ジョセフ・ベル教授の最後の授業
目を覚ますとどこかのベッドの上だった。
手足に巻きついた管や機材から病院だと理解したジョーは、年越しの挨拶を聞くより先に刑事からある宣告を受けていた。
「きみは、死刑だ」
裁判はどうした、と反論するつもりはなかった。
あれだけの人を殺しておいてのうのうと生きられるとは思っちゃいなかったからだ。
「いつ?」
「明日」
「早いな」
「年末にあんな大騒動を起こしたんだ。住民はみな怯えている」
「安心させるためのポーズだっていうのか」
「絞首刑になる」
「見世物にする気満々だな」
「今夜はなにが食べたい」
「最後の晩餐かよ」
「死刑囚にはそうする習わしだ」
「レイチェルはどうしている」
「被害者の遺族だぞ」
「彼女の顔が見たい」
「話にならんな」
そう言って刑事は部下を引き連れて病室を去っていった。
この早急な死刑にはなんらかの思惑を感じずにはいられなかった。
おおかたダーバードの背後にいる人間が事情を知っていそうな人間を消しにかかったのだろう。彼の生存は重要じゃなかった。ただ、レイチェルの今後が心配だった。
また戸が開いた。
体調を慮りにきた看護師だろうか。
「なんだ。もっと怯えた顔してるかと思った」
見慣れない看護師の姿から、なぜか聞き慣れた声がした。
「てめぇ……なにしてやがる。レイン・メーカー」
「なにって事後処理ですけど?」
「口封じか」
「でもその様子じゃ逃げ出しそうにないね。大人しく吊られる気?」
「俺の復讐は終わったよ、もう」
「彼女、文句言ってたよ。人の車を山中に乗り捨てた挙句、支払いもせずに死のうとしている最低な客がいるって」
「今回の仕事の報酬全額で」
「払い元、死んじゃったんだけど」
「英国海軍からもせびってたろ」
「たしかに」
「けッ」
枕に体重を預けて曇り空を見上げる。死刑囚にあてがうには良すぎる部屋だった。どうやらなにもかもが異常事態で、扉を一枚隔てた向こう側は慌ただしく事が動いているようだ。
「彼女は今、違う病棟で療養中のジョセフ・ベル教授のもとを訪ねているわ」
「無事なのか?」
「ええ。ただアンバー家は実質終わり。女で相続権を持たない彼女の手元にはなにも残らない。本人は自由を得て、逆にせいせいしているようだけど。これからも大変でしょうね」
「そっちはどうするんだよ」
「私たち?」
「いや、お前自身」
「ああ。しばらく休暇。ここで年越し一発目のイベントを堪能しようかと思って」
「人の首吊りを肴に祝杯か」
「シャンパンなんていいわよね」
「殺しとかなくていいのかよ。そのポケットの膨らみ。どうせ拳銃だろ」
「人の美尻をまじまじと見ないでくれる? 変態」
「あー、もう話が済んだならとっとと行ってくれ……寒さで傷口が疼く」
「そうね。じゃあ地獄でまた会いましょう」
「遠慮しとく」
「そ。じゃあちゃんとお薬飲んで、執行当日までちゃんと生き延びてよね」
「死ぬために生きるって……なんだか変な話だな」
「あんたの場合は、生きるために死ぬ、かしら? お大事に」
そう言ってレイン・メーカーはクスッと笑って去っていった。
・・・
ジョセフ・ベル。
レイチェル・アンバーは、彼の病室の前に立っていた。
面会許可は前もって取りつけていたけれどいざとなると緊張で身体が強張った。
よしっ、と腹を括ってノックを二回してから戸を開ける。
ベッドには、神聖なる大樹を思わせる穏やかで温かみのある顔をした老人が横たわっていた。
「あの────」
スッと持ち上がった手に制されて口を閉ざす。
「無理を……しないでいい。慣れない長旅は疲れたろう」
「ぼくは、まだなにも」
「言わなくとも分かる。コミュニケーションの九割は言葉に依存しない。さぁ、座って」
声量があるわけでも通りがいいわけでもない。
ただ、その声には寄り添ってくれる存在感があった。
「……あなたの逸話は存じております。ジョセフ・ベル教授」
「ははは、逸話か。そう大したものでもないよ。きみは、倫敦からやって来たのだね。その労働階級によく見られる服装は、倫敦に店を構えるブランドのものだ。けれどきみの手や爪は綺麗なピンク色をしている。つまりその見た目はカモフラージュで間違いない。肌は艶があって瑞々しいのに髪の毛は傷んでいる。ウチの安いシャンプーのせいだね。あと効率的な髪の洗い方を知らないと見える。貴族の娘で違いないね。きみは」
「どうしてそう?」
「貴族の娘は自分で服を着ないし、自分で風呂にも入らない。常に使用人がついて身の回りのお世話をするものだ」
「……いろいろと自分でするようにはしていたのですが、世間知らずが祟りました」
「名を、訊いてもよいかね」
「レイチェル・アンバーです」
「アンバー? ……そうか。きみが……そうか。訃報は聞いたよ。残念だったね」
「ぼくは、父から逃げてきました。とても……その……込み入った事情がありました。今ではもう済んだ話ですが……塞翁が馬を気取ったあの人も結局、因果応報からは逃げられなかった」
ふむ、とジョセフ・ベル教授は推し量るような目でこちらを見つめた後、
「なぜこのような老いぼれのもとへ?」
「ヒナミ・アマツミヤという女性をご存知でしょうか」
「もちろん」
「ぼくは、シャーロック・ホームズのような有能な人物になるように育てられました。しかし父はぼくをそう育てることに決めたのは彼女だと。父は……その、母の話をほとんどしてくれませんでした。名前を知ったのすらニ、三日前の話でした」
「そうか。大学の彼の研究室には立ち寄ってみたかね?」
レイチェルは頷いた。
「ずっと置いておいたのはなぜですか?」
「置いておいたのではないよ。あの物置きのような研究室の一角は、もともと本当に物置きで片付けるのも億劫だったゆえに捨て置かれていたのだ。ヒナミくんの兄が引き継いだのもあるがね。……その彼も逝ってしまったが、彼の温厚な人となりはみなが知っていたから。いつの間にか片す時期を見失ってしまった」
「おかげであの人の知らない一面を知れました」
「あのばか者は、どれほど多くの秘密を抱えたまま逝ったのだろうな……」
答えに窮して肩をすくめる。
「ヒナミは、上昇志向のある理想主義者だった。わざわざ東の海の果てからここへやってきたのも医学の発展に寄与するためだと大真面目に言うような子だった。うちの教え子がしたためた小説が一時、大学内でも流行した。シャーロック・ホームズという。要するにヒナミは、ホームズのような人がいれば世界がよりよくなると信じていたようだ」
「幸い目の前にはそのモデルとなった本物の天才がいて、ここは最先端の医学を学べる場所で、ホームズの領分もまた最先端の科学捜査だった」
「ははは、天才など……いや、どの歳になっても言われると嬉しいものだな」
可愛らしく破顔しながら口元の髭を撫でている。
「話を戻そう。きみは今、迷っているね?」
「はい」
「私は、神父じゃない。探偵でもない。ただの医者だ」
「そう……ですよね」
「ただ悩める若人に、先達として助言をすることくらいはできる。……巨人の肩の上という言葉を知っているかね?」
「いえ」とレイチェルは首を横に振った。
「かの有名なアイザック・ニュートンが千六百七十六年にロバート・フックへあてた書簡にて使用された言葉で『私がかなたを見渡せたのだとしたら、それは巨人の肩の上に乗っていたからです』。人類は、これまでの長い道のりの中で進歩した。鉄の馬が街を走り、人が鋭く空を飛ぶ時代になったことからも進んだのは明白だ。しかし積み重ねてきた文明が巨人と称される一方で人間の情緒というのはなかなか育たない。百年、いや五十年単位で刷新されている。それは歴史を見れば明らかだ」
「人々は愚かだと?」
「いや、違う。きみはシャーロック・ホームズに対してどう思っているかね?」
「どうって…………」
「有能な人物になることとシャーロック・ホームズは、イコールではない。たとえば裁判官だろうと家に帰れば妻の手料理に文句を言っているかもしれないし、家庭を顧みるよき夫が職場ではその性格ゆえに上手に立ち回れない。神の如き知見があろうともコカインを吸っていればただの薬物中毒者であるし、ワトソンへの態度は社会不適合者のそれだ」
レイチェルは、ジョセフ・ベル教授の言葉に聞き入っていた。
「きみは、シャーロック・ホームズシリーズを読んで一切不満を感じたことはなかったかね? 違うだろう。きっときみなりに考え、実行したことがあるはずだ。シャーロック・ホームズが選ばなかったが、きみは正しいと思ったことが。それこそがきみの長所であり、目標であり、一生かけて磨いていくべき個性なのではないかね?」
「ぼくの……個性……」
めまぐるしく回るパズルが、助言という新たなピースを得てまったく違う形に変化しようとしていた。シャーロック・ホームズという生き様に囚われていた心が、心を捕らえていた鎖が、これまでずっと繰り返してきたある言葉によって解放されていく。
──知りたい。
緋色の研究においてこのような一幕がある。
“彼は、その知識と同様に無知においても底なしだった。現代文学、哲学、政治に関してはほとんど知らないようだった。トーマス・カーライルについて言及した時、彼は非常に素朴にそれは誰でなにをした男かと訊いてきた。しかしなにより驚いたのは、たまたま彼がコペルニクスの地動説を知らず、太陽系の構成も知らないと知った時だ。この十九世紀の文明人の中に、地球が太陽のまわりをまわっていることを知らない人間がいるなどというのは、あまりにも途方もない話で、とても信じられなかった。
『いいか。僕は人間の頭脳は、原理的に小さな空の屋根裏部屋のようなものだとみている。そこに家具を選んで設置していかなければならないが、手当たり次第にいろんながらくたを詰め込むのは愚か者だ。最終的に、自分に役に立つかもしれない知識が押し出される。よくても、他の事実とごちゃ混ぜになり、けっきょく知識を取り出すのが大変になる。腕のいい職人は、脳の屋根裏部屋に持ち込むべきものを慎重に選ぶ。仕事に役に立つ道具だけを持ち込むが、その種類は非常に豊富で、ほとんど完璧な順序に並べる。脳の部屋が弾力性のある壁でできていて、ほんのわずかでも拡張できると考えるのは間違っている。知識を詰め込むたびに知っていたなにかを忘れる時が必ずやってくる。要するに、使い道のない事実で、有用な事実が押し出されないようにするのが、最重要課題になるのだ』“
レイチェル・アンバーも太陽系の知識がはたしてどのような役に立つのかは分からなかったが、知識を選別してしまうのは、とくに現代文学や哲学などの他者の心理を窺い知れるものに関して理解を放棄するのは違うように感じていた。
探偵と名を冠し、事件の謎を解き、動機について頭を巡らせるのなら他者の心理には聡くあるべきだ。そう考えたレイチェルはこれまでずっと他者に対してなぜ? と疑問を呈して知りたいと好奇心旺盛にぶつかってきた。
己の可能性を断定してしまうようなことは、してこなかった。
「ありがとうございました」
彼女は、ジョセフ・ベル教授に頭を下げた。
・・・
一月二日の昼。
ジョー・スミスの絞首刑が執行された。
立ち会った医師が心停止を確認。
彼の遺体は棺に入れられ、郊外にある集団墓地へと安置されることになった。
その二週間後の話である。
墓地の管理を任された男が、棺から遺体が消えていると騒ぎ立てた。
エディンバラ警察と協力して中を検めてみると、たしかに一体足りない。
不思議に思った警察はすぐに捜査網を敷いたが診断に立ち会った医師も間違いなく心臓は泊まっていた、と言うしそもそも墓から蘇るなどという荒唐無稽な話がありえるか、という論調が強まり、どうせ死体盗掘家の仕業だろうという見方が強まっていった。
倫敦駅にて似た人相の男の目撃証言が一件上がったが、エディンバラ警察は他人の空似として処理し、そうしてこの不可思議な事件は迷宮入りとなったのである。
追記・エディンバラ大学病院にて謎の薬が見つかったらしい。なんでも服用者を冬眠させて仮死状態にするって噂だけど本当ならやばいわね……裏取り要!
・・・
はい。なんとも……奇妙な二人組でした。
ひとりはシャーロック・ホームズと同じインバネス・コートに鹿打ち帽を被って、表紙のないのっぺらぼうな文庫本を読みふける小柄な女の子で、もうひとりは左腕が義手の男でした。
倫敦で取引先との商談を終えたわたしは、一般客車の切符を買い、座る場所を探してうろうろとさまよっていました。そこでようやく座れそうな場所を見つけたと思ったら彼らがいて、けれどもう歩き回るのは嫌だったので「相席してもよろしいでしょうか」と訊くと、女の子はにっこりと微笑んで「ええ」と。男のほうもこちらを向いて小さく会釈したので、ようやく一息つける、と思ったわたしは女の子の隣に座って深々と安堵の息をこぼしたのです。
「お仕事ですか」と女の子は言いました。「そのシンボルはパブロ商会のものですね。なんでもコーヒー豆の取引をしているとか。けれどコーヒーは米国の飲み物でしょうから、この国では肩身が狭い思いをしてらっしゃるのでは?」
「よくご存じですね。残念ながらおっしゃる通りです。紅茶に格式があるのは重々承知していますが、コーヒーも産地は厳格に定められていて、多種多様な飲み方がありますから、きっとみんなの口に合うものもあると思うのですが……これがなかなか。あはは……」
「飲み方、というと?」
「そうですね。当社でおすすめしているのはマレーシアのホワイトコーヒーです」
「ホワイト? 黒いイメージしかないが……」
「でしょう? ホワイトコーヒーは、コーヒーにマーガリンを入れて焙煎するのです。他にも小麦粉や砂糖をくわえるものもあって、お菓子みたいですよね。おかげで苦みがぐっと押さえられてコクがあって飲みやすいんです」
「へぇ。それは興味深い。ぜひとも飲んでみた────」
と雑談をしていた矢先でした。女性の悲鳴が聞こえてきて、車内が騒然となりました。彼女はぺろりと舌を出して、男と目を合わせると席を立って声のほうへ。わたしは「ついていかなくていいのですか?」と訊ねると「あんたが荷物を見ていてくれるのか?」と返されたので気恥ずかしくなって後ろ髪を掻きました。しばらくして戻ってきた彼女は座席に腰を下ろし、やや猫背になって《《手のひらをこすり合わせていました》》。殺人事件があった、と知っていたわたしはまるでホームズのようだな、と思っていたのですが急に「ホワイトコーヒーの材料は今、手元にありますか?」と訊ねられたので「取引先に向けた試飲用のものがありますが」と答えると「終わったらぼくにも一杯いただけないでしょうか」と言いました。
なにが終わったら、なのだろうと思っていると彼女は再び席を立って、しばらくして戻ってきました。どうやら事件が解決したらしい、と車掌たちの会話から聞いたわたしはとっても驚きました。「あなたはホームズですか?」訊ねずにはいられませんでした。
すると、
「いいえ、わたしは英国一の名探偵ではありません。世界一の名探偵──になるのが夢のただの旅行家です。それよりも! 先程の約束、守ってくださいね」
唇に人差し指をあてて魅惑的な笑みを浮かべた彼女との約束を果たしたわたしはその後、英仏海峡で別れました。二人の行方ですか? きっと今頃、フレタンやウロップを越えてフランスのパリ駅まで行ったんじゃないでしょうか。世界を巡るって言ってましたから。
きっといつか世界一の名探偵になって帰ってくるんじゃないですかね?
《未熟な名探偵と鉄腕の帰還兵編 了》




