ドライバーズ・ミーティング - Part 3
情熱的な抱擁の衝動を何とか抑えた後、私は空いているコクピットに改めて座り、自分の持てる力を全て発揮した本気の走行を始めた。
先ほど「私の走りを見てほしい」などと勢いに任せて口走ったせいでその様子を泉さんがじっと見てきたが、いまやそんなことはどうでもよかった。
走行を終えてロガーソフトを起動し、取得された私のデータと泉さんの走行データを重ね合わせて表示させる。
「手慣れてるわね。やっぱり、ロガーを使ったことはあるのね?」
「もちろんです!」
走行データのログと、そのログを可視化するデータロガー。
ドライバーのあらゆる操作と、それによって生じたタイムへの影響を明らかにするそれは、現代モータースポーツには欠かせないツールとなっている。
自分より速いドライバーとデータを比較することで、その差がどこのコーナーで生じているのか、どういう操作によって生じているのかなどといったことが一目瞭然となるのがデータロガーの利点だ。
当然私も実車でのレースを戦っていた際にはずいぶんとお世話になった。当然ロガーソフトの使い方も心得ている。
「しかし……こんな便利なものがあるんだったらもっと早く言ってくださいよ」
「知らなかったの?」
「……いや知ってましたけどね!」
興奮冷めやらぬままロガーソフトを弄っていると、また口を滑らせてしまった。
私は『秘策』としてこのデータロガーを使った練習方法を提案したということになっている。
「泉さんは、しきりに『勝てるかどうか』を気にされていますね」
「……ええ」
話題を転換し本題に入る。もちろんこれは、墓穴を掘りかけたことの誤魔化しも兼ねている。
「率直に申しますと、泉さんが勝てるかどうかなんてことは、私にはわかりません。……しかし、少なくとも負けない方法はお教えすることができます」
「負けない方法……?」
「そうです。相手が『あの人』だろうと誰だろうと絶対に負けない方法です」
「『それはレースに出ないことです』なんていうような話だったら本気で怒るわよ」
「違うので安心してください」
「本当にクビにしてやるんだから」
「ですから違いますって……」
随分と信用が無い。この過剰な反応は『あの人』への苦手意識からくるものではない気がする。
たぶん出まかせを言っていたことに薄々勘づかれているのではないかと思うが、それには気付かないふりをして私は続ける。
「見てください、このグラフ。先ほど申し上げたように、私と泉さんの走りにほとんど差がありません」
私の走りのグラフと泉さんの走りのグラフを重ね合わせて表示させると、それぞれはほぼ同じ形を描いていることがわかる。
「ですが、よく見ればわずかにズレている箇所があります。例えばここ、ブレーキングを始めるのが私よりちょっと遅いですね。それにこっちではステアリングを急に切りすぎている」
指で画面を指し示して説明していく。
私のグラフと泉さんのグラフとのズレは、言い換えれば私と泉さんとの操作の違いそのものを表している。
「この差を埋めていきましょう。『舞踏会』までの残り一週間、泉さんは私の走りをコピーすることを専念してください」
それはつまり、もし泉さんがこの私のグラフの通りに運転を修正することができれば、それは泉さんが私の走りを身に着けたということを意味する。
『あの人』とやらがどれだけ速いのかは知らないが、この私よりも速いということは、たぶんない。私の走りを完全になぞることができれば、泉さんの悲願である『あの人』への勝利も夢ではないだろう。
問題はそれを本当に実現できるかどうかだが、そこについては私はあまり心配していない。
泉さんが下手ではないことは先ほど確認したばかりだし、データロガーは私の走りの差を具体的な数値として示してくれている。
口頭で「あそこをもっとああしろ」などとアドバイスするよりもずっと理解しやすく、実行にも移しやすいだろう。
故に、これが現時点でもっとも効率的かつ効果的な練習方法だ。
「まあ、それはいいんだけど……『負けない方法』という話はどうなったの?」
幸いにして、泉さんは私の提案を受け入れてくれそうだ。そして、『負けない方法』についても私は回答を用意している。
「私の走りが誰かに負けるとお思いですか」
「相変わらず、大した自信ね」
「……というのは、冗談です。半分は」
「あなたも慎みを覚えたのね。嬉しいわ」
そう言う泉さんは特に感銘を受けたような表情ではなかったが、まあいい。先を促されたと捉えて私は続ける。
「泉さんが私の走りを完全にコピーした上で、『舞踏会』で『あの人』に負けたとしましょう」
「……負けない方法を聞いてるんだけど。なんで負けることが前提になってるのよ?」
「まあまあ、もし負けたとして……その敗北は、本当に泉さんの敗北でしょうか?」
「……どういうこと?」
「つまり、私の走りをコピーした上で負けたのなら、それは私が負けたということです。泉さんが負けたことにはならない」
「そんなの、ただの屁理屈じゃない」
「そうですよ?」
あっけらかんと私は答えた。
「そうですよって……」
「でも、そう思えば気が楽になりませんか?」
「なるかならないかで言えば、なるけど……。その理屈でいくなら、あなたの走りで私が勝ったとして、それは本当の勝利とは……」
言えないんじゃないの、という続きを泉さんが口にすることはなかった。
それはおそらく、途中でその答えを既に聞いていたことに気付いたからに違いない。
「それについてはさっきご納得頂いたはずです」
私はそれを確認する。
「まずは勝つこと。後のことは、勝ってから考えればいいと」
「……そうだったわね」
「また負けるのではないかと怯える気持ちも、こんな練習で本当に勝てるのかと思う気持ちもよくわかります。しかし、腹を括ってください」
負けることはレーシングドライバーなら誰だって怖い。
何故怖いかということを突き詰めてみると、私のようなプロとしてはまず真っ先に食い扶持の心配というものがある。
大げさに言ってしまえば、プロのレーシングドライバーにとって敗北は仕事ができないということの証明だ。安定した雇用とは無縁のアスリートなのだから、当然それは失職に直結する。
一方で泉さんのようなアマチュアドライバーはどうだろうか。いくら負け続けようが生活が脅かされるということはない。結果としては納得のいかないものであっても、趣味なのだから楽しければそれでいい……?
それは違う。たとえアマチュアだろうと、心の底からそう思っているドライバーなど絶対にいないと私は思う。
二位で我慢しなければならないような状況もあるにはあるが、どんなドライバーだろうとなれるなら一位になりたいに決まっているし、なれなければ腸が煮えくり返るほど悔しいに決まっている。
レースは、他人より先んじたいという欲求から生まれたスポーツに他ならないのだから。
「勝負をするということは負ける可能性を理解した上で、それでもなお自分の勝つ可能性に賭けることだと私は思います」
誰にとっても負けを受け入れることは屈辱で、それを恐れるがあまり逃げ出したくなるのもわかる。
しかし負ける可能性から逃げるということは、勝つ可能性をも手放すということでもある。
それではダメだ。私は泉さんを勝たせるためにここにいるのだから、泉さんには勝ってもらわないと困る。
そのために私は単なる屁理屈、おためごかしに過ぎないとわかっていても、泉さんの闘志を引き出そうとしている。
「持てる力の全てを使って、『あの人』に挑んで……勝つんです。勝てば、誰にも文句は言えません。負けた人が後から『本当は私の方が速い』というようなことを言っても、それはみっともない負け犬の遠吠え、で……」
今度は私が途中で黙りこくってしまう番だった。
私はここでようやく理解した。ここまでの言葉は全て自分自身に対しても通ずることだった。
クラッシュに遭いチャンピオンを逃して以来、ことあるごとに口にしてきた「私のほうが双見くんより速い」という発言は、まさに負け犬の遠吠え以外の何物でもない。
私は今更ながらにその苦い事実を改めて味わわされ、無意識のうちに拳を硬く握りしめていた。
「……そうね」
それを察したのか、泉さんが口を開く。
「さっき決意を固めたばかりなのに、また揺らいでしまって……こんなことをしている場合じゃないのにね」
泉さんは自分のコクピットへ座って走行準備を進める。
「もう泣き言は言わない。その走りを完全にマスターして……いえ、マスターして、さらにその上を行ってみせる」
その言葉に、私ははっとして泉さんの顔を見つめた。
「そうすれば、本当の意味で私の走りで勝ったと言えるでしょう?」
微笑を湛えた泉さんがこちらを見返していて、私の口角は思わず上がっていた。
「……それは無理かもしれませんね」
「どうかしらね?」
ソフトの準備が完了し、バーチャルのサーキットに車が出現する。エンジンが始動し、いつでも走り出せる状態だ。
「もし私より速くなって、それで『あの人』に勝ったら、ぜひ実車でのレースを始めましょう」
「まだ諦めてなかったの?」
「当たり前です。泉さんが出てくれるまでずっと言い続けますよ」
現在の私が負け犬なのは、渋々認めよう。しかしこのまま負け犬でいるつもりなど、毛頭ない。
この悔しさを今度はあちらに味わわせてやりたいという思いは未だに消えていない。
そのために泉さんを実車の世界へと誘い込み、ついでに私のシートも用意してもらう。
私がクビ騒動でうやむやになりつつあったこのアイディアだが、泉さんを勝利に導いた際の成功報酬としては妥当ではないだろうか。
「泉さんのライバルへの勝利に貢献したんですから、次は私のライバルを倒すことにもご協力をお願いします」
「……考えておくわ」
「本当ですか! これは、絶対に私より速くなってもらわないと」
「まあ、やるだけやってみようじゃない」
そう言うと泉さんは車を発進させる。
ピットからコースに出ると先ほどのロングラン時とは異なりすぐにハイペースになり、タイムを出しにいく走りへと移る。
泉さんが実際に私より速くなるかは別として、少なくともその走りから先ほどまでしつこくまとわりついていた弱気が消え去っているように見えたことに、私はまず安堵した。




