リスタート
「また一台抜いた! レース開始直後のスローペースとは打って変わった富士沢さんの目の覚めるような走り! ようやくエンジンがかかってきたか?」
「いいねえ、これこそ本来の三百合ちゃんだよ」
ブレーキを踏む。ペダルに押し当てている左足はつい数分前までとは比べ物にならないほど精緻にコントロールできている。
ステアリングを切る。一秒の間に途方もない回数でパソコンが計算した車の挙動とそれに応じたステアリングホイールへの手応えといった雪崩のような情報をあますことなく受け取れている。
アクセルを踏む。右足がまるでリアタイヤに直結しているかのように路面のグリップを感じ取っている。
それら感覚が流れ込む私の体の中で先ほどの泉さんの宣言がまだ熱を帯びていて、それが私に活力を注ぎ込んでくれている。
その熱を私は以前にも感じたことがある。
泉さんとの二回目のレース。結果的に私のクビをつないだ一戦が終わった後、コクピットに座る私に差し伸べられた泉さんの手から伝わってきた熱だ。
つい先ほどまで私の心に立ち込めていたもやは、いまや完全に吹き飛んでいた。またそれによって、そのもやの正体にも薄々と私は気付き始めていた。
私はこれまで一体何をやっていたんだろう、と思いが出てきて、すぐに消えた。
そんなことを考えるのは後でいい。
今私がやるべきことはたったひとつ、泉さんに追いつくことだった。
泉さんのマイクパフォーマンスから約二分、丁度一周。たった今、二人目のお嬢様を抜き去ったところだった。
あと四人のお嬢様を抜けば泉さんの後ろに出られる。
何としてでもそこまで辿り着き、私は泉さんに伝えなければならないことがある。
『やはり、課題はオーバーテイクでしょうね』
『舞踏会』の開催を明後日に控えた一昨日、私は泉さんにそう言った。
『練習の成果は確実に現れています。単純な速さのみならば既に私に匹敵しているのは間違いありません。しかし言うまでもないことですが、レースではどれだけ相手より速くても前に出られなければ意味がありません』
『そうね』
『ただオーバーテイクとは、とても高度な技術です。私はレースの中でこれが一番難しいと思っているくらいですから。すぐに身に着けられるものでもありませんが……』
『私たちには時間がない』
『そういうことです』
『困ったものね……』
その通り、困ったものだ。そしてその困ったことを、現在に至るまで泉さんは克服できていない。
単独走行ならば、上達することは簡単とは言えないもののそう難しいことでもない。
現に私たちがやっていたように、自分より速い人の走行ログデータと自分の走行ログデータを比較し、自分の走りを速い走りに寄せていけばある程度までは容易にタイムの向上が見込める。
しかしオーバーテイクを含む他車が絡んだ駆け引きとなると、どれだけ実際に修羅場を潜り抜けたが巧拙に直結してくる。泉さんにはその経験が不足している。
一方で泉さんが抜き去るべき鈴子様の実力は、予選で泉さんを上回っていたのだからどう考えても泉さんと同等以上。
これらのことから鑑みるに、今の泉さんが鈴子様を抜くのは難しい。それが現在の私の偽らざる見立てだった。
何も今になってそのことに気が付いたというわけではない。
それでも私は泉さんにはこれまで散々「あなたならできる」という言葉をかけてきた。
もちろんそれには励ましの意味合いもあったが、どちらかと言えば無関心、職務放棄だったのではないかと今にして思う。
もっと何かうまい方法があったのではないか。泉さんに私の速さを授けつつ、オーバーテイクの技術をも向上させるやり方が。
そう問いかける別の自分の声を聞こえないふりでやり過ごしながら私は無責任に泉さんを励まし続け、この『舞踏会』へとやってきたのだった。
「シケインでまた富士沢さんが仕掛けるぞ!」
「130Rの時点で並ばれてたんじゃ、素人ドライバーじゃもう為す術無いな……」
「インを取った富士沢さんがそのまま前に出る! 七位にポジションアップ!」
本来であれば、遅くともこの『舞踏会』が始まった時点で何か手を打つべきだった。付け焼刃とはいえ泉さんにアドバイスのひとつでもするべきだったのだ。
それを私にさせなかったのが、私の目の前に現れた憎き双見くんと、鈴子様の甘言だった。
因縁がある双見くんにやり返せる好機と、「このレースに勝てば実車レースに復帰できる道が開かれるかも」という抗いがたい魅力を放つ言葉。
目下私の抱えるふたつの鬱屈を解消できるかもしれないこの状況は、私に泉さんのことを忘れさせた。
私は自分がレースで勝つことだけを考え、予選で最速タイムを記録してわき目も振らずそこに向かって突き進んでいった。
「ヘアピンで富士沢さんが六位の法龍院様を抜いた! これで四つのポジションアップ!」
「ここってそこまで抜きやすいコーナーじゃないんだけどな……いやあっぱれだ」
それでもやっぱり、私の本心はそれをよしとはしていなかったらしい。
決勝レースが始まって以降突然精彩を欠き始めたのは、後ろに残してきた泉さんがこのままではきっと鈴子様に勝てないという予測がずっと引っかかっていたからに違いない。
「私を勝たせてほしい」と頼んだ泉さんに、「任せてください」と私は応じた。
私に手を差し伸べてくれた泉さんに、泉さんの憧れであったドライバーである私が応じたのだ。それを果たして裏切ってしまっていいのか?
この決勝レーススタートから始まった内省による葛藤がパフォーマンスの低下を招いていたのだろう。
結果として、私は再び双見くんに弾き飛ばされて後方へと追いやられた。
双見くんを叩きのめし新しいスポンサーを見つけるという目論見は潰え、泉さんを勝たせることもできずに私は沈んでいた。
それが、泉さんのあの言葉によって動かされ始めた。
前方にぴたりと横に並ぶ二台の車が見えた。
四位と五位のお嬢様だ。二台で順位争いをしているためか、それぞれのペースはそれほど速くないのが私がすぐに追いつけた理由だ。
現在地はスプーンカーブ。エンジンと同じくフル回転する私の頭はこの場所でこれだけの差ならどこで抜けるかを即座に判断し、そのプランをすぐさま実行に移すよう身体に命令した。
一台で走っても速いラインを見つけるのが難しいスプーンカーブは、ラインの制約が厳しい二台で走ればスピードは大きく落ちる。
お互いに接触はすまいと相手にスペースを――私に言わせてもらえればやや過剰な程――残している二人のお嬢様のスピードは、やはり遅い。
対して横に誰もいない私は自由にラインを取ることができる。私は通常よりほんの少し多めにスピードを落とし早めに旋回を終えてスプーンカーブを立ち上がった。
立ち上がり重視のライン。この次には西ストレートが控えている。
「勅使河原様と二条院様の四番手争いですが……後ろから迫る六位富士沢さんのスピードが伸びる伸びる!」
「これ、130Rまでに追いつくんじゃないのか……?」
「130Rで3ワイドとなれば前代未聞ですが、ここでも魅せてくれるのか富士沢さん!? 前を行く勅使河原様と二条院様はどう対処する!?」
鈴鹿サーキット最長の直線を活かさない手はない。コーナリングのスピードを犠牲に手に入れた加速時間は前を行く二台にぐんぐんと私を近づけてくれる。
相も変わらず横に並んだまま譲らない二台を前にしてはオーバーテイクは容易ではないが、隙を窺っていることを示すように右へ左へと車を振ってみせる。
前を行くお嬢様二人にその揺さぶりが効いたのか、あるいはサイド・バイ・サイド状態でお互いの車が生み出す乱気流によってダウンフォースがうまく発生しなかったためか、発生130Rでの二台はさらに速度を落としすぎている。
もちろん少し離れていただけの私にも乱気流の影響はあったが、それでも二人に比べればずっと速いスピードで130Rを駆け抜ける。
続くシケインではスペースの都合上3ワイドが不可能だが、そこまでに一気に差を詰めればその後での追い抜きにいくらでも繋げられる。
二台のすぐ後ろにくっつくような距離にまで近づいた私はそのまま立ち上がる。
ホームストレートでは四位の勅使河原様がポジションを取るためにイン側、五位の二条院様がアウト側のラインを取るところ、私はその間の中央を選んだ。一コーナーでのブレーキング勝負。
「狭い鈴鹿で3ワイドって、冗談だろう……!?」
「中央の富士沢さんがブレーキングで二台の前に出る!」
紅さんの呻きと南山さんの絶叫、そして観衆のどよめき。
本来の力を取り戻した私を止められる人などいない。
あと少し。
二台を抜いてクリアとなった視界に。泉さんの車が映る。
近くて遠い距離。物理的な距離としてはずっと近くにいた。今も私のすぐ隣でステアリングを握っている。
しかし心はお互いに近づいたり離れたり。泉さんが私を遠ざけて、かと思えばその一方で見放してはいなかったり、私が近付こうとして結果的に遠ざかってしまってもいた。
そんなこんながありながら、私たちはレースを戦って文字通りのお近づきになった。
けれども、また私は知らず知らずのうちに泉さんから離れてしまっていたらしい。
私が泉さんに伝えなければいけないというのはそれだ。
私はあなたを勝たせてみせます。あなたのことを忘れてはいません。私は、私を見捨てることなく慕い続けてくれているあなたと……一緒に勝ちたいんです。
長い回り道の末にようやく出てきた答え。
それを自覚するのと、泉さんに追いついたのはほぼ同時だった。
泉さんは一人でそこにいた。そばに私がいなかったという意味ではなく、鈴子様に引き離されているという意味で。
画面にタイム差を確かめる。約二秒のギャップ。コースの先に、小さく鈴子様の車が見える。
これは泉さんに鈴子様を抜いてもらう前に、もう一仕事必要のようだ。
「遅かったじゃない、富士沢三百合」
「少々……道に迷ってまして」
ミラーに私の姿を確かめたのだろう泉さんがこちらを向いて声をかけてくる。スプーンカーブを立ち上がったところなので、少々おしゃべりをする余裕がある。
フルネームを泉さんに呼ばれるのはこれが初めてかもしれない。
それが、私がレーシングドライバー・富士沢三百合のあるべき姿を完全に取り戻したことを認められたように思える。
そう。私は富士沢三百合。泉さんの憧れである『本物』のレーシングドライバー。
「あそこからここまで来るなんてね……。ご苦労様、あとは特等席で私があの人をやっつけるのを見てくれていれば……」
感慨深げに続けた泉さんの言葉は最後まで聞かず、完全復活した私は130Rに進入する泉さんのインに自らのマシンをねじ込んだ。
「って、危なっ……!」
咄嗟に私のためのスペースを空けた泉さんの横を私は悠々と通り抜けて三位に浮上する。
もちろんその後のシケインでインを閉めてポジションを死守することも忘れない。
「教え子相手でも容赦なし! 富士沢さんの鬼神のような容赦のない走り!」
「ひやひやするなあ……チーム戦じゃないとはいえもっとこう、スマートな抜き方はないものかね」
紅さんの困惑などどこ吹く風で最終コーナーを立ち上がる私に、泉さんが喰ってかかってくる。
「ちょっと……いきなり何よ!」
「遅かったから抜いた。それだけです」
「そんな……!?」
「申し訳ないですが、私はこれから二秒先を行く鈴子様を倒してくるんです。泉さんには構っていられません。……もっとも、ついてこれるなら話は別ですが」
「……あらそう。『そういうつもり』なのね」
泉さんが私の含みを持たせた言い方を理解してくれたことにひとまず安堵する。
紅さんの言った通り、これはチーム戦ではない。
堂々と泉さんを手助けするのはルールの観点からもマナーの観点からもあまり褒められるものではない。
しかし私は泉さんを勝利に導かねばならず、その泉さんは現在鈴子様より約二秒遅れている。
ではどうするか。
初めて泉さんに会ったときのことが私の念頭にあった。
ふたりで鈴鹿を走り回ったとき、私が後ろを走っていたときよりも私が前に出て走っていたときの方が泉さんは速かった。
追いかける対象がいると燃えるタイプだという第一印象が私には残っている。
泉さんはついてこれるはずだ。鈴子様を上回る私のペースに。
表立って支援するのではなく、私の全開アタックについてこさせることによって泉さんを鈴子様のところまで送り届ける。それが私の作戦だった。
「さあレースも残すところ四周! 悠々と逃げるトップは双見選手! 大差を築き上げながらもそのペースを緩めることはなく、先ほどの周ではファステストラップを記録しております」
いつの間にか残り周回数も少なくなっていることを南山さんの実況によって知る。余計な情報もあったようだがどうでもよかった。
のんびりしている時間はない。
追いつくのはともかく、抜き去ることまで考えると余裕はほとんどない。
コントロールラインを泉さんとほぼ同時のタイミングで通過する。
一コーナーに備えて左に車を寄せる私に、泉さんも倣う。抜こうとしてくる気配はない。泉さんが私の意図を完全に理解してくれていることの証だった。
ブレーキングポイントが迫り、私は少し息を吸い込んで、そのまま呼吸を止めた。
同時に、自身の全ての感覚をコースの攻略に振り向けていく。
なおも盛り上がっている実況や観客のざわめきといった雑音が遠ざかっていき、今走らせている車から発せられる音だけが聞こえる。画面に映る順位やタイム差といった情報はもはや目に入らない。
私の視覚が捉えるのは、ただ目の間に広がるコースのみ。そこにこれから通るべき走行ラインを描き、ただひたすらにそれをなぞっていく作業へと潜っていく。




