Faster than me
鈴子様はシケインのひとつ目をしっかりと閉め、続く二つ目を私の前で立ち上がった。ホームストレートで右に寄り、やはりインを閉める様子だ。
私は一コーナー直前でラインをアウトに振る。進路変更を既にしている鈴子様はそれには反応しないが、もしできたとしても動かないだろう。
並びかけるには至らずやはり一コーナー、二コーナーともに先行される。
「ダメか……」
外から抜くなどということはそれぞれの車によほどの速度差が無ければ不可能だ。全員が同じ車を使うこのレースでは、そのよほどの速度差は前走車がスロー走行でもしていない限り生じない。追い抜きにかかわる攻防でイン側のラインが絶対的に有利と言われる所以だ。
続くS字コーナーは左右どちらかに常に横Gがかかるコーナーで、抜きに行けるようなコーナーではない。
せめてもの揺さぶりとして鈴子様とラインをずらし、抜きにかかるようふりをしてみるものの、特に効果があるようには思えなかった。
すぐ後のダンロップコーナーも抜くには適さずおとなしくしているしかない。しかし、その次のデグナーコーナーではもう一度オーバーテイクを試みることにする。
二つのコーナーで構成されるデグナーコーナーの二つ目。ひとつ目に比べて曲がりがきつく速度が落ちるのでオーバーテイクのチャンスがある。
ただしそれはあくまでひとつ目に比べれば、の話であって、普通はこんなところで抜きにかかることなど無い。あまりにも無謀な試みだ。
だがしかし、と私は思う。
誰もがそう考えているからこそ、逆にチャンスと言えるのではないか。鈴子様も私がこんなところで抜きに来るとは考えず、ブロックラインも取ってこないだろう。
行ける。
そう確信した私はオーバーテイクの具体的な組み立てを考え始める。
ダンロップコーナーを全開で立ち上がると、鈴子様との距離がわずかに近づいた。
こちらは全開だったが、鈴子様は途中で少しアクセルを戻しでもしたらしい。ひょっとしてタイヤが厳しいのか、と一瞬考えたがすぐにそれを頭から押し出し集中する。
デグナーのひとつ目、普段はだいたい五十メートルの距離看板を目安にブレーキングを開始するが、今回はそれよりさらに一拍置いてのブレーキペダルを蹴飛ばす。
同時にステアリングを右に切り、イン側の縁石に右フロントタイヤをこすりつけるようにして曲がる。
すぐ前を行く鈴子様が二つ目のコーナーに備えて左に寄るのを見て私は自分の作戦がうまくいきつつあることを理解した。
「富士沢さんが、インをキープ……!」
「おいおい……!」
南山さんと紅さんの言葉はもはや絶叫だった。
それを聞きながらフルブレーキング。すぐ左で今まさにターンインを開始しようとしていた鈴子様の車を、追い越した。
「まさかのデグナーでのオーバーテイク! 富士沢さんが前に出……いや……」
「クロスラインだ!」
鈴子様が曲がり始める前にブレーキングし、追い越せたところまではよかったが、流石にここでの追い抜きは無理があった。
あまりに短い距離で車を止めようとした結果、スピードが完全に落ち切らず曲がることができなかった。
それを悟った瞬間ステアリングを切ろうとするのをやめてひたすらに速度を落ちるのを待ったが、そうして外側に向かっていく私を横目に鈴子様がゆうゆうと走り抜けて行く。
私も体勢を立て直しすぐにそれを追いかける。その後ろに泉さんが続く。順位は結局何も変わらない。
「あれは、いくらなんでも無茶だろう……」
「富士沢さんにも焦りがあるのでしょうか……ヘアピンへの進入ですが……あー、インを絶対に明け渡さないつもりだ常陸大友貞部氏須帝難四家院様!」
続くヘアピンでは、鈴子様は早いうちから完全にイン側を閉めてきた。デグナーでの突っ込みで警戒心を煽ってしまったか。
アウト側の私は大回りで少しでもスピードを稼ぐも、向きを完全に変えて加速体勢に入る前に、鈴子様は既に加速を始めつつあった。
その瞬間、前を行く鈴子様の車がほんのわずかにリアタイヤを滑らせた。
致命的なミスとは言えないほどの小さなスライドで、鈴子様はすぐに立て直し再び加速し始める。一方でスライドさせず上手く立ち上がった私との距離が一時的に詰まる。
これが次のスプーンカーブまでに前に出られるような速度差にはならないことを私は理解したが、これは良い知らせでもあった。
ダンロップコーナーの立ち上がりでも疑っていたことが確信に変わる。
鈴子様のリアタイヤがタレ始めている。
レーシングスピードで走っていればドライバーが誰であろうと、どんな車で装着されていようとタイヤは等しく性能低下していくものだが、その性能低下のスピードはドライバーの技量や車のつくりによって差が生じてくるものだ。
全員同じF3という車を使うこのレースでは、ドライバーのタイヤの使い方の巧拙がじかに現れてくる。
鈴子様は速い。しかしタイヤを持たせる走り方についてはまだ一枚も二枚も私が上手だということなのだろう。鈴子様がタイヤを酷使しなければ出せないタイムも、私はタイヤを労わりながら出すことができる。プロとアマチュアの明確な差はそこにある。
未だしっかりとグリップするリアタイヤに最大限のパワーを与えながら、私は突破口を見出した。
つけ入る隙があるとすればそこしかない。
「常陸大友貞部氏須帝難四家院様はリアタイヤが厳しそうですね。小さなスライドがありましたが」
「確かにそうだが、もうどうにもならないってほどじゃなさそうだ。上手くやれば三百合ちゃんを抑えてフィニッシュすることも不可能じゃないだろう」
「そんなになっても富士沢さんを抑えられるとは、それだけ接近戦によるダウンフォース低下の影響が大きいということでしょうか?」
「それもあるし、常陸大友貞部氏須帝難四家院様のドライビングはプロ顔負けというのもある」
「非常に見ごたえのある攻防となりそうです!」
スプーンカーブでも変わらずインを死守する鈴子様に対し、私は外から抜きにかかる。
これで焦ってスピンでもしてくれれば儲けもの、あるいは早すぎるタイミングでアクセルを開けてまたスライドをさせてしまうことを期待してのことだったが、今度の鈴子様はいたって冷静にコーナーを処理した。
私は前に出られない。
「くそ……」
スプーンカーブの立ち上がりは互角。つまり、鈴子様と私の加速も互角だ。
変わらず前を行く鈴子様はまたインにラインを取り私を警戒することをやめない。130Rまでに横に並びそのまま勝負に持ち込みたかったがそれは失敗した。
いよいよ焦りが強くなってくる。
レースは残り一周と少し。だというのに私はまだ鈴子様の後ろに縛り付けられている。
これ以上鈴子様の後ろでもたもたしていれば、それだけ泉さんが鈴子様に仕掛けるチャンスが少なくなる。
ただでさえ狭くて抜きどころのない鈴鹿だというのに、その機会すら奪ってしまうようでは泉さんが追い抜くなど夢のまた夢だ。
最低でもこの周のうちに鈴子様を抜かなければ、泉さんが鈴子様を抜くチャンスなど一体何回あるだろうか。
いや、そもそもこの周で私が鈴子様を抜いたとして、レースが終わるまでに泉さんが鈴子様を本当に抜けるのか……?
このレースでは泉さんに勝ってもらわなければならない。
泉さんの「富士沢の実力を証明する」という演説を抜きにしてもそれは変わらない。私はそのために雇われたのだ。
泉さんの走りが富士沢の走りだろうとそうでなかろうと、泉さんが負けた以上は私の責任だ。
滲み出す不信についてはそれ以上考えないように努めて、私は気合を入れ直す。
次のシケインでもう一度やってやる……。
そう考えながら130Rの進入に備えアウト側にラインを取ったその瞬間、何かが画面上に動いたのを私は見た。
「なっ……」
それはミラーに映った泉さんだった。私の後ろをついてきていた泉さんがラインを変え、イン側へ飛び出してきた。
まだ私が鈴子様を抜いていないのに、私から抜くつもりなのか?
突然のことに言葉にならない呻きを上げながらも、私のドライバーの本能が接触を回避するべく、今まさにそのタイミングを迎えようとしているコーナリングを一瞬留まらせた。
すると鈴子様は予想に反して飛び込んでくることはなく、おとなしく引き下がった。私が接触を避けるべく作った一瞬の間は、単なるタイムロスと化す。
鈴子様との距離が想定してよりも開いてしまう。そして鈴子様がシケインを閉じたのを私は見た。
何をやっているんだ。
泉さんの行動を私は理解できない。
今の行動がなければ私はもっと鈴子様に近づけてシケインでオーバーテイクを挑めたのに。
十二周目でのオーバーテイクのチャンスはこれで全て潰えてしまった。あとは残る一周で私が鈴子様を抜き、泉さんも抜かなければいけない。
不可能。敗北。
いよいよ現実味を帯びてきたそれらの言葉。
こんなことがあっていいのか?
私を誰だと思っているんだ……。泉さんが信じてくれている『本物』のレーシングドライバー、富士沢三百合だぞ……! それが、こんな不甲斐ないていたらくであっていいのか……!?
シケインの二つ目の立ち上がり、鈴子様がまたリアタイヤを滑らせた。
今度もまたすぐにスライドを抑えて加速し直す鈴子様。私は一瞬追突を恐れてアクセルを緩めかけるもすぐに踏み直し、明らかに勝る加速を手に入れた。
セオリー通りアウト側に寄っていく鈴子様に私も続く。
鈴子様の車にじりじりと近づいていく。おそらく時速二、三キロ程度私の方が速い。たったそれだけでも、この状況下では決定的なアドバンテージになる。
スリップストリームの影響もあり、私の車の速度はますます上がる。
一コーナーでオーバーテイクを仕掛けようと、私が右側へラインを変えたのと、鈴子様が右へ動いたのはほぼ同時だった。
「二台がほぼ同時にインへ動く! これでは富士沢さんはアウト側から行くしかないですが……」
鈴子様も同じ方向へと動くだろうというのは今までの傾向から予想できていた。
イン側から抜くということはできなくなってしまったが、まだ手はある。
現在地はホームストレートの中盤で、ブレーキング開始まではまだ時間がある。そして現在のスピードは私の方が速い。
つまり、ストレートを走っている間に前に出るのだ。
鈴子様にはこれを防御する手立てはない。
順位を守るための進路変更は各コーナー前に一回のみ。鈴子様はたった今その一回を終えた。あとはもう指をくわえて私の車が左を抜けていくのを見守るしかない。
勝負はシケインの立ち上がりで鈴子様がリアをスライドさせたときにもうついていた。
ずいぶんと手こずってしまったが、これでようやく前に出られる。
私はスリップストリームの恩恵を十分に享受し、鈴子様の後ろから動こうとした。
それに待ったをかけたのは、やけに大きく聞こえるエンジン音と、それを上回って大きい南山さんの声だった。
「……外から紅が来るーっ!」
「え……?」
けたたましいエンジン音の正体は、今まさに私を抜き去ろうとする泉さんの車のものだった。
ブロックをする必要は無いが、もししたかったとしても私にはできない。
進路変更は一回のみ。今鈴子様の動きを縛っているルールが、泉さんに対しては私にも適用される。
思わず左を向くと、私の左隣、本当に泉さんはそこにいた。
画面の中でも、現実世界でも私のすぐそばに。
呆気に取られてただその姿を見つめることしかできなかった私に、泉さんは一瞬だけこちらに向き直り、薄い笑みを浮かべながらたった一言呟いた。
「私を誰だと思っているの?」
私はその言葉の意味を考えた。
あなたは紅泉さん。
私の雇い主。私と同じようにモータースポーツとレースシムを愛していて、私と同じようにライバルに打ち勝つことを願っている。
私の走行ログを見て、私の走りを身に着けた人。そして不甲斐ない私に代わって私の速さを示そうとしてくれている人。
流石に私には及ばないけれど、その速さはもはやそこらの人など相手にならないほどで……。
違う。
私はそこで気付いた。
泉さんの速さが私に及ばないなら、泉さんが今ここにいるはずがない。
それを悟ったのと泉さんの車が鈴子様の車と並んだのはほぼ同時だった。
一コーナーへの進入。アウトに泉さんがいて、なおかつタイヤの状態が心もとない鈴子様はいつもよりスピードを落とさざるを得ない。
対して泉さんはいつも通りのスピードで突入していった。アウト側からの進入という悪条件をものともしないほどのスピードで。
「ラストラップの一コーナー、四位紅が、なんとなんと二台抜きで二位にジャンプアップーっ!」
「でかした、泉!」
そのままあっさりと泉さんは鈴子様を抜き去ってしまった。
会場を歓声が埋めつくすが、私はそのときもまだ何が起こっているのかを正確に理解できてはいなかった。
ただ、残り一周でさらなる順位変動など無く、泉さんがこの順位のままチェッカーフラッグを受けるだろうことは、なんとなくわかった。




