ノーパワー - Part 1
「それでは皆様、もう間もなくスタート時間でございます。グリッドにおつきください!」
南山さんのその言葉を合図に、私は走行画面に遷移するボタンを押した。
再び目前に広がるF3のコクピットからの視界。前方上方にあるシグナルとその向こうに広がる青い空。いい天気だなと思うものの、一方でやはり私の心はその空のように晴れやかでない。
こんな気分でポールポジションからレースをスタートするのは初めてだった。
ポールポジションからの景色というものは、もっと気分爽快といったものではなかったか。
この得体のしれないもやもやの原因は何なのか。これは走り出せば、あるいはこのまま一位でゴールすれば消えたりするのか。
答えは出ない。ただひとつわかるのは、こうした精神状態はこれからレースを戦うという状況にまるでふさわしくないということだけだ。
「さて、このレースの見どころはどういったところにあると思われますか?」
「うん、やはりフロントローを独占した二人のバトル。それからその後ろ、セカンドローの常陸大友貞部氏須帝難四家院さんと泉にも注目したい」
「なるほど。他の選手についてはいかがでしょうか?」
「五番手以降だと、そうだな……」
引き続き司会進行役兼実況役を勤める南山さんが紅さんに話を振る。今回もまた紅さんは解説役に収まることにしたらしい。誰も観客がいなかった先日の泉さんと私のレースでは奇行以外のなにものでもなかったが、今日は観客もいるのでやりがいもあるだろう。
なおも続く解説から注意をそらし、私はとにかくレースに集中しようと試みた。
まず最初に気を付けなければならないのはスタートで失敗しないこと。
シグナルが消灯する前に走り出してしまうジャンプスタートは論外だが、かと言ってそれを恐れて遅らせ気味にスタートするというようではやってはいけない。シグナル消灯と同時にほんの少しだけミートさせていたクラッチをつなぎ、ホイールスピンをさせないように細心の注意を払いながら一コーナーに飛び込む。
考えながらクラッチを切ってギアを一速に入れる。
「さあシグナル点灯! 鈴鹿に集いし二十二人の淑女と二人のリアルレーシングドライバー! 予選上位四台は一秒以内に収まる誰が勝ってもおかしくない混戦! はたまた後ろから虎視眈々と狙っているお嬢様が下剋上を成し遂げるか!」
往々にして上の立場であるお嬢様が下剋上するなどというのもなかなか聞かない話ではある。
だがしかし、おそらくそれは成らない。
まず間違いなく勝つのは私が双見くんだ。
アクセルペダルに載せた右足に少し力を込めてエンジン回転数を上げる。
他の車も同じようにエンジンが唸りを上げ始めて、聞こえてくる音はずっと大きくなっているはずなのに、自分の心拍音がそれよりもずっとはっきりと聞こえてくる。
その音がどんどん大きくなって、それ以外に何も聞こえなくなったのと同時に、目の前のシグナルが全て消えた。
「今スタート!」
その実況が聞こえたときには私の車はもう二速に入っていた。
とりたてて早くもなければ失敗と言うほど遅くもないタイミングで発進し、ホイールスピンも最初にごくわずかにあった程度の無難なスタートだった。
私にとって幸運だったのは、二番手からスタートする双見くんもまた抜群のスタートを決めてはいなかったことだ。
双見くんの車は私と同じようなタイミングでスタートし、同じようなスピードで私の斜め後ろをついて一コーナーへと進入しようとしている。
その姿をミラーで確かめた私は車をしっかりとイン側に寄せて、絶対にポジションを譲らせまいとする。
ノーブレーキで一コーナーを曲がり、間を置かず二コーナーのブレーキング。
スタート直後でタイヤが冷えていたためほんの少しブレーキロックさせてしまったが、致命的なミスではない。
イン側の位置を死守していたおかげでそうした小さなミスがあっても双見くんに抜かれることはなかった。
そのまま立ち上がりS字コーナーへと向かっていく。
左右に切り替えしながら登っていく間、双見くんの車はぴったりと私のすぐ後ろに貼りついていて、それはS字を抜けた後のデグナーでも変わらなかった。
いまひとつ乗り切れていない私と比べて、双見くんは好調のようだ。厳しいレースになるかもしれない……。
双見くんがミラーから消えたことに気付いたのはその時だった。
「双見選手がここで仕掛けるーっ!」
立体交差をくぐった直後のヘアピンコーナーに差し掛かっていた瞬間だった。
ミラーに映っていない双見くんがどこに行ったかなんて考えるまでもない。私の横に決まっている。
思いもよらなかった早い仕掛けに思わずぎょっとするものの、わずかに残った冷静さがこの試みが不発に終わることを確信してもいた。
「こんなとこじゃ無理だっての……!」
私が先日のレースでやったようにAI相手ならともかく、対人でこの動きはあまりにリスキーだ。
レースが始まって半周も経っていないのに絡んで両者リタイアなんてことになれば、鈴子様の面子にも関わる。スポンサーに生殺与奪を握られているといっても過言ではない双見くんが、本気で抜きにくることはない。
事実双見くんは早めにブレーキングし、外側にいる私を一旦前に行かせるようにしてヘアピンを立ち上がった。
だからと言って胸を撫で下ろしている暇はない。双見くんがあっさりと引いてみせたのは、「その気になればいつでも抜けるぞ」という意思表示に他ならないのだから。
「序盤から双見選手が果敢に攻め立てていく! ラインを右に左に、隙を見せたら一気に抜き去ってやろうと言わんばかりだ!」
スプーンカーブ、西ストレート、130R、シケイン。その全てにおいて双見くんは私をオーバーテイクしてやろうとラインをずらし、マシンのノーズをねじ込む素振りを見せてくる。
その度に私は望ましいタイミングよりもはるかに早くインにつくブロックラインを取らなければならず、オープニングラップのタイムは決して芳しいものではなかった。
私は苦戦していた。
「一周目からトップ二台の激しい競り合いが続いております! オープニングラップを終えての感想はいかがですか?」
「上位四台が抜け出ると思ったんだが……その予想は外れたな。三百合ちゃんのペースが上がってないせいでトレインになってしまっている」
「予選トップの富士沢さんでしたが、決勝にきて急激にスピードが低下しているのにはどういった理由があるのでしょうか?」
「はっきりしたことはわからない。予選からセッティングを大幅に変えたか、あるいは急に体調でも崩したか……?」
「ここから見ている分には平常のようですが……」
セッティングで予選から変えたのは燃料搭載量ぐらいで、他にはどこも変えていない。体調に関してもすこぶる健康で、問題などあるはずがない。
私の不調の原因がわからないと紅さんは言うが、私にもわからないことが紅さんにわかるはずはない。
「わざとペースを抑えるという作戦というのは考えられませんか?」
「レースはまだ一周を終えたばかりで、タイヤも燃料も消耗を気にするような時期じゃない。すぐ後ろには双見選手もいる。ここでペースを抑えるという作戦には全くメリットがない」
「それでは、このスピードの不足は一体?」
「……さてね」
紅さんと南山さんが交わした言葉に、私は内心青ざめた。
この遅いペースをわざと作っているものだと思われるのは好ましくない。
南山さんの言う通り、現在のシチュエーションでわざと遅く走ることのメリットは存在しない――トップを走る私にとっては。
しかしそれは後続の車にとっては、チャンスとなりうる。
先頭の私が遅く走って『蓋をする』ことで後続の車たちはお互いの距離が近くなり、前の車を抜きにかかることが容易になる。
そうした状況の恩恵を一番受けるのは誰か。
それは、鈴子様に勝つ自信がないとこぼしていた泉さんに他ならない。
以前私が冗談混じりに口にした、通せんぼ作戦を今の私は図らずも実行に移してしまっている。まずい、と私に焦りが生じる。
もちろん泉さんが鈴子様に対して弱気になっているということを他のお嬢様や観客の方々全員が知っているわけではない。
しかし私と双見くんを除いて実質トップを走行中のすぐ後ろに泉さんがいて、集団の先頭を走っているのがその泉さんに雇われている私というこの状況は、『泉さんが私に遅く走るよう指示している』と見られかねない。
百歩譲ってこのレースがチーム戦ならばまだいい。
私と泉さんが同じチームであれば、片方のドライバーを勝たせるためにもう片方のドライバーを使って有利な状況を作らせるということはモータースポーツの世界では珍しくない。
しかしこのレースはチーム戦ではない。私が紅家に雇われているが、それはそれとしてこのレースではいちドライバーとして、他の参加者全員と戦わなければならない立場だ。たとえそれが泉さん相手であったとしても。
本来であれば私は双見くんと二台だけ三位以下を突き放し、次元の違う走りを見せていなければならないはずだった。
紅さんの最後の言葉が濁されていたのは、このことに気が付いたからだろう。わざとスロー走行をするメリットは泉さんを勝たせるためとしか説明できない。
しかし長年私を見てきていた紅さんには、私がそんなことをするはずはないという確信もあったはずで、明らかに導き出せてしまう結論をぼかしてくれている。
それはそれでありがたいことではあるが、じきに他の人もこの状況をそう判断するだろうという問題は解決していない。
私は怖くなった。
泉さんが私を使って自身に有利な状況を作り出していると、この会場にいる人々が思ってしまうことが怖くなった。
こうして双見くんに煽られていることで、このレースを見ている人々に双見くんよりも遅いというイメージを印象付けられてしまうことが怖くなった。
しかし何よりも恐ろしいのは、私がこの状況を自らの意志で作り出していると泉さんに思われることだった。
泉さんは自分の力を持って鈴子様に勝利することに強くこだわっている。
私のコーチングが『泉さん自身の力』に入るかどうかは議論が分かれるところだろうが、私の教えを受けて私に匹敵する速さを身に着けたのは紛れもなく泉さん自身の努力によるものだと私は思う。
だからこそ、こうしてレースが始まってしまえば私が泉さんにできることなどなかったはずだ。
私はただポールポジションからスタートして双見くんをもぶっちぎって余裕のフィニッシュを決め、レースが終わった後に鈴子様を倒した泉さんと喜び合うだけのはずだった。
私がレース前に泉さんに具体的なアドバイスなど贈らなかったのはそういう理由からで、逆に泉さんからもアドバイスは求められなかった。私たちはお互いにお互いの実力を信じあい、健闘を誓いあったのみだ。
ところが現実は思い描いていた通りには進んでいない。
そして、この状況から紅さんが導き出したであろう結論――私が泉さんのためにわざとゆっくり走っているのではないかという疑惑に、じきに泉さんも気付く。
その時の泉さんの気持ちに思いを馳せると、私は怖くてたまらない。
頼んでもないことを勝手にやっているだけではない、「そんなことは必要ないですよね」と態度で示していたのにもかかわらず、それを裏切るような真似をしていると思われてしまったら。泉さんが覚えるのは怒りか、失望か、悲しみか……。
「しまっ……!」
物思いに沈んでいたことが、ついにミスを呼び込んだ。
アクセルワークがラフなものになりヘアピンの立ち上がりでホイールスピンをし、加速が鈍ってしまった。
二周目のヘアピンまで来ていれば、普段の私の走り方であればよほど雑な踏み方をしない限りホイールスピンなどしない。スローペースのせいでタイヤがまだ十分に温まっていないのか、それともよほど雑な踏み方をしていたことをも今の私は感知できていないのか。
無論このミスを双見くんが見逃すはずもなく、しっかりとトラクションをかけてうまく立ち上がり、明らかに速いスピードで迫ってくるのがミラー越しに見えた。
ヘアピンから次のスプーンカーブにつながる200Rコーナーは、コーナーと名がついてはいるもののアクセル全開で駆け抜けられる実質的なストレートだ。
故にヘアピンの立ち上がりの巧拙はここでのスピードに明らかな違いを生み出し、ひいては次のスプーンコーナーのみならずコース後半のタイム全体にも影響を及ぼすほどでもある。
そして、今回の私のミスは特に深刻なものだった。
「ヘアピンの立ち上がりでリアを滑らせた富士沢さんに双見選手が迫る! スプーンでの攻防はどうなるか!」
抜かれる。
私はそう直観した。スピードがあまりにも違いすぎる。
これだけの速度差があればスプーンカーブでのブレーキング勝負を待たずとも前に出られてしまう。
事実双見くんもそう考えたのだろう、オーバーテイクの際の定石であるイン側ではなく、アウト側となる右にラインを取ってきた。右から私を抜き、そのままアウト・イン・アウトのラインを走るつもりだ。
そう察知した私は双見くんの前に躍り出るように車を右に動かす。
双見くんはすぐさまこの動きに反応し、今度はがら空きとなったイン側へと位置を変える。私ももう一度ラインを変えて前を塞ぎたいが、それはできない。
レースでは「順位を守るための進路変更は一回まで」という鉄の掟がある。この掟を無視して再度ラインを変えてブロックすればこの場はなんとかしのぎ切れるかもしれないが、後からペナルティを受けるのはまず間違いない。
双見くんは完全に私の前に出たわけではない。まだ終わっていない。
「並んだままスプーンに進入する!」
私の車が鼻先だけ前に出た状態で、両車ターンイン。
イン側に双見くんがいるせいで私は普段より長い距離を走らなければならないが、双見くんだってアウト側に私がいるためにスピードは大きく落とさなければならない。条件は五分と五分。ここで引いてはいられない。
普段より長い距離を走らなければならないアウト側にいるものの、なんとかして少しでもインに寄ろうとステアリングを左に少しづつ切り込んでいく。
私の手に、グッ、とステアリングが右に回される感触が伝わったのはその時だった。
急に生じた想定外の力に、私は為す術がない。私はそのままコーナーの外側、アスファルト舗装されたランオフエリアへと進路を変えていた。
会場にどよめきが巻き起こる。
「ちょっ……双見ぃ!」
「あーっと! 接触があったのか!? 富士沢さんがコースアウトしている!」
「三百合ちゃん、またか……」
双見くんと接触したために弾き飛ばされたのだった。思わず声を荒らげた私を双見くんはもちろん無視し、そのまま西ストレートへと走り去っていく。
そしてその後ろを鈴子様、泉さんの車が付いていく。さらに後続車が何台か通り過ぎて行く。
ずっと私が集団に蓋をしていたせいで、少しコースをはみ出しただけでも何台にも抜かれる羽目になる。
早くコースに戻らなければ、と復帰のタイミングを窺う為に左側の画面を見ていると、その画面の先、現実世界で私の左隣のコクピットに座っている泉さんと目が合った。
「何をやっているの……?」
私の接触、コースアウトによる首位陥落によって起こった会場の驚きの声がまだ収まっていない最中にあっても、その声ははっきりと聞こえた。
おそらくは怒り、失望、悲しみの全てが入り混じったその顔を、私は直視できずすぐに目を逸らし正面の画面に向き直った。
そしてアクセルペダルを踏みつけ、一応後続車のラインを塞がないように注意しつつやや強引にコースへと復帰した。ちょうど車と車の切れ目にうまく入ったらしく、無事に復帰できた。
私は何をやっているんだろう。
泉さんから投げかけられた問いを反芻する。
私がこの決勝でやったことと言えば、泉さんの評判を貶めかねないペースで走り、そのせいで双見くんに付け入る隙を与え、無様にコースアウトした、それだけだった。
全てが色褪せ始めていた。
私が一番速いことの証を立てるだとか、お嬢様方に気に入られてリアルモータースポーツに返り咲くだとか、ついさっきまで何の疑いもなくできると信じていたことが、今では途方もない無理難題に思える。
倒すべき相手ははるか遠くへ消え去り、ここから一位を奪還するというのはほぼ不可能と言っていい。
このレースで目標としていたことが今完全に達成不可能となってしまったことを私は理解した。
激闘の末に力及ばず倒れるというのなら、まだ納得もできる。
しかし今日の私は、レース開始直後から実力を全く発揮できずに、早々と勝負権さえ失ってしまった。
私は何をやっているんだろう。
双見くんからも泉さんからも離れた中団グループに飲み込まれ、私は答えの出ない問いを繰り返し続けていた。




