謎の奇術師
見知らぬ少女。
銀のスプーンを逆に咥え、膝の上に置いたグラスを両手で支えながら穏やかに瞑目している。
彼女はいったい何者なのだろう。
見知らぬベッドで目が覚めたレイチェル・アンバーは、、まずその問いを片付けるべく横になったまま周囲を見回した。
薄暗い部屋だ。パチパチと焚き木が火にあぶられて表面の水分を奪われ、小気味よく割れ、崩れ、灰と化していく工程を経て暖を取ることができる────至って普通の暖炉があり、その前で談笑できるようにと丸いテーブルがある。椅子は二つ。片方は謎の少女が使用中。窓からは明かりが差しているが、カーテンが締め切られているので外の様子は分からない────。
レイチェルは次に謎の少女の観察を始めた。
まず、全体をぼんやりと捉える。中肉中背。ミルクチョコレート色の頭髪の大部分をお団子に結わえていて、余りは両耳を隠すように垂れ下がっていた。顔はとても小さい。首元には黒いチョーカーがあり、シャツの首元から見える鎖骨はやや骨ばっている。両腕は細く、グラスを包み込む両手は陶芸品のようだ。しかし、その手のひらは強い洗剤に晒したあとのように荒れていて、指先にはタコのようなものができていた。長年、手を酷使する職場にいた証だろう。ちょこんと折り目正しく揃えられた膝から下へとのびていく足はすらりと細くて長かった。
第一印象をまとめるならば勤労な女中。磨けば光る灰被姫。
ただ、一つ解せないのはあの銀のスプーン────
「……んぁ」
びくっ、と肩が震えた。
眠りに落ちかけた人間が咄嗟に起きようとするときに見せる反応だ。
────キン、カランコロン!
唇の圧が緩んだ隙に飛び出していったスプーンがグラスの中で踊っている。
「んん……んっ、ぁ~……ちっ。ぜんぜん効果ないじゃん、あの馬鹿。……あっ、おはよう」
「…………………………」
「どうして隠すのかな。毛布で。顔を」
「……笑顔は狩人が獲物を油断させるためのもの、と本で読みました」
「あっはっは。ふぅん……そうなんだ」
「彼はどこへ行ったのですか?」
「さぁ……どこだろうね……」
「なぜ……歩み寄ってくるのですか?」
「ん? フフッ」
毛布に顔を隠しながらも目を離せない。
恐ろしいという思いと知りたいという気持ちがせめぎ合う。
彼女はおもむろに懐へ手を伸ばした。
そして、
「一つだけテストをしよっか。正解できれば、わたしたちの正体を教える」
たち?
部屋にはレイチェル・アンバーと彼女だけだ。
「もしも……間違えたら?」
「あはははっ! それはないでしょー? だってきみは世界でたった一人の専門的な助言をする探偵、なんだから。さ、始めよっか」
「……トランプ?」
「そう。タネを見破ったらきみの勝ち! 簡単でしょ?」
見破ったら。
その言葉を聞いてレイチェル・アンバーは、息を吐いて上体を起こした。
服装は昨日、ジョー・スミスに指定された通りの地味なものだった。
つまり今は昨日からの地続きである。
ということは──脱走劇はまだ中途。
意気消沈するにはまだ早い。
「ふぅん……怯えた子犬の目をしていたのに……本気になった?」
「少なくともあなたはアンバー家のものではないでしょう。かといって単純に味方にも見えない。ぼくは臆病な性格です。知らないと不安になってしまうので、知るためには容赦できませんがそれでもよろしければ────どうぞ」
深呼吸をして背筋をしゃんとのばし、真っ直ぐに向かい合う。
相対する彼女は口角を大きく引き上げると箱の中から真新しいトランプを取り出して言う。
「確かめて」
受け取ってパッと扇状に広げる。ハートとクローバー、ダイヤ、クラブ。至ってシンプルなトランプだ。「何の変哲もない」────とこちらを覗き込みながら思考を先読みするようなことを得意げに言うので、レイチェルは首肯してすぐにそれを返した。
「もっといろいろと確かめなくていいの?」
「ショーを楽しもうという時にわざわざ舞台裏を見せてくれ、なんて野暮な真似は言いません」
「……余裕なんだ。ふぅん」
しゃっしゃっしゃっ、と下層から抜いた束を上に乗せるヒンドゥーシャッフルを数回繰り返した後、それを二つの大きな束に分けてしゅるるるると手で作った輪の中で勢いよく交互に重ねていくリフルシャッフルを行っていく。
彼女が実際にそうであるかはさておき奇術師としての心得を持っているのは疑うまでもない。となると手の荒れや指先のマメはその練習の跡だと考えられる。
「そういえばなぜ、スプーンを咥えていたか分かる?」
「……いや」
「知り合いの天才がね。良い発想が浮かばない時は、寝ぼけながらスプーンを咥えてその落ちる音が脳? の間の閃き中枢とやらを刺激してくれる、なんて言うんだよ。だから試していたんだけれど全然ダメ。やっぱりさ。頭の出来が違う奇人の尺度で考えられた小技を凡人が真似ても効果があるわけがないよねぇ。やっぱり身の丈に合った方法じゃなきゃ」
「そうですか」
「そうだよ。眼鏡だってそう。度が合わなきゃ物は見えない。近すぎても遠すぎてもダメ。……さぁ、よく見て。よく近づいてしっかりと見てね」
彼女が言う。
トランプの束を、絵柄が見えるようにこちらに突き出しながら。
「パラパラっと流していくから一つを覚えて。あっ、全部は覚えちゃダメ。きみ、そういうのできちゃいそうだから。念のために、ね。オーケー?」
横にしたトランプを指で反らす。
ざぁぁっ!
豪雨のように流れていく中で雨粒一つひとつを見分けるのが難しいように、赤と黒の絵柄だけがぼんやりとちらついている。
「おっと早すぎたわね。もう一度」
ぱららららっ!
ダイヤのキング、ハートのクイーン、クラブのキング────一枚。一枚だけ覚える。
「見えた? それとも近すぎた? それとも遠すぎた? 目は嘘をつかない。けれどピントが合っていないと簡単に欺かれる。すべてのものは見方次第。さぁ、もう一度」
ばららららッ!
とめどなく流れていく絵柄の中でエース、エース────ハートのエースが目に留まった。
「覚えた?」
頷く。
「この中にある?」
雑に扇状に広げられた中にハートのエースは見えなかった。
「ふぅん。じゃあさ────」
そう言ってトランプをレイチェルの手元に押しつけた彼女は、小走りで暖炉に駆け寄ってその表面を彩る石造りのタイルに手をかけた。
「────これ?」
指で剥がしたそのタイルの裏側には薄汚れたハートのエースが貼り付いていた。
レイチェル・アンバーはわずかに息を呑んだ。
『三本足』
中産階級から見た貴族階級、ステッキをついた連中のこと。
ハンドサインでは人差し指中指親指を立てて地面をノックするような仕草で示す。
しかしだんだん上の階級にも揶揄でのアクションだと浸透したため、「クリケットの練習です」「フォークを投げたくて」というのが言い訳に使われるようになった、と言われている。