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幻想蒸奇譚シャーロック─未熟な名探偵と鉄腕の帰還兵─  作者: ジルクライハート
最終章・ジョセフ・ベル教授の最後の授業
33/36

浮かび上がる因果

 倫敦のフライング・スコッツマンを途中下車し、再び途中乗車し、長々と揺られてきたレイチェルは、窓から真っ暗になった外を見つめて旅の終わりが近づいているのを感じ取っていた。

 豪奢な客車の中に併設された寝室から起きるとダーバード・アンバーが相変わらずの姿で文庫本と向き合っていた。テーブルの上には冷めたコーヒーがあり、時折口をつけては頁をめくる。その単純な動作の繰り返しだ。


「言いたいことがあるなら言ったらどうだ」


 レイチェルは、向こうがしびれを切らしてそう切り出してくるのを待っていた。

 それほどまでに、あれは自分から言い出すのが難しかった。


「昼間の……件です」


 カチャ、とティーカップが皿とぶつかって品のある音を立てた。


「事実だ。僕の妻は、いうなればウエストポート事件の真の意味での最後の被害者だった」

「詳しく聞かせてください」

「……なにも面白いものではないぞ」

「ぼくにも知る権利があります」

「知らなくてもいいこともある」

「それでも、です」


 強情な姿勢で食い下がると彼は「ハァー」とため息を吐いて、


「そこに座れ」


 対面を顎でくぃっと指し示した。

 レイチェルはすぐに椅子に座ると両膝に両拳を置き、ほんのり前傾姿勢を取った。

 一言一句を聞き漏らさないという意思表明でもあった。


「彼女との関係をどうこう語る気はない。だから事件の真相を知りたがっているお前に、事の一部始終のみを説明する。まずは……そうだな。仮死薬について語ろう。これは、ウエストポート事件の真相報道に含まれなかった、ロバート・レックス教授が巧妙に隠した真実のピースだ。仮死薬とは、ロミオとジュリエットに端を発する死んで目を欺くための薬だ。服用者を疑似的な冬眠状態にさせる。麻酔よりも効果が長く、目覚める際に障害が残りやすい。本来はただの戯曲の小道具アイテムだったものを彼が知り合いの薬師に頼んで作らせた」


 ダーバードは腹の上で手を組み合わせ、まぶたの裏に焼きついた過去を振り返るように続きを語った。


「薬が必要になった経緯は、ウエストポート事件の主犯が遺体に過度な暴力をふるうのを抑制するためだった。拉致して解剖室へ連れてくる間に殴る蹴るなどの暴行を加えるので内臓が破裂したり首が折れたり、損壊した検体ばかり持ってくるので完璧な検体を持ってこさせようとしたのが仮死薬の背景だった。当時の僕がこの存在に気づいていれば証拠として提出する選択肢もあったのかもしれないが、気づけなかった。なぜならその薬を用いて運ばれてきた検体の解剖は常にロバート・レックスが一人で行っていたからだ。僕がウエストポート事件で名を連ねなかったのはひとえに暴行事件で不幸にも亡くなった、という大義名分に基づいて運ばれてきた死体の解剖を手掛けていたからに過ぎなかった。何も知らない医学生だったからこそ僕は罪を免れた。そして、免れたからこそ愚かにもこう考えた。教授は、悪人から死体を買っていたが、死体がどこでどうやって作られたかは知らなかった。解剖学の発展のために仕方なく死体を買っていたのであって悪いのは死体盗掘家どもであり、死体の供給を滞らせている医学へ無理解な政府だと。これは一面的には正しかったが、一面的には間違っていた。ロバート・レックスは人種差別主義者であり、自分がもっとも優秀だと考える人種への証拠集めのために解剖を繰り返していたのであって医学への進歩は二の次であったし、見ず知らずの人間が殺されて運ばれてくることにまったくの疑問も良心の呵責もなかった」

「そんな……」


「今から約十五年前の十二月二十日は、朝から快晴で僕は休日でヒナミはジョセフ・ベル教授や兄のテンセイらとエディンバラ大学病院で働いていた。僕は、アンバー家のしがらみを医学生としての責務を盾に逃れ、エディンバラ旧市街の一軒家で昼まで熟睡した後、病院に立ち寄ってヒナミの予定を確認した。まだ産まれたばかりで首も座っていないお前をおぶって買い出しに出かけ、少し早めのクリスマスのごちそうを用意するつもりだった。何故ならその日以降、彼女はジョセフ・ベル教授と倫敦にて東洋の医学についての論文を発表する予定で年越しまで帰ってこられない。慌ただしい年末と登壇への前祝い、彼女は女が子どもをほったらかしていくことをひどく後ろめたく思っていたが、誠実で能力のある人間は正しく評価されるべきだと考えていた僕はテンセイ・アマツミヤ、彼女の兄の手も借りてその背中を押した」

「テンセイさんは亡くなったと聞いています」

「ああ」

「ジョーさんの妹さんが患っていたのと同じ病気が要因だと」

「……………………………………………………………………」


 ダーバードは虚空を見つめ、しばらくじっとしていた。

 窓に万年筆から滴ったインクの搾りかすのような雨がパラパラと降ってきた。


「……日が落ちて急に雨が降り出した。始めは静かに。だが、瞬く間にしっかりと。雨音が石畳を打ち、ひんやりとした冷気が窓から入り込んできたので、レイチェルの身体を冷やさないように毛布をかけた僕は、一足先に仕事を終えて家を訪れていたテンセイと共に食事の準備を進めていた。……ヤツが雨合羽あまがっぱを着て現れたのは、まさにその時だった。彼はすでに老齢で精神を病み、吃音気味になっていた。両目の焦点は合わず、カメレオンのようにぎょろりぎょろりとこちらを観察する様には、強烈な不快感を覚えた。彼は独特の薬品の臭いを漂わせながら僕に『どうしても見せたいものがある』と言った。『予定がある』と返答すると彼はニタニタと笑って『実は運ばれてきた遺体に見覚えがあったので、身元を確認してほしいんだ』と言った。まだ死体を買っているのか、と驚いた僕は同時にいやな予感が脳裏を掠めた」


 窓の外に張り付いた雨粒が白く結晶化するほど温度は低いはずなのに、彼の額には汗がにじんでいた。落ち着いていた呼吸は感情の高ぶりに連動して荒々しくなり、椅子に座り直した彼は俯いて口を閉ざした。


 彼が平常心を取り戻したのはそれから数分後の十八時五十七分。

 エディンバラ行きの列車が、いよいよ最後の山越えに差しかかった頃だった。


「赤ん坊だったレイチェルをあやしていたテンセイに、ヒナミを迎えに行くと嘘の口実をでっち上げた僕は、ヤツと合流してその家へ、解剖室へと向かった。旧市街のさらに寂れた治安の悪い地域に居を構えていたヤツは、フードを脱ぐと地下室への入り口を手振りで示し、先を行くように促した。いくら過去に師事を賜った恩があるとはいえ薄気味悪いものを感じていた僕は、注意深く階段を降りて締まりの悪い木製の扉に手をかけた。開いた途端、汚濁を極めた空気が肺に流れ込んできて吐き気がした。口元を押さえ、手術台を見て僕は…………手術台を……見ると、そこには…………開胸かいきょうされ、心臓を止められた《《ヒナミの死体》》が横たわっていた。その時のヤツの言葉は、一言一句息遣いに至るまで克明に覚えている」


 そう言って彼は、遠くを見ながら、なにを言ったのか教えてくれた。


『あ、あま、あまりにき、綺麗だったのでちょ、ちょっぴり、ふ、ふひひ、あ、開けてしまったことを許してほしい……き、ききッ、きみなら、その、ゆ、許してくれると信じているけどねッ!』


 耳を疑うような言葉の羅列。

 キュッと心臓を握られたような嫌悪感が去来する。


「僕は、近場の椅子を持ってヤツの頭蓋を砕くと血抜きが進んですっかり青白くなってしまったヒナミの死体に向かい合い、これから作るはずだった家族としての思い出の代わりを求めるように、その肢体の解剖にかかった。臓腑一つひとつの状態を検め、髪の毛の一本に至るまで観察し、ヤツが用意していた紙に書きとめた。そこで、遺体にまったく外傷がなかったことと胃袋の中に謎の溶け残った内容物に気づき、解剖室を調べるうちに仮死薬とラベルが貼られた謎の瓶を発見。同時に見覚えのない解剖結果をまとめた書類一式を見つけ、その醜悪な本性を知った。僕がこれ以上、ヒナミが他者に辱められぬようにと火を放った後、警察官が飛び込んできた。後から知ったが、その時すでに時刻は朝になっていて不思議に思ったテンセイが呼んだのだそうだ。……戻ってきたロバート・レックスについては噂になっていたみたいで早期に黒煙を見つけた警察官が僕を殺人と死体損壊の罪で逮捕した。その後は、分かるだろう?」


「キッチナー元帥はなぜあなたを?」

「彼は、僕に異教徒を殺せと言った。当時の僕は、フロイトやアドラーの心理学で用いられる人格という概念に着目していた。人はみな潜在的な多重人格者だ。父親の前、母親の前、子どもの前、男友達の前、女友達の前、恋人の前。相対する人によって人間は表情を変える。態度を変える。威圧的な父親におそれを抱いているのならば委縮するし、優しい母親に好感を抱いているならば甘える。子どもがうっとうしいなら嫌そうな顔をするし、逆に可愛らしいなら面倒見がよくなる。この視点を応用すれば兵士の目に映る存在を効率よく悪魔などにすることができ、南北戦争での結果をまとめたあの書籍にもあったような戦闘不参加者を減らせるのではないか、と考えた。殺人の抵抗力を意図的に零にできると考えたのだ」

「そのために悪人を使い捨てることに決めた……」

「天然痘に一度かかった人間は免疫を獲得し、以後二度と感染しないことはかねてより知られていた。そのため東方の塩抜き罪を用いてあらかじめ凶暴性を抜いておいた悪人をあてがい、罪には罰を、という概念を彼らに浸透させた。この列車に乗っている軍人たちはみな、平均三人は悪人を殺している。戦場での戦闘不参加者も大幅に減少した」

「それは…………」


 兵士を()()という考え方としてはありなのかもしれない。

 しかし。

 兵士を()()()という視点からみるとダーバードの手法は明らかに欠陥を孕んでいた。


「狂っています……」

「僕の頭がおかしいとでも言うのか?」

「どれも矛盾していると言っているんです。あなたの論理に従うならば、あなただって悪だ」

「……………………僕が…………………………悪?」

「ウエストポート事件の犯人がその後、どうなったかご存知でしょう? ウィリアム・バークは絞首刑。ウィリアム・ヘアは消息不明です。バークの妻のマーガレットとヘレン・マクドゥガルは釈放。とはいっても義憤に駆られた群衆にリンチされ、その後の消息は同様に不明。あなたの悪人を資源にして消費するという考え方は、マーガレットとヘレンをリンチした群衆のそれと同じ。一歩間違えれば集団暴行による殺人。あなたの場合はすでに殺人に至っていますし、そこに他者への教唆きょうさも含まれます」

「ハッ、なにを。所詮、僕は罪には────」

「ええ、裁かれないでしょうね。なぜならあなたは英国陸軍の汚点そのものですから」

「…………………………は?」


「お話を聞いてはっきりしました。あなたも《《立派な悪人》》です」

「………………………………………………………違う………………………違う」


 うわ言をぶつくさと繰り返しながら、幽鬼のような足取りで立ち上がったダーバードの背中は、いびつにねじ曲がっていた。なまじ賢いからこそ表出しにくいからこそ溜まった罪悪感という感情を押し留めていた理性という名のせきが、決壊しかかっている。高速で行われる事実確認、反芻、導き出された答え、レイチェル・アンバーの主張に向き合いたくないがゆえに指がねじれ、腰がひねくれ、骨盤がひずみ、唇がゆがみ、瞳がよどんだ。


「っ」


 レイチェルがすぐに行動に出られたのは、幸運だった。

 レイン・メーカーが彼の獣性を一度、表出させてくれていたから。

 だから彼女は、すぐに逃げろ、という内から響いた警鐘に身を任せた。


「ッ、逃げるなァァァぁああああ!」


 理性という檻が、

 壊れた音がした。

【人はみな、誰かが誰かを演じている】

 心理学で用いられる考えであり、世間一般的には仮面ペルソナという言い方で表現されるものでもあります。作中でダーバードが言ったように父親や母親、先生、友達で見せる顔というのは違うものです。気弱な性格をしているに父親が怒りっぽいなら怖がるでしょうし、母親が優しいなら甘えるでしょう。冷淡な先生はなにを考えているか分からないでしょうし、友達といる時間は楽しいでしょう。人はみな、この世という舞台の役者です。ありふれた言葉ですが、他者をおもんぱかって他者の心理を理解し、善く振る舞えると人生はいっそう輝くでしょう。


 シリアスな物語を描きたい人は、こういうことも考えてみると面白いかもしれませんね。


   ・・・


明日は、二話更新。それで英国編とも呼ぶべきこのお話はしまいです。

残り二話でどうなるのか。彼らはこれからどうしていくのか。


もう少しで目的地に到着する彼らの旅路のように、あと少しだけお付き合いくださいませ。

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