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現時点では何も決まっていない - Part 2

「先ほど紅から申し上げました通り、富士沢様にはお嬢様の家庭教師をお願いしたいと考えております」



 そこからは労働条件の説明が続いた。

 ひとつ、決まった勤務時間はなく、お嬢様の求めに応じて随時家庭教師としての勤務が開始となる。

 ひとつ、お嬢様が学習を始めたいときにすぐに開始できるように、通いではなくこのお屋敷に住み込みとなる。


 そして私にとって目下一番の関心事。



「この勤務を一年間継続した場合、富士沢様がクリムゾンレーシングチームに対して抱えている債務は返済されたのものとみなされます」

「なるほど……」



 私は思わず唸ってしまう。もちろんこれは願ってもいない待遇なのだが、ひとつどうしても腑に落ちないところがある。



「聞きたいことがあるんですが、いいですか」

「なんなりと」

「ここまでのお話を聞く限り、この条件は実質的に借金の帳消しみたいなものだと思えます。この好待遇には一体どのような理由があるんでしょうか」



 ありていに言えば、この話はうますぎる。うまい話には裏があるからタチが悪いものだ。それが一見して気付かないようになっているならなおのこと。


 おそらく紅さんはF4の新車代くらい、私に払わせなくともどうとでもできるぐらいのお金持ちだ。しかし同時に紅さんはことレースに関しては愚直であり、一度決めた契約を翻すことなどしない。

 そもそも、契約を翻すなら借金の方ではなくクビにする方の契約を翻せばいい。そうすれば紅さんはお気に入りの私を来年も手元に置いておける。

 にもかかわらずここで借金をチャラにしようというようなことを言い出しているのはどういうわけだ? 一千万円に見合う価値のお嬢様のお守りとは、一体どんなものだ?



「私が三百合ちゃんを好きだというのが、まずひとつ」



 紅さんが口を開き、指を一本立てた。



「タクシーの中でも話したが、君のレースに私は本当に惚れ込んでいてね。契約によって残念ながらドライバーとしてはもう雇えないが、できる限りのことはしたいと思って提案させてもらった」



 じゃあもうちょっと『できる限り』を広げてもう一年契約してよ、とこちらも再び同じ思いを抱いたが、やはり口には出さないでおく。



「そして私が三百合ちゃん以上に娘を愛していると言うのがふたつ目の理由だ。娘の為にならなんだってしてやりたい」



 二本目の指が立てられる。



「娘は常々家庭教師をつけてほしい、と私に言ってきていてね。私も探してはいたんだが、なかなか『これは』という人物はいなかった。そこに今回フリーになった三百合ちゃんが適任じゃないかと思ったんだ」

「……わかりました」



 紅さんが一体私のどこに家庭教師としての適性を見いだしたのかは気になるが、それはさておき私の疑問は一応の解決を見た。


 つまるところ、これは紅さんの愛の現れなのだ。

 お気に入りの子飼いドライバーと最愛の一人娘。そのどちらにも抱えている問題があって、それらを同時に解消しようと考えを巡らせた結果がこの通常ではありえない好待遇の正体だ。


 それが本当にうまくいくかどうかは別として、こうも気にかけてもらえることに対しては嬉しかった。

 当初決めた契約に則らざるを得ずクビを言い渡した後、それで縁が切れたとばかりに知らんぷりを決め込むのではなく、なんとかしてやろうという紅さんの心遣い。

 ドライバーからすれば理想のチームオーナーで、また娘からしても理想の父親だろう。私はまだ見ぬ紅さんの娘さんに対して、立派なお父上をお持ちのことを羨ましく思った。


 私の答えは決まった。

 請けなければ莫大な借金の即時返済を求められる身としては仕事を選り好みすることはできないし、そもそも今の話を聞いた後ではむしろこちらから頭を下げるべきだろう。



「そういうことであれば、ぜひやらせて頂きたいと思います」

「そう言ってくれるか。ありがとう。……南山」

「はい。それでは富士沢様、こちらの書類にサインをお願い致します」



 私の言葉に破顔した紅さんが、南山さんに書類を差し出すことを促した。私は南山さんから書類を受け取り、指し示されたところにサインをする。本契約書一部、そして双方の控え二部に。



「これで契約完了だな。ようこそ、紅家へ」



 サインを終えると二人が立ち上がり、私もそれに応じる。そしてまず紅さんと、次に南山さんとテーブル越しに固い握手を交わした。



「ありがとうございます。慣れないことばかりだと思いますが、全力をかけて臨みます」

「うん。よろしく頼むよ」

「はい。ただ……私、勉強はあまり得意ではないんですけど……」



 私はまだ最後に残っていた懸念について口に出した。

 掴みかけた働き口を失いたくはないので契約が決まってからのこのタイミングで、そしてオブラートに包んで『あまり得意ではない』とは言ったものの、実際は『かなり苦手』と言った方が正しい。

 娘さんがいくつなのかは知らないが、正直中学生で習う内容も教えられるほど覚えている自信はない。



「ああ、心配いらない。君に教えてもらうのは勉強じゃないから」

「富士沢様には実際にご覧になって頂いた方が早いかもしれませんね」

「それについては任せるよ。私は自室に戻らせてもらう。……そうだ、三百合ちゃん」

「はい?」

「私は君を『本物』だと思っている」



 部屋を出ようとした紅さんが足を止めてそんなことを言う。



「いつか世界の頂点に立つような、『本物』の才能を持ったドライバーだと。『本物』ならたとえ絶望的な状況に置かれても必ず這い上がり、最後には見事に勝利を収める。君もそうなってくれると信じている」



 そこでようやく、これまでに曖昧にしか掴めていなかった紅さんの真意を読み取れたような気がした。紅さんは私の才能を買ってくれてはいるが、信じきってはいないのだ。


 ライオンが我が子をわざと崖下に突き落とし、登ってきた子だけを育てると言う話のように、紅さんもまた私に這い上がりを求めている。


 上等だ。

 全てのレーシングドライバーがそうであるように、私もまた自分の才能を疑ったことはなかった。自分が誰よりも速いと信じていなければ、レースなんてやっていない。崖だろうが壁だろうが乗り越えてみせる自信はある。

 そのためにはまず、一刻も早く現在の浪人状態を抜け出し新たな所属先のチームを見つけて戦場であるサーキットへ舞い戻らなければ。今から始まるこの家庭教師とやらがそれにどう結びつくのかはまだわからないが、紅さんとのつながりを保つことは決してマイナスにはならないだろう。



「わかりました。期待していてください」

「いい返事だ。それじゃあ南山、あとはよろしく」

「かしこまりました。富士沢様、それでは参りましょうか」



 部屋を出て自室へと向かう紅さんに軽く頭を下げた南山さんが、それとは逆の方向へ歩き出したのに私もついていく。



「どこへ行くんですか?」

「お嬢様のお部屋でございます」

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