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レースシムを始める準備はできている - Part 1

 それから一週間が経過し、このお屋敷に勤めてから初めての給料日がやってきた。



「ひょっとしたら最後かもしれませんが」

「はは……」



 南山さんは私に明細の入った封筒を手渡してそう言った。まったくもって笑えない。



「初任給の使い道はもう決まっていらっしゃいますか?」

「買おうかどうか迷っているものはあります。明日はそれを見に出かけてこようかと思うのですが」

「さようでございますか。お気を付けて」



 『休暇が欲しい』と言わずとも外出があっさり許可されるあたり、やはり明日も私に特に仕事は無いらしい。



「ところでひとつ確認させてもらいたいんですけど、私の部屋から出る騒音って泉さんの部屋まで響きますか?」

「騒音……ですか。ものにもよるかとは思いますが、大声で歌を歌うようなことでもしない限りまず心配はいらないと思います」

「わかりました。ありがとうございます!」



 封筒を受け取り懐にしまい、仕事に戻る。とは言ってもやはり私がする仕事は別にないとのことなので、ここ数日はガレージの隅に転がっていたほうきで適当に庭の掃き掃除をするなどして時間を潰している。

 一度南山さんに見つかったことがあったが、特に何も言われなかったため問題ないらしいと判断して続けている。


 掃除はいい。やれば綺麗になるし、やっている最中はひたすら無心になれる。そのことに気付けたのはこのお屋敷に越してきてよかったと心から思えることの数少ないひとつだった。


 地面を掃きながら明日の休みに思いを馳せる。


 先ほど南山さんには「迷っている」と話したが、実は心の中では『それ』を買うことをほぼ決心している。


 しかし一応できるかぎりのリサーチをしたとは言え、私が『それ』に対し持っている知識は貧弱だった。そこで『それ』の有識者である知り合いに連絡を取り、買い物に付き合ってもらうというのがその日の予定だ。


 その知り合いには既に連絡を取り了承を取り付けてある。彼は私にとって負い目を抱えていることもあり、ノーとは言わなかった。




 そして翌日。待ち合わせ場所である目的地の最寄り駅の改札に、彼はほぼ時間通りにやってきた。私を見つけるとやや気まずそうな様子を見せる。



「……よう」



 私より拳ひとつ分だけ高い身長はおそらく成人男性の平均をやや下回っているが、袖口から覗く無駄な脂肪が削ぎ落とされた手や横Gに耐えるため発達した太い首を見れば、非力といった印象は出てこない。

 がっしりした体つきは一見するとスポーツマンそのものだが、唯一スポーツマンらしくないのは肌がほとんど日に焼けていないところだ。

 それは彼のやっているスポーツが私と同じ――つまり全身の皮膚を決して露出させないレーシングスーツとヘルメットがユニフォームとなっているモータースポーツだからだ。


 双見勝ふたみまさる。年齢は私のひとつ上。今年参戦していたカテゴリーは私と同じF4。

 最終戦まで私が激闘を繰り広げた最大のライバルであり、そのレースの130Rコーナーでの接触で私を病院送りにしたドライバーでもある。



「こんにちは、双見くん。急に呼び出してごめんね」

「いや、大丈夫。……体はもう平気なのか?」

「うん、お陰様で」

「それはよかった……」

「心配してくれてありがとう。じゃあ行こうか」

「ああ。こっちだ」



 双見くんと並んで歩き出す。つとめて明るく振舞ったつもりだったが、双見くんの態度にはどこか硬さが残っているような気がした。

 これまでサーキットで会ったときにはお互いに軽口を飛ばし合っていたぐらいの仲なのだが、やはり私を大クラッシュに追いやってしまった自責の念が拭いきれていないのかもしれない。



「レースシムを始めたいって話だったな?」

「うん。でもどんなものを買えばいいのかわからないから、詳しい双見くんに見てもらおうと思って」



 あの泉さんの送迎から一週間が経ったが、状況は全く進展していない。

 結局気まぐれだったのか、泉さんから再び送迎のお声がかかることはなく、レースシムのプレイ中に声を掛けてみてもやはり「邪魔するな」の一点張り。

 この事態を打破するため、レースシムを始めてみようと思い立ったのだった。


 その思い付きの内訳は、泉さんがこだわるレースシムを私も自腹を切って本格的にやってみれば何か突破口が開けるのではないかという目論見が半分。

 相も変わらず紅さんのお抱え運転手しかやることがないのなら、自室でレースシムやってても文句言われんだろう、どうせもうすぐクビだし、という投げやりな諦念が出てきたというのがもう半分。


 そこで必要となるレースシム機材について、私の知り合いで最もレースシムに詳しい双見くんにアドバイスを貰おうというのが今回の目的だ。

 泉さんの部屋でレースシムをプレイさせてもらった時に口にした、『レースシムをプレイする知り合いのドライバー』とは双見くんのことだった。


 私が初めてレースシムをプレイしたサーキットでのイベントの時も、早々に自分に合わないと見切りをつけた私と対照的に双見くんは長い時間やっていた。

 その後自宅に数十万円だかを掛けて環境を揃えたというような話を聞いたことも覚えている。

 実車とレースシム両方を知る双見くんは、同じ境遇を持つ私がレースシムを始めるにあたってぴったりの相談相手と言える。



「しかし、またどうして急に?」

「最近すごくお金をかけたレースシムをやっている人を見て、ちょっと興味が出てきてね」

「ふーん……その人が使っていたのはゲーム機だった? それともパソコンだった?」

「パソコンだったけど」

「なるほど……ならガチシムの可能性が高いな」

「ガチシム?」

「レースシムで使用されるソフトにも徹底的に現実世界での車両の挙動の再現を目指した『ガチ』なものと、誰でも楽しめるような簡単な挙動を商業上の理由でシミュレーターと称している『カジュアル』なもののふたつがあるんだ。傾向としてはゲーム機で発売されるソフトにはカジュアルなものが多くてパソコンで発売されるものにはガチなものが多いんだけどもちろんその逆もある。最近はゲーム機とパソコン両方で出るっていうのも珍しくないし……」

「その話長くなる?」

「かなり。そもそも『ガチシム』と『カジュアルシム』の境界線がどこにあるかというのも人によって判断の別れるところで……」



 遠回しに『やめろ』と言ったつもりだったが、気付いていないのか、はたまた気付いていながら意に介していないのか、双見くんは喋り続ける。


 私は独演会に適当に相槌を打ちながら、泉さんのプレイしていたものが『ガチ』と『カジュアル』のどちらに該当するのかについて考えを巡らせた。


 これまでずっとあの大掛かりな機材にのみ目が行っており、ハードとは別にソフトがいるということについてまでは頭が回っていなかった。

 しかしおそらく、泉さんのモータースポーツへの思い入れ、そして私が動かしたときの感覚からして、あの機材で使用されていたソフトは双見くんの言うところの『ガチ』なものに違いない。



「それに加えて『ガチ』と言われるソフトたちもそれぞれ得意とするシミュレーション分野というものがあって、例えばこれはタイヤのたわみ表現が最高だけどブレーキングの不安定さの表現はあっちの方が上とか、一概にどれが一番現実に近いとかは簡単に決められない。そこを理解しないと……」

「あっ、あのビルだよね?」

「……あ、ああ。そうそう。五階だ」



 今回の目的地である家電量販店のビルが見えてきたのでまだ続いていた話を強引に話を切ってしまったが、双見くんは特に気を悪くした様子もない。


 自動ドアをくぐり、私たちは五階のパソコンコーナーへと向かった。

 ワンフロア丸ごとがパソコンコーナーとなっている五階の一角に、なんだかやたらとカラフルに光るパソコンばかりが置いてある。

 双見くんによると、これがレースシムをプレイするのに必要なゲーミングパソコンというものらしい。



「普通のパソコンじゃダメなの?」

「ダメ。性能が低くてソフトが動かない。高性能なCPUやグラフィックボードがないと動かせないけど、このゲーミングPCにはそいつらが入ってる」

「この虹色に光る電飾も必要なの?」

「……それは別にいらない」

「値段は……うーん、やっぱり結構いっちゃうね」



 一番近くにあったゲーミングPCの値札を見ると、二十万円強の記載。決して出せない金額ではないし、必要というならば買うつもりではいるが、缶ジュースなんかを買うのとはわけが違う。



「予算は?」

「あまり考えてなかったな。一式揃えるとそんなに安いものじゃないっていうのは知ってるから、多めに準備はしてるけど」

「そうか……他のも見てみるか」



 売り場の中を移動して陳列されているパソコンを見ていく。見ていく、とはいっても私にはパソコンの知識がほとんど無く、形が違うとか値段が違うとかそういったことしか認識できていない。



「これだけあると、どれがいいのかよくわからないね……」

「やりたいソフトに合わせて選べ……と言いたいところだが、レースシムのソフトなんてどれも大体要求される性能は一緒だからな。やっぱり予算で決めるしかないと思うぞ」

「そうか……ん?」


 ふと売り場のやや奥まったところに、大掛かりな何かが展示されていることに気が付いた。よく見てみると、それはレースシムのコクピットだった。



「お、デモ機が入ったのか。ここは最近流行りのeスポーツに力を入れているからか、レースシムの機材もいいのが揃ってるんだ」

「へえ……」



 近付いてみる。フレームは泉さんの部屋にあったものと同じく、金属製の角材で構成されたフレームに実車用のバケットシートが備えられている。

 セットされているハンドル型コントローラーは泉さんのものとは形が違うようにも見えるが、黒く光る直方体の外装は安っぽさを感じさせない。そのコントローラーの前方にはやはりディスプレイが三つ並んでいる。



「こりゃすごいな。どれもフレームもハンコンも、どれも高級品だ」

「ハンコン?」

「ハンドルコントローラーの略」

「なるほど……あ、これ私が見た人が使っていたソフトと同じっぽい」

「これは……"rElement2"か」



 画面を覗き込むと、実際のサーキットで目にするような各車両のタイムが表示されるタイミングシート画面が映っている。この表示には見覚えがあった。

 同じく覗き込んだ双見くんは一瞬でそのソフトの名前を言い当ててみせる。



「このソフト、『ガチ』なの?」

「ガチガチのガチだ。実車レーシングカーの開発にも利用されるぐらいのな」

「そうなんだ……」

「ちょっとひとっ走り、勝負やってみるか?」



 コクピット付近に貼ってあった『ご自由にお試しください』の貼り紙を見た双見くんがそう聞いてくる。ここであのレースのリターンマッチを始めるのも悪くはない。負けるつもりもない、が。



「……やめとこう。日が暮れちゃうよ」

「そうだな」



 我ながら賢明な判断だ。私たちに運転をさせたら、どちらかが勝つまで――いや、どちらかが相手に「参った」と言わせるまで終わらない。そしてそれを自分から言うことは絶対に無い。私たちはそういう人種だから。


 顔を見合わせて双見くんと笑いあう。今日会った時から感じていた双見くんの硬さがようやく取れてきたような気がして私はそれが嬉しかった。



「これ、いいな。私の見た人もこういうの使ってたから」

「随分とリッチな人を見たんだな。これ、かなり高いぞ」

「……なるほどね」



 値札には、機材一式とゲーミングPCを合算した金額が載っている。確かに高い。



「な?」

「じゃあ、これにしよ。すみませーん、これくださーい」

「は?」



 値段を見て『諦めろ』と言う風に勧めてきた双見くんに従うことはせず、カウンターへと向かう。

 即断即決は私のモットーだ。

 目を丸くして追いかけてくる双見くんを私は手で制す。



「おい、本当にわかってるのか? 桁を一つ見間違えてるんじゃ」

「大丈夫、これぐらいなら出せるから。……余裕ってわけじゃないけどね」



 カウンターで揉み手をせんばかりの店員さんに購入手続きと配送手続きを済ませてもらう。配送は明日になる予定とのことだ。


 元の売り場で待っていてくれていた双見くんの元に戻ってきても、彼はどこかまだ呆気に取られている様子だった。



「マジかよ……」

「マジだよ。じゃあ、行こうか」



 高額な買い物をしたからか、カウンターの店員さんが「ありがとうございました、またお越しくださいませ!」と元気な挨拶をくれた。

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