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幻想蒸奇譚シャーロック─未熟な名探偵と鉄腕の帰還兵─  作者: ジルクライハート
最終章・ジョセフ・ベル教授の最後の授業
34/36

応報の旅路

 猛り狂った男の雄叫びが、鉄がこすれ合う。

 あの儀礼剣を抜いた、と直感したレイチェルは戸に手をのばして勢いよく開け放ち、

 背中に悪魔がぴたりと張りついていることに気づいた。


「ッ!?」


 振り返っている暇はない。


 歩くよりも早く、

 走るよりも早く、

 彼の間合いから逃げ────


 瞬間、はやる気持ちに追いつけなかった左足のせいで体勢が傾いだ。


 そのツケを払うことになった右膝は大きく曲がり、転ばぬようにと脊髄反射的にのびた両手のひらが床をしっかりと捉えた。奇しくも不格好な陸上走者の発走体勢(クラウチングスタート)の姿勢となったレイチェルの後ろ髪を、ぶぉん、と質量を持った風が撫でた後、


「っ、ぁぁあああッ!」


 彼女は両手と右膝の発条を用いて、強引に戸口の向こう側へと跳躍んだ。

 列車が曲道に差しかかって車体が揺れ、ごろんと身体が右側の壁まで転がる。

 開いていた戸は遠心力に引っ張られてぴしゃりと閉まった。


 ダーバードも大きく体勢を崩したのか、客車の壁にかけられていた陶器などの工芸品と思しきなにかがガラガラと割れる音が聞こえた。


「い、今のうちに……逃げないと」


 話の分かる人に助けを、と目標を立てて小走りで進む。


「アンバー教授? ッ、なにを────うわぁ!」


 後方から軍人の叫び声が聞こえた。


 どうやらこの細い通路にずらりと並ぶ扉は彼らの個室になっているみたいで、レイチェルはあえて後方車両へと駆け抜けていくことで騒ぎを大きくしてダーバードを数の暴力で押し留めてしまおうと考えた。


 策ができたなら後は単純だ。


 レイチェルは必死に、後方車両へと逃げた。

 車内はどこも快適な列車の旅を楽しまんと気の抜けた雰囲気が漂っていて──最後尾。

 フライング・スコッツマンの一般客車と同じ作りをした、雑多な荷物置き場にされている車両へとたどり着いたレイチェルは、拘束された状態で他人の荷物を枕にぐうすか寝息を立てるレイン・メーカーの姿を見つけていた。


「レイン・メーカーさん!?」

「んあ……? あれ、あんたなにしてんのこんなとこで」

「えっと、そ、それは────」


 戸を蹴破って現れたのはクローリー・カーストーン陸軍大佐だった。

 肩をいからせながら笑顔でのしのしと近づいてくる彼は、「んん~」と満足げに腰を捻ると、


「見ィつけた。ヤツを怒らせてその隙に脱走とは考えたじゃねぇか。お嬢ちゃん?」

「……走行する列車から逃げられるとは思っていませんよ」

「また河に飛び込むみてぇな奇策を弄されると厄介なんでな。オレぁ、この腕だしよ。面倒くせェから大人しく捕まってくれや」

「きっと殺されますよ、ぼく」

「へぇ、そうかい」


 クローリーは無事なほうの手で胸の前で十字を切った。


「洗礼は済ませてやったぞ。大人しく逝けや」

「乱暴な……これだから損得勘定かねかんじょうで動かない人間は嫌いなのよね~」

「てめぇもあとで可愛がってやるよ。レイン・メーカー。だが、今は……ゲハハァン!」


 レイチェルは下卑た笑い声にたじろいて座席に足をぶつけ、尻もちをついた。


 ────カチャッ。


 上着に不自然な重みがあった。緊張して、ずっと忘れていた()()重みだ。


「あ? ……へぇ。立派なモン、持ってるじゃあないの」


 クローリーが口笛を吹いた。

 屋敷からずっと彼の言いつけを守って携帯し続けた拳銃。

 懐から抜き放ったそれを両手でしっかりと持つ。


「だが、構えがなっちゃいないな。筋力がなさすぎる。銃口は震えっぱなしで定まらないし、人差し指にも力が入ってねェ。まともに射撃ったことないだろ」

「……撃てます」

「声が震えて────」


 銃声。

 あらぬ方向へと飛翔した弾丸は、クローリーの後方にある壁に着弾し、木くずを散らした。


「────良い! イイね! お前ッほんと最高だよ! 賢い上に肝も座ってやがる! ……ああ……ますます欲しくなってきたなァ……なァ!」


 その後の彼の反応はまったくの想定外だった。

 銃弾にまったく怯まず早足で近づいてくる。

 がっちりとした大柄な肉体は一歩ずつ距離が狭まっていく度に心臓をキュゥと締めつけた。

 太い腕がのび、拳銃を握る手を掴まれた。

 足を払われ、床に押し倒された。


 間近に狂った男の顔があった。


 彼は太い指をトリガーの裏に挿し込んで引き金を引けないようにすると、力任せに銃口を自らの額のほうへと持っていった。

 スリルジャンキーの目線を浴びたレイチェルの目尻には涙が浮かんでいた。


「こう……狙いって言うのは……こう定めるんだよ……ちゃんと一発で相手を殺せるように!」


 トリガーガード内に突っ込んでいた人差し指ががたがたと震えた。

 痙攣するだけで引き金が弾けそうなほどだった。

 刹那、彼の太い指が引き金の裏から抜け、レイチェルの人差し指がグッと引き金を押し込んだ。拳銃が跳ね、脳漿が飛び散り、クローリーは死ぬ────そう思われたが、彼は狂犬のような笑みを浮かべたまま紙一重で躱していた。左頬から左耳殻の先端にかけて赤い線が刻まれ、屋根に小さな穴が開いた。


「あっ」


 一縷の望みが断たれ、拳銃は払われ、首根っこ掴まれたレイチェルは背中で床をこするようにしてそのまま座席の側面に叩きつけられた。


「っ、かはっぅ……」


 万力のように首が締まる。

 呼吸が止まる。

 意識が遠くなっていく。


「────────ッ!?」


 突然、指圧が緩んだ。

 そして、


 クローリー・カーストーンの右肩が裂け、包帯で吊っていた腕が千切れ飛んだ。


「…………えっ?」

「は?」


 重すぎる傷を前に痛覚がやられたのか、ただただ唖然とする彼を他所に屋根が破られて誰かが降り立った。


 蒸気義手ひだりうでからは白煙があがっていた。

 体からは硝煙の臭いを漂わせていた。


 彼は、雨に濡れたフードを取り払い、据わった眼差しで痛みにのたうち早鐘のような呼吸を繰り返すクローリー・カーストーン陸軍大佐を睥睨してこう言った。


殺し合い(せんそう)は娯楽じゃねぇんだよ」


 ジョー・スミスは、回転式拳銃を構えた。


「ゲッ、ゲハハ! マジでッ、っ、舞い戻りやがった! 面白れぇ! ほんとにテメェは────ッ」


 銃声が三度、響いた。


 動かなくなった彼の死体を踏み越えたジョーは、駆けつけてきた彼の部下に向かって再び三度、引き金をしぼった。今度は二人死んだ。銃身をくわえ、ポーチから取り出したクイックリローダーを用いて弾薬を装填し、前進。クローリーが蹴破った戸から見える車両のさらに向こうへとつながる戸が開いたのを見て射撃。さらに三人死んだ。また銃身をくわえ、人差し指と親指を器用に使ってピンを弾き飛ばすと投擲。座席の裏に隠れていた四人が死んだ。


「ダーバードは?」


 レイン・メーカーが答える。


「この先の特別車両だよ」

「蒸気鎧は?」

「あるわけないじゃん。あれは、ダーバードが悪人を使い捨てるための人型パンジャンドラム。資源の無駄。正式採用されずにお蔵入り。あれ、裏ではなんて言われているか知ってる? 動く棺桶だよ」

「そうか」


 ジョーは、右足を引きずるように歩き出した。


「あれあれ? 信じちゃっていいのかな? 私たちの言葉を」

「あってもどうせ殺すだけだ」

「ハッ、そうですか。じゃあ……さよならでいいのかな?」

「好きにしろ。俺は妹の仇を討つ」


 彼はレイチェルのほうに視線を向けず、そのまま前方車両へ歩いていった。


「よっと」


 レイン・メーカーは奇術のように縄をするするとほどき、


「あんたも逃げとく? 今のうちだよ」

「ぼくは……」

「……()()さぁ、ずっと昔のこの道を選んだんだ。あんただって大事な選択、したことあるでしょ? なら、その選択は見届けないとじゃん? 見届けるのが責任ってもんでしょ」


 その時、レイチェルの脳裏にフライング・スコッツマンでの会話が過ぎった。


『今のところ、あなたたちが問われるべき罪は誘拐だけでしょう。少なくともぼくはそう考えます。そして、ぼくはそれに合意しているので誘拐ではなく、これはぼくが企てた遠大な家出計画となります。つまり皆さんはぼくの共犯者というわけですね。おそらくぼくと出会うまでのあれこれについて仰っているのでしょうが、名探偵とは公明正大な玉座裁判所キングス・ベンチじゃありません。ホームズであってもそれは同様で、彼は正義の人ですが作中でも度々、犯人を見逃しています。“見逃す”という行為は“大きな責任”を伴います。いくらこころからの反省を誓ったとしても、未来あしたにまた罪を犯すかもしれません』


()()()()()。少なくともぼくの目の届く範囲で、ぼくの目の黒いうちは』


 彼女は立ち上がって走り出した。


 大きな音がして車輪と路線とが高速でこすれ合う音が鳴り始めた。


 立ち止まって振り返ってみるとレイン・メーカーが車両の連結を解くための器具を片手に笑顔を浮かべ、ばいばい、と手を振っていた。彼女を乗せた車両が遠ざかっていくのを待たずにレイチェルは二人のもとへ駆けた。


 ・・・


 彼は────ジョー・スミスは、捨て身の前進を繰り返していた。

 元より彼の所属していたところは、命を捨てられた部隊と言って差し支えなかった。

 原点に立ち返ると、風化したなまくらが昔の切れ味を取り戻すようになった。

 感覚は研ぎ澄まされて行動は大胆になった。

 おそれは消え、怯える暇もなくなり、そうやって踏み出した一歩は死中に活を見出した。


 だからか、

 彼はまだ生きていた。


 全身に傷を負い、視界もぼやけていた。両足は鉛のように重く、弾薬も底を突きた。

 それでも道中のことごとくを血の海に変え、ようやくたどり着いた。


 キィ────ン。

 耳鳴りがする。

 音が遠い。


「────ッ、────────ッ!」

 目の前に時代遅れの両手剣を振りかざす男がいた。


 左半身を叩き切ろうとする軌道を描く剣先は簡単に読めた。しかし、右足に力を込めようとして爪先から膝、のぼってきた力が包帯で塞いだはずの太ももの穴から霧散して体勢が崩れた。

 避けきれずに倒れたジョーの蒸気義手ひだりうでを剣先が掠めた。無骨だが繊細な鉄の皮膚がめくれ上がり、内部機構に傷がついた。もうこの武器は()()できない。


「フーッ……」


 拳銃を収め、深呼吸をしながら左腕の留め具を外していく。

 間合いを詰めてきた。

 最後のピンを抜くとまとまった重量が失せて体が一気に軽くなった。

 左足の踵で床を蹴ると驚くほど大きく後退あとずされた。

 剣が一足遅れて振り下ろされ、彼の足元でがしゃん、と糸の切れた人形のように蒸気義手がばらばらになった。


 ジョーは、傷だらけの回転式拳銃あいぼうを再び構えると、スナップで回転輪胴シリンダーを開放して中を検めた。

 残弾は二発。

 残敵は一つ。

 十分だった。


「………………………………………………………………………………………………」


 お互いに、じりじりと睨み合うような時間が続いた。


 剣先の位置を変えて右足、左足、こちらの側面に回り込もうとする男の足捌きがぼんやりと見えた。ジョーは、トリガーガードに通した人差し指を軸に、くるくると拳銃を回し始めた。


 撃鉄を起こすと回転輪胴シリンダーが回って弾薬の発射体制が整い、

 引き金を弾くと撃鉄が落ちて火薬が炸裂し、弾薬がぶっ飛ぶ。


 子どもでも分かる単純シンプル機構パズルで成り立っているこの回転式拳銃リボルバーは、どのような状況下でも最後まで職務を全うしてくれる。ゆえに信頼できる。


 前回転、後ろ回転、よく躾けられた犬のように手の中で回転式拳銃あいぼうが躍動する。


「ッ!」


 男が均衡を破りに来た。


 渾身の踏み込みからの最短距離の振り下ろし。


 ジョーは、銃把グリップを短剣で用いられる捌きの技術を応用して振り下ろされた両手剣の裏側に刃を滑らせて体重を加えた。剣先と握り手のバランスが崩された男の両手剣は床に深々と突き刺さって停止。その刃筋を駆け上がるように手前から奥へ、攻撃を受け流すためにぐっと折れ曲がっていた右腕が鋭くのびきるのと────ヤツのこめかみを銃把グリップで殴り飛ばすのが同時に起こった。


 正確な打撃によろめいた隙に足を払い、馬乗りになって口内に銃を押し込んだ。


「……死ね」


 男の身体が一際大きく痙攣して、ついに動かなくなった。


 ────終わった。


 ジョーは、ぼやけた頭でなんとなく終着駅が近いことに気づいていた。


 撃鉄を起こす。

 残弾は一発。

 やり切った。

 そう思うと途端に重たくなった腕に鞭を打って拳銃をぐぐぐ、と持ち上げる。


 こめかみに銃口を押し当てて、ようやくさざ波立っていた心が静寂を取り戻した。


()()()()()……今、逝くよ」


 そうして引き金は────引けなかった。


 あたたかな感触があった。

 背中越しに誰かが抱きついていた。

 体格は小柄で、回された腕は細い。


「っ、あなたを……殺人の罪で……現行犯逮捕します。あなたには罪を……ちゃんと罪を償ってもらいます……ジョー・スミス」


 やり残したことはない。

 そう思っていたのに。


「………………そんなに……強くしなくても……どこにも逃げねぇよ……」


   ・・・


 エディンバラに着くなりジョー・スミスは逮捕された。

 レイチェル・アンバーの身柄も保護され、要職を含む英国陸軍三十七名と内科医であり外科医であり心理学的権威で知られていたダーバード・アンバーの死亡が確認された。

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