さは重々承知しているつもりだったが、ここまでとは。賢者は焦らないものだが苛立ちは募る。朝鳥の声が落ち着いてきた頃、レプゴーは出立を切り出した。

「ペルネルさん、エルミルさん。まず平気だとは思いますが、戦争になる可能性もないとは言えません。もし不幸がわたしたちを試すようなことになったら、先ほどの話を忘れないで、わたしの言った通りにするんですよ。そうプワスキにも伝えておいてください。・・・もちろん素面の時にね。」

「分かりました。これ少ないですが、旅のたしにしてください。」

 ペルネル夫人が差し出した麻の袋をレプゴーは受け取らなかった。

「お気持ちだけで充分。わたしの魂は弱い。そういう物で罪深い人間にならないとも限らない。それより、先ほど言ったようにいざという時に残しておかれると良い。」

 ペルネル夫人は感極まって、

「神の全ての御恵みにより、あなたの魂と肉体に幾久しく健康のさずけられんことを」

 と祝福の言葉をかけた。レプゴーも、

「神の愛に霊感を受くる者のうち、もっとも賤しき者の望むままに、おんみの日々が祝福されんことを」

 とそれに応え、短く

「では」

 とだけ言うと心を都へ向けた。その時を見計らったかのように、思いもよらないことの二つ目が階段を駆け下りる不躾な足音とともに降ってきた。

「待った!待った!待った!待った!」

 プワスキの登場である。しかしその程度なら思いもよらないことではない。そもそもいて当たり前なのだ。レプゴーを閉口させたのはプワスキの宣告だった。

「付いていく。理由は聞かないでくれ。俺はレプゴーさんに付いていく。」

 そしてプワスキは、自ら聞くなと言った理由を語り始めた。酒漬けの頭で一晩考えた理由にしては上出来だった。

「ずっと考えていたんだ。レプゴーさんは素晴らしい人だ。ずっとこの村の為に得にもならない苦労を重ねて来た。神様を愛し、人を愛し。そんなレプゴーさんが生き別れの娘さんを探しに行くって言う。しかも都までの危険な旅だ。俺はレプゴーさんにこれまでのお礼がしたいんだ。それに、この村に敵が攻めてくるかもしれない。そうだろ?まだ噂だが俺はいやな予感がする。都に行けば、そこには大公様が住んでいらっしゃる。国境を守って下さるよう大公様ににお願いして来るんだ。村の一大事だ。俺にもなにかできることがあるはずだ。レプゴーさんのように村の役に立ちたいんだよ!分かるだろ?レプゴーさん。どうだろう?俺はあなたの護衛になる。危ない目にあわないようにあなたを守って都へ行く。そして、大公様に会ってお願いする。」

 自分の為になりたい。村の役に立ちたい。この二点をレプゴー側から否定するのは難しかった。正直に迷惑だと言っても、迷惑はかけないと居直られてしまうだろう。であればこう言うほかなかった。

「気持ちはありがたいが、わたしには道連れは不要だ。それにご家族が悲しむ。お前にはお母様とエルミルさんと可愛い娘さんがいる。お前はこの家の唯一の男手なのだ。残って家族を守ることこそ使命と考えなくては。」

 家族に反対してもらえば良いのだ。残される女性三人だって困るに違いない。プワスキの浅はかな考えを止める為に言を尽くすだろう、特に彼女は、そう思いレプゴーはペルネル夫人の様子を伺った。

 夫人は黙って家の奥の方へ歩いて行き、すぐに戻ってきた。その手に一ふりのナイフが光った。まさか家族を置いて出ていくくらいなら刺すとでも。

「刺すのか?」

 プワスキも驚いて声をあげた。

「馬鹿なことを言うんじゃないよ。父さんの形見だよ。持ってお行き。」

「どこに?」

「我が子ながら、どこまで馬鹿なんだい!都に決まっているだろう。レプゴーさんのお供をして、この方をお守りするんだよ。レプゴーさん。この息子はね、生んだわたしが言うのもなんですけど、馬鹿で間抜けで頭が悪くて要領も悪くて顔も悪い。他にも悪い所は星の数ほどある。それが村を救いたいなんて大それたことを!それにこの子は裏表だけはない。馬鹿だからかもしれないけれど、さっき言ったことは全部本音だとわたしは信じます。特にあなたを守りたいという思いは掛け値なしの真実だと。それから運がいい。美人を嫁に娶った。あなたのような友人もいる。連れて行って損はないと思います。どちらかが死地に追い込まれるようなことがあっても、この息子があなたの代わりに死ねばいい。この息子を身代わりにすればいい。それがこの息子のお役目、生まれてきた意味なのかもしれない。」

 プワスキもやや酒臭いが、ペルネル夫人は自分の言葉に酩酊しているようだ。しかし、ここまで話が大袈裟になると連れて行かないわけにはいかない。

「迷惑かい?レプゴーさん。」

 という最後の一押しを跳ね返す余力があるのなら、これからの旅路にとっておく方が賢策だと誰もが思うだろう。レプゴーは諦めた。

「分かった。お伴を頼むよ。」

「よし、決まりだ!俺は必ず役に立つ!俺にはこいつがあるからな。」

 プワスキは夫人から受け取ったナイフで早速宙を切った。

「プワスキ、殺生はだめだ。」

「だが、お前を邪魔をするやつは容赦しない。こいつでグサリさ!」

「プワスキ!」

「分ってるよ。さあ、レプゴーさん。急がないと太陽がきつくなる。」

 こうして国境の村から二人の男が都へ向かって旅をすることになった。レプゴーの目的は生き別れの娘に会うこと。プワスキの目的は大公に謁見することだ。だが結局、この旅の行く果てでは、大公に謁見するのはレプゴーの役目となる。が、それはもう少し先の話である。

 愉快な様子で遠ざかっていく二人を三人の女が見送った。ペルネル夫人が言った。

「さっき、美人の嫁って言ったのは、お世辞だからね。」

「分かってます。さ、家に入りましょう。マリアヌ。」

 エルミルがマリアヌの肩に手を置くとマリアヌは地面を指差した。そこには、シマシマカタツムリが2匹寄り添って歩いていた。これからどこかの木に登ろうとしているのだろうか。目をあげると朝靄のカーテンの奥にエルミルの想い人が消えていった。まだ肌寒いなとエルミルは腕を組んだ。



第五章 戦争の間違い


 ネイダフはファーデンの機嫌が悪いことに気がついていた。その理由も当然分かっていた。彼の案じていた通り戦争が起こったからだし、案じていたのに止められなかったからだ。

 だが、起きてしまったことは仕方がない。ファーデンも同様に考えているから機嫌が良いわけではないが、特に強い憤りを感じているわけでもない。いや憤りなど感じても無意味だと二人とも分かっている。そして二人は考えていた。

 前哨戦程度ではあるが、一部で戦いが始まったことを大公に報告した時、大公は勝利を確信したような表情で戦況を聞いてきた。敗れてはいないがはなはだ劣勢とファーデンは事実を伝えたが、正直に言えば敵が本気になればすぐに敗れる状態にあることは間違いなかった。ただ、敵にそこまでの気がないことも分かっている。

 大公は我が軍不利との報に、案の定、兵士が哀れだと悲嘆にくれたような声を出し、敵国エスターライヒのルドルフ王を侮蔑した。曰く、こちらの準備が整わないうちに攻めて来るとは騎士道の精神にもとる卑劣漢だ、と。大公はひどく憤慨していたが、そもそも憤る権利などあろうはずもない。攻める方が準備をしているのは当たり前で、エスターライヒが侵略の準備をしていることに気付きながら、兵備を怠ったのはこちらの方だ。

 しかも敵の策動に乗って、兵備の整わないうちに戦端を開いたこと、質の高い武器を供給することができずに兵を動かした結果の惨敗に過ぎない。ついでに長年の二人の懸案でもある兵器増強を具申した。

 それにしても、お得意の騎士道だ。なにか自分の意に添わぬことがあると、すぐに正義とか騎士道を持ち出してその欠如を責め、翻って自分たちに非はないと言い出すのだから手に負えない。とにかく現時点では、エスターライヒ軍は国境線に沿って投石機で我が軍を攻撃しており、あえて国境を超えようとはしていない。大公の解釈では、我が兵士たちは良く戦い、良く守り、敵軍を国境ギリギリの所に追い詰めているということになるが、敵の意図は明白だ。国境領さえよこせばこのまま引き下がってもいいという示威行動だ。なにれにせよ説得の時間は少ししか残されていない。

 なににせよ大公がどのように現状を判断するかは大公の自由だが、兵や民をそれに付き合わせることは避けたい。二人は静かに闇の中で思考を交換していた。

 次になすべきことは決まっている。和睦を申し入れるのだ。国境領の一部を割譲し兵を引かせる。ただ大公が納得するはずがない。敵が我が国に侵入すら出来ていない状況でなぜ和解を申し込む必要があるのかとお怒りになるだろう。

 だが、戦争を始める目的は、いかに効果的に戦争を終結させるかだ。厄介なのは大公がそういう考え方を絶対に認めないということだ。終わらせるために始めるような戦争では大義が立たないというわけだ。

 それに自国を蹂躙しようとあさはかにも計ったエスターライヒのルドルフにその愚虜の結果を思い知らせてやりたいという本音もあるだろう。結局、正義とは虚栄心の別の表現なのだと二人は思っていた。

 それから軍隊への補給に完全を期す必要がある。前線に武器と弾薬、そして糧食をすぐに輸送する。これは低下した兵士の士気を上げるためにも必要不可欠だ。しかし国庫が心許ない。となれば新たな徴税をするしかあるまい。これも大公は拒否するだろう。

 この公国に住む全ての民を愛していると大公は言うだろう。大公は常々公国の主君である前に民たちの主君でありたいと妄言を吐いている。民の誰一人徴税に賛成する者はいないのだから徴税は出来ないと。大公が欲しているのは賞賛であって、批判ではないのだから。

 となれば援軍を頼るしかない。今、この状況で我が国と同盟に応じるにやぶさかではない国はモラヴィアだ。モラヴィアに救援の手を差し伸べる。モラヴィアとてエスターライヒの権勢がこれ以上増すのは避けたいはずだ。結局、領土か財を差し出すことにはなるかもしれないがより少なくて済むかもしれない。それにモラヴィアと通じていると敵に思わせるだけでも効果はある。

 しかしこれも大公が納得するとは思えない。モラヴィアは大公の祖父の代に戦争をしている国だ。それもただの領土争いではない。大公からすればモラヴィアは背教者の集まりで、前回の戦争は彼らに野蛮な信仰を改めさせ、正しき神に帰依させるための聖戦だった。その戦争に勝てなかったのだから神などいるはずはないのだが、それも大公が認めるはずはない。


 二人の考えとして一致していることはあおぐ君主が変わっても人は死なないということだ。たとえ国境領を渡したとしても、敵もあえて住民を犠牲にするようなことはないだろう。死人を取りかえすことはできないからこそ国境領で戦いが起こり住民の人的犠牲が出るのはぜひ避けたいのだ。

 敵国がうまく立ち回れば住民感情があちらに有利に働く可能性もある。そうなれば国境領は自発的に敵国のものとなり取り返すのは困難になる。わが国が国境領を致し方なく割譲したことが、人命を尊重するという名目によって行われるのなら、周辺国の理解や協力を得やすく、いずれ敵を不利にした状況下で領土を取り戻せる公算も大きくなるかもしれない。

 その時までに穏やかな徴税などで国庫を豊かにし、モラヴィアとの同盟や婚姻政策で国力を増しておけば良い。

 ただ二人には分かっていることがある。大公が納得しないということだ。事実、この後、ファーデンは大公に和睦の準備、徴税、モラヴィアとの同盟を具申したが全て怒りとともに却下された。

 最悪の事態を避けるためには取らなければならない犠牲はある。二人は常に犠牲と犠牲を比べて、より少なく効果的で効率の良い理にかなった犠牲を選ぶことに努めていた。二人の仕事は犠牲の調停なのだ。そんな中で彼の脳裏に住み着いている考えが一つあった。こちらの側で、ある一人を犠牲にすれば、諸々が上手くいくということだ。



第六章 牢獄の間違い


 今でもプワスキは夢を見ていたのではないかと思っている。なにもかもが現実なのか妄想なのか杳として知れない。馬鹿げた茶番、馬鹿げた謎かけ、そして馬鹿げた別離。そして今のこの状況。夢を見ていたのだとしたら、どこからが?そして、どこまでが?始まりはあの牢獄だ。パノプティコンという名の馬鹿げた牢獄。

 レプゴーとプワスキは牢の中にいた。国境領を出て次の宿場にたどり着く前に警吏に捕縛されたからだ。捕縛の理由には全く納得がいかないが怪しいと言われたからだ。この後、順番に詮議をし持ち物を調べるので、それまで大人しくしているよう言われ、ここは最近考案された全く新しい牢獄であり脱獄は不可能と釘を刺された。この牢獄にはすでになに人かの囚人がおり、皆、詮議を待っているようだった。

「面目ない。こいつを役に立てることができなかった。」

 とプワスキは父の形見のナイフを取り出した。心底気を落としているようで、ナイフを握る手にも力が入っていない。

「いや、それを出さなかったのは賢明な判断だったよ。とりあえずナイフはその辺に隠しておけ。後で見つかると厄介なことになるかもしれない。」

「旅人がナイフくらい持ってるのは当たり前だろ?」

「それはその通りだが、その場合、おそらく没収されてしまう。ペルネル夫人にはきちんとお返ししたい。」

 プワスキにはなんとなくレプゴーの考えていることが分かった。詮議などの際に自分が暴発して、ナイフ片手に余計な振る舞いをしないとも限らない。なにしろ警吏という連中は魚屋が魚をさばくように人をかっとさせる。それを心配しているのだろう。

 プワスキは言われた通り石畳の隙間にナイフを押し込んだ。この逮捕はもちろんなにかの間違いだ。多分、検問のような類のものなのだと思う。詮議の結果、問題がなければすぐに旅を続けられる。

 レプゴーさんは賢い人だし、ああ見えて神の力を頼るよりまず自分の力で難局を乗り切ろうとするタイプだ。こういったトラブルを前もって予期していたかと言えばそれは分からないが、用心深いレプゴーさんのことだ、順調な旅とそうでない旅を分けるのはひとえに運だということは承知しているはずだ。自分にナイフを隠させるくらいなのだから、彼も詮議に十分備えているだろう。もっとも詮議されて困るようなものを持ち歩くような人ではない。大事なもの?娘さんからの手紙?なんの問題もない。むしろ、警吏が同情して解放を早めてくれるかもしれない。自分が警吏なら必ずそうする。

「なんとか逃げ出す方法を考えるか。」

 プワスキは自分に喝を入れるためにもそう呟いてみた。

「無理ですよ。」

 そう言ったのは、先にこの場所にいた三人組の一人だ。これがあまりにも馬鹿げた三人組で、見た目は東洋風のいでたちで砂漠の匂いがしそうな旅の商人という感じだが、後で名前を聞いて見たところ、一人目はピン、二人目はポン、そして三人目はピンだというのだ。これは間違いではないらしい。一人目と三人目は同姓だと言っていたのだから。

 もちろん三人のうち二人が同じ名前であることに意味や理由はない。それは偶然にすぎない。そうは分かっていてもなにやら靴の中に小石が入っているかのような違和感がある。怪しいと言えば言い過ぎだろうか。後から考えてみれば、この三人の名前がピンとピンとポンでも、ピンとポンとポンでも、ポンとポンとポンでも一向に構わなかった。この三人は同じ内容のことを話すだけだからだ。まるで牢獄内である種の寸劇が行われているかのように。

「無理ってのは、どういうことだ?」

 プワスキの問いに一人が答えた。

「パノプティコンは完全な牢獄なんです。絶対に逃げることはできない。」

「絶対に?」

「そうです。絶対に、です。それは、ステッティンに会えば分かります。あなたたちが新入りなのなら、もうじき彼がやってくるでしょう。」

「ステ?誰だそのステッティンというのは?」

 プワスキの質問に答えたのは三人の誰でもなく、一人の少女だった。

「看守です。」

 こんな牢獄に少女が。娘のマリアヌより少し年長には見えるが、間違いなく少女が捕らえられていた。この牢獄にいる少女からプワスキが感じた感覚はきっと場違いさだろう。まあそれも偏見ではあるが。

「アイヒロットです。」

 少女は丁寧な笑顔でそう言った。

「アイヒロット?」

 可愛らしい名前だなとプワスキは思った。

「好きな詩人の名前です。」

「お前の名前じゃないのか。」

「はい。」

 どうもこの牢獄にいる連中は怪しい。怪しいなどという不確かな印象で捕縛された時には腹が立ったが、警吏たちには自分たちもこの連中と同じように怪しく見えるのだろう。それが彼らの仕事なのだから、有能とまでは言わないが、ちゃんと仕事をしているのか、と合点がいった。

 プワスキは、一同に自分の名とレプゴーの名前を伝え、情報を得ようとした。三人組の一人が言うには、隣の国との関係が危ないらしく、密偵や危険分子の侵入を恐れて警備が厳しくなっているのだそうだ。確かにそれはもっともなことだ。

「明るいな。」

 今までほとんど会話の輪に入ってこなかったレプゴーが不意に口を開いた。

「え、そうですか。気持ちは結構、沈んでるんですけどね。」

 アイヒロットが静かに微笑んだ。

「いや。違う。君じゃなくて、ここが。」

「え。」

「だから、ここは牢獄にしては、随分、明るいじゃないか。」

 そう言えば、とプワスキが思ったところに別の声が割って入った。

「良い所に気がついた。」

 馬鹿げた茶番劇の真の始まりはここからだった。いかつい風貌の男が時代がかった低い声でそう言いながらこの場所に入ってきたのだ。しかしどことなく滑稽な印象が揺蕩う。これがオペラならバッソ・ブッフォといったところか。

 三人組の商人やアイヒロットという詩人を好きな少女ーーーレプゴーもプワスキも面倒臭いのでアイヒロットと呼ぶことにしたーーーが一斉に怯えたように立ち尽くした。

「この牢獄の明るさにいち早く気がつくとは、今回の新入りはなかなか歯ごたえのある奴のようだな。わたしはここの監守長、ハンス・ゲオルグ・フリード・ステッティンだ。以後、お見知りおき願おう。」

「看守・・・つまり見張り番ってことだな?」

「看守長だ。」

 プワスキの要約に低音の訂正が入った。

「牢獄と言えば、もっと暗いイメージがあるかな。そこの・・・」

「レプゴーと申します。」

「レプゴーとやら。よく周りを見て、明るさのその訳を探ってみるといい。」

 レプゴーがなにかを悟った顔をした時、プワスキもすでに明るさの答えを見出していた。

「壁がない・・・レプゴーさん。そっち側、壁がないじゃないか。だから明るい。こりゃ、欠陥牢獄だぜ。」

 最後は小声でレプゴーに呟いたつもりだったが、声はよく響いた。

「壁がない。なのに、なぜ、みんな逃げようとしない?」

 レプゴーが独り言ちた。

「そうなんです。それがさっきわたしが無理と言った理由なんです。」

 さっき自分が、

「なんとか逃げ出す方法を考えるか。」

 と言った時、無理だと言ったのが、三人組のうちの誰だったのかはすでに忘却の彼方だが、今喋っている男なのだろう。つまりピンかポンだ。

「ふふふ。この牢獄、いままでに脱走者は一人もいない。脱走を試みた者もいない。なぜか?ピン。そこの新人に説明してやるがいい。」

 ステッティンは余裕の表情で見下すように言ったが、二人のピンが同時に喋り出したので、すぐに静止した。

「そっちの方のピンだ。」

 そっちの方ではないピンは気落ちした様子で一歩下がった。

「はい。この牢獄のシステムそれは、パノプティコン。壁がないでしょ?その先になにが見えます?」

 レプゴーが目を凝らした。目を凝らせば確かに見えてきた。

「あれは・・・塔?」

「そう!実に簡単なシステムです。あの塔には見張りがいる。四六時中わたしたちを監視している。だから逃げられない。わたしたちは鎖ではなく、あの目に縛られている。」

「本当か。人の姿なんて見えないぞ。」

 プワスキは視力には自信があった。以前マリアヌが逃してしまったハンミョウを遠くの木立の中に発見したのは自分だ。けれどマリアヌはそのハンミョウを食べる気だったので、そのまま逃がしてやったのだが。

「見えなくても良いのだ。いや、むしろ見えないように高い塔にしてある。そこに見張りがいるという事実が、お前らの身体に染み付いて離れない。正確に言えば塔に見張られているのではない。お前らの身体に染み込んだ監視の眼差しが、自分で自分を見張っているだけなのだ。つまり、お前らは囚人であると同時に見張り番でもある。インプットにしたがって逃げないことと逃がさないことを同時に遂行する自動人形のようなものなのだよ。」

 ステッティンはそう言い終えると、葉巻を吸っているわけでもないのに、大きく息を吐き出した。

「わかったよ。確かにこの牢獄は完璧だ。だから、いや、だからこそ俺たちをここから出してくれ。本当に捕まるいわれなんかないんだ。この人は立派な人なんだ。村の誇りなんだ。素晴らしい人なんだ。うまい言葉が思い付かないけど善い人なんだ。特に今は生き別れになった娘を探してる。都にいけば会えるんだ!もうすぐなんだ。どうか、どうか、会わせてやってください。」

 プワスキの必死の訴えをステッティンは嘲笑った。

「別れた娘ねぇ。」

 ステッティンはアイヒロットを物でも数えるように指差しながら嘲笑った。

「こいつはな、まだ見ぬ両親を探しているんだそうだ。な?」

「はい。探しています。」

「どいつもこいつも、そんな三流芝居みたいな話があるか!嘘なら、もっとましな嘘をつくんだな。」

「嘘じゃありません。」

 アイヒロットの答える声に力があったのが救いだった。

「間違いなんだよ。なんにも悪いことはしていないんだ。分かるだろ?ただの旅人なんだ。無実なんだ。早く出してください。」

 プワスキも諦めなかったが、ステッティンは突き放した。

「残念だが、わたしの仕事は、人を閉じ込めることであって、解き放つことではない。」

「だけど!レプゴーさん。なんか言って下さいよ。レプゴーさん!」

「これは逃げられないな。単純な仕掛けだが。実に効果的だ。」

 レプゴーは深いため息をついた。こんなところで諦めるのか?娘さんとの再会はどうする。死んだ奥さんとの約束はどうなる?

 なんだろう自分の見ているものが現実なのか夢なのかよく分からなくなってきた。牢獄にいて、しかも壁がなくて明くて、怪しい連中とさらに怪しい看守がいて、馬鹿げた会話をしている。

 プワスキの頭の中が悲鳴を上げた時、さらに馬鹿げた事態が発生した。看守の、いや看守長のステッティンが謎かけをすると提案してきたのだ。しかも、その謎を解ければ、この牢から解放すると。そこからは起こっていることがよく理解できないまま時間が過ぎた。そして今、自分はここにいる。一人だ。なにが起こった?謎かけ。そうだ。ステッティンがいくつかの謎々を出した。


 第一問。カサゴとサカゴ、食べられるのはどっち?


 これには、ポンが答えた。カサゴだ。正解。彼は釈放が決まった。


 第二問。オナゴとアナゴ、食べられるのはどっち?


 これには、ピンの片方が答えた。アナゴだ。正解。彼は釈放が決まった。次は人名に由来する問題に3問連続で答えられないと釈放とならないと告げられた。レプゴーとプワスキ、アイヒロットともう一人のトンが挑む。


 問題。

 ミュージカル映画などで見られる撮影方法で、大勢のダンサーを真上から見下ろすように撮影し万華鏡的な映像を・・・

「バークレー・ショット」

 同温・同圧のもとでは同体積の気体中には同数の分子が含まれるという法則を・・・

「アボガドロの法則!」

 ロココ様式にゴシック趣味・中国趣味を取り入れた実用的な椅子などの様式でその作者の名をとって・・・

「チッペンデール様式!」


 見事に全ての問題に答えたのは、なんとアイヒロットだった。全て正解。彼女は釈放が決まった。

「思いつきで答えただけです。」

 とはにかんだ笑顔が頭から離れない。

「残り三人か。では、三人にふさわしい問題を出そう」


 問題。あなたたちは三人でかけっこをしています。あなたは二番目を走っている人を見事追い抜きました。今、あなたはなに番目?


 一人残った商人のピンが

「一番だ!」

 と大声で言った。

「いや、二番だ!」

 そう言ったのはレプゴーだった。正解はレプゴーだ。一番になるには、一番を抜くしかない、世の常だ。レプゴーは釈放が決まった。

 そして、ステッティンの冷酷な声が、次が最後の問題だと告げた。残る囚人は二人。先に答えた方を釈放する。そして、その問題が出た瞬間、プワスキの息は止まった。いや息の根が止まった。


文章問題。

******************

この文章には三つの間違いがあります。

蝙蝠は羽毛を持った鳥である。

******************


「待ってくれ!!俺は、俺は文字が読めないんだ。」

 プワスキの悲痛な叫びがこだました。プワスキは文盲だ。文章問題はそれが「1たす1は?」と書いてあったとしても、「あなたのお名前は?」と書いてあったとしても、プワスキには答えることはできない。一方、ピンは商人だからか文字が読めるようで、じっと考えている。その黒目が文字を追っているのが分かる。釈放される側にいる同じ名前のピンとポンが応援している姿が無慈悲にもプワスキの心を乱した。とはいえ集中しようと読めないものは読めない。

「頼む!この問題はダメだ。レプゴーさん!助けてくれ。」

「プワスキ・・・」

 レプゴーはなにかを考えるように明るい天井を見上げた。

「文字が読めない俺にこの問題は無理だ。これでは謎かけにすらならない。別の問題を出してくれ!頼みます!」

 意外にもステッティンは困惑しているようだった。確かに文字が読めないものに文章問題では謎かけの体をなさない。釈放を賭けて謎かけをすると言っておいて、例えば見知らぬ外国の言葉で問題を出すようなもので、それはフェアではない。

 この牢獄はフェアだ。壁はない。塔がある。そこに見張り番がいるという情報は公平に明かしている。それで見張り番はいないと判断して逃げるか、見張り番はいると信じて逃げないかは各自の選択だ。そして今まで逃げたものはいない。この牢獄のシステムが優れているのは公平だからだ。選択のチャンスがあるからだ。

「・・・しかし、もう問題は出さない。先ほども言ったようにこれが最後の問題。そこは覆らない。だが。」

 ステッティンは言葉を切ってしばし考え言った。

「代わりにあなたが答えられたら、彼も釈放しましょう。どうですか?」

 ステッティンはレプゴーを見遣った。プワスキは手を叩き踊り出すかと思うほど喜んだ。レプゴーさんに解けないはずがない。この怪しい商人より先に答えるんだ。そしてまた二人で都への楽しい旅路を進むんだ。レプゴーさんは娘さんと再会し、俺は大公様にお願いをする。それで村が救われる。

 ハッピーエンドだ。ハッピーエンドを迎えるために俺は志願して付いてきたんだ。プワスキの心臓は緊張と期待で大いに揺れた。

 その後、なにが起こったんだ。

「分かりません?」

 そう言ったのか。

「残念ですが、わたしには、分かりません。」

 と聞こえた気がする。

「レプゴーさん。」

 と呟いたのは自分だったか。

「では、時間ぎれだ二人ともゲームオーバーだな。」

 と言ったのは誰だ?隣にいたピンの沈んだ声だけが明瞭に聞こえた。

「プワスキさん。諦めましょう。人間の自由なんて無限の牢獄の中から次にどの牢獄に入るかを選べる程度の自由です。逃げずに甘んじるのもまた自由でしょ?」

 それから遠くから聞き慣れた声が妙な圧力で潰されたように響いてきた。

「それでは、わたし、ハンス・ゲオルグ・フリード・ステッティンは、以下の者を釈放する。ポン、ピン、アイヒロット、レプゴー。以上、釈放!」

 全員出て行った。おかしいなさっきまで隣にいたピンは?そうか。彼もピンだから釈放されたのか。自分だけ名前を呼ばれなかった。プワスキの名前だけなかった。だから俺は・・・そう思った途端、急にうわごとのように言葉が溢れてきた。

「レプゴーさん、ま、待ってくれ!どういうことだ??俺をおいていくのか!おい!冗談だろ?おい!レプゴーさん!待って、おい!!」

 今でもプワスキは夢を見ていたのではないかと思っている。なにもかもが現実なのか妄想なのか杳として知れない。馬鹿げた茶番、馬鹿げた謎かけ、そして馬鹿げた別離。

 そして今のこの状況。そう、今、俺はここに一人残されている。置き去りにされた。これは、きっと現実だ。気がつくとプワスキはその場にうずくまっていた。



第七章 鯨の間違い


 国境の村は平和だった、今の所は。

 家長のプワスキがレプゴーと共に都に旅立ってから平凡な日々が続いていた。ペルネル夫人はお祈りとおしゃべりを繰り返し、エルミルはいつもより一人分足りない食事を用意した。マリアヌは相変わらずまともな言葉を口にすることはなく、父親の不在についても特に興味を示さなかった。

 そして、今、いつものように三人は食卓についている。スープを一さじ、すっと吸って母のペルネル夫人が、

「あ。」

 と幽かな叫び声をあげた。

「髪の毛?」

 エルミルが尋ねると、ペルネル夫人は、

「え?ええ。」

 と少し呆けたような声を出した。

「すいません。作り直します。」

 エルミルがスープ皿に手を伸ばすと、

「いいわよ。取れば。」

 ペルネル夫人はそう答えて、再びスープに匙を入れた。それは不思議なことだった。プワスキがあれほど嫌がっていた二人の諍いが彼が不在になった途端、霧消してしまったのだ。

 二人はあの晩のことを思い出しているのだろうとマリアヌは思った。スープに毛が入っているいないで二人は揉めていた。自分がその毛を掬って食べてみたが諍いは止まず、やがてレプゴーが立ち寄って、翌日プワスキごと消えた。そんなことを考えていると

「ねえ、マリアヌ。」

 とペルネルが声をかけてきた。

「なんだ、ババァ。お迎えが来たか。」

 そう答えて様子を見たが、ペルネルは

「まだよ。」

 と寂しそうに笑うだけだった。

「なんだか、この子。お前さんに似てきたね。」

「そうですか?まあ、親子ですからね。」

「黙ってなにか考えている表情なんてよく似てるよ。」

「お母様。わたしは黙ってなにか考えてなんていませんよ。黙っているだけ。なにも考えていませんから。」

 エルミルが少しだけ口角をあげると、ペルネルも同じくらい小さく笑った。

「元気かしら。」

 数秒の沈黙の後、ペルネルは誰に言うともなくそう呟いた。人に言ったというよりは窓に言ったようにも見えた。

「わたし?わたしは元気です!」

 マリアヌは努めて大きな声で言ってみたが、食卓に広がった音の波紋はスープの表面すら揺らすことなく、しばらくすると消えた。

「食欲がないのよ。せっかくのスープなのに、ごめんなさいね。」

「ええ。わたしも、なんだか・・・。」

「でも、髪の毛!ほら、良いことがあるんでしょ?」

 ペルネルは少し身を乗り出してエルミルの目を見た。

「それ、嘘だって言いましたよね、わたし・・・。」

「ええ。聞きました。覚えてます。」

 そして二人はため息をついた。

「誰のことを心配してるんだ?」

 マリアヌの心の声が思わず口に出てしまった。

「あなたのお父様に決まってるでしょ。」

 とペルネルは言ったが、エルミルは特に同意も否定もしなかった。

「プワスキが心配か。」

「お父様と言いなさい。マリアヌ。」

「あ、見える。暗ーいはずなのに明るーい所で、一人暗ーくなっているものなーんだ?」

「なぞなぞ?」

 ペルネルが言うと、マリアヌは不意に玄関先に走っていった。

「なにをやってるんだい、あの子は。」

 ペルネルのため息は少しだけ明るい波長を含んでいたが、そのことがかえって場の空気を重くした。

「ねえ、エルミル。思い出したんだけど、あんたの髪の毛、あれ食べたからじゃないの?」

「髪の毛?」

「あの子、あんたに似てきただろ?うちの実家の方じゃ良く言うんだよ。人のさ、身体の一部を食べると性格がうつるって。ほら、爪の垢を煎じて飲めとかっていうだろ?あれだよ。髪の毛食べただろ?スープの、あんたの。」

 その瞬間、エルミルは立ち上がった。その後、高い声で笑いながら、

「やだ、気持ちの悪いことを言う実家ですね。最低・・・」

 と言いながら、再び居住まいを正すとなにかを考え出した。

「くだらない迷信かもしれないけどさ。」

「わたしのお腹の中で育った子です。身体の一部を食べて育ったようなものです。ねえ、マリアヌ。」

 エルミルがマリアヌの方を見たのは、ペルネルから目を逸らす目的があったのかもしれない。その時、マリアヌは玄関のドアに右耳を押し付けていた。外から音がする。今までに聞いたことのないような大勢の足音。マリアヌは呟くように早口で言った。

「神の全ての御恵みにより、おんみの魂と肉体に幾久しく健康のさずけられんことを。神の愛に霊感を受くる者のうち、もっとも賤しき者の望むままに、おんみの日々が祝福されんことを。」

 身じろぎするような強い音でドアが叩かれたのはその時だった。

 その後、国境の村で起きた悲惨な出来事は急ぎファーデンの耳に入れられた。ファーデンは事態を収拾すべく大公の元に向かった。

「大公、大変なことになりました。」

 大公は、力強く立ち上がるとこう答えた。

「その通りだ!ファーデン。大変なことになったな。わたしは大変心を痛めておる。なんとか助けたいと思うのだ。」

 ファーデンは意を強くし答えた。

「早急に国境への軍備を増やす必要があります。」

「いや、その前に船だ。」

 大公は答えた。

「船を出せ。氷を砕く船を出して鯨を救出するのだ。」

 ファーデンは大公を見つめ直した。

「鯨ですか?」

「そうだ。どんなに寒いことか。海が凍るような場所で、氷に閉じ込められるとは。震えているのだろうよ。しかも独りぼっちりで。食べ物もなく仲間の姿もなく凍えそうな未来を見つめているだけとは、なんと哀れな!他の国々も救出に乗り出すという。今すぐ、わたしの名において船を出せ。」

 以前、大公が妄想の女たちと白黒の模様のある動物について話していたことをファーデンは記憶していた。動物好きは構わないが、今はそれどころではない。恐ろしい事態が国境の村で起こっている。

 第一この国には海がないことを大公はご存知ないのか。川船程度出しても諸国の嘲笑を買うだけだ。いやそこを考えても始まらない。熟考しようがしまいが、鯨は救わないという答えはすぐに出せる。救う必要があるのは国境の村人たちだ。

「大公。先にわたしからの報告をお聞きください。国境の村ですが、状況は最も悲惨なものとなりました。」

「どういうことだ?」

 大公の瞳に攻め入る隣国エスターライヒへの敵意が浮かぶのを見てファーデンは静かに語り始めた。

「言うも憚られることながら、国境領の村で住民が多数殺害されました。」

「なに?ルドルフめ、ついに本性を見せたか。」

「大公、そうではありません。」

「なんという非人道な。我が軍はなにをしておったのだ?」

「大公。敵の軍は動いておりません。村を襲ったのは・・・我が軍です。」

「なにを馬鹿な!」

 大公が前に出たのかファーデンが前へ出たのか、二人の位置が近づいたような気がした。

「お前は嘘を言っているな?」

 大公が神経質に笑った。

「いえ、残念ですが事実です。」

「貴様、気でも狂ったか。なぜ、そのような話をわたしに聞かせるのだ。なぜだ?なぜ、我が軍は、自分の同胞たちの住む村を襲った?」

 ファーデンは一瞬の間も開けずに言葉を続けた。

「ご説明いたします。我が軍は、敵から村を守る努力を重ねたのですが、武器や弾薬が足らず、止むなく、国境の橋を落とそうとしたのです。」

「武器や弾薬なら送ったではないか。」

「足りないと申し上げたはずです。」

「だが、なぜ、それで我が軍が味方の村人たちを襲う?」

「橋を落とすのに人手も道具も足らず、村人に協力を頼みました。村人と力を合わせ村を守るために橋を落とそうと。しかし村人にとってその橋は日々の生活を送るための大事な橋でした。強制された彼らは協力を渋り、やがて邪魔をするものも現れ、ついに軍と衝突してしまったのです。」

「衝突?」

「そうです。ご説明申し上げたはずです。徴税をし補給を完全にするようにと。後方の支援なき軍など利がないばかりか、害すらなすのです。」

「だからといって、無闇に税を上げられるか。なぜ軍は守るべき住民を犠牲にした?そのような手段しかなかったのか。」

「最前線で武器もなく食料もない軍が凍える瞳で見つめる未来とは、そういうものです。」

 ファーデンは静かに答えた。

「ファーデン。さすがに、お前は冷静だな。だが、だが、我が兵士たちは正義と騎士道の僕ではなかったのか。それが、自分より弱い者たちを殺したというのか。」

「残念ですが、兵士たちが正義と騎士道の僕などという話は聞いたことがありません。それに、こうなった以上、兵士たちが死んで村人が生き残っても、それは勝利ではありません。なんら意味のないことです。現に国境線は守られています。その後の一戦、我が軍が勝利したとの報せが。」

「そんなものは不名誉な勝利だ。」

「大公。不名誉でもそれは勝利であり、敵にとっては敗北なのです。」

「わたしは、お前のように冷血にはなれない。お前の血は赤くないのだからな。」

「血が赤いからといって、救うべき者を救えないのでは意味がないのです。」

 ファーデンは大公を説得しているように見えてそうではなかった。基本的に大公の質問に答えているだけだった。彼が嫌うのは理にかなわないことだ。

 北極で鯨が氷に閉じ込められることはたまにある。それは自然の現象だ。理にかなった現象であるから人間が船まで出して助ける必要はない。兵站を怠った兵士が徴用などをめぐり自国民と衝突して犠牲が出ることもあるだろう。悲惨な事態だが理にはかなっている。では、理に適わないこととはなにか?それは「正義」だ。

「補佐官らしい意見だな。だがわたしは正義のない国を作る気はない。軍はわたしの信頼と期待を、そして愛すべき正義の心を裏切ったのだ。」

 正義のために敗北してなにか意味があるのだろうか?兵士たちはやむなき選択に追い込まれたのだ。物の善悪を国政の基準にしてはならない。善政を敷くのは悪いことではない。正しい戦い方をするのも悪いことではない。ただせいぜい悪いことではないという程度のことだ。善とか正しいとか言う言葉に惑わされて犠牲が増えるようでは氷に閉ざされた鯨よりたちが悪い。

「全ては正義のためだ。この国において完全な正義を実現することこそ、なき父上のご遺旨なのだ。」

 この時、ファーデンは今まで感じたことのないなにかに気づいた。冷たいと言われた血が全身で沸き立つような感じ。赤くないと言われた血の色が変わるような感じ。自然と言葉が口から溢れた。

「しかるに、大公の正義とはあなた一人を善人にするために、多勢の人間が犠牲となるような正義を指すのでございますか。皆があなたを善人にするために存在するのではありませんぞ。」

 大公は一瞬気色ばんだが、力強く足を踏み鳴らして宣言した。

「ファーデン!!良く言ったな。父上の代からの仕えるものとして、今日まで取り立ててきたが、今の言葉に二言はないな。」

「申し上げた通りです。」

「変わらぬか。よろしい。ファーデン。お前の補佐官の任を解く!これまでの功をもって、先の讒言は罪としない。次期補佐官の適任者が決定するまで、補佐官を勤め上げることを許す。」

 この時のファーデンは理にかなう行動をしていたのか。後からネイダフならなんと言うだろうか。すでに彼の血は冷たく、赤くはないなにかに戻っていた。

「ご厚情感謝いたします。大公。我が国に海はありませんゆえ、鯨を救う船を出すことは出来かねます。では失礼いたします。」

 冷たく頭を下げ退出しようとしたファーデンの背中に大公が囁いた。

「ファーデン。お前は、人間ではない。」

 ファーデンはふと博士のことを思い出していた。博士の研究室で見た人間のようなロボットが脳裏に浮かんだのだ。

「使えるかもしれない。ネイダフ。ネイダフ。」

 ファーデンは盟友の名を呼びながら闇に向かって歩いて行った。



第八章 星座の間違い


 牢獄を出てから二日くらい歩いたところで、二人は暖をとっていた。二人というのは、生き別れの娘に会うために都へ向かうレプゴーとその新しい連れとなった少女だった。彼女のことをレプゴーはアイヒロットと呼んでいた。

 牢獄の中でアイヒロットは生き別れの両親を探していると言っていた。元々、都にいた彼女は両親探しの旅に出て、どこを探していいかも分からず歩いている途上、牢獄に捕縛されていたのだ。しかしレプゴーが生き別れの娘に会いに都へ向かう所だと聞くと、都までの道案内を申し出てきた。

 レプゴーがあの牢獄に入ってきたから、解放されることができたのだと、アイヒロットは語った。だから恩がある。そのお返しをしたいと。レプゴーはしばらく考えた末、道案内を断ろうとしたが、結局、彼女の真剣な眼差しに押し切られてしまった。プワスキの同行を認めた時と同じだなとレプゴーは心中笑った。

 ある晩、レプゴーは星についてアイヒロットに訊かれ、大地の神様が一匹の蠍を遣わせて、驕りたかぶった狩人を一刺したという星座の話をした。本当に彼は傲慢だったのだろうか。そうだとしても殺される程の罪を犯したのか。神様はひどいことをする。レプゴーは疑問に思っていた。

 だがアイヒロットの疑問はまた別のところにあったようだ。どうして人間はあんなにたくさんの星の中から蠍の姿を見つけだすことができたのだろうか?アイヒロットは爆ぜる炎をその瞳に映し真剣に考え込んだ。簡単な話だ。あれだけ光の点がたくさんあれば、どんな繋ぎ方だってできるものだ。詰まるとところ自分の見たい物を自分の見たいように見れば良いのだ。そう頭の中で考えながらレプゴーが沈黙を守っていると、

「ちなみにオリオンを殺したのは蠍ではなく、アルテミスですよ。」

 とアイヒロットが教えてくれた。

 別の夜、アイヒロットが生き別れの娘について尋ねてきた時、レプゴーはかつてプワスキの家でペルネル夫人たちに話したことを簡単に繰り返した。妻が死に、娘と生き別れになり、手紙が来たと。ささやかな返答に続けてレプゴーからも彼女に両親について尋ねてみた。まだ見ぬ両親と言っていたが、それはいったいどういうことなのか。

 アイヒロットは記憶がないのだと言った。正確には彼女は「全生活史健忘」という言葉を使った。気がついたらいなかった。いやずっといなかったことにふと気がついた。そういえばわたしの両親ってどこにいるのってふいに考えた。こういった現象を先の用語でいうのかはレプゴーには分からないが、医者にでも言われたのだろうとその時は気にしなかった。しかしそれが事実だとしたらこの年にしてなんと深刻な体験をしていることか。

「明るいな。」

 しばらく考え込んでいたレプゴーが不意に口を開いた。アイヒロットは牢獄での会話を思い出していた。あの時は、自分のことを言われているんだと勘違いして恥をかいた。

「そうですね。今日は月も出てますから。」

「いや。違う。ここじゃなくて、君が。」

 アイヒロットは声を立てて笑うと、一瞬照れた表情を見せ、切り返した。

「娘さんも明るい人でしたか?」

「そうだな、君みたいに明るい子に育ってくれていると良いな。さあ、眠くないのかい?わたしはくたくただ、先に寝かせてもらうよ。」

「会えるといいですね。娘さんきっと喜びますよ。」

 話を逸らしたレプゴーの少し寂しそうな瞳が印象的だった。月が隠れて夜虫の鳴き声が一段と耳障りになってきた頃、レプゴーの深い寝息が聞こえてきた。アイヒロットは全く寝付けず起きていた。そういえばここ数日、疲れているはずなのに特に眠気を感じない。神経が高ぶっているのかもしれない。

 そのうち夜の帳の向こうから自分を呼ぶ声が聞こえるような気がしてきた。繰り返し呼んでいる。初めのうちは眠りに落ちて行く途中の夢と現実の幕間のようなものかと思ったが、違った。木々の向こうから彼女を呼んでいる声に聞き覚えがあったのだ。

「アイヒロット。」

「プワスキさん?」


 全てが茶番だったわけだ。看守長を名乗るステッティンという男はそもそも看守長などではなく、無論一介の看守ですらなく、ただの囚人の一人だった。プワスキが隠してあったナイフで脅した所、すぐに全てを白状した。

 プワスキが疑問に思った通り、この牢獄には看守や見張り番のような類のものは一人もいなかった。捕縛した囚人を送り込み完璧な牢獄だから脱獄は不可能と脅し、あの高い塔から見張っているという情報を流しておくだけだった。壁も檻もないのだから出て行くものは出て行けば良いし残るものは残れば良い。

 そんな牢獄なら作らない方が良いのではないかとプワスキは思ったが、これはなにかの実験を兼ねているという噂をステッティンは耳にしていたらしい。本当に脱獄、というか普通に出て行くことが可能なのか、レプゴーたちで試したところ、無事に出て行けたようなので、念には念を入れて夜陰に乗じて脱出しようとしたところ、プワスキに気づかれナイフを突きつけられる羽目になった。

 そして二人はそのまま難なく脱獄を成功させ、プワスキはステッティンを尻を蹴り飛ばし、レプゴーたちを追ってきた。ここにプワスキの牢獄脱走から現在までの三日間に及ぶ冒険譚があるのだが、それはまたの機会に譲りプワスキがアイヒロットに言及したことだけを記しておく。

 レプゴーに追いついたのは昨日のことだったが、すぐに声をかけられなかった。その理由はプワスキには分かっていた。自分の叫び声がレプゴーに届かなかったからだ。助けてくれと叫んだんだ。もちろんレプゴーさんにもそれは無理だったかもしれない。けれど置いていかれた。そう置き去りにされたんだ。自分の身も、助けを求めるその声も。

 なぜだ。レプゴーさんはあんなに良い人なのになぜ俺を置き去りにしたんだ。その疑念が頭から離れなくなった時、レプゴーさん!追いつけて良かった!と声をかけることなどできっこない。

 アイヒロットはそれは違うと言った。レプゴーさんはとても良い人だ。プワスキさんを置き去りになんてしていない。プワスキさんがレプゴーさんのお友だちなら、レプゴーさんはお友だちを見捨てるような人じゃない。なにか考えがあったに違いない。と。

 置き去りにされた、見捨てられた、裏切られた、そんな風に勝手な迷いで自分の心を傷つけるくらいなら、自分でレプゴーさんに聞いてみれば良い、とアイヒロットは言うが、それが難しかった。

 アイヒロットの言うように直接聞けば良いんだ。だが、直接聞いたとして、それを信じることができるか、多分それが無理だということに俺は薄々気づいているのではないか。直接聞いても疑いが晴れない?レプゴーさんが嘘をつくと俺はそう思ってしまっているんじゃないだろうか。となると。俺は裏切られたという確証が欲しいのか。

 信じなければいけないんだ。レプゴーさんは最高の善人だ。村の誇りだ。だけど・・・俺は考え過ぎているのか?問題は俺の心か、問題は・・・最後の問題。文章問題。あの問題をレプゴーさんが答えられたら俺は一緒に釈放されていた。レプゴーさんが結局分からないと言った最後の問題はどんな問題だったんだろう。

 アイヒロットはそう聞かれ、あの時の文章問題を口に出してプワスキに教えた。


この文章には三つの間違いがあります。

蝙蝠は羽毛を持った鳥である。


 プワスキに問われアイヒロットは自分にも分からなかったと答えた。蝙蝠に羽毛はない。そして蝙蝠は鳥ではない。二つの間違いはすぐに分かるが三つ目がどうしても分からないと。難しい問題なんだな、プワスキは静かにそう呟くとアイヒロットは言った。

「善い人の行いは、時として普通の人には理解できないものなんです。レプゴーさんは、プワスキさんを見捨ててなんかいませんよ。ただ・・・レプゴーさんには、生き別れの娘さんを探すという大事な目的があリます。病気で奥さんを亡くし、娘さんと生き別れになり、これまで辛い人生を送ってきたんでしょ?だから、早く娘さんを探したい、そう思って急いでしまったんです。プワスキさんのことは一旦後回しにしたんです。」

 プワスキは黙った。一旦後回しという言葉にも傷ついたが、黙った理由はその前だ。アイヒロットの言葉の中に嫌な匂いを感じたからだ。アイヒロットはこう言った「病気で奥さんを亡くし、娘さんと生き別れになり、これまで辛い人生を送ってきたんでしょ?」と。なにかがおかしくないか。レプゴーさんの死んだ奥さんは、生き別れの娘に会いたいと言って死んだと言ってなかっただろうか。娘さんとの再会の願いは奥さんの遺言ではなかったか。俺の勘違いか。それともアイヒロットはこう言いたかったのだろうか。「娘さんと生き別れになり、病気で奥さんを亡くし、これまで辛い人生を送ってきたんでしょ?」と。

 善い人の行いは時として普通の人には理解できない、アイヒロットの言う通り理解する必要はないのか。ただ信じれば良いのか。置き去りにされていない、見捨てられていない、裏切られていない。レプゴーさんは嘘などついていない。プワスキ!お前のことが後回しにあってしまって申し訳なかったなぁ、といつものように静かに笑いかけてくれるのか。

「アイヒロット。お前は字が読めるんだな。レプゴーさんは、娘さんからの手紙を持っている。それが、その手紙が本当に娘さんからのものか、確かめて欲しい。」

 プワスキは都に先回りして待っていると言い残すと闇に消えた。

 アイヒロットは、次の丘を超えれば都に入れるという所で、ふとあの最後の問題について話題に出してみた。

「一つ目の間違いは蝙蝠には羽毛はないってことですよね。二つ目は蝙蝠は鳥ではないこと。三つ目が見つからないんです。」

 レプゴーはじっとアイヒロットの目を見つめるとこう言った。

「それで正解だよ。アイヒロット。」

「え?でも問題には、三つの間違いがあるって。」

「そう。だから。」

「そうか!三つの間違いがあるってこと自体が間違い!間違いが二つしかないってことが三つ目の間違いってことですね!」

「そう、間違いは思わぬ所に潜んでいるものだよ。」

「でもそれならプワスキさんは・・・」

 そこまで言ってアイヒロットは失敗したと思った。レプゴーはなんと答えるだろうか。あの時は分からなかった、釈放されてから気づいたと言ってくれたらと心から願った。けれどレプゴーはこう言ったのだった。

「手紙、どうして読まないんだい?」

 そして、アイヒロットはあの手紙を渡された。


 ファーデンにとって一人でこの研究所を訪ねるのはこれが初めてだった。大公は今頃、城で妄想の女たちに囲まれての一人遊びに夢中だろう。用件は博士にあった、というより博士の作ったものに。ただ思いも寄らない事態はどこにでも潜んでいる。

「博士。ロボットを渡せないというのは、どういうことかな?」

「いや、いずれお渡ししますが、今はお渡ししかねるのです。」

「だから、なぜかと聞いている。」

 ファーデンが身を乗り出すと博士はたじろいで言い訳を初めた。曰く、もう少し改良をとか、頭部の塗装がとか、城での礼儀作法のインプットがまだとか、召し使いロボットとしての絶対守るべきプログラムの調整をなどなど。しかし全てが嘘であるとファーデンは見抜いていた。博士の顔に書いてあるのだ。この男はなにかを隠していると。

「なるほど、科学者という輩は、日頃からよほど真実ばかりを追求していると見える。すると真実以外のことを口にするのは慣れていないとお見受けするが。」

 博士は気圧されて押し黙った。ファーデンは博士にあまり圧力をかけないよう体を引いた。

「博士。なにも隠し立てをする必要はないでしょう。トラブルが起こっているのなら、わたしには教えていただかないと、対処ができません。」

 わたしにはという部分を強調したのは、協力的な立ち位置を示し、場合によっては共犯関係を作っても良いという意思表示だった。博士の肩が少し下がり真実を話す用意ができたことが分かったのでファーデンは時を待った。

「実は・・・」

 と博士が語り始めるまでに数秒しかかからなかった。博士はファーデンに、同じロボットをもう一度一から作っていると話し出した。最初に作ったスラと名付けたロボットがいなくなったというのだ。これには流石のファーデンも驚きを隠せなかった。いなくなったという事象をもう少し詳細に尋ねると、出かけたまま、帰ってこない、ということだった。

 なるほど、国の貴重な財源は前線の兵士には届かず、迷子のロボットを1体作っただけ、そう思うとファーデンは言い知れぬ感情を覚えた。

「しかし・・・」

 と博士が説明を続けた。

「もともとあのロボットは、自分が誰かに造られた物であるとか、誰かの所有物であるという意識はないので、わたくしどもの側から見れば逃亡なのですが、人としては自由になったと言った方が正確なのです。」

「人間気取りというわけか。」

「いやはや、性能が良すぎるのも、困ったもので。」

 ファーデンの嘲笑を誤解して受け取った博士は、おおらかに笑おうとしたが、ファーデンの叱責の前に再び黙った。この出来事はファーデンにとっても予想外だった。プランを少し見直す必要があるが、あまり時間を浪費できない。計画は予定通り行いたい。とにかく博士には急ぎ二号機を作らせ、こちらはこちらでスラを探すしかない。

「二号機は、いつできる?」

「そ、それが、成功例を紛失いたしましたので、実はなかなかうまく行かず・・・努力はしています。」

「努力?大公がこのことを知り、なお、お前の首が胴体とつながっているとしたら努力もできよう。だが、その可能性は少ないと思っていただきたい。」

「補佐官殿。いや、ファーデン様。なにとぞ、なにとぞ、お取りなしを。」

 ファーデンはこのことは大公の耳には入れないようにすると博士に確約した。大公に報告しても全く意味のないことだ。

「ただし二号機の完成を急務とせよ。そうだ、代わりに電気椅子を作ってもらってもよいな。」

「電気?」

「お前の処刑用だ。どちらが早くできるかな?」

「二号機です。二号機を必ず。」

 ファーデンは博士の困惑し媚びへつらっているようにも、不測の事態に喜びを感じているようにも見える奇妙な表情に辟易していた。なにれにせよ起きてしまったことだ、これを理にかなうように利用しよう。

 計画とは障害が多いほど磨かれて澄んだ純粋なものになるのだ。ファーデンが明日の計画の実行を完全に決心したのは、逆にこの時だったかもしれない。なぜなら彼は今まで触れたことのない高揚が全身に漲るのを感じ多幸感すら味わっていたからだ。

「博士、忠実なのを頼むぞ。そして二号機が完成したら誰よりも先にわたしに知らせるように。大公よりも先に、だ。良いかな?」

 研究室を後にしたファーデンは城に戻り誰もいない王座の間に立っていた。王座をじっと見ているとネイダフの声が響いた。

「そこに座るつもりか。」

「いや、予行演習だ。」

 ファーデンはそう言うと、王座の後ろ側に回り背もたれに手を置いた。

「そういうことか。」

「謁見希望者のリストはできたのか。」

「そんなに多くないがな。」

「大公に謁見をしても無意味なことは皆知っている。しかし、そんな風評もじきになくなるさ。さて、めぼしい人物はいそうか。できれば都の人間ではない方がいい。」

「国境の村から出てきたという男が謁見を申し込んでいる。なんでも、生き別れの娘がどうのこうのと。」

「国境の村か。それでは大公に不平や不満もあるだろう。もしかしたら害意ある者かもしれんな。よし、その者の謁見を認めるよう取りはかろう。」

 最後にネイダフはファーデンにこう忠告した。

「自分を過信するなよ」

 と。

「わたしを誰だと思っている。」

 とファーデンが答えるとネイダフは企みに満ちた声でこのように言った。

「お前は、わたしだ。」

 ファーデンも企みに満ちた声で笑った。その頃、研究室では博士も同じように笑っていたことをファーデンは知らない。



第九章 手紙の間違い


 城の謁見の間。全ての出来事が終わりを迎えるのに相応しい場所である。城の主人でありこの国の統治者でもある大公、そしてその補佐官の任を解かれたたばかりのファーデン、生き別れの娘との再会を前になぜか大公への謁見を申し入れたレプゴー、その従者として付き従うアイヒロット、本来、戦争を止めるため大公への謁見を思い描いていたプワスキ。

 彼らの運命がこの日、この謁見の間で大きく動くことになる。二人が刺され、一人が命を落とす。一人は英雄になり、残りの二人は想像を超えた体験をする。そのようなことだ。

 王座に座る大公がまず口を開いた。

「本日の謁見者は?」

「従者を連れた男が一人でございます。」

 かたわらのファーデンは、大公に厳しい意見をしたことで補佐官の任を解かれたが、後任が見つかるまでという名目でその座に留め置かれている。

「たった一人か。」

「は。しかし重要な人物ですので。」

「そうか。ファーデン。補佐官の職務、遺漏なく全うせよ。これが最後の勤めとなろうからな。」

「ありがたき、仰せでございます。謁見者、前へ。」

 ファーデンは特に感銘を受ける様子もなく、いつも通りの冷たさで職務を進めた。ファーデンは大公にはあえて眼差しを送らず、この場で彼の目に入る残りの二人の人物を眺めた。レプゴーと名乗る国境の村から来た男とその従者という少女だ。この場には大公と自分とこの二人の謁見者しかいない。というよりファーデンが衛兵などを全て下がらせ、最小の人数にしたのだ。大公はそのことに気付いていないのか特に気にしていない様子だが。レプゴーは大公を直接見ないように頭を下げたまま王座に近づいた。アイヒロットもそれに倣う。

「大公様。初めてお目にかかります。わたくしはレプゴーと申します。本日はわたくしめごとき田舎者にご拝謁をお許しいただき万福の至りでございます。これは、従者で、アイヒロットと申すものでございます。」

「レプゴーとやら、わたしの名は存じておるかな。」

「天に揺るがなき、大公様の名を存じ上げぬ者はおりません。シュピーレン大公シュピーゲル様でいらっしゃいます。」

 大公はレプゴーの言いように目を輝かせて微笑んだ。

「わたしは、民衆の主たらんことをつねに欲している。それにはまずそなたのような下々の者に名を知ってもらうことがなにより大切だと思っている。そなたの言葉、嬉しく思うぞ。」

「恐悦至極に存じます。」

 大公は上機嫌に話を続けた。ファーデンが少し驚いたのは、その後、大公がファーデンのことを紹介したことだった。

「そうだ、紹介しよう。これはファーデンだ。わたしの補佐官をしている。この謁見の責任者でもある。謁見の機会を与えた礼なら、この補佐官に言うんだな。」

 しかしファーデンをさらに驚かせたのはその後の戯言であった。

「続いてポリーだ。それから、ルシー、ロッテ、アマーリエ、マティルデ、グレートヒェン、ゼルペンティーナ、エリーザベット、アンナ、ユーディット、マリー、ヘレーネ、ヴェンドラ、アガーテ、クラリッセ、ドロテーア・・・」

 大公は女性の名前を次々と挙げ始めた。ファーデンにとってはもはや聞き飽きた戯言だが、第三者の前でこの妄想の女たちを紹介しだすとは笑止の至り。レプゴーとアイヒロットは下をうつむいたまま平伏しているが、この茶番をなんだと思っているのだろう。

「皆さん、お揃いでしたか。ご息災のようで祝着でございますな。」

 ファーデンは大公に一つ嫌味を投げかけてから続けた。

「では、レプゴー殿。頭をあげ、早速謁見の要旨をお話しになるが良い。」

「待て。その前にファーデン。先程から思っていたのだが、少しアマーリエに近づきすぎだ。少し離れよ。」

 ファーデンは目眩がした。これだからこそ、今日、この計画を実行に移すことにしてよかったのだ。もし戯れでやっているのではないのなら、やはりこのお方は心を病んでおられるのだ。君主の務めを果たせるはずがない。

「レプゴーとやら、申し立てを聞こうか。」

 レプゴーは大きく息を吐くと、懐から一通の手紙を出した。それは紛れもなく、秋の始まりを告げる一陣の風が夕暮れに染まる都へと向かう伝令から吹き飛ばしたあの一通の書状だった。国境の村のマロニエの枯れ木の下でそれを偶然拾った男がここにいた。

「はい。大公様。実は・・・ここに、一通の手紙がございます。まず、この手紙をお読みいただけませんでしょうか。」

 書状はあの日、伝令からレプゴーの手に渡り、今、この謁見の間でレプゴーの手からファーデンを介して大公に渡った。

「わたしは生き別れになった娘を探しております。郷里には病んだ妻があり、行方不明の娘とその母親を再会させてやりたいのです。生き別れならまだしも死に別れては一生会えませんから。」

 アイヒロットは頭を上げる許可を得ていなかったので、教えられた通りそのまま顔を下げていた。しかし肩が動いた。今レプゴーは「郷里には病んだ妻があり」と言った。以前は自分には奥さんは死んだと言っていた。しかしあの手紙を読んだ今アイヒロットにはそんなことはもはや関係なかった。アイヒロットが顔を上げれば、手紙を持つ手が震え顔が青ざめる大公の姿が見えただろう。レプゴーはさらにこう続けた。

「ただ、それは、わたしが複写いたした物でございます。本物は別の場所に隠してございます。」

「本物はどこにある?」

 大公は平静を保ってそう言おうとしたが、声はうねりを含んでいた。

「隠してございます。」

 レプゴーは静かに応じた。

「・・・よく分かった。では、なにが望みだ?」

「娘を探す費用ということで十万シュピーレンマルクをいただければと存じます。」

「十万?そのような大金・・・補佐官、しかたがない。彼に十万シュピーレンマルクを下賜せよ。」

 ファーデンは眉を顰めて考えていた。わたしは運が悪いのか。博士の作ったロボットは必要な時に逃げていた。今度は自分の預かり知らぬところで大公が脅迫されているらしい。違うな。運が悪いのはこのわたしではない。逆だ。もっとも不運なのはこの男だ。彼は誰を脅そうとしているのか知らないのだから。

「だが、レプゴーとやら、これは娘を探す費用として下賜するのではないぞ、本物の手紙の代金だ。」

「どちらでも仰せのままに。大公様。」

 大公にとって十万シュピーレンマルクもの価値がある手紙。一体なにが書かれているのだろう。まあだいたい想像はつく。

「しかし、大公。その手紙によって脅かされているのが、大公お一人の身の上ということでしたら、国の金を供出することは承服いたしかねますが。」

 ファーデンは説得を試みる振りをして大公に近づいていった。

「この後に及んでつべこべぬかすな!なんなら、即刻補佐官の任を解いてもよいのだぞ。」

「さようですか。レプゴー殿。あなたは大それた方だ。手紙一通で大公を脅迫なさろうとは。」

 ファーデンがレプゴーの方に視線を向けると大公の視線もファーデンからレプゴーに移動した。

「そうでもありませんよ。」

「そうでもありませんよ、ということは、脅迫されているのは大公ですな。では。」

 その一瞬、ファーデンの手元がきらりと光り、大公は自分の胴体に激しい痛みを感じた。レプゴーの目に入ってきた光景は、ファーデンと呼ばれた補佐官が大公をナイフで突き刺す光景だった。歴史画と言っても良いだろう。大公は倒れまいと王座にすがったが、その椅子が彼の体を支えきれず滑稽な音を立てて、諸共に倒れたのは象徴的過ぎた。

 アイヒロットは驚いて動けなくなってしまった。荒波の中の小舟のように自分の意思ではなにもできない。レプゴーさんはやはり嘘つきだった。それは薄々感づいていた。だがなぜここまで付いてきたのだろう。そして今大公様が血だまりの中で悲鳴を上げておられる。

「ファーデン!なにかが、わたしに刺さっているようだ。」

「ほう。初めて正しく現状を認識されましたな。ご成長、嬉しく思います。」

「ファーデン!なにかが、わたしに刺さっているようだ!」

 大公の声が大理石に跳ね返る。しかしファーデンはあくまで冷酷であった。彼はしばし大公を眺めてからナイフを抜いてこう言ったのだ。

「現状の認識が少し変わったでしょう?今、あなたにはなにも刺さっていない。」

 ファーデンは、ナイフを持ったままレプゴーの方に歩み寄ると、

「はい。」

 とだけ言って彼にナイフを差し出した。礼儀正しくマナーに沿って柄の方を丁寧に差し出した。意表を突かれた時人間は合理的な行動を取らない。レプゴーはそのナイフを受け取ってしまった。そして、短い叫びをあげてそれを落とした。ファーデンはそのナイフを拾った。

「レプゴー殿、いつ誰が死ぬかは予想がつかないもの。とはいえ、実に不運でしたな。あなたは暗殺されようとしていた男を脅迫していたわけですから。微妙なずれ、思惑の些細な食い違い。計画通りとはいかない物ですね。わたしにも身に覚えがありますよ。」

 ファーデンは気味の悪い自嘲の笑みを浮かべ話を続けた。

「さあて、これ以上無駄な行き違いが生じぬよう、ここからの筋書きをご説明しておいた方が良さそうですね。ご存知ですかな?レプゴー殿。こちらのシュピーレン大公シュピーゲル様が、妄想の女性たちと戯れている間に、あなたの村が血なまぐさい戦場と化したことを。」

「戦場?」

 レプゴーがようやく口を開いた。

「そう。そしてそのことをあなたは決して許さない。」

 ファーデンは、大公が落とした手紙を一瞥した。

「どれ。なるほど、あなたのお父上に関する黒い噂ですか。」

「わたしは自己保身から言ったのではないぞ。これは、国の存亡に関わることだ。」

 大公は力強く訴えているつもりだったが、声はかすれ血の匂いがした。

「国の存亡?それは違いますな。あなたの存亡、いや、あなたの閥族の存亡というところでしょうな。シュピーレン家による血統支配が崩れても国が滅びるわけではない。いやたとえこの国が滅びたって人民が死ぬわけではない。十万シュピーレンマルクもの大金を使うようなことではないですな。」

「貴様!シュピーレン大公家の支配を軽んじるか。国があっての民ではないか。貴様の愛国心はどこに失せた?」

 この男が愛国心を謳うことはもはや責めても仕方がない。愛国心などという言葉は愚か者の最後の拠り所なのだから、今更不思議でもなんでもない。むしろ此の期に及んで、このわたしに愛国心があるかと尋ねることこそ無意味の極致であり、この男の無能さの証なのだ。そして無能は一向に構わないが統治者には必要のない資質だ。

「さて、レプゴー殿。話を続けましょう。あなたの村は無残な仕儀となりました。」

「敵襲を受けたのですか。」

「いえ、国境の村は大公の軍によって焼き払われたんです。」

「大公の?自軍のですか?」

「それは、わたしの本意ではない。」

「あなたの失策です。」

 ファーデンは大公を見て感心したことが一つある。彼はその傷口を自分の手で押さえ止血しているのだ。ファーデンは彼の急所をわざと外して刺した。なぜならこの暗殺を素人の仕業に見せたかったからだ。とはいえ誰も手当てせず、出血が続けばいずれ絶命するはずだし、それまで誰にも手当てをさせるつもりはない。しかし自分で止血とは。無様にも生きようとする力だけは人並みはずれていたか。まあ時間の問題だが。

「では、村人たちは?」

 レプゴーはそう言いながら嫌な予感を感じていた。村人の命運にではない。自分のこれからの運命にだ。

「ご存命の方もいるとは聞きました。ですが、あなたは彼らに会うことはできません。なぜなら、あなたは英雄だからです。」

 やはりそうか、レプゴーは思った。

「レプゴー殿、あなたは愛すべきあの美しい村を踏みにじった大公を許さず、誅し奉ったのです。誅したというのは、キスしたということではありませんよ。殺したということですから、念のため。」

「その男に罪をかぶせる気か?」

 大公の正義感では許せないことだろうな、しかし、いわくつきの手紙を手に入れ金目当てに大公を強請ろうとした男を相手に皮肉なものだ、とファーデンは笑った。

「幸いにして誰もいない部屋で起こったことです。あなたは当然、大公暗殺の罪で裁判にかけられます。判決は死罪です。だから生き残った村人にもあなたは会えない。ですが、すぐに新しい大公の名であなたの名誉は回復されるのです。」

「新しい大公だと?それがお前では誰も認めんだろう。」

 大公が絶え絶えの息を吐きながらそう言うと、ファーデンは壊れた機械のような不気味な痙攣を交えて笑い声をあげた。

「わたしが大公など恐れ多い話です。わたしは今まで通り大公の良き補佐官でありたいとせつに願っております。ちなみに新しい大公は、間もなく完成しますのでご心配なく。さて、レプゴー殿、更に言えば、あなたを死罪とした裁判官や旧勢力の代表たちは国民感情の手前、閑職においこまれる。そのようにわたしがする。新しい覇権は安定した秩序の元に築かれるでしょう。いかがですか?このナイフ、大公の血とあなたの指紋。」

 レプゴーはこの時ファーデンが手袋をしているのに気がついた。いつもしているのか、この計画のために今回だけしたのか、それはレプゴーには分かり得ないことだった。

 そしてレプゴーは不思議な気持ちに囚われた。自分の計画した恐喝は失敗した。そして自分はいつの間にか大公暗殺計画の惨めな手駒にされていた。それはもう良い。けれどアイヒロットはどうなるのだろうか。一部始終を目撃しているのだファーデンという補佐官がそれを見逃すわけない。その時、思わぬ言葉がレプゴーの口から出た。

「この文章には三つの間違いがあります。蝙蝠は羽毛を持った鳥である。補佐官殿、お分かりになりますか?」

「なにを急に言いだすのかと思ったら・・・。」

「アイヒロット!今だ、逃げろ!!」

 生き別れの娘に再会するための旅。それは嘘だった。嘘も間違いも三つどころではない。レプゴーが嘘を言わなかったことはこれまで何度あっただろうか。もしたったの一度だとすればこの時だ。しかしなぜこんなことを言い出したのかはレプゴーには最期まで分からなかった。そして、アイヒロットは動かなかった。

「いやです!」

 と言ったのだ、レプゴーの方を見ることもなく。

「レプゴーさん。かばってくれなくても良いです。わたしは知りたかっただけですから。奥さんを大事に思う心。娘を探す親の心。そして人を騙す人間の心。ねえ。レプゴーさん。どこまでが嘘なんですか?生き別れの娘まで?奥さんは生きているんですか?プワスキさんとの友情は?なんのために都に出てきたんですか?本当は、本当は、金目当てじゃないか!全部、お金の・・・。」

「知っていただろう、お前は。あの手紙を読ませて、もうついてこなくて良いと言った。危険だから。なのになぜついてきたんだ?」

 アイヒロットはその質問には直接答えなかった。

「全部が嘘なんですか?本当のことはほんの少しもないの?」

「うるさい。」

「娘さんがわたしのように明るい子だと良いなと言ってくれたのは。」

「うるさい!自分の見たいように人があると思うな。みんなわたしを良い人だと思いたいんだ。良い人良い人と人を褒めそやして、自分も善人になったような気でいたいからだろう?」

「そんなことない。人の感情は一方的には生まれない。それに・・・わたしが手紙を読み違えた可能性もある!」

 この手紙をどう読み違えると、娘を探すことになるんだ。嘘つきとその被害者、どこにでもいる。聖職者と信徒。能動的に嘘を信じる人間はどこにでもいる。無意味な対話にファーデンは飽き飽きしてきた。

「仲間割れはもう良いですか?」

 仲間という言葉にアイヒロットは大きく息を飲んだ。

「そうだ。仲間だからついてきたんです。あなたを信じる仲間だから。」

「違う!」

「どう思われようと構いません。わたしはあなたを信じたんです。信じたからには最期までご一緒します。天国への梯子をあなたを支えて昇ります。」

 アイヒロットはファーデンに向きなおり、じっと目を見据えて宣言した。この決然とした表情にファーデンはレプゴーとは異なる感情を抱いた。

 それは既視感だった。どこかで見たことがある顔。どこかで。ファーデンは今まで経験したことのない愉悦を感じた。心の奥にもう一人の自分が住んでいて、その自分が大声で快哉の声を上げているような感覚。

 博士のロボットが脱走したと聞いた時も、この謁見の場に現れた男が大公を脅迫し始めた時も、物事は計画通りには行かないものだとある種の諦観があった。しかし違うのだ。これが神の存在なのだ。いや違う。神は関係ない。これは自分の引き寄せた「風」なのだ。

「先程からどこかで見覚えがあると思ってましたよ。自由を求めて逃亡したと聞いたが、自由の終着点でここに戻ってきてしまったというわけか。悲しいことだな。」

 ファーデンは、少しアイヒロットに歩み寄ると、その顔を凝視して言った。

「仲間だから、と言ったな。だが仲間ではないな。そもそも、お前は人間ではないのだからな。スラ。」

 ファーデンは、博士の作ったロボットにつけられた名前を強く発音した。

「スラ?」

 確かにアイヒロットというのは、彼女の好きな詩人の名前だ。本当の名前を名乗らないので、レプゴーたちはそれを通り名として使い、そう呼んできた。本名はスラというのか?しかし人間ではない、とは?

「これは、大公が召し使いとして造らせ、わたしの手によって次の大公となる予定だった機械だ。それをあの博士が逃がしてしまったのは誤算だったが・・・結局こうして戻ってきた。大公、まだ生きておいでか。覚えておりますか。あれほど喜んでおいでだったではないですか。ほら、あの時のロボット大集合ですよ。」

 ファーデンの目が満足気に光った。大公からはなんの応答もなかった。

「さてさて、どうして逃亡したりしたのだ?博士が嘆いていたぞ。まあいい、自分からのこのこ戻ってくるとは。殊勝なことだ。さあ来い。」

 レプゴーの驚きの眼差しを受けアイヒロットは首を振り拒絶した。

「いやです!」

 アイヒロットがこの謁見の間で命令を拒絶するのはこれが二度目だった。その理由をファーデンは思い返していた。

「微風モードか。より人間らしさを出すためにモードによっては逆らうんですよ。スラ、ここへ来い。」

 アイヒロットは少しファーデンに歩み寄った。レプゴーの口がアイヒロットと呟いたように見えた。

「博士がなにを言ったか分かりませんが、わたしは、逃亡したのではありません。」

 アイヒロットはそう言いながらファーデンの方に近づいていった。

「お前の気持ちなどどうでも良い。わたしの言うことをよく聞いて、良い大公を演じなさい。」

「わたしは、逃げたのではなく、博士との契約を打ち切ったのです。」

「つまらないことを抜かすな。機械の分際で。」

「博士は、わたしが急に契約を打ち切ったものだから、慌てて嘘をついたのでしょう。」

 ファーデンは鼻白んで聞き返した。

「契約とは、なんだ?」

「だから、非常に人間に近いロボットの振りをすることですよ。」

 ファーデンは答えなかったが、この少女はロボットであるとの強い確信があった。アイヒロットは続けた。

「ロボットというのは、そもそも逃げたりしません。逃げるという行為には、現実以外の場所を想像する力が必要でしょ。ロボットには現実世界しかないんです。みんな誤解をしていますが、ロボットが逃亡したり、人間に刃向かったりするのは、ただ一つの場合だけだ、と博士が言っていました。」

「それは?」

「それは、あらかじめ、そのようにプログラミングされている場合。」

 自分を人間だと思い込んでいるロボットを作れば良い、とは博士の言だ。見事ではないか。自分を人間だと思い込んでいるロボットにお前はロボットだと明かした時、なんらかの言い訳は必要だ。非常に人間に近いロボットの振りをすること、とはなんとも巧妙な言い訳ではないか。

「くだらん。お前はそういう言い訳をするようにプログラミングされていないとどうして言えるのだ?」

 そもそもファーデンにとって重要なことは人間なのかロボットなのかではない。言うことを聞くかどうかだ。恒久的な操り人形として考えた時にロボットの方が都合が良いというだけのことだ。

「お前はここに歩いてきた。わたしが命令したからだ。」

「そんなことありません。」

 最終的に従順ならそれで良い。ファーデンはしっかり記憶していた。完全に従順に命令に従うモードが強風モード。以下、それなりに言うことを聞く弱風モード、口答えくらいはする微風モード。そして妙にそっけないドライモードだ。それならば後日強風モードに切り替えれば良いだけだ。

「さあ、アイヒロットと名乗るなら名前はお前の好きで良い。考えるまでもないだろう。わたしに導かれ王座に座するのだ。」

「いやです!」

「座れ。」

 アイヒロットはレプゴーの方に後ずさりを始めたが、ファーデンの二度目の命令でその場に止まり、くるりと向きを変えると、レールの上を動くおもちゃの汽車のように、従順に軋みもせず静かに王座に座った。

「微風モード。二度命令が必要とは、それなりに面倒臭いが、先代よりはずっとマシだ。」

 ファーデンは大公を視界の隅に捉えると、今度はレプゴーに向き直った。

「さあ、お分かりだろうがレプゴー殿、あなたに選択肢はないのだ。選択肢があったとしてもあなたを信じると言ったこの機械とこの世に存在しない娘やら親やらを探す旅に出ることくらい。それなら救国の英雄になるべきだ。」

 それはレプゴーへの最後通牒だった。レプゴーはアイヒロットを見た。アイヒロットがロボットだったと言われても見た目に全くそんな様子はない。誰かが嘘をついているのだ。

 しかし、アイヒロットがレプゴーを見つめこう言った時、レプゴーはそこに不思議なぎこちなさを感じてしまった。

「探します。あの人の娘さんと、わたしの両親を。」

 なにを耐えようとしていたのか、レプゴーは強く目を閉じた。

「わたしには娘なんていない。お前にもどうやら両親はいないらしい。」

「レプゴーさん?」

「間違えたものは、間違えたように生きるんだ。それが正しいんだ。」

「でも、娘さんがわたしのように明るい子だと良いなと言ってくれました。」

「アイヒロット・・・。」

「デモ、娘サンガワタシノヨウニ明ルイ子ダト良イナト言ッテクレマシタ。」

 アイヒロットは目に見えない力で王座に縛り付けられているように動かなかった。だがその瞳は生き生きとレプゴーの目の前で輝いていた。牢獄で出会ったあの時のように。ファーデンは音も立てずアイヒロットの後ろに回り込むと、首の後ろに手を当てた。ファーデンがスイッチを押すと、彼女はその場で動かなくなり、その瞳は光を失った。

「さて、大公を殺した英雄もここにいる。次の大公も戻って来た。そうだ!大公の生き別れの娘だったということにしよう。これはあなたのアイディアだ。さあ、レプゴー殿。お分かりいただきたいのです。このたびの仕儀の不要あらざることを。良いですか?エスターライヒと戦うのは正義だ。なぜなら侵略者は悪なのだから。必要な資金を捻出するために国民から税金をとらないのも正義だ。国民に負担を強いるのは悪だからだ。過去に戦った国と同盟するのは悪だ。それは大義に背くし、しかもその国は正しい神を信じていないからだ。そうして、あなたの国境の村は、大公の派遣したこの国の軍隊によって焼き払われた。人が殺されたから悲惨なのではないのです。矛盾そのものが最上の悲惨なのです。」

 矛盾、それはレプゴーの心に重く響く言葉だった。

「そう。善悪など作られた錯覚なのだ。それを理解せずに、正義のために犠牲を出すような人間が支配者になった時、国は軋み、民衆は疲弊し、正義という目には見えない妄想だけがぶくぶくと太り続けるのです。」

「詰まるところ、補佐官殿は戦争を終わらせてくださるということですか。」

「その通り、戦争の目的は利益以外のなにものであってもならない。相互の利益が計れるなら戦争は終わるし、むしろ始まらない。正義や信念のために戦うなど、そんな世迷い言を口にしている限り、全人類が滅びるまで戦争は続く。むしろ、戦争はロボットに任せた方が良いかもしれないですね。ロボットなら下らない感情抜きに戦争の利益を管理できる。」

 正義は常に強制を伴い、善は悪を執拗に攻撃する。そういった行為が悲劇を生んでいく。そう言いたいのだろうか。レプゴーは呻いた。この場合の正義とは、つまり思い込みということだ。

 だが利益の調整だけで平和を管理できるだろうか。ロボット同士なら戦争は起きないのだろうか。そして、先程から気になって仕方のないことがある。ほとんど異常というほどのファーデンの自信だ。この暗殺劇はうまく行くと本気で思っているのだろうか。だって、この部屋には、こんなに・・・。

「一つ気になる所があるのです。補佐官殿は頭の良いお人のように思えますが、どうして、いや、そこも計算済みなのかもしれませんが、どうして密かにやるべき暗殺を、こんなに大勢の前で、やったのです?」

「大勢?」

 ファーデンは眉をひそめた。大公と自分、レプゴーにアイヒロット。大勢?ものの数え方は人それぞれだ。四人を大勢という人も中にはいるだろう。しかし一人は死にかけていて、一人はロボットだ。二人はさすがに大勢とは言わないだろう。

「はあ?なにを言っているのですか。大公が死に、あなたは裁判にかけられる。このロボットが次の大公になる。それで、終わり・・・。」

「では、この女性たちは、補佐官のお味方なのですね。」

 味方?誰がだ?この男はなにを言っているのだ?

「味方でしょ。でなければ、全員の口を塞ぐのはかなり面倒なことかと?ざっとみたって二、三十人はいますよ。」

 女性たち?二、三十人?

「ちょっと待て。女性たち?ではなにか。見えるというのか。お前には、そのポリーやらルシーやらが見えるというのか?」

「ええ、見えます。」

 ファーデンの表情が一変したのはこの時が最初で最後だった。理にかなった考え方をしてみよう。謁見の初めに大公は妄想の女たちをレプゴーたちに紹介した。それを覚えていて起死回生のゲームをわたしに仕掛けているのではないか。それはあり得る。このレプゴーという男はなかなかの食わせ物で芝居上手だ。

 しかしもう一つの考え方もある。大公にも見えている、レプゴーにも見えている。例えば、その女たちは、特定の人間にだけ見えないようになっている、いや作られているのか。特殊なロボットのようなものなのだろうか。

「本当に不思議だったのです。なぜ、補佐官殿は、この女性たちを先ほどからずっと無視なさっているのか?もしかして、まさかとは思いますが、補佐官殿にだけ見えないのでは?」



第十章 幻想の間違い


 ファーデンの一瞬の隙をつく形で、レプゴーは身を翻し謁見の間から逃げ出そうと動いた。謁見の間の扉が開かれた時、そこに一人の男が立っていた。レプゴーはその男を初め衛兵と思い慌てて避けようとしたが間に合わず、体当たりをしてしまった。そしてその男の顔を見て呟いた。

「プワスキ。」

「レプゴーさん。今度は、アイヒロットを置き去りにするんですか?」

 もう一度彼の名前を呼ぼうとしたが、体が痺れたように言葉が続かなかった。プワスキは立ち尽くしていたが、レプゴーは数歩後ずさりし膝をついた。痺れの原因は腹部の裂傷だった。大きな血管がやられたのか夥しい血が彼の体をみるみる染めた。霞む目でプワスキを見るとその手には血塗られたナイフが握られていた。

 あまりの出来事にファーデンも身動き一つできなかった。

「お母様の持たせてくれたナイフだな。わたしの身を守るようにと。」

 レプゴーは血の匂いにむせそうになった。不思議だ、先程刺された大公はこんなに出血していないのに。致命傷なのか。レプゴーは少し笑った。

「レプゴーさん。どうしたんだ?なんであのレプゴーさんが、こんな風になってしまったんだ?」

「こんな風に?」

「今見ていたのは、きっと邪悪な幻なんだ。消さなくちゃならない幻なんだ!あなたの身を・・・守るために・・・。」

「おかしな話しだな。わたしの身を守るために、わたしを殺すのか?」

「娘さんを探すというからついてきたんだ。神様同然のあなたが、お金の為だなんて、ひどいじゃないか。」

「わたしはお金のために都に出てきた。では、お前はなんのためにわたしを殺すんだ?目に見えないもののためか。それなら、結局、見えると言った者の勝ちだ。」

 プワスキにはレプゴーの言っていることがよく理解できなかった。しかし次の言葉には強く反応した。

「それからプワスキ。自分の目的を善であるかのように考えてはいけないよ。お前はわたしを助けるために村を出たんじゃない。あの家族にうんざりして、村を離れる理由が欲しかっただけだろ。」

「違う!俺は、純粋にレプゴーさんを助けたかった。あなたを助けるためについてきたんだ!あなたを・・助けるために・・・。」

「助ける?」

 レプゴーの最後の笑顔だった。

「最後の間違いは、間違いがないのに、あるって言ったことか。わたしの最後の言葉を誰かに伝えてもらいたいが、あいにく妻もいないし・・・娘も・・・。」

 レプゴーはアイヒロットが立ち上がり自分の方へ歩いてくる姿を見た。けれど目の前がとにかく明るくなって誰の姿も見分けられない。そうかこれが幻想なのか。

「明るいな。」

 そうしてレプゴーは息を引き取り、プワスキの手からはナイフが落ちた。ファーデンにとっては予想外のことが続いたが、理にかなった考え方をするしかない。

 大公を暗殺した男はその場で殺害された。英雄がもう一人いたことにすれば良い。例えば、レプゴーは単独での大公暗殺に失敗しファーデンに成敗された。その後別の犯人が・・・。

 ファーデンは必死に考えを巡らせたがもう高揚が全身に漲ることもあの多幸感を味わうこともなくただ思考が揺れ動くだけだった。なぜなら、二、三十人の女たちの問題が異常なまでに彼の頭脳を揺さぶっていたからだ。皆に見えるものが自分に見えない理由はなんだ。

「いつ誰が死ぬかは予想がつかないと言ったのは誰だっけ?」

 大公の声に驚きファーデンはよろめいた。

「ルシーに近寄るな!」

 死にかけているとは思えないはっきりした声で大公が言った。ファーデンは悟った。よく見ると大公の腹部の傷になにかが巻かれ、手当てがされているようだった。女性もののスカーフかなにか。先程見た時はなかったものだ。

「ファーデン。お前には見えないのだ。そのように作ってあるのだ。」

「作ってある?ははーん。やはり、この女性たちもロボットなのですな。」

「そうだ。」

「そして私には見えないように作ってあると?それなら簡単じゃないですか。このようなロボットは全て廃棄してしまえば良い!」

「そうではない!お前をそのように作ってあるのだ。」

 大公は傷を庇いつつ立ち上がりため息をついた。


 数日間、城の一室に監禁されていたプワスキは不意に大公に呼び出された。謁見の間、あの忌まわしい出来事のあった場所だ。

 プワスキはあの日、先回りした都の入り口でレプゴーとアイヒロットを見つけると、後をつけた。レプゴーがそのまま生き別れの娘と再会を果たすならこれ以上の大団円はないと思っていた。しかし彼らはなぜか城に向かった。

 なんなく城に迎え入れられた彼らを見て、不信感が呼び戻されたプワスキは、なんとか隙を見て城に入り込み、謁見の間にたどり着いた。一部始終ではないが、室内のやり取りを盗み聞きしてなにか不穏な事態が起こっていると直感した。そして幻想が打ち砕かれたのを悟った時、彼の手には父の形見のナイフが握られていた。

 そして今、また同じ場所に立っている。あそこにあった血だまりが綺麗に清掃され、謁見の間はなにごともなかったかのように高窓から差し込む光に溢れていた。

 自分はレプゴーを殺した。大公の城で、そして大公の目の前で。これから処断されると思うと身が震える思いがしたが、不思議と故郷の家族のことを思い出すことはなかった。

「わたしは補佐官を、重く用い過ぎたのだと思う。だからなにか誤解をしていたらしい。」

 大公はすでに傷の経過が良いのか、堂々と王座に座っていた。プワスキは裏返りそうな声で短く返答をした。

「実はな、この家でわたしのために働くロボットは、お互いに見えないように作られているのだ。そうであったな、博士。」

 ふと見ると部屋の隅の暗がりに一人の男が立っていた。

「はい。しかし見えないというのとは少し違うのです。なにも彼らは透明人間、いや透明ロボットではないのですから。認識に制限が加えてあるのです。見えていても認識できないということですな。例えばファーデンにはルシーは見えているのです。ルシーが喋れば音も聞こえているし、動けば風も感じます。ただ存在するということが認識できないので、いないと判断するのです。ルシーがどんな物を持っていても、どんな服を着ていても、それがルシーに属している限りファーデンには認識できない。が、ルシーがその物をその辺に置けば、それはルシーから離れたものなので認識できるというわけです。」

「なんだか難しいが、要するに連帯意識を持たないように、だったな?博士。」

「そのようなことはあり得ないとは思いますが、念のため。」

 博士は笑った。

「なのに、この愛人ロボットたちの存在を、ファーデンの前で口にしたのがよくなかったな。入るなと言ったあの部屋にズカズカ入ってくるあいつも悪いのだ。」

「彼のようなドッペルゲンガー型ロボットは、二つの人格を持ち互いに見張りあうようにできているのですが、このように増長するとは。」

 博士は見るからに嬉しそうに答えた。

「博士。それにしても、ロボットたちはわたしに危害を加えないようにプログラムされているはずだろ?わたしは刺されたぞ。」

「だから死なずに済んだのですよ。正直言ってかすり傷でしたよ。プログラムが刃先を逸らせたのです。本人はわざとそうしたと思っているでしょうが。」

 なぜ、自分が呼ばれたのかプワスキには分からなかった。目の前では大公と博士と呼ばれる人物がよく分からない話をしている。大公もまた本気で怒っているという風でもなかった。

「しかし、刺されては痛いではないか!もう少しでロボットの大公をロボットが補佐する国になっていたかもしれんのだぞ!」

 皮肉なことにそれこそファーデンが自分を人間だと思い込んでいる時に考えていたことだった。ロボットであるファーデンが、ロボットであるアイヒロットを操って国政を敷けば、どうなっていただろうか。

「それはそれで・・・。」

 二人は破顔して笑い、大公は刺された時のかすり傷が少し痛むという風に腹部をさすってみせた。

「大公。あれがいけなかったのかもしれませんぞ。ほら、補佐官を新しいロボットの対面実験に立ち会わせたことがありましたでしょ。スラをロボットと立ち合わせる実験です。」

「なるほど。普通のロボット、自分を人間だと思っているロボット。自分を人間だと思っているロボットがいるのを目の当たりにしてもなお、自分を人間だと信じているロボット。ロボット大集合というわけだ。いろいろいるが、みんな、自分に見えない物はないと思っているのだろうな。」

「煎じ詰めれば、自分に見えない物は他人の妄想なのですよ。」

 プワスキは身がこわばるのを感じた。自分に見えない物は他人の妄想。見えると言った者の勝ちとレプゴーさんは言っていた。自分にはなにが見えていて、なにが見えていなかったのだろう。

「プワスキさん。あなたは国境での戦争を止めるためにここに来たのだな?」

 不意に大公がプワスキに声をかけてきた。死刑だろうか。絞首刑だろうか。首を刎ねられるのだろうか。以前どこかで聞いたことがあるが、車裂きのような殺され方は嫌だ。

「あ!ええ。ええ。そうです。」

「では聞くが、あなたは、エスターライヒの馬鹿ルドルフをどう思う?」

「よくは知りません。」

「卑怯で、非情で、悪逆非道な男なのです。とにかくいやな奴なのだ。神の正義のなんたるかを世界に示すためにも、ここで我が国が彼に屈服してはならないとわたしは強く思うのだ。そして、この戦いが終われば正義と平和に満ちた新しい時代が始まる。プワスキさん。」

「はい。」

「義勇軍に入るといい。軍曹の位を用意する。そして、あなたは、金や妥協ではなく正義と愛で自分の愛する者を助けるのだ。神はそういう者のお味方なのだから。」

 プワスキは死刑にはされなかった。そして軍曹になった。自分の身になにが起こっているのだろう。口だけが動き言葉が出ない。成り行きを理解できていないプワスキの表情に大公が説明を加えた。

「あの男はあろうことか我が父の醜聞を持ち出し、金目当てにこのわたしを脅迫しようとした。そんな男が逃走するのをあなたは止め、そして成敗してくれた。英雄と言っても言い過ぎではない。心から感謝している。」

 ああ、そういうことか。物の見方なのだ、大公から見ればそう見えるのだ。

「光栄です。しかし、わたしが戦争を止めようとしていることをなぜ・・・。」

 大公はここで満面の笑みを浮かべた。

「聞いている。ファーデン!」

「大公。今は・・・」

 博士が笑いかける。

「おお、そうであった。ネイダフ!」

「お呼びですか?」

 ネイダフが冷たい表情で足音も立てずに現れた。ファーデンとそっくりな、と形容すると博士に笑われることだろう。そっくり、ではなく同じ「物」なのだから。

「そろそろ感動のフィナーレと行こうではないか。」

 ネイダフは退場し、すぐに三人の女性を引き連れて戻ってきた。彼女たちがプワスキが戦争を止めるために都に来たと証言したことは明らかだった。

 ペルネル夫人の息子を呼ぶ絶叫を聞いた時、プワスキはそれを確信した。ペルネル夫人に抱きしめられたプワスキは居心地の悪さしか感じなかった。彼は自分がこの家族のことをほとんど忘れていたことに気がついていた。旅に出てから良い意味でも悪い意味でもレプゴーのことしか頭になかったのだ。いや、旅に出る前からなのかもしれない。

 感動の対面に大粒の涙を流す母ペルネル、その少し後ろで冷ややかな顔をしている妻エルミル、その隣に我が子ながら得体の知れないマリアヌがいる。この家族は一体なんなのだろう。なぜここにいるのだろう。

「聞いてない?国境の村が火の海になって、命からがら逃げてきたのよ。もう何度駄目と思ったことか。」

 疑問に思っていた答えが聞けてもプワスキはどこか上の空だった。

「レプゴーさんの言い付けを守ってなんとか助かったのよ。」

 プワスキの口が小さくレプゴーさん、と動いた。

「レプゴーさん、お亡くなりになったんだってね。お礼を言わなきゃならなかったのに。レプゴーさんに言われたんだよ。危急の事態にはお金を最大限に使えって、神や正義に頼っても意味がないって。一瞬びっくりしたけど、その通りだったよ。なあエルミル。」

「ある人がボディガードを引き受けてくれたのよ。もちろんお金のためよ。目に見える物で動いている連中の方がましってあの人が言っていたから。」

 エルミルはそう説明したが、プワスキの顔を正面から見ようとはしなかった。

「それにしても、レプゴーさん。善い人ほど早く神に召されてしまうんだね。お前がついていながら、この馬鹿たれが!なんのためのナイフだい!」

 自分がレプゴーを殺したことを誰も知らないのか。レプゴーがペテン師だったことも。どちらもなかったことにしたいとプワスキは本気で思っていた。

 大公側も脅迫の事実は伏せたいだろうから、今後もそのことは表沙汰にしないつもりなのかも知れない。後でもう一度頼んで家族には内密にしてもらおう。自分はレプゴーさんを守った、レプゴーさんの中のレプゴーさんではないものから。マリアヌが彼に近づいてきて耳打ちしたのはその時だった。

「いろいろなことが無駄になってしまった。わたしの中でレプゴーさんが言っているわ。残念だって。」

 エルミルがプワスキの後ろに回り込んだのもその時だった。

「あなた。レプゴーさんを殺したんでしょ?この子が言うの。レプゴーさんの声が聞こえるって。」

 マリアヌが囁いた。

「プワスキ。自分の目的を善であるかのように考えてはいけないよ。お前はわたしを助けるために村を出たんじゃない。あの家族にうんざりして、村を離れる理由が欲しかっただけだ。」

「やめろ!なんで知ってるんだ?」

「食べたからよ。」

 エルミルが冷たく言った。

「レプゴーさんの体の一部を。」

「一部?」

 プワスキの慄きにエルミルは少し時間をおいて答えた。

「髪の毛・・・スープの中の。」

 その時、扉が開きプワスキの知っている顔の少女が入ってきた。

「皆様。冷たいお飲み物をご用意しました。」

 アイヒロットだ。プワスキは家族を振り払ってアイヒロットに駆け寄った。彼女だけが全てを知っている。牢獄での出来事、自分の疑い、レプゴーさんの真意。

「アイヒロット!俺、なにをしたんだろう?自分でも良く分からない。アイヒロット、レプゴーさんは、一体何物だったんだ?アイヒロット?」

 アイヒロットは不思議そうな顔でプワスキを観察した。

「アイヒロットって誰のことです?レプゴーさんって?」

「アイヒロット・・・。」

 プワスキはその場に膝をついた。全ての事象を飲みこめるほどプワスキは明晰ではなかったが、なんとなく自分が世界から切り離されたような感覚に囚われた。

「さて、感動の対面はこれくらいで良いかな。スラ!」

「はい!大公様。」

 プワスキの目の前にいるよく知った顔の少女は元気に答えた、まるで人間の少女のように。

「スラ!わたしは良いことを思い付いたぞ。皆をわたしの温室へ招待しよう。シマシマカタツムリが孵化したのだ。」

「それは、良いお考えです。」

「さあ、皆さん。素晴らしいものをお見せしましょう。わたしが丹念に世話をして、ついに孵化したシマシマカタツムリ。ネイダフ。スラと一緒に行って用意してくれ、人数分のナイフとフォークを。孵化したてが一番美味なのだ。」

「かしこまりました。」

 ネイダフが厳かに返事をし、一同が退出していく中、プワスキの心は蠢いていた。誰もいなくなった謁見の間で彼は独り光に包まれていた。この世が明るい牢獄に思えたその時、一陣の「風」が不意に吹き込んできた。プワスキはふと思った。

「レプゴーさん。どうして、うちのスープにあなたの髪の毛が入っていたんだい?」



エピローグ


 後世、この時代を扱った歴史書には、次のような記述が見られる。プワスキは、シュピーレン大公シュピーゲル麾下の将軍として、エスターライヒとの50年に及ぶ戦役に参加し、ウルムで戦没。死後、フライヘルの爵位を受けた。彼の母、妻、娘の消息は歴史には語られていない。

 シュピーレン大公シュピーゲルは、その後も戦争を続けたが、その柔軟性に欠ける国策に、現在の歴史家は概ね批判的である。結局彼は侍従に暗殺され、シュピーレン家最後の王となった。シュピーレン大公領は取り潰されエスターライヒに与えられた。

 余談になるが、彼はその生涯三度、暗殺者の魔の手に遭遇している。一説に拠ると、いずれも宮廷に仕えるロボットによるものであるという。もし想像の翼を広げることが許されるのならば、大公家に多くのロボットを供給していた科学者ヘルマン・ベーゼに大公への明確な害意があったという仮説も考えうる。

 だが今、この説を是とする歴史家は存在しない。なぜなら、ヘルマン・ベーゼとはこの第四帝国の現皇帝の名に他ならないからである。

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