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次、無いんだよ - Part 2

「君に次はないんだよ……うちのチームではね」

「えっ……?」

「元からそういう話だったろう?」



 紅さんの言葉に反論はできなかった。


 『そういう話』だったのは嘘ではない。本来であれば私のクリムゾンレーシングチームでの活動は、今シーズン最終戦だったあのレースが最後になるはずだった。


 クリムゾンレーシングチームは日本屈指の強豪レーシングチームだが、その戦場は国内のF4と、F4のひとつ上のカテゴリであるF3のみとなっている。


 意地悪な言い方をすればF4やF3といったカテゴリはプロ野球でいうところの二軍戦に近い。

 次世代を担う若人が鎬を削る……などと言えば聞こえはいいが、そこで繰り広げられる戦いに興味を持つのは業界関係者か、出場しているドライバーの身内か、そうでなければよほど熱心なファンぐらいのものだ。


 舞台は同じサーキットで、場合によってはスーパーフォーミュラやF1といったトップカテゴリと同じ日程でレースが開催されることもあるが、トップカテゴリと下位カテゴリでは注目度や人気において天と地ほどの差がある。


 そうしたどちらかと言えば目立たず、間違っても大儲けができるようなところでもない『二軍』でクリムゾンが活動しているのは、ひとえにチームオーナーである紅さんの『有望なドライバーの飛躍の手助けをしたい』という損得を省みない崇高な理念によるものだ。


 そして、私が今直面している来季のシート喪失の危機は、そうしたクリムゾンレーシングチーム独特の契約が関係している。



「うちは同じドライバーとは原則一年しか契約を結ばない。契約書にも書いたし、口頭でも説明したはずだな?」



 一年ごとに契約を更新する『一年契約』とは異なり、一年の契約期間が終了したら結果がどうであろうとチームを離れなければならない。「F4やF3ぐらい、ポンポンと飛び越えていかなきゃ」と以前どこかで紅さんが言っていたのを覚えている。ジャンプ台は用意してやるから後は自分の力で『上』に飛びついてみせろ、それができないならさようなら、というわけだ。


 非情にも思えるこの制度だが、その代わりにクリムゾンはドライバーに資金の持ち込みを基本的に要求しない。

 トップカテゴリですら選手がチームに金を払って出場権を買うのが珍しくないという、他のスポーツとは明確に異なる一面を持つモータースポーツの世界、下位カテゴリにおいては資金の持ち込みは常識となっている。それを考慮すれば破格の待遇とも言えた。



「久しぶりに『例外』が出てきそうで楽しみにしていたんだがなあ……」



 契約内容を記憶の中から掘り起こしていて返事ができなかった私に、紅さんがそうため息混じりに呟く。

 『原則』という言葉があるところにはたいてい『例外』も存在するものだが、御多分に漏れずこのルールにも例外は存在する。

 クリムゾンからF4に参戦しチャンピオンになった場合、ドライバー本人が希望すれば次のシーズンはクリムゾンからF3に参戦できる。

 これがクリムゾンに二年在籍する唯一の方法――言わば二段目のジャンプ台だ。


 F3のチャンピオンともなれば、レーシングドライバーとしての未来はほぼ確約されたと言ってもよい。

 まず間違いなく次のシーズンはひとつ上、国内トップフォーミュラであるスーパーフォーミュラのシートに収まることになり、トップドライバーの仲間入りだ。


 私はこの例外規定により、来年F3に参戦するドライバーとしてクリムゾンで二年目のシーズンを迎える予定だった。


 今シーズン、好調だった私は開幕からランキングトップを堅持し、シーズン最終戦を前にして年間チャンピオンの座をほぼ手中に収めていた。

 ランキング二位のあいつに少なくないポイント差をつけて臨んだシーズン最終戦、私が入賞を逃しポイントを全く獲得できず、なおかつあいつが優勝しない限り私がチャンピオンになるはずだったのだ。

 だがその未来は、私のクラッシュによるリタイアと、あいつの優勝という最悪の事態が同時に起こってしまったことで幻と消えた。



「あのレース……あの場面で抜かれていたとしても、その順位のままゴールしていればチャンピオンは君だった。どうしてあそこで引かなかった?」



 紅さんの疑問は当然だ。常識から言って、あそこは引くべきだった。

 それは臆病者と後ろ指を差されるような行為ではなく、むしろ大局的な視点を持っていると賞賛されるべき行為ですらある。

 私はそれをもちろんわかっている。わかってはいる……。



「……私はレーシングドライバーです。あの場面で引くようじゃ、レーシングドライバーとは言えないですよ」



 しかし悲しいかな、私はそれほど利口ではないのだった。

 しばらく相槌も打たずに押し黙っていた私が急にはっきりとそう言ったことで、紅さんがぎょっと息を呑んだ。



「三百合ちゃん……」



 目を見開き、口をわなわなと震わせる紅さんを見て、いくらなんでも正直に言い過ぎたかな、と後悔が湧いてきたところで、「その通り!」と叫びこちらの肩をしかと掴んだ紅さんに私は飛び上がらんほどに驚かされた。



「ひゃあ! ……びっくりした。急に大声出さないくださいよ……」

「だから僕は君が好きなんだ」

「それはどうも……」



 そんなに好きならもう一年置いてくださいよ、というのは今度こそ本当に口が過ぎると分かっているので飲み込んでおく。



「迷ったら行け、といつも君には言ってきた。君はその言葉通りにこれまで胸のすくような走りを見せてくれた。チームオーナーとしてこれほど嬉しいことはないよ」



 紅さんはこちらを見据えて熱っぽく言う。



「しかし……しかし現実問題として、来年君がこのチームでドライブすることはないんだ」



 かと思えば心底残念だ、と言わんばかりに大きくかぶりを振ってみたりもする。感情をストレートに表現するこの人の気質を私は嫌いではなかった。


 馬の合うチームのボス。資金の持ち出しが必要ない環境。強豪チームとしての総合的な戦闘力。それら全てが揃ったクリムゾンレーシングチームを離れることは私にとっても残念だ。

 できれば離れたくもないのだが、直接ボスから放出を明言されてしまった以上はそれも叶わない。


 幸いにして、チャンピオンを逃したものの私にはランキング二位という肩書きが残っている。これを武器に『就活』を始めるしかない。



「そういうことでしたら、他に乗せてくれるチームを探します。今までお世話になりました」

「……まあ、そうなるな。うちから離れたとしても応援するよ。頑張りなさい。次からは敵同士だが、手加減はしないからな」

「はい。今まで、本当にお世話になりました」



 暖かい言葉に、思わず込み上げてくるものがあり、頭を上げるのが少し躊躇われた。

 紅さんはレーシングカートで好成績を残しながらもステップアップする資金を用意できなかった私に声をかけ、レース活動に関する一切の面倒を見てくれた。

 レースでいい結果を出せば誰よりも喜んでくれたし、不甲斐ない結果に終われば反省会の名目で食事に連れて行ってくれることもあった。

 そして今も、車をスクラップにしてしまったというのにそれを咎めずただ私の無事を喜び、袂を分かつことになっても幸運を祈ってくれる。

 ここまでしてくれる人と、泣きながらお別れはしたくない。

 涙が出そうになるのを堪え、今の自分が作れるとびきりの笑顔を作ってから顔を上げた。



「うん。ときに三百合ちゃん」

「はい」

「よそへ移籍する前に、うちへの借金返してね」



 その言葉に、私の表情は笑顔のまま凍り付いた。



「忘れてないよね? そういう契約だってこと」



 完全に忘れていた。


 クリムゾンはドライバーに資金の持ち込みを基本的に要求しない。

 ただし、ドライバーのミスにより車を壊してしまったことが明らかな場合には実費が請求される。

 そうしたペナルティを設けることで無謀なドライビングとなることを防ぐ目的で定められているルールだと最初に契約を結んだ際に聞いた記憶はある。


 しかしその時はまさか自分のミスでクラッシュなどするとは思わず、事実今回のクラッシュまで一度もそうしたことはなかったため、完全にこのルールは現在まで忘却の彼方へと押しやられていた。


 全身に冷や汗が噴き出るのがわかった。完全なスクラップをこしらえたクラッシュの『実費』とはすなわち、新車の購入を意味する。



「……ちなみに、いくらぐらいですか」

「うーん、一千万ってとこかな。なにせ全損、全損バトンだからね」



 下らないギャグに愛想笑いを返す余裕もない。

 一千万円。一括返済は考えるまでもなく不可能。分割での返済とすると年百万円として十年。

 いくらか現実的なようにも思えるが私には現在収入が無い。働き口のあても無い。

 そもそも紅さんが分割返済に応じてくれるかどうかさえもわからない。あるのはただただ深い絶望のみ……。



「さて、そんな借金を抱えた三百合ちゃんにいい知らせがある」

「……何ですか?」

「仕事を紹介しよう。この仕事はすごいぞ、なんと三百合ちゃんの借金が全て返せてしまうんだ」



 学歴も職歴も無く、強いて取り柄を挙げるならば若くて健康なことぐらいしかない女に、莫大な借金を返せるぐらい稼げる仕事の紹介。

 レース以外のことについては疎い私でもわかる。まず間違いなく普通の仕事じゃない。


 断らなければ。



「あの……」



 大変もったいないお話ですが、と続けようとしたのを、紅さんが遮った。



「詳しくは今向かっているところについたら話すから。とりあえずこの話はここまでね。あ、レースの動画の続き見る?」

「……結構です」



 選択肢など初めから用意されていないのだった。

 タブレットを再びこちらに向けて紅さんが尋ねてきたが、今はそんな気分にはなれなかった。



「そう? まあ私は見るけど」



 紅さんが画面に触れて動画を再開させる。私は少しでも視界にそれが入ってくるのが嫌で目を閉じた。


 動画の音声だけが私の中に入ってくる。

 F4の排気音。アナウンサーの実況。観客の歓声。その全てをもうサーキットを駆け抜けながら聞くことはできないのかもしれない。

 アナウンサーが、病院へと運ばれていった富士沢が奇跡的に軽傷だったようだ、ということを喋っているのが聞こえた。


 違う。私はもう死んでいるんだ。

 レーシングドライバーとしての私はあのクラッシュで死んでしまった。『ここで引いたらレーシングドライバーじゃない』という信念と一緒に。


 ああ、なんとあっぱれな死に様よ。いつか子供ができたら話して聞かせてやろう。お母さんは昔、決して引かない勇敢なレーシングドライバーだったんだよ、と。

 これからマグロ漁船に乗せられて海の藻屑と消えていなければ、だけど……。

2021年現在、国内においてF4のひとつ上のカテゴリはスーパーフォーミュラ・ライツですが、わかりやすさを重視するためこの作品の中ではF4の上はF3のままです。

特に時代設定が『F4の上がF3だった時代』というわけではありません。

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