征服されざる者
「ヤァヤァ、ジョー! ジョー・スミスぅ! 久しぶりじゃアないか。俺の店、いや俺たちの店、征服されざる者へようこそ! 歓迎するぜ、とくにお前はよォ~」
にィ、と白い歯を光らせて親指を立てる好漢の熱烈な歓迎にジョー・スミスは苦笑した。
カウンターには片足が義足でそばかすの目立つ仏頂面のウエイトレスが座っていて、こちらを見るなりフンと鼻を鳴らして唇を尖らせた。
「てんちょー、どうせまたこいつ金なしだぜぇ? アタシ、金ない客に媚びたくないンだけど」
「ったくお前はよォ……恩人になぁんて口を利きやがる! なぁ?」
そう怒る店長の片袖は、中身なくゆらゆらと揺れている。
ボーア戦争。もはや一兵卒だったころの記憶は薄れ、どうして戦争をしていたのかという理由すら薄ぼんやりとしているけれど、今から約二十年前の千八百八十年にその名の戦争が始まった。ジョー・スミスは、齢に注目すれば店長の後輩にあたる。彼もまたジョーと同じ傷痍軍人だったからだ。
「けッ」
そして、悪態をつく不愛想な女の子は戦争孤児だった。
何年も断続的な戦争と呼ぶには至らない小競り合いを繰り返していると、書類上にはあがってこない小さな悲劇がたくさん生まれる。正当な権利を得た大半の軍人は故郷へ帰るか、コナン・ドイルに巨大な汚水槽と形容されたろくでなしの坩堝と化した霧の都────倫敦へ流れつくようになっていた。この酒場は、そういう連中の数少ない拠り所なのだ。政府から支給された少ない額の手当てを握り締めてろくでなし共が太陽の高い時間帯から酒を煽っているが、それをたしなめるような人間はいない。
綺麗ごとや理想論、正論じゃ渡っていけないと知っているからこそ昼間から酒をあおるような粗野な連中は、唯一ここでは大人しくぬるま湯に浸かって一生かかっても癒えないかもしれない深い傷を少しずつ、少しずつ癒すのだ。
「ティムなら今朝ここへ来たよ。アタシの足と店のメンテナンスをしてた」
ティム。ジョーの義手の技師であり、店長に腕の代わりとなる設備を。ウエイトレスに代わりとなる足を作って与えた。ジョー・スミスの知る中で最も気高い蒸気技師の名だ。
ジョーはごつい軍用マスクを脱いで外套の下のウェポンポーチに引っ提げると、
「それからは?」
「部品の買い出しに出たぜ。ンで、注文は?」
「麦酒」
「また昼間っから酒かよ。けッ」
「相変わらず愛想がないな、ローズは」
「綺麗なバラにも棘があンだよ」
「棘しかないの間違いだろ」
「うっせバーカ」
ぷいっと顔を背けるローズから目を逸らしてカウンター席に腰を下ろす。
店長は片腕でジョッキを掴むと足元に並んだいくつものペダルの中から一つを踏み込んで、樽につながった蛇口からあふれ出した酒を勢いよく注いでいった。酒以外にも小料理やカクテルも楽しめるのが特長で、腕はないが腕前はあるともっぱら評判の店なのだ。
「そういやァ、最近新作を仕入れたンだよ」
「新作?」
「アレだよアレ! 蒸留酒煙草!」
それは、酒をフラスコのような専用の容器に注ぎ、火種で熱して蒸気に変え、煙草のように味わうのが売りの、昨今の蒸気機関の旺盛を象徴する嗜好品の一種であった。
「知り合いのヤツから型落ちしたのを安値で譲ってもらってなァ~。これがなかなか面白いんだぜ~。どうだよ、お前も」
「へぇ。あー、でも今日はいいや。ガツンとアルコールを入れてェ気分」
「チッ、なんだよ面白くねーなァ」
「あんたんとこのいつもの酒がいちばんうまいんだよ」
「にひひ、そうかい。ほれよ」
「グッジョブ」
いつもと変わらぬ酒の深い黄金色の美しさと、今にもあふれそうなほどにしっかりと注がれた店長の手腕に賛辞を送り、ジョッキを掴んで麦酒を煽る。
「ぷはぁ~ッ! ああ…………生き返る……実は昨日から寝てねェんだ。ふわぁ……」
「ンだ? 仕事か?」
「そんなとこ」
「そんな体でよくもまぁやるよ、ホントに。俺ぁ荒事は現役退いたからなぁ……」
「でも厄介客はくるだろ?」
「そういう時はうちの足はないけど足癖は悪い自慢の看板娘がひと暴れしてくれっから」
ぴゅっ、と義足で風を切って胸を張り、堂々と暴漢を追い返すローズの姿が脳裏を過ぎった。
「相変わらずあぶねぇことさせてるなぁ……」
「その辺の弱っちい女と同じだと思うなっつーの」
「はいはい、分かってるよローズちゃん」
「がうッ!」
「猛犬かよ……」
今にも飛びかかってきそうなローズからちょっと距離を取っておく。
「そういやジョー。お前、最近はどうなんだ?」
「どうって?」
「そりゃあ……お前、アレだよ。アレ」
「ティムが心配してたぜ。まだあの死にぞこない、復讐諦めてねーって」
舌を甘噛みして目を逸らす。
「アタシはよく知らねェんだけどさ。戦地でよく分かんねぇ機械と相討ちになって、ティムに助けられて、んで実はその機械はイギリスの軍のモンで仲間皆殺しにされた恨みを返す、っていうのが目的なんだよな。あんた」
「ローズ!」
「っ、わ、わりぃ……」
「ったく……すまねぇな。デリカシーのない子で……」
「いや、乱暴なまとめ方だが、まぁ、その通りだ。俺のいた部隊はなぜかイギリス陸軍の意匠が施された謎の人の形をした機械に俺以外ぶち殺された。辛うじてぶち殺し返してやった。俺がティムのもとで一命をとりとめた後に様子を見に戻ってみたが、ヤツにつながりそうな痕跡はなにも残っちゃいなかった。ただ凄惨な戦闘の痕跡だけがあった。そっからかな……漠然とした政治不信が復讐心って形を持ち始めたのは」
ジョッキを開け、心中複雑な思いが織りなす圧に耐えかねた精神が、重たいため息となってこぼれ落ちる。無言でおかわりを注いでくれる店長の気遣いが沁みた。
「俺が軍人始めたきっかけって話したことあったっけ」
【わたくし、長男以外とは踊りませんの】
貴族主義の衰退が激しい二十世紀ではややなりを潜めたものの、十九世紀では上記のような光景がよく見られた。貴族は、その財産の相続権を長男が持っており、次男や三男に価値はなかった。
なぜこのような形態になったのかを語るには当時の情勢を紐解いていく必要があるため割愛するが、長男ではない男児たちが舞踏会において肩身の狭い思いをしていたのは間違いない。逆に少女とその母親は、彼女たちの総数に対して決して多くない長男を取り合って熾烈な争いを繰り広げたという。十九世紀や貴族が舞台だとドロドロしたラブロマンスものになりやすいのも財産の相続権を持つ長男を捕まえた女性が実質総取りできる、という博打じみた制度に起因する。
ちなみに長男が死ねば弟たちに権利が委譲する。そのせいで血で血を洗う殺し合いに発展したというケースも少なくない。なお長女やその妹たちに相続権はなかったので、長男が死んでも(少なくとも資産、金銭的には)なんの旨味もなかったと言われている。




