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シェイクダウン - Part 1

 南山さんがドアの前で立ち止まり、二回軽くノックする。……返事はない。



「おそらく夢中でいらっしゃるのでしょう」



 そう言うと南山さんはドアを開けて部屋に入っていった。勝手に入っていいのかな、とややびくびくしながら私も後に続く。


 部屋の様子は異質の一言に尽きる。

 学校の教室ほどの広さの部屋に、家具はほとんど無かった。

 床にはいかにも高級そうな絨毯が敷かれており、その上に妙な物体が数個置かれている。


 それは金属製のフレームにレーシングカー用のバケットシートやステアリングホイールやペダルユニットが備え付けられることで構成されている。

 ステアリングホイールの前方、本物の車ならばフロントガラスがあるべきところにはモニターがその代わりに鎮座している。

 正面に一枚、その左右に一枚ずつ、合計三枚でフロントガラスの曲面を再現しているらしい。



「これは、なんと言うか……」

「なんでしょうか?」

「絨毯がダメにならないかとか心配になっちゃいますね」

「さようでございますか」



 我ながら庶民的な感想を漏らしてしまい、南山さんに苦笑を返されてしまう。

 これらはどれも、私が一人で持ち上げられそうな重さではない。

 絨毯にはさぞくっきりと跡がついていることだろう……。



「富士沢様、これがお嬢様が現在熱心に取り組んでいらっしゃる、『レーシングシミュレーター』でございます。『レースシム』と略して呼ばれる方もいらっしゃいますね」

「レースシム……」



 全く聞いたことがない、というわけではない。


 大さっぱに言えば、現実の車の挙動を可能な限り再現したレースゲームということぐらいは私も知っている。

 レーシングドライバー仲間にもこうしたものを趣味としてやっていた人もいた。私はいまひとつ興味を持てなかったが。


 そんな絨毯の上に並ぶシミュレーターのひとつに髪の長い少女が収まっている。

 ヘッドフォンをつけてステアリング型コントローラーと格闘している彼女は、まだ私たち二人に気付く様子が無い。

 南山さんが彼女に近づき肩をとんとん、と優しく叩いて合図した。



「お嬢様、富士沢様がいらっしゃいました」



 ヘッドフォンを取って画面から振り向いた少女が、こちらを見る。

 私と目が合うと、その顔はばっと花が咲いたように笑顔になった。

 手に持っていたヘッドフォンのジャックを抜き、そっと南山さんに渡してシートからやおら立ち上がり、私のところまでやってきてゆったりとしてお辞儀をしてくれた。



「初めまして。紅泉くれないいずみと申します」



 年齢は私よりもいくらか若く見えて、おそらく十代なかば。

 Tシャツにハーフパンツというラフな格好は、この季節にしては寒くないかと心配にもなるが、シミュレーターをプレイすることで汗をかくのなら丁度いいのかもしれない。

 長く艶やかな黒髪と父親似の整った目鼻立ちはそっけない部屋着をまとっていてもなお魅力的だ。



「お会いすることをずっと楽しみにしていました」

「は、はあ、それはどうも……光栄です……えへへ」



 同性であっても見とれてしまうそんな美少女が、満面の笑みでそんなことを言ってくれるのだ。

 これで平静を保てる方がどうかしている。

 私の笑顔は泉さんと対照的にきっとだらしなくなっている。



「あの、今回紅さん……泉さんのお父様に家庭教師として雇って頂きまして。それで私がお教えするものを見せて頂けるとのことでこちらまでやってきたんですけど……」

「まあ……と言うことは、父は私の願いを、富士沢様は父の願いを聞き入れてくれたってことですね!」

「そうなりますね」

「嬉しい……」



 そう言って泉さんは手を胸の前で組み、噛みしめるように俯いた。

 この人は容姿もさることながら、仕草がかわいらしい。 

 もし私がやったとしても不自然さしか感じられないだろうが、泉さんがやるとしっくりくるのはやはり育ちの差なのだろうか。

 頭の中の八割がレースのことを占めているようなドライバーたちに囲まれる環境ではとうてい身に付きそうにない所作だ。



「……私、速くなりたいんです」

「モータースポーツに興味があるのですか?」

「ええ、なにしろ父がレーシングチームのオーナーですから、小さい頃から憧れは持っておりました。いずれはモータースポーツの世界に足を踏み入れたいと思っています。……しかし、父がそれを許してくれなくて」



 一千万円の取り立てを実質諦めてまで私を泉さんのために雇おうとしている溺愛ぶりを見れば、そうした紅さんの態度も容易に想像できることではある。自分の子供が事故を起こして平静ではいられない、という話を聞いたのもついさっきのことだ。



「そこで私は考えました。いつか自分の力でモータースポーツを始められるようになるまでに、レースシムで練習をしておこうと」

「なるほど……」



 それが実際に練習になるかはさておいて、そうした心がけは見上げたものだと思う。

 レーシングドライバーが最低限備えていなければならない資質のひとつ――どんな分野でも同じだろうが――たゆまぬ向上心をこの人は持ち合わせている。

 率直に言って好感が持てる。



「そうそう、家庭教師としての授業の内容についてお知りになりたいのでしたね。私が教えて頂きたいのは、こちらです」



 泉さんが手で示した先には、シミュレーターの機材がある。この部屋に連れられてこれを見た時点で予想はできていたの驚くことはなかったが。



「富士沢様にはレースシムのレッスンをお願いしたく存じます」

「お安い御用です……と言いたいところですが……」



 私は言いよどむ。『三次方程式について教えてほしい』などと言われるよりかはマシであることは間違いないが、それにしたってシミュレーターを触った経験は私にはほとんど無かった。

 さらに言えば、数少ないその経験は全てが悲惨なもので、本物の車を運転したことがないような小さな子供にボコボコにのされた思い出しかない。

 そんな理由もあって、私はあまりシミュレーターにいい印象を持てていない。……その子に勝てなかったことの逆恨みではない、断じて。



「私はゲームは苦手でして……」

「レースシムを体験されたことがおありなのですか?」

「ええ、以前に何度か……。レースがあった日のサーキットにイベントブースとして出ていたものでした。プロのドライバーとして言わせてもらえば、やはり本物とは違いましたね」

「そうですか……。レースシムはプロのレーシングドライバーも練習に利用していると耳にしたのですが……」

「やっている人は私の知り合いのドライバーにもいますよ。練習になるかどうかは……人によるかもしれません」

「富士沢様のお気には召さなかったのですね……それは残念です。しかし、いくらかは現実の車と似たようなところもあったはず。そういった点も踏まえて、プロの目からご教示を頂ければと思っています」

「ははあ……なるほど」



 私は理解した。

 これはきっと、お金持ちのお嬢様の気まぐれだ。

 シミュレーターの練習にプロのドライバーを使うという、一見無駄とも思える贅沢をやりたいだけなのだ。


 効果の程はさておいて、それができるだけのお金を持っているから、やる。お金持ちのボンボンとはえてしてそんなものではないだろうか。

 そういう人種は、自らのステータスとはいかに浪費をするかで決まると考えている節がある……というのは流石に偏見か。

 この家の大きさを見る限りお父上は堅実な様子だったが、その気質は遺伝しなかったのか、はたまたそのお父上の溺愛のせいか、それはわからない。


 とにかく、私はそれで納得した。

 よろしい。気まぐれに付き合うだけで莫大な借金が実質的に無くなるのなら、喜んでやろうじゃないか。

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