君がいなくてさびしいよ
運転手の仕事に張り合いがあったのはせいぜい最初の三回までだった。
一般道での運転は、例えばウインカーを出さずに急に割り込んでくる前走車だったり、左右確認もせずに横断歩道でないところを横切ろうとしてくる自転車のような危険はあるものの、サーキットでいつ滑り出してコントロールを失うともしれない車を操っている緊張感に比べれば、基本的にずっと楽で退屈だ。
車の運転しかやってこなかったと言ってもいい私にとって向いている仕事ではあるのだが、やりがいはあまり無い。
つまり、端的に言えば飽きたのだ。
無理を言って運転手をやらせてもらっている以上、他に私にやる仕事はない。
再び時間を持て余し始めた私は当初の契約通り、そして泉さんからの信頼回復を狙ってレースシムをプレイする泉さんの元を尋ね、「あの、何かお困りのことでもあればアドバイスなどできるかと……」とおずおずと声をかけてみたりもしたのだが、「邪魔しないで」と取り付く島もない。
一旦はそこで引き下がり、日を改めて二度三度と一蹴され続けていると、流石の私でも泉さんの私に対する好感度が下限値に貼りついているらしいことを嫌でも認識できた。
やはりこれでは『本採用』の見込みは限りなく薄い。紅さんを送迎した後、帰るまでに立ち寄ったコンビニで無料のバイト情報誌を貰ってくるのがここ数日の日課となりつつあった。
そうした状況に置かれていたからこそ、泉さんの下校の送迎をすることになったときは少なからず驚いた。
普段は駅までは徒歩、そこから電車で学校最寄り駅まで通っている泉さんは、当然下校時にはその逆のルートを辿るのだが、その日はどういった気まぐれか、「迎えに来てほしい」と南山さんに連絡があったらしい。
そういうことであれば当然南山さんが向かうべきところだが、南山さんは「どうしても外せない様子がある」とのことで、その役目が私に回ってきた。
いまひとつ気が進まない私に「富士沢様が向かうことの連絡はしておきますので」と言う南山さんに押され、しぶしぶ私は出かけた。
泉さんの通う学校の駐車場には、国産車は一台も止まっていなかった。今私が乗っている紅家の車を除けば。
この車だって決して安いものではなく、新車価格は一千万円を下らない高級ブランドのフラッグシップセダンではあるのだが。
既に駐車場で待っていることはスマホからメッセージを送り連絡しているが、泉さんはまだ来ない。
そんな必要は全く無いというのに、どこか緊張するのを抑えることができない。
紅家に雇われてから私と泉さんがこれまで交わした会話と言えば、朝家を出かける際に「行ってらっしゃいませ」「行ってきます」、夕方に戻ってきた際に「お帰りなさいませ」「ただいま」と言うぐらいなものだった。
あんな出来事があったのだからまず間違いなく私にいい印象を持ってはいないだろうが、それでも挨拶はきちんと返してくれる。
人間こういうところに育ちが出るのだなあ、などと感心はするものの、やはり自分を嫌っているだろう人と密室である程度の時間二人きりで過ごさなければならないというのは気が重い。それが実質的な自分の雇い主であればなおさらだ。
フロントガラス越しに、泉さんが歩いてくるのが見え、私は運転席を降りた。
「お帰りなさいませ」
「お迎え、ありがとう」
「とんでもないことでございます」
後部座席のドアを開け、泉さんがゆったりとした動作で車内に入ったのを確認してこちらもできる限りゆっくりとドアを閉める。運転席に戻り車を出発させる。
やはりと言うべきか、車内に会話は無い。
時折ルームミラーで後部座席の泉さんを窺うと、たいして興味の無さそうな表情で窓の外の景色を見つめている。
いかにも退屈している様子の泉さんだが、話しかけてよいものかどうかと判断に迷う。私には聞きたいことがあった。
「……あの、ひとつお尋ねしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか」
しばらく迷った挙句に意を決して話しかけてみるものの、返事はなかった。もっともある程度予想されていたことではあったけど。
「……どうぞ」
だからこそ、少し間を置いてそう返ってきたのには少なからず驚いた。今日は学校で何かいいことでもあったのだろうか。
この間のような険悪な雰囲気にならないように、慎重に言葉を選んで私は尋ねた。
「どうしてレースシムにそこまでこだわっているのですか?」
ところが返答を待っても、何も返ってはこなかった。
聞こえなかった、とは考えにくい。静粛そのもので、時計の秒針の音しか聞こえてこないようなこの高級車の車内に、私の言葉を遮る騒音など何も無い。
話を聞く素振りを見せてからの無視ということであれば、なかなかいい性格をしていると言わざるを得ないが、いくらよく思われていないとは言え泉さんも流石にそこまで意地悪ではない……はず、との願望に基づいて、私は続けた。
「……紅さんからお聞きしました。紅さんは泉さんが実車に乗ることに反対してはいないと。そして実車に乗ればいいという紅さんの勧めを『今はまだ』とかわし続けていると」
独り言となったとしてもかまわない、言ってしまえとばかりに続ける。
「『今はまだ』ということは、『いずれは始める』というおつもりなのだと思いますが、何故今すぐに始めないのか、ということが気になりました」
泉さんは私に対して嘘をついていたが、紅さんの話を聞く限りいずれは実車モータースポーツを始めたいと思っているのは嘘ではないようだ。
私だけでなく紅さんにも嘘をついている可能性はあるが、ひとまずそれはおいておく。
「実車モータースポーツを始めたいという思いがあって、始めるのに支障はないはずなのに、始めない。一見ちぐはぐなこの思考には、何か裏があるのではないかと思えます」
もし私が泉さんと同じ立場にいたら、迷うことなくモータースポーツを始める。にもかかわらずそれをしないのには、何か別の理由があるはずだ。
『できない』ではなく『しない』であるのがポイントだと私には思える。
その理由は外的なものというよりは内的なものではないかというのが私の予想だった。
「その『裏』に当たるものは、ひょっとしたらレースシムなのではないですか?」
そして泉さんの中にあるそれに該当しそうなものを、私はレースシム以外に知らなかった。
そこまで言い切って、再び答えを待つ。
「……モータースポーツに一番必要なものが何か、考えたことはある?」
ようやく口を開いた泉さんからの言葉は、私の質問の答えからずれているものだった。
何の話をしているのだろう、と思いつつもその問いについて答えを見つけようとしてみる。
モータースポーツに一番必要なものが何か。そうしたことを考えたことはもちろんある。ドライバーの才能。絶望的な状況を跳ねのけるだけの運。悠々とライバルに差をつける速い車。全ての仕事を完璧にこなしてくれる優秀なチーム。だがそれよりももっと大切な、まず一番に求められるものは……。
「お金、ですか」
「いろいろ考えはあるでしょうけど、私もそう思う」
「お金はたくさんお持ちではないですか」
「うちにはある。でも他の人は?」
「他の人……?」
言葉の意図が掴めずおうむ返しになってしまう。私はこれまでレースをやっていく中で他人の懐事情など気にしたことが無かったし、それは何も私に限ったことではなく、だいたいのレーシングドライバーもそうだろう。
「例えば、私とあなたがレースをしたらどちらが勝つか。それを明らかにするには実際にやってみなければならないけれど……」
「私です」
「え?」
「勝つのは私です!」
「……人の話は最後まで聞くものよ」
「すみません……でも私ですから」
誰が相手だろうと、そこは譲れない。自分が誰よりも速いと信じていなければ、一体誰がレースなんてやるのだろう?
「わかったから……。とにかく、今のあなたが私とレースで対決したいと思っても無理でしょう。お金が無いのだから」
「……そうですね」
「すると、私とあなたの対決は不戦勝で私の勝ち。次のステップに進むのは私で、スタートラインにもつけなかったあなたは諦めるしかない。私よりずっと速かったかもしれないのに。ただお金が無いというだけで、チャンピオンになれるかもしれない才能が埋もれたままになる。それは……」
泉さんはそこで一旦言葉を切った。
「さびしいじゃない」
「さびしい……ですか」
さびしい。その一言が妙に私の中に響いた。
これまで耳にしてきた泉さんの言葉の中で、それはもっとも本音らしく聞こえた。
「そういうドライバーを、これまでに見てきたんですか」
「ええ……最近も、一人」
『最近も』ということは、これまでにそうしたドライバーが何人もいたことを示している。
光るものがありながらも、『資金不足』という競技に直接関係の無い要因でその実力を発揮する場所を失ったドライバーたちの無念。そしてそんなドライバーたちを見ながら何もできることがなかった自身の不甲斐なさ。
この世界では珍しくもないこととは言え、何度見聞きしてもそのやるせなさを飲み込むことはできないのだろう。
私もその問題に悩んでいる当事者であるため、その気持ちは痛いほどよくわかる。両親が大富豪でないことを苦々しく思ったことは一度や二度ではない。
もっとお金があれば、いい体制でレースを戦える。練習もたくさんできる。上のカテゴリーに参戦できる……。
一般人にはとても出せない額を用意しなければスタートラインにすら立てない。スタートラインに立った後も、資金量によって活動規模が大きく異なってしまう。
そういったこの世界特有の歪さを正しく歪であると改めて認識するのは、今の私のようにその構造に打ちのめされた者だ。
「……わかりました」
「何が?」
「泉さんがレースシムにこだわる理由が、です」
その歪さを泉さんは見抜き、レースシムを使って正そうとしているに違いない。
並々ならぬ財力を持ち、有望新人ドライバーを発掘すべくクリムゾンレーシングチームを興し入門・中級カテゴリーのレースに参戦を続ける紅家。
それだけでも日本モータースポーツ界の発展に貢献をしているが、この泉さんはそれでもなお満足していない。
現実のモータースポーツより圧倒的に低コストで始められ、なおかつ現実でのドライビングと近いところのあるレースシムを使い、クリムゾンですくいきれなかった才能に日の目を見せようとしているのだろう。
「つまり泉さんは誰でも気軽に始められるレースシムを世に広めることで、これまでのモータースポーツ界では見落とされてきた才能を発見する新たな方法として定着させたいのですね!」
「いいえ」
「え?」
「そんなことどうでもいいけど」
どうでもいいのかよ。今までの話は一体何だったんだ。
「ど、どうでもいい……?」
「ええ。あなただってレースやるのに『何かに貢献するため』とか考えないでしょう?」
スポンサーへのアピールの一環として、そうしたお題目を掲げることはある。
クリムゾンのような比較的小規模なチームなら『レースを通じて夢を与える』だったり、スポンサー向けとしては『幅広い年齢層に御社の商品をアピールできる』など。
自動車メーカーが直接運勢する大規模なチームならば『レースという環境で鍛えた新技術を市販車に導入する』なんていうものもある。
しかし実際にモータースポーツを通じてそうした理念が実現される可能性はそこまで高くはない。まったく無いとは言わないが、費用対効果としては非常に怪しい。
結局のところそれらのお題目は、つまるところ『お金ちょうだい』というあからさますぎるお願いを何とかそれっぽく取り繕ったものである、というのはそのお願いをしている当人の私たちも認識はしている。
「それは確かに……そうですね」
「まあ、今言った話はまったくのでたらめと言うわけでもないけど……私がレースシムにこだわる理由は、別にあるわ」
「なんですか?」
「わからないの?」
わかってたら聞きませんよ、と言いたくなるがもちろん言えない。
「……お恥ずかしながら、さっぱりです」
「……そう。じゃあ、この話は終わり」
これまでとは打って変わってややトーンが下がった声でそう言うと、泉さんは黙りこくってしまった。これ以上話しかけてくれるな、という意思を感じる。
また私は人の言葉に込められた機微を読み取れずに失敗してしまったらしい。
「あの……ありがとうございました」
それはそれとして、これ以上はもうやめておいた方がいいとはわかっていても、何か一言お礼は言っておきたかった私は返事がないことを承知でそう言った。
珍しく饒舌な泉さんに、私はこれまで窺い知れなかった本音を見れたような気がして少し嬉しかった。
「レースシムが本当にお好きなんですね……。こんなにたくさんお喋りできて、楽しかったです」
「……そう」
応答があった。思わずミラーで見ると、泉さんと目が合う。
その顔がほんのりと赤く染まっているように見えるのは、窓から差し込む夕日のせいだろうか?
すぐに視線を逸らし目を閉じて、今度こそ本当に終わりだと泉さんは無言で告げていたが、私はそれでも満足した。
レースシムにこだわる理由は結局わからず終いだったが、今日こうして会話を交わすことができたというのがことは、まだいくらかチャンスはある……と信じたい。
それにしても……レースシム、か……。




