CONTINUE - Part 2
「えっと……これは……?」
「おめでとう、三百合ちゃん。クビはつながったらしいな」
呆気に取られていると、紅さんがそう言って軽く手を挙げる。私がレースに勝ったときによくやっていた仕草、ハイタッチの構えだった。
事情が呑み込めないままこちらも一応手を挙げると、ぱちん、と打ち合わされる。
「そう、なんですかね……? ……それならそうで、もっとはっきり『契約延長』と言ってくれればいいのに」
「前にも言ったろ、あの子はそういう子なんだよ」
「はあ……」
「あの子はどうも自分の気持ちを正直に出すのが好きじゃないみたいなんだ。だから決定した事実のみを伝えて、『後はわかるよね?』っていう言い方になる。さっきみたいに」
思いついたことをそのまま口に出すことで痛い目を見ることがよくある私にとって、それはあまり理解できない感覚だ。
「それは、なんとも……」
「かわいいよな?」
「……そう、ですね」
めんどくさいですね、と続けようとしていたのを慌てて飲み込む。
こうした七面倒な感情をそうやって受け止められるのは大人の余裕というやつなのか、あるいは単なる親バカか。
「あの子の母親もあんな感じでなあ……」とどこか遠くを見つめながら始まった紅さんの思い出話を半分聞き流しながら、私はそんなことを思った。
「私からもお祝いの言葉を述べさせて頂きます。おめでとうございます、富士沢様」
「どうも……」
レースが終わりいつもの実直な執事へと戻ったのか、これまで粛々と控えていた南山さんが言う。
「信じておりました。今はほっとしております」
「そんな大げさな……」
「本心でございます。何しろ間接的にではありますが、私も富士沢さんを騙していたようなものですから」
泉さんから手加減していることを私に対して言わないようにと口止めされているのだったか。
確かにされてあまり気分のいいことではないが、オーディションの一環として考えるならそう腹も立たない。結果として契約延長を勝ち取った今だからそう言えるというのもあるが。
「いえ、気にしていません。……あの泉さんのお怒りは演技だったんですね」
実力を隠すことで私が泉さんを、そしてレースシムを侮るように仕向け、私の勤務に臨む態度を見る。
もちろんプロのレーシングドライバーとして生きてきた私があっさりとレースシムを認めはしないというのは想定済みだったはずで、一か月間様子を見てその間に私がレースシムを尊重するようになれば契約延長を決める、といった段取りだったのだろう。
しかし南山さんは私の言葉を聞いて複雑な表情を浮かべた。
「演技ではありませんでした。お嬢様は本当に富士沢様の当初の態度に失望しておりました」
「しかし、そういったことは予想されていたのでは?」
「まったく予想していなかったというわけではございませんが……突然『クビにする』などとおっしゃったのには驚きました」
「……あれは打ち合わせにはなかったんですか!?」
どうやら私は踊らされていたというよりも、正真正銘綱渡りをしてここまで辿りついていたらしい。
止まりかけていた汗がじんわりとにじみ出てくるような気がした。
「はい。そもそもお嬢様と私との間に打ち合わせといったようなものは無く、ただ『余計なことを言わないように』と釘を刺されたぐらいのもので……」
「まあ、もういいだろ、そういうのは」
「紅さん……」
「あの子がどういった考えを持って三百合ちゃんを一旦はクビにして、どういった考えを持って契約を延長したのか、正直なところ私にも南山にもわからない。でもそんなこと気にしてもしょうがない。三百合ちゃんには他に考えないことがあるはずだ」
「他に、ですか」
「実車のモータースポーツでもそうだが、契約が決まった要因なんてどうでもいい。すぐに誰も気にしなくなる。大切なのはこれから何を成し遂げるか、だ」
確かにそれはその通りだ。
私は泉さんを速くさせるために雇われたのであって、泉さんの内心を理解するのは業務に入っていない。
私が何を成し遂げるか。あるいは泉さんに何を成し遂げさせられるか。
考えるべきはそういうことなのだろう。
しかし。しかしだ、と私は思う。
「……それでも、私は泉さんの考えていることを知りたいです」
泉さんの考えは私には理解できない。
しかしだからといって、そこで理解することを諦めてしまえば、せっかく少し近付けた泉さんとの距離が再び開いてしまう。
そんな気がしてならない。
泉さんから差し伸べられて来た手。
私はその手を取ろうと必死になって近づいて、今それをようやく掴んだ。
けれどもそこはゴールでありながら次のスタート地点でもあり、そしてきっともうスタートの合図は出てしまっている。
だから私は泉さんのいる方向へと走り続けて、その手をずっと離さないようにしなければならない。
「あ、いえ、もちろん泉さんのために何ができるか、ということも考えていきますが……」
「そうだな……。そういったことは、これからわかっていけばいい。そのための時間はあるんだから」
紅さんがそう言ってくれたのは、私の答えのどちらに対してのものか。
はっきりとはしないものの、どちらにも通じることだと私には思える。
そうだ。私には今しばしの時間の猶予が与えられている。
レースをやっていたときのように、何の憂いも無く、ただひとつのことだけに集中していればいい時間が。
「頑張れよ、三百合ちゃん」
「応援しております、富士沢様」
「……はい!」
部屋の片付けを終えたのとほぼ時を同じくして、汗を流し終えた泉さんが「シャワーをどうぞ」と伝えに来てくれた。
バスルームへ入ると、むわっとした湿気が体を包んだ。
泉さんがシャワーを浴びた後なのでそれは当然なのだが、気になったのはバスタブに水が張ってあることだ。
今日はもう業者の人が掃除に来ているはずだから、昨日の残り湯ではない。
泉さんはシャワーを浴びたのであって、風呂には入っていないはずだ。
じゃあ、これは一体?
顔を近づけてみると残り湯には見えないきれいな水で、掃除が入った後に張られた水らしいことがわかる。
手を入れてみると、冷たくも熱くもない温度だった。風呂にしてはぬるすぎる。水風呂にはちょうどいいかもしれない……。
そこまで考えて、ふとある可能性が頭に浮かんだ。
「もしかして……プール?」
シャワーに向かう前の泉さんに私が飛ばしたいまいちなジョーク。
地中海に面した小国で行われる伝統的なレースでしばしば行われる勝利のパフォーマンスを念頭に置いた他愛のない冗談。
あれを聞いて、泉さんが用意してくれたのか……?
「……ただのジョークだって、言ったじゃないですか……」
口元が緩むのを抑えられない。
そして不思議なことに、反対にちょっと込み上げてくるものもあった。
この浴槽は大きめとは言え、流石に本物のプールのように飛び込めるほど深くはない。
なので私はごく控え目に、足からではなくお尻からそこに飛び込んだ。
どっぽん、という音と共に、水の塊が跳ね、しぶきが顔にかかる。
それは表彰台でのシャンパンファイトと同じくらい、気持ちがよかった。




