傷痍軍人の過去とその腕前について
「こっから北。アイルランドにあるエディンバラの旧市街で妹と暮らしていたころの話だ」
からんころんと鈴の音が鳴って「らっしゃーせー」と接客のためにローズが場を離れていく。
店長は二杯目の麦酒をカウンターに置いた。
「まだ二十世紀に入る前だったかな。正確な暦は覚えちゃいないが、エディンバラの旧市街を中心に原因不明の疫病が起こったんだ。身体の弱いヤツからばたばた倒れてってな。運悪く妹も死神に足を掴まれた。軍人になったのはそうすりゃ家族へ薬を優先的に回してもらえるから、っつー話を小耳に挟んだからだった。金はなかったが薬はほしい。エディンバラ大学病院なんてご立派なモンがありながらも歯噛みしてるしかできなかった俺はすぐに飛びついたよ。ま、戦場から帰ってきたころには、妹はとっくに土の下だったけどな────」
喉元過ぎれば熱さを忘れる。
一度嚥下してしまった地獄を吐き出すのは驚くほど容易だった。
「────その後、同郷からある話を聞いた。結局、イギリス軍は薬を配らずに引き上げていった。残されたエディンバラ大学病院の民間医師たちが必死に治療にあたったが、結局大多数が死んでしまったそうだ。俺は……仲間と唯一の肉親を殺されたわけだ。イギリス陸軍に。クハハ……いやぁ、こうやって口に出すと錆びつきかけてた怒りを思い出すよ。……本当に」
水滴したたるジョッキを見下ろして、琥珀色の液体の向こうにぼんやりと彼岸を想う。
「……これからも独りで立ち向かうつもりか?」
「どうだろうなァー……。妹や隊長の顔はともかくよォー……一緒に肩を並べて戦った奴らの顔は、だいぶ思い出せなくなった。まだ二年? あー、二年ちょっとしか経ってねェはずなんだが……もう声もうろ覚えだ。戦場から生きて帰ってきた時は裏切った連中を皆殺しにしてやると盲目的に息巻いてたが……実際はそうもいかねェんだよなぁ……」
「それを決めたヤツが分からねぇってことか?」
「いや、戦争の最高指揮官サマが今回のヤマに一枚噛んでるらしい」
「……そうか」
「……余計な気遣いさせてわりぃ」
「お前、歳は」
「へ?」
「どうせまだ二十の後半もいってねぇような若造だろうが。ったく……お前、それが終わってもどうせ行くあてはないんだろう? ウチで用心棒をやらないか?」
「……接客は得意じゃあないぞ」
「それはいちから叩き込んでやる。だから……その……なんだ。くだらねぇとこでくたばってくれるなよ。ローズも悲しむ。ティムだってそうだ。お前をもう一度死なせるためにその腕、つけてくれたわけじゃないだろうがよ。また、飲みに来い。いいな?」
ジョーは気恥ずかしそうに微笑んで残りを飲み干し、勘定を置いて席を立った。
「おいてめぇ、んだァ~? 俺様に、その態度はァ~」
アダマンズがこれからかき入れ時につき、着々と準備を進めようとしていた最中、入り口にイギリス陸軍の腕章をつけた態度の悪い憲兵の集団が現れた。声を荒げたのは、リーダー格と思しき豚面の大男であった。対するローズは眉間に強い不快感をにじませ、組んでいた腕を解いて自らの首を親指で掻っ切るハンドサインを見せつけると、
「テメェらに飲ませる酒はねーっつってんだよ!」
「っ! クソガキぃっ────っ、なんだ、お前!」
「ガキ相手にイライラしてどーしたよ。誇り高き、えーっと……英国紳士? のプライドはどうしたよそこのテムズ川で心まで薄汚れちまったか?」
「っ、離しやがれ! くそっ! っ!」
「ハァ。げん骨こしらえて殴りたくてうずうずしてるクセに大人しく離すかよ」
「オレらに逆らっていいと思ってんのか? ああ!?」
「下がってろ。ローズ」
「でも────」
目線を送って軽く舌を出す。
お前のせいで厄介ごとに巻き込まれた、と言外に伝えられたローズはバツが悪そうにその場を退いていった。憲兵たちはぞろぞろとジョーを取り囲み始める。
「こいつぶちのめしたら次はお前だからな! くそ生意気な足無し女ぁ! 場末のカスみてぇな酒場がいっちょ前に客選びやがってよぉ! まぁ、女として使えりゃあ……ン……あとで身の程ってのを、たっぷりと教えてやるからな……ふひひっ」
「チッ。上等だ。表出な。ぶちのめしてやるよ」
豚がけらけらと嗤っているような醜い表情に不快感を覚え、顎で外を指し示す────
その時、急に飛んできた白い手袋が豚面の横頬をぴしゃりと打った。
「ぅ、ぷっ! 誰だぁ!」
それが投げつけられた方向へ目線を移す。
皆の衆目をいっぺんに浴びたのは、あろうことか隻腕の店長であった。
「てめぇ、どういうつもりだァ!?」
「やるならここでやれ」
「お前……こいつを投げたその意味、ちゃんと理解してるんだろうなぁ?」
「当然。ジョー、こっちに来い」
思わぬ展開に呆気に取られているところを手振りで急かされ、状況を呑み込めぬままカウンター席に歩み寄る。
「おい、いったいなにを考えて────」
「用心棒、初仕事だ」
「はぁ!?」
「お前、疲れてンだろ? そんな状態でクズどもの相手、ぜんぶ押しつけられるかよ。それに……あいつらはローズのことを馬鹿にした上で下種な目で見やがった。ほら、周囲の連中のツラぁ見てみろよ。口には出さねぇがみな、飲むのをわざわざ止めてまで様子を見てる。観客は十分。ここで勝てば連中の面子を一発で潰せる」
「……決闘の内容は? それ用の拳銃はねぇぞ」
「ウチとしても流石に店ん中でドンパチされちゃあ困る。……ベアナックルだ。いけるな?」
「上等。ローズ! ちょっと手伝ってくれ!」
ぼけっとしている彼女を呼びつけつつ、外套を脱ぐ。
憲兵たちがジョーの左腕にぶら下がっているごつい蒸気義手を見て、かすかにどよめいた。
「ど、どうすればいいの?」
「ちょっと独りで外すとなると時間がかかるんでな。言う通りに頼む」
そう告げつつ、腰のガンベルトから拳銃を抜いて弾薬をカウンターに並べる。
そうして蒸気義手を取り外す作業を行っている間に店長が声を張る。
「こっちは決闘用拳銃なんて洒落たモンはないんでな! ベアナックルを提案する。分かるよな? 一対一、布無しの素手の殴り合いだ」
「おいおいィ、素手ならそのでかいのは卑怯じゃねぇのかぁ?」
豚面の問いにジョーが億劫そうに答える。
「心配すんな! こっちは義手なし。片腕だ」
「片腕だぁ~!?」
「……っ!? ジョーっ!」
ローズのひっ迫した声に危機を察知した彼は右腕で彼女を抱き寄せ、直感を頼りに左足踵で下段をさらった。生温かい風を帯びた体毛の濃い腕が、鼻先をぶんっ、と掠める。
「ぐぎッ!?」
豚面が一際醜く歪んでいた。
踏み込んだ足の側面にジョーの踵が突き刺さったのだ。
「しッ!」
顎を下から穿ち抜くような蹴りを叩き込む。
肉を弾く快音が響いた。
「ったく、不意打ちとはずいぶんとせこい真似しやがる」
「ぐ、が! っ、ご、ごいづゥゥ……ッ!」
最後の固定具を取り払って蒸気義手を外し、茫然とするローズに託したジョーは、右半身を前に出しながら反時計回りに歩いた。気分はさながら闘牛士である。
「……さっさと仕掛けてきたっつーことはよォ。面倒な前口上はいらねぇな」
「っ、クソガキぃぁ!」
赤い布に反応して巨体が突っ込んでくる。
木の床を激しくこするように低く、鋭く相手が足を置きたがるだろう場所の一歩横へ────相手の鼻先へ自分の肩を突きつけるように一瞬で踏み込んでいく。
「────っ!?」
驚愕。
そして、焦燥。
「ッ、うらァォッ!」
大きく背筋を反らして後退りながら振り下ろされた太い右腕が十分な勢いを得る────その前にジョーはのびきっていない二の腕を掴んで押さえ、自分の右肩を相手の胸板に押しつけるようなイメージでもって強く、鎖骨ごしに心の臓を揺さぶるつもりで体当たりした。
「────ッッ!?」
息が詰まりそうな衝撃に思わず後ずさろうとするその反動を利用して、右手の位置を二の腕から手首へと滑らせたジョーは続けて腹部に右膝蹴りを刻み込むと、だんっ! と床を踏みしめ、豚面の踏ん張りの利かなくなった巨体をぐるんと時計回りに振り回し────
「ぁ」
呆けたその豚面へ、豪快に右回し蹴りをぶち込んだ。
両足が宙を躍り、頭から床へ墜落ちる。
「ふーっ……」
壮絶な一撃に周囲が完全に沈黙、
銃声。
予想外の轟音に場の空気が一変する。
「──オイ」
どすの利いた声。
口火を切ったのは店長だった。
彼はジョーの拳銃を握り締め、殺気のこもった眼差しで誰かを見ていた。
「あンまりよォ……戦場帰りなめんじゃねェぞ、クソガキども」
凍てついた声を浴びせられた憲兵たち────その中のひとりが腰を抜かす。
少し離れたところには彼らの持ち物と思しき拳銃が転がっていた。
「次、くだらねェ真似したら殺す。ウチの店員の足をバカにしても殺す。返事はァ!」
銃声が響いて憲兵たちはみるみるうちに怯え、床にのびた仲間すら見捨てて一斉に脱兎のごとく飛び出していった。
「あっ! てめ! 忘れモン────ったく……しょーがねーなぁ……」
拳銃をカウンターに置き、ぼりぼりと頭を掻いてため息をつく。
周囲の客たちが状況を察して豚面の手足を持って、ずるずると外へ運んでいった。
あの手慣れた反応を見るに、こういったいざこざは少なくないのだろう。
「おい、ジョー。お前、ずいぶんと古い銃使ってんじゃねェか。こんなん狙いにくくてしょうがねェだろうに。今時のガキですらもうちょっとは凝ったオモチャで遊ぶぜ?」
「……単純だけに信頼れるンだよ。あんたこそ文句を言うわりには一発で当ててたじゃないか」
軽口に軽薄な態度で応じつつ、ローズに預けていた蒸気義手を取りつける。
「そりゃあ俺は……いや、止めておこう。ここは戦場じゃあない。……ジョー。くれぐれも忘れないでくれ。どういう経緯があれ、俺たちは傷ついて戦場から帰ってきた。地獄からなんとか帰ってこられたんだ。お前の復讐にケチをつける気はねェ。だが、これだけは覚えておいてくれ。俺とローズは、なにがあろうとお前がまた無事に飲みに来る日を待ってるからな」
ジョーは、ほんの少しだけ目を伏せて寂しそうに唇をきゅっと結んだ。
イギリス陸軍に────国家に背こうとしている男がそう簡単に生きて戻れるわけがない。
「……できない約束はしねぇ」
「そうかい。幸運を」
店長へ小さく頭を下げて、ジョーは席を立った。
去り際、心配そうな顔で見送りをするローズの頭をぽんぽんと撫でながら、
「またな」
【チャージ料】
──店によっては『チャージ料』をとられることもある。
これは現代で俗に言うお通し代ではなく、入口のドアや備え付けのテーブル、椅子の補償費として客全体から集めている金額だ。
酔っぱらいどものcharge(突撃)に対する、迷惑料の先払いであると言われている。
・・・
第一章完結につき、今後の更新は不定期となります。
ごゆるりとお待ちくださいませ。