シャーロックホームズ、登場
聖夜の喧騒に包まれる町を背にジョー・スミスは独りで丘を上っていた。相棒のティムは一足先に馬車で町を出た。彼女はあくまでも整備師なので、仕事に介入することはない。
──ここから先、アンバー家の敷地なり。
警告用の立て看板を横切って進む。
二十世紀初頭、産業革命が訪れて時勢が急速に移り変わる中でも貴族の社会的地位を象徴するのは土地であった。彼らは広大な土地を農民に貸し与え、労働の義務を課し、その成果物を取り立てることを収入の一つとしていた。しかし広すぎる土地を十分に見張るのは現実的ではなく、狐狩りなどをよく行っている地域を除けば館への接近は容易であった。
「密猟者用の対人用罠はなし。っと、あれか……」
茂みに身を潜めながら遠くを窺う。
三階建ての立派な洋館が、開けた丘の奥に建っている。傍らには業者用の馬小屋。漆黒で彩られた寡黙な老紳士を連想させるシックな箱型四輪車両もあった。蒸気自動車が主流になって久しい昨今だと街中で見かけることは少ない。大抵は貸馬車で事足りるからである。
「脱出用にしちゃあ目立つが、選り好みはできねぇか」
馬小屋の位置を記憶して茂みの中を進む。
近づいて見た感触では、館の中は静かであった。
粛々と聖夜を祝い、片付けを終えて眠りについたのだろう。
少なくとも正面玄関に見張りはいなかったので、押し入り強盗などを気にせずとも良い程度にはこの辺の治安は保たれているのだろうとジョーは推察しつつ、建物の影が覆い被さっているところから茂みの外へ出た。窓に近づいてこっそりと覗き込む。
「無人。さてさて……鍵が締まってないとありがたいんだが……」
開いた。
使用人の怠慢やうっかりで鍵がかかってない時はちらほらある。一発目から当たりを引けたのは僥倖だった。窓を押し上げ、柵を乗り越えるように身を滑り込ませる。
「客間か」
大きな館になるとスペースに余裕があるため、私用に使う部屋と来客用の部屋は分けて作られる。一階は主に調理場や使用人が寝泊まりする部屋、そして来客用の部屋が割り振られる。館の権利を有する主及びその肉親は使用人よりも上の人間であるため、文字通り階上に部屋を構えることが多いのである。
警戒しながら廊下に出たジョーは抜き足差し足で正面玄関までやって来ると、天使の抱擁を連想させる柔らかな曲線を描いた階段を見つけた。ほとんど何も見えない。燭台の火がどれも消されていたせいでもあるし、窓税撤廃前に建てられた建物だったのだろう、この正面玄関には月明かりを取り込んでくれるような窓が一切なかったので、暗闇に目を凝らしてようやくぼんやりと窺えるわずかな物の輪郭を頼って階段を上っていく。
「それではお嬢様、失礼いたします」
ジョーは、すぐさま手すりの裏側に身を隠した。
こっこっこっこっ。
反対側からランタンを携えた小柄な使用人が現れた。
真っ黒闇などなんのその、軽快なテンポで足早に階段を下りていく。
ジョーは彼女が通り過ぎていくのを見送ってから反対側へと転進した。
「さてさて……」
お嬢様の部屋とやらはどこだろうか、と扉に挿し込まれた札一つひとつを確認していると、不意に数歩先の扉が、ギギギと不気味な音を立てながらかすかに動いた。
「っ!」
反射的に右手で拳銃を掴む。
「ったく、脅かすんじゃねぇよ……」
ぽつりぽつりと一人ごちつつ、ジョーはその扉の中をそっと窺った。
甘い。
香りがする。
しかし、なによりも目を引いたのは天井を除くすべての箇所におびただしいまでの本が無秩序に置かれていたことだった。年季の入った古書から昨日で発売倫敦したばかりのタブロイド紙まで。英国中の書籍を蒐集しているのではないかと見紛う光景にしばし絶句していたジョーは、本の海に浮かぶ無人島を見つけた。
小柄な膨らみが横たわっている。
ジョーは、右手の甲でそっと扉を開け、隙間に身体を滑り込ませた。
なんとかベッドに歩み寄って掛け布団に手をのばす。
「動かないでください」
声変わりを迎える前の少年のような中性的な声だった。
ゆっくりと両手を上げる。
背中になにかを突きつけられている以上、敵意がないことを示すのは最優先事項だ。
「サンタクロースの顔を一目見たくて夜更かししちゃったのかな? お嬢ちゃん」
「その左腕、ずいぶんと不自由そうですね。プレゼント配りに支障はないのですか?」
「…………お気遣いどうも。生憎と見た目ほど不自由はしていないね」
「そうですか」
予想よりもずっと淡泊な反応に拍子抜けした。
その後も、ただただ沈黙が場に滞留し続け、ジョーはついにしびれを切らした。
「……なぁ」
「なんでしょう」
「なにか質問はないのかよ」
「必要だと思えば行います。今は、その必要はありません」
「なぜ」
「どうして訊ねるのですか」
「お嬢ちゃんが不気味なほど落ち着いている理由を知りたいと思ってね」
一瞬、考え込むような曖昧な返答をした後、彼女は口を開いた。
「ミス・クリスティーナは足の大きさが二十二センチ。歩幅は平均二十センチです。小柄で歩幅が小さいため、他の者と同じテンポで歩くと置いてきぼりになってしまうので、彼女の足音は、こっこっこっこっ、と駆け足に近いテンポを刻みます。勝手知ったる家の中でこっ……こっ……こっ……と警戒しながら歩くような真似はしません。であれば考えられるのは賊かサンタさんです。まさか軍人さんだとは思いませんでしたが」
「信じられない」
「ふむ、そうですか……コナン・ドイルの著書に赤毛組合という作品があります。そこに登場するジャベズ・ウィルソンという男性は、ホームズに素性をずばりと言い当てられた際、今のあなたと同じような反応をしていました。作中のホームズの言葉を借りるならこうです。訳の分からないものはすごそうに見える、と」
とんとん、と肩を叩かれた。
「もうよいですよ。振り返っていただいて」
まるでお役所の待合室で長々と待たされたのにも関わらず、何の説明もなくただ一言、終わりましたよと告げられた時のような肩透かしだった。ジョーはいかにも腑に落ちないという顔でゆっくりと後ろを向いた。
突きつけられていたのは古ぼけた回転式拳銃だった。護身用に持っているのだろう。長年の職業病から武器の判別を済ませたジョーは、そっと目線をレイチェルへ移してかすかに息を呑んだ。
少年にも少女にも見える寓話の天使のような顔立ちの少女だった。
もこもこした温かそうな寝間着に透き通った白い肌、外界の穢れとは無縁の容姿にはある種の神々しさすら感じられる。寒さでひび割れたジョー自身の手と彼女の瑞々しい手を見比べるだけで、徹底的に世の中から遠ざかった鳥かごな環境で大事に育てられてきたということが理解できた。
愛されて、ではない。
なにかの目的のために何世代も交配を繰り返した農作物のような、そういう成果物の到達点の一つを見せられている。ジョーには見覚えがあった。ボーア戦争時、イギリス陸軍が占拠した町で行われた改革と同じだ。明らかにこれはふつうの教育ではない。貴族のお嬢様に施される英才教育とも違う。これはただの────
「あなたのお名前は?」
「っ。ジョー。……ジョー・スミス」
「スミス……鍛冶屋の家系ですか? それともジョン・スミスと同じ系譜?」
「偽名だ」
「なるほど。では少々お待ちくださいませ。着替えと荷造りの残りを済ませます」
レイチェル・アンバーはそう言って、リボルバーを近場のテーブルに置くと、こちらに背を向けたまま上着の裾に両手をかけようとした。
「おい」
ジョーは、思わず声を荒げた。
「はい?」
「まさか目の前で着替えるつもりか?」
「脱走を企てようとしているのですから、選り好みはできないかと」
「そんなんじゃ速攻で犯されるか、奴隷商人に掴まって競売行きだ」
「…………では、あなたの意見を聞きましょう」
「意見?」
「奴隷商人に捕まらず、純潔を散らさずに済む方法を訊いているのです」
呆れた。
それで自由になりたいなどとのたまっているのは、現実を知らぬ理想家の机上の空論と同じだ。しかし彼女は至って真面目に質問をしている。どこまでも真剣なのだ。彼女は嘘をついていない。彼女が世界でたった一人の専門的な助言をする探偵であるならば、当て推量はしない。必ず自分なりの根拠があって言葉を選んでいるのだろうと、ジョーは長年の対人経験で理解していた。
「まず、他人に無防備な姿は見せるな。それから回転式拳銃はなにがあっても肌身離さず持ち続けろ。独りの時と湯浴みする時以外は絶対だ。ホルスターは?」
「あります。これをねだった時に」
「出せ」
びくっと小さく震えた。語気を強めすぎたかもしれない。
このような真似をしても報奨金の額は上がらない。それは分かっていた。だけど何も知らせぬまま外へ連れ出して、そのまま外道どもの食い物にさせるのは彼の倫理観が許さなかった。
「これです」
「椅子、借りるぞ」
と言うだけいって了承も待たずに座る。
よくなめした革製のホルスターベルトだ。当然、使った形跡はなく新品同然だった。予備の弾倉を入れるポーチやナイフを吊るせる鞘袋まである。イギリス陸軍将校が使っているような軍備品の余りを横流ししてもらっていたのだろう。
「スカートは穿くか?」
「どうしてそのようなことを訊くのですか?」
「ズボンがあるなら絶対にズボンだ。そのほうが動きやすいし、なによりお前の顔立ちなら女の子だと思われにくくなる。駆け落ちしようとした貴族の令嬢なんかを運ぶ際は真っ先に断髪を言い渡す。大抵はごねられるが髪の長い綺麗な女、というだけで人目につく。身体的特徴は人探しにおいてもっとも重要な要素だからだ。まぁ、お前の場合はもともと髪が短いからその心配はしていないが、もしも自由になりたいなら嫌でも俺のやり方に従ってもらう」
「変装は好きなので服装にこだわりはありません」
「ならいい。さっさと準備しろ」
「……怒っているのですか?」
「あン?」
「いえ、その……なにか苛立っているように聞こえたので」
「どうせ俺がどう答えようとその見透かしたような目で、なにを考えているのか読めるんじゃあねぇのかよ。シャーロック・ホームズのように」
「それは違います」
力強い断定だった。
それまでこちらの勢いにやや怯えていた少女のものとは思えない。
逆鱗に触れたのだ。ジョーは理解した。
【シャーロック・ホームズの捜査手法】
シャーロックホームズの捜査手法は現代の科学捜査に通ずる点が多い。たとえばコナンドイルの代表作、緋色の研究では血中のヘモグロビンに反応して色を変える────つまり昨今の科学捜査では当たり前の血痕が付着しているかどうかを調べられる薬品を、独自に実験、開発しているシーンがある。
また、ホームズは現場を積極的に、率先して調べていて、その姿はよく訓練された猟犬のようだ、とワトソンが評している。
これらの情報から推察するに彼は刑事でありながら鑑識としての能力にも秀でた一人警察署だったと考えられる。1829年に設立されたスコットランドヤード警察には、まだ科学捜査という概念がなく、ようやく指紋捜査が導入されたのが1900年代の話だった。シャーロックホームズシリーズの一作目緋色の研究が1887年に登場したことから考えられるように、シャーロックホームズシリーズの爆発的な人気は奇しくも当時の科学捜査の質を押し上げる結果になったのである。
余談ではあるがエジプトでは一時期、警察の教科書として採用されたこともあるとか。
破天荒なイメージが強いホームズであるが、その認識を今一度改めてみるのも面白いかもしれない。