手法明かし
「ふふん。いいね! わたしたちが求めていた表情!」
彼女は手を叩いて喜び、椅子を引き寄せてレイチェルの前にどかっと座った。
「さぁ、次はきみが楽しませてくれる番だよ。レイチェル・アンバー」
「……もう一度、トランプを見てもよいですか?」
「どうぞ」
今度は一枚、一枚を入念に確かめる。
枚数に細工がされているわけでも、印象付けしやすいように絵柄に細工がされているわけでもなかった。タネも仕掛けもない至って普通のトランプだ。レイチェルは手元のトランプを返すと次にカードが仕込まれていたタイルの提示を要求した。タイルを接着する際にわざと仕込まれたのは明白であるが、問題はどうやってこちらの思考を誘導したのか。いつカードを仕込んだのか。トランプにタネはないと確認し、その後の展開にも見るからに怪しい所作は見受けられなかった────
「────分かりました」
その時、謎の少女から笑みが消えた。
「しょうもないハッタリじゃアないよね? 間違えたら殺すよ?」
「タネは大胆かつ巧妙に、しかし実は非常に単純なものです。今から解説しますので」
と言って手を差し出すと彼女は肩をすくめてトランプを手渡してくれた。
「正直、にわかには信じられない思いです。しかし────」
「複数の仮説の中で間違っているという証拠があるものを排除していけば、最後に残ったものがどれほど信じられなくても真実である。シャーロック・ホームズの有名な推理論だね。言い換えるならば間違っているという証拠が見つかっていないから真実だという詭弁だ」
「ホームズは間違えません。ぼくもここで間違える気はありません」
「空想と現実は違うよ。でもその心意気は面白いかな」
ペースを握られている。
そう感じたレイチェルは咳払いをし、改めて謎の少女に向き合った。
「この手品には二つの壁があります。一つ目はどうやって相手に意図的に絵柄を印象付けするか。正直言って、この一つ目が厄介でした。なにせこの工程は証拠に残らないからです。正否はそちらの胸先三寸。しかし、推理を進めていくにつれてこの手品を選んだ時点であなたに悪意がないと分かったのです」
「……具体的にどうやって意図的に絵柄を印象付けるの?」
「錯覚です。目の。具体的に言うならトランプの山を二重に固定するのです。人差し指で前半分を。中指で人差し指と後ろ半分を。っと……こうでしょうか。するとどうなるか」
ばらららららっ────ぎこちなく流れていくトランプが急に止まった。
「こうすると人差し指で固定していた前半分は解放され、中指で固定された後ろ半分が残ります。この時、一瞬だけ……この人差し指から中指へと切り替わるタイミングに見える絵柄だけは────ほんのわずかな差ですが────相手に強調して見せることができます。あなたはこれを人差し指の腹や中指の腹でより細かく行い、わざと前半にスペード、クローバーと地味な色のエースを見せ、最後にハートのエースを。赤くて見つけやすいですからね」
「ちょっと待った。その推理を信じるならば、こちらがトランプの配置をすべて記憶していたことになるんじゃあないかしら? こちらはトランプの絵柄を見ていない。そうでしょ?」
「いいえ。あなたは絵柄を見ました。ぼくがトランプを返す直前に、ぼくがちゃんと確かめないことを訝しんでこちらを覗き込んだ。絵柄を全て覚える必要はないのです。極論、このトリックをするためなら覚える絵柄は一つでいい。ハートのエースだけ覚えておいて、それが後に来るようにシャッフル。前半は地味な黒い絵柄を二枚見せ、後半に赤い絵柄を一枚見せるだけ。そう考えるとハートのエースを使ったのは、そちらの気まぐれだったのでしょう。何故ならあなたは、ぼくがどの絵柄を記憶してもよいと思っていたから」
「ふぅん?」
「二つ目の問題は、あのハートのエースをいつ仕込んだか、ですがこれは簡単でした。あのカードは最初からあそこに仕込まれていた。すなわちそれがそのまま答えだったのです」
「続けて」
「たとえばハートの五。これを今回は使おうと思った。そうしたらあなたはカーテンの裏に向かう。たとえばダイヤのキング。そうしたらあなたはテーブルの下へ向かう。要するに部屋中にカードを前もって仕込んでおき、印象付ける絵柄を決めたら仕込んだ場所へ行ってあたかも現在進行形で仕込まれたかのように見せるのです。その証拠に、このトランプは一枚も欠けていない。何の変哲もない。タネも仕掛けもない至って普通のトランプだったのですから」
「面白い仮説ね」
「ではこの部屋を調べさせてください。間違っていないという証拠を探し出してみせます」
そう言ってレイチェルは立ち上がって窓へ向かった。
カーテンの裏地にもあるだろう、と予想して────手をかける。
「……なんの真似でしょうか」
硬い。
かちりとなにかが起きた。
撃鉄。
銃を突きつけられている。
「いやぁ、早いね。思ってたよりすごいじゃん。でもそれ違うよ、って言ったらどうする?」
「ぼくを試しているのですか?」
「どうしてそうなるかなぁ。単純に間違ってたら、っつってんじゃん」
「あなたは嘘をつきません。間違っているならそう断言するでしょう」
「ハッ、なにそれ。会って数分で人の性格を見抜いたつもりになってるの?」
「いえ」
「またお得意の推理ってワケ?」
ゆっくりと振り返る。
謎の少女は拳銃を握り締めたまま軽薄に笑っている。
「逆に質問してもよろしいでしょうか」
「なに?」
「あなたはぼくが、その絵柄は思っていたものと違う、と答えたらどうするつもりでしたか?」
返事は沈黙だった。
「トランプを用いた手品の場合、相手に有無を言わさずに答えを叩きつけるようなものはいくつもあります。そのほうが難癖をつけられずに済むからです。しかし、あなたは相手の印象に頼った手品をあえて選びました。それはなぜか。ぼくの人間性を試すためです。意図的に見せた絵柄と同じカードを取ってみせて違うと答えるか、正しく驚いてみせるか。マジックは観客と奇術師の信頼によって成り立ちます。彼らは魔術師ではありませんから、その行いには必ずタネが存在します。しかし、どうせタネがあるからと食ってかかるような客と奇術師とでは円満な関係は望めません。探偵の推理も同じです。シャーロック・ホームズが卑しい浮浪者だったなら、人々は彼の推理に耳を傾けようとはしないでしょう。肝要なのは信頼なのです」
「ハッ! くくく……あははははは!」
謎の少女は腹を抱えて笑っている。
そして急に自らのこめかみへ銃口を向けたかと思うと一切の躊躇いなく────
パァン!
呆気に取られた後、気づく。
銃口から旗がのびている。
そこには洒落た字体でこう記されていた。
────ようこそ倫敦へ。
驚くレイチェルを他所に勢いよく開け放たれたカーテンの向こう側には広大なテムズ川、それを横断しているのは千八百九十四年に完成した跳開橋、そして霧の都の象徴たる巨大な蒸気機関時計塔がそびえ立っていた。
「あ、窓は開けないほうがいいよ。今日はいちだんと大気汚染がひどいからね。っと、自己紹介がまだだったね。わたしたちのアジトへようこそ。わたしたちは個々を識別する名前を持たないんだけれど、それじゃあ困るだろうから形式上の名前を一つ、きみに教えておくよ。一度しか言わないからよぉく覚えておくんだよ。わたしの名前はレイン・メーカー。きみをこの霧の都まで運んできた男の雇い主さ」
【煙草】
ホームズのイメージで英国では昔からパイプが盛んだったように思うかもしれないが、18-19世紀中ごろの貴族層においてはスナッフ(かぎたばこ)の方が上等との見方が強く、また後半に入るとシガー(葉巻)やシガレット(紙巻たばこ)が流行した。つまりパイプは長らく、労働者階級の使うものだったのである。
また紙巻きたばこは手軽さゆえに、第一次クリミア戦争の頃に(短い時間で楽しめることもあってか)普及したという俗説がある。マッチの発祥も19世紀英国にあり、商品化したそれはLuciferと呼ばれた。こうした火付けの簡便さ向上も紙巻きたばこという時短ツールの流行に拍車をかけたものと思われる。
余談ながら、手の親指を反らした際に手の甲側、手首近くにできるくぼみを「解剖学的かぎたばこ入れ」と言う。そこに粉末状のたばこを載せて鼻から吸ったことが由来だ。
なぜそこを利用したかというと、粉末状であるため掌側に載せては――汗や脂が付いて――変質するから。また手の甲は鼻をすすったあと拭う動作に使用しがちなので、粉が残っていた際にも無駄がない、ということらしい