シェイクダウン - Part 3
「素晴らしいわ」
「ええ、まったく大したものですね」
自分が座っていた機材――コクピットと言うのだったか――を離れ、再び私の元へとやってきた泉さんが、感心のため息をついた。南山さんもそれに同意してくれる。
「恐縮です……しかし、やはりゲームでは全然ダメですね」
「ご謙遜を……」
泉さんはそう言ってくれるが、私は謙遜をしているつもりはない。
以前やったことのあるものと比べて再現度がずっと上だったとはいえ、違和感はずっとついて回っていた。実車であればもっと速く走れたという自信はある。
「私の走り、いかがでしたか?」
泉さんに続けてそう聞かれて、どう答えたものかと私はしばし戸惑う。
どうでしたか、と聞かれても、どのように評価すればいいのかがわからない。
泉さんはこれを現実の車の動きにそっくりだと考えているらしいが、私としては少々異を唱えたい。
つまり私は、このレースシムとやらを、そうは言っても単なるゲームだと今になっても思っている。
故にプロドライバーとしてのアドバイスを求められても困ってしまう。
できることと言えば、このレースシムというゲームをプレイしたプレイヤーとしての立場からの評価だ。
ひとつ。私はこのゲームに不慣れである。
ひとつ。泉さんはそんな私よりもタイムが遅かった。
以上の点から、泉さんへかけるべき言葉は明白だ。
「……とってもお上手だと思いました!」
私の生活がかかっているのだ。やれと言われれば靴でも舐めるつもりではある。歯の浮くようなお世辞を言うくらい、なんでもない。
「泉さんはとても速いですね。私のコーチなんて必要ないんじゃないかと思うぐらい」
「そんなことありません、まだまだです。現に本気を出されてしまうとついて行けませんでしたもの。なのでこれからしっかりと教えて頂きたいのですが……」
「しっかりと……ですか。それではまず、走行ラインについて……」
「お嬢様、お話中失礼致します。そろそろヴィオラのお稽古のお時間でございます」
そうは言ってもレーシングドライバーとしてそれっぽいところは見せておこうと、さっそく改善点――あくまで実車での走りとして見た場合の改善点であって、それが実際にレースシムにおける改善点となるかについては知らない――について話始めた私を南山さんが遮った。
「あら、もうそんな時間……」
泉さんは左手首を撫でるようにしてグローブをめくり腕時計を見た。
「ごめんなさい、富士沢様。私、もう行かないと。レースシムは私がいなくてもご自由にプレイされて構いません。南山、あとはお願いね」
「かしこまりました」
そう言うと泉さんはグローブとシューズを脱ぎ部屋を慌ただしく部屋を出ていった。それらを拾い上げる南山さんに、私はふと気になったことを聞いてみた。
「ヴィオラってなんでしたっけ?」
「ヴァイオリンよりやや大きめの弦楽器でございます」
「ああ……」
相槌は打ってみたものの、楽器に詳しくない私にはそれらが大きさ以外にどこがどう違うのかということを知らない。
「泉さんは音楽もされるんですね」
「ええ。ヴィオラ以外にも楽器のお稽古をしていらっしゃいます」
「へえ……。他にはどんなものを?」
「一番お上手なのは、三味線ですね」
「……意外と和風なんですね」
南山さんは何も言わず、何だか意味ありげな表情を浮かべただけだった。なんなんだ、一体?
少し訝しむ私に南山さんが続ける。
「このままレースシムを続けられますか?」
「いえ、結構です。泉さんもいなくなっちゃいましたし」
「さようでございますか」
久しぶりに触れたレースシムは、記憶していた経験ほどひどいものではなかったが、泉さんがいないところでわざわざやるほどのものでもないと思える。
イメージトレーニングぐらいにはなるかもしれないが。
「この後、私は何をすれば?」
「契約の締結、お嬢様へのご挨拶も終わった今、次回のお嬢様へのレッスンまでに取り立てて何かをやって頂く必要はございません。自由時間でございます。富士沢様のお部屋にご案内いたしましょうか?」
「お願いします」
「ここを片付けてから参りますので、部屋の外でお待ちください」
片付けの手伝いを申し出るも「すぐ済みますので」と遠慮され、仕方なく部屋の外に出ると確かにそれほどは待たされなかった。
南山さんに案内された部屋は二階の角部屋だった。私の住んでいるワンルームのアパートよりずっと広い。ベッドやテーブルや椅子といった最低限の家具が置かれている室内はホテルの一室を思わせる。
「こちらのお部屋を自由に使って頂いて構いません。身の回りのお品はいずれお持ち込みください」
住み込みで働くという契約だったので、引っ越しの準備についても考えなければいけないのか、と私は気付いた。しばらくはレッスンもあり、引っ越しもありで忙しくなりそうだ。
「夕食の準備ができましたらこちらまでお持ち致しますので、それまでおくつろぎください」
「ルームサービスですか……なんだかホテルみたいですね」
「どうぞごゆっくり。私はこれからお嬢様をヴィオラ教室へとお送りして参ります。それでは」
南山さんが一礼して部屋を出ていく。一人になった私は用意されたベッドに寝転がった。皴ひとつなくベッドメイクされていて、これもまたホテルを思わせる。
「ふう……」
激動の一日だった。いや、この一連の流れは昨日のクラッシュから始まったのだから、激動の二日と言うべきか。
一歩間違えば命を落としかねない大事故に遭い、仕事が無くなり借金を背負う事になり、かと思えばその日のうちに新しい仕事と借金を返すあてが見つかる。
レーシングドライバーという職業がおよそ安定とは程遠いものだとは理解しているが、それにしたってここまで右往左往するキャリアも珍しいだろう。
私の窮地を救ってくれた紅家のお嬢様、泉さん。
モータースポーツ参戦を目指すも父親の反対によって果たせず、代わりにレースシムとやらに熱中している女の子。
そんな状況に置かれた彼女にとって、私は何ができるだろうか。あるいは、私にとってその状況の彼女はどう『使える』だろうか。
考えることは多い。
だがひとまず、ファーストコンタクトとしては悪くなかったのではないかと思う。
悪い人ではないというのはわかったし、向こうにとっても私は嫌な奴とは思われていない……はず。
とにもかくにも、まずは少しづつやって行かなければ。
そう決意を固めたところで、ふいにあくびが口から出た。それを合図にしたように瞼が急に重くなってくる。
そういえば、ヴィオラや三味線の演奏って聞いたことないな。
いつか、泉さんの演奏を聞かせてもらえることもあるのだろうか。
そんなことを思いながら私は夕食を運んできてくれた南山さんのノックが鳴るまでまどろんでいた。