トリックスター
椅子が倒れた。
憤怒の形相だった。
これまでの厳しい道のりでよれた襟首を掴まれ────
「ドクター、っ、し、失礼しました。……お取込み中でしたか?」
間一髪、現れた軍人のおかげで拳が振り下ろされることはなかった。
ダーバードは舌打ちして襟首から手を離すと、
「なんだ」
「い、いえ……あのレイン・メーカーという輩が報酬の引き上げを要求しておりまして」
「カーストーンがいるだろう」
「お伺いするとドクターに聞け、ドクターが責任者だ、と言って現在、その、お酒を……」
「あの悪人が……」
「いかがなさいますか」
「結論は待たせろ。規定額以上の額は絶対に口にするな。言質を取らせると厄介だ」
「──そー言うと思って直接きたよ」
駅での冷徹な表情とは打って変わって見慣れた楽観的な雰囲気を漂わせ、レイン・メーカーは面倒くさそうに客車へ足を踏み入れた。
「あの時は裏切りを強調するためにあんたに付き従う振りをさせてもらったけど、あいにくと今は勤務時間外なんでフランクに失礼するよ」
レイン・メーカーは一瞬こちらを見たが、まったく悪びれもせずにダーバードへ向き直った。
「なにもただ報酬を引き上げろっつってんじゃないんだよ。あくまでも追加の提案」
「追加だと?」
「クローリー・カーストーン陸軍大佐。あれ、あんたを裏切ってるよ。ジョー・スミスは死んでない」
レイチェルは目を見開いて唇をキュッと結んだ。
あまりにもあっけらかんと言ってみせるものだから思わず彼女の正気を疑ったのだ。
「あの時、なぜお前が殺さなかった」
「殺せと指示されてなかったもので」
「揚げ足を……だとしてもあの傷なら長くはないだろう」
「だろうね。ただあんたの性格を知っていながらわざと逃がした、とも受け取れるよね」
「手負い一人になにができる」
「うん。でも手負いの狼が群れを呼ぶかもしれない。可能性はないけどね。あいつはほとんど一匹狼だ。今のあんたの敵じゃない。断言できるね。ただ、これまで首尾よく徹底的にやってきたあんたにとって、これは汚点じゃないの? 東方の考え方に風向きというのがあってね。いわく風向きが変わった、って。その人の運勢が些細なことから急落する様を言うのさ」
「だからカーストーンを殺せと?」
「損得勘定で操れない人間は危険だよ。利害関係を超えた関係なんて虚しいだけ。政治で親しい友を見つけるのと同じくらい虚しい」
「……奴には利用価値がある。まだだ」
「ふぅん。まぁ、いいけどさ。そうやって様子見してるとさァ────たとえば、あんたの娘とかがさァ。どっかの綺麗な奥さんみたいに見ず知らずの悪人に誘拐されて、師匠と慕っていた人の解剖用遺体にされてても知らないよ~?」
瞬間。
ダーバード・アンバーは豹変した。
無言のまま近場にあった飾りつけ用の儀礼剣を抜き放って、一閃。
「ぎゃあああああっ!」
レイン・メーカーの真後ろにいた軍人の胸に紅い花が咲いた。
「おぉ~、こわぁっ!」
ぎゅっとしゃがみ込んでいた彼女は、両膝を曲げて溜めた発条を使って低い姿勢からぴょんと跳び上がるとレイチェルの後ろへ回り込んで側頭部に銃口を突きつけてみせた。
「はぁい、ストップぅ。剣を収めなよ。殺し合いするためにきたんじゃないんだってば」
「どの口が言う! 悪人が!」
「お前の悪人じゃん。知ってるよ~? スリだろうがなんだろうがしょっぴいた罪人は、研究室で薬漬けにして。それでまだ新米の軍人と相対させるんだよね。罪人のほうは素手。軍人のほうは銃を携帯させる。薬で狂暴化した悪人を殺せば出られる、と説明して無理やり何度も人殺しをさせて抵抗力を奪っていく。そうして出来上がったのがこの列車に乗っているダーバード式英国陸軍だ。あんたは悪人に並々ならぬ復讐心を抱いていた。いや、一回は鎮火しかけたのかな。それをキッチナー元帥サマが焚きつけた。ヒナミ・アマツミヤ先生の無残なご遺体を克明に写し取った写真と思い出を使って」
「……はぁ、はぁ……っ、貴様ァ…………」
「悪人舐めちゃ駄目だよ~、お兄ちゃん。私たちみたいなのはどこにでもいて、どこにもいない。たしかにずいぶんと骨が折れたけどね。そこは、お嬢ちゃんがたぁっぷり待ち時間を作ってくれたおかげさ。まぁ、意図せずだろうけどね。本来の目的はわざと時間をかけることで気の緩んだ隙を狙って逃げ出す。きっとそれだけだったろうから。それに私たちは、あんたと今後もよい関係を築いていくために提案をしてあげているワケ。お宅のお家に害虫がいますよ、ってね」
「そのような提案、おいそれと呑めるわけがないだろう」
「どうして? 陸軍大佐なんて飾りじゃん。風俗街に入り浸っては女買って自分の所有する山に放って猟犬で追いかけさせて殺すようなクズ、今のうちに殺っとくのが筋でしょ~」
睨み合いが続いた。
そうこうしているうちに叫び声を聞きつけたほかの軍人たちが駆けつけてきた。
レイン・メーカーは銃を握っていて、ダーバードは剣を握っている。
仰向けになって苦し気に呻く軍人の傷跡から下手人は明白だったが、だからこそ彼らは困惑していた。すると、
「はいはぁい。降参降参! こっちは大人しくするよ」
彼女は拳銃を捨ててレイチェルを解放してみせた。
一見すると優位性を放棄する愚かな選択だったが、ここからが巧妙だった。
「剣を収めなよ。まぁ、仮に? ここで私を切り捨てたとしたら目撃者がいるよね。帰らなかった、金も持ち帰らなかったレイン・メーカーの存在に気づいたら組織は血眼になって情報をさらう。そしてそこの目撃者たちの証言に行き着く。人の口に鍵はかけられないからね。そうすれば無抵抗の私を殺したあんたは組織と敵対する羽目になる。軍隊と真っ向勝負できるほど出来がいい組織ではないけれど、潜入工作諜報活動においては公開資料、人間諜報、画像諜報、電報傍受、科学諜報、装備諜報、他機関諜報……まァ、結構厄介だと思うよ?」
「チッ……よく回る舌だ」
「お褒めの言葉ありがたく頂戴します、なんてね」
「おい」
ダーバードは状況を呑み込めていない軍人を呼びつけた。
「こいつを拘束しておけ」
「ハッ!」
「また、クローリー・カーストーン陸軍大佐には一層の注意を払うように各隊に伝えろ」
「承知いたしました」
「エディンバラへはいつごろ着く予定だ」
「列車の運行状況にもよりますが午後九時までには到着する予定です」
「そうか」
疲れた表情で、彼はようやく剣を収めた。
今日はすこしくたびれているので小ネタはおやすみです。




