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現時点では何も決まっていない - Part 1

 病院からタクシーで駅へ、そこから特急に乗り換えて、目的地の最寄駅からは再びタクシーに。

 本日二台目のタクシーに乗り込んだ時点で目的地を尋ねた私に、紅さんは「ウチだ」と答えてくれた。


 紅家邸宅は、金を湯水の如く使うレーシングチームのオーナーが住むにしては、それほど大きくはなかった。



「この家には三人しか住んでないからね」



 紅さんには一人娘がいると以前耳にしたことがある。



「私と、娘と、それと執事がひとり」

「執事を雇っている人なんて本当にいるんですね……」



 奥様はどうされたのですか、などと聞かない程度の分別は、流石の私でも持ち合わせている。


 小さいとは言ってもあくまで「大金持ちの自宅にしては」という話で、何の先入観も無しに目にしたとしたら「大きなお家だね」といった感想を抱くに違いない。

 三階建ての母屋に、三台は入っていそうなガレージ。庭に生える植木はどれもきちんと整えられている。しかるべきところにはお金がかけられている様子は、無暗に巨大な建物や敷地よりもむしろお金持ちらしさを引き出しているようにも見える。


 応接間に通されると、「少し待っていてほしい」と言って紅さんは部屋を出ていった。

 腰を包み込むような座り心地のソファにどこか落ち着かなさを覚えながら言われた通りに待っていると、紅さんが三つのティーカップを載せたトレイを持つ一人の男性を伴って戻ってきた。


 紅さんが私のテーブルを挟んだ向かいに座り、もう一人の男性はティーカップを私の前にひとつ、紅さんの前にひとつ、さらにその横にひとつ置いた。



「待たせたね。紹介しよう。我が家の執事、南山だ」

「お初にお目にかかります。南山と申します」



 深い紺色のスーツを着た南山と呼ばれた男性が無駄のない所作でこちらに礼をする。私も慌てて立ち上がりお辞儀をした。



「どうも……初めまして」

「君の上司になる人物でもあるな」

「はあ……」



 紅さんにそう言われ、失礼は承知ながら南山さんを凝視してしまう。

 年齢は紅さんと同じくらいか、それより少し上。壮年と中年の間といったところだろう。

 そして特に日に焼けていたり、がっしりとした体つきをしているようには見えない。



「……あの、何か?」

「海の男ってかんじじゃないけど……」

「はい?」

「あっ、いえ、何でもありません!」



 訝しんだ南山さんを何とか誤魔化すと、「まあ、かけて」と紅さんから再度の着席を進められたのでそれに従う。私に合わせて南山さんも着席する。



「タクシーの中で話していた、仕事の話をさせてほしい」



 紅さんがテーブルに両肘をついて手を組んでそう言った。


 用意された仕事がマグロ漁船に乗り込んでの遠洋漁業という線は、上司となる南山さんの風体からほぼ消えた。

 となると、学歴無し職歴無しの女に務まり、かつ一千万の借金が返せるあてのある職業というのは、おのずと限られてくる気がする。



「あの……」

「何だい?」

「その仕事って……水商売……とかですか」



 何の自慢にもならないが、私には学歴や職歴に加えていわゆる『女の武器』も無い。全体的にフラットで空気抵抗の少ないボディ。ヘルメットを被る際に邪魔だという理由で髪も短い。

 性格だって好意を持たれやすいものとは言い難い。なにせ時速200kmオーバーでコーナーに飛び込んで意地の張り合いをするぐらいの頑固な負けず嫌いなのだから、およそ愛嬌といった単語からは程遠い。


 いわば私という人間は水商売に向いていない要素が服を着て歩いているようなもので、もちろん通常であればそうした職に就くことは考えることすらない。

 しかし今はそれを考えてみろと言われれば従うしかないし、その仕事をやれと言われればやるしかないのが私の立場だった。


 やれと言われれば、あまりやりたくはないがやるしかない。それは別にいい。問題は、自明の通り私には全くそうした仕事が向いていないであろうことだ。

 ああいった仕事はほとんどが歩合制だと聞く。客が付かなければ稼げない。私には客が付かない。つまり稼げず借金が返せない……するとどうなる? 水商売の中でもより過激な『稼げる』仕事をやるように言われるのではないか……?



「水商売、ね……そんなにやりたいの? 水商売」



 私が想像力を働かせていると、紅さんがこちらをじっと見つめてそう聞いてくる。この視線に一体どう答えれば正解なのか、私にはわからない。



「いや、やりたいというか……やりたくないというか……いえ決してそうした職業に偏見があるわけではないですけど、やっぱり客観的に見て私には向いてないと思いますし、それにお風呂に沈むくらいだったらむしろ遠洋漁業で海に沈みたいかなというか……」



 言うまでもなく全くやりたくないのだが、自分が置かれている立場を考えればいくらかオブラートに包んだ言い方のほうがいいだろう、などと思いついたことを次から次へと口走っていると、もはや自分でも何を言っているのか理解できない。



「……借金を返す方法は何でもいいけど、わざわざ向いてない仕事を選ぶこともないだろう。やりたいなら止めないけど……」

「やりたくないです!」



 紅さんが呆れたように言うのを途中で遮って、強く宣言する。つい大きな声になってしまった。



「お、落ち着いて……。わかったから、少し私の話を聞いてほしい」

「すみません……」



 気を静めるためにティーカップに口をつける。これもきっと高価であろう紅茶の風味を口中に感じ、それで少し冷静さを取り戻した気になって私は次の言葉を待った。



「三百合ちゃんにやってもらいたい仕事というのは、水商売でもマグロ漁師でもない」



 こぼした独り言はしっかり聞かれていたらしい。今度は紅茶をこぼしそうになるのを必死に堪えた。



「やってもらいたいのは、私の娘の……なんと言ったらいいかな」



 紅さんはしばし顎に手を当てて考え込む。



「……使用人、兼、家庭教師かな。そういったことをやってもらいたい」

「使用人、兼、家庭教師……ですか」



 おうむ返しをしたものの、いまひとつピンとはきていない。ただ水商売や漁師よりかはいくらか魅力的にも思える。



「待遇については南山から説明してもらおう」

「かしこまりました」



 南山さんがトレイと一緒に持ってきていたのか、資料を取り出し手渡してくれる。

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