悪人の定義
一時的に最悪の味方となったクローリー・カーストーン陸軍大佐の計らいか、レイチェルはとくに隔離措置を受けることもなくダーバード・アンバーと同じ部屋にいた。部屋と言っても一車両全体が一つの部屋として改装されたたいそう豪華な作りとなっており、英国陸軍と鉄道会社の関係が根深いのは容易に想像がつく。
居心地の悪さは感じながらもすべての疑問が氷解していたわけではなかったレイチェルは、座れば尻が沈みこむ豪奢で柔らかなソファーに寝そべりながら、傍らで表紙も奥付けもないのっぺらぼうな文庫本を読みふける父親の様子を窺っていた。
突然、
「口角が────」
頁をめくりながら彼は言った。
「ぴくぴくと震えているな。それに、足をしきりに組み替えている。緊張するあまり尿意を催しているのではないか? お前は僕を嫌っているだろう」
「それはなんですか?」
「質問の意図は明確にしたまえ」
「その、仕草や尿意についてです」
「図星だったか?」
「……ええ、まぁ……」
無意識のうちにそうしていた。そういう反応が生じていた。
けれどもレイチェルの記憶にそのような視点から他者の心理を読み解く技は聞いたことがなかった。思い当たる中でもっとも近いのは頭蓋の大きさや形状から頭の出来を類推する骨相学だったが、現代ではとうに廃れており骨相学論者は山師と見なされるようになった。
「この僕の理屈には、まだ正式な名はない。この本は、これまで見てきた万を超える患者の身体的特徴を区分けし、その性格や価値観を考察するためのものだ。便宜上、僕はこれを体の癖を見る学問と考え、体癖学と呼称している。まだまだ未完成で世に出回っていないが、出回っていないからこそ価値がある」
「人格なき学識……」
「ジョセフ・ベル教授には、このような記録がある」
“受付を済ませた女性が、子どもを一人連れて診察に入ってくる。
「おはようございます」と患者が言うとベル教授は、
「バーンティスランドから渡ってきたフェリーはどうでしたか?」と訊ねた。
彼女は「大丈夫でした」と答える。
「もうひとりのお子さんはいかがなさった」
「姉のところに預けてきました」
「ふむ……ここに来る前に植物園を通って近道をしてきたんじゃないかね?」
「はい、そうしました」
「あなたは今もリノリウム工場で働いている?」
「はい、働いています」と彼女は驚きながら答えた。
当時その場にいた僕やコナン・ドイル医師はたいそう驚いた。
そこでベル教授は診察の後、説明を始めた。
「彼女が挨拶をした時、ファイフの訛りに気づいた。ファイフからの最寄りのフェリーはパーンティスランド。だから彼女はフェリーを使ってきたに違いないと考えた。次に、彼女が持っているコートに注目した。子ども一人連れで着てくるには小さすぎる。だから、旅の最初は二人連れで、途中で一人は誰かに預けてきたに違いないと考えた。君たちが気づいているように、彼女の靴底には赤土が残っている。あれは、ここエディンバラの周囲百六十キロ以内にはないものだ。ただし、この近くにある植物園を除いてね。だから、彼女はそこを近道に利用してここまでやってきたのだと分かった。リノリウム工場については、彼女の手に証拠が残されていた。右手の指には特徴的な皮膚炎があり、それはパーンティスランドのリノリウム工場の工員によく見られる独特のものだったからだ」“
「──ベル教授は実際に衣服を脱がせて診察をする前に、すでにこれだけの情報を仕入れていた。けれども僕は、それにすごいと思いつつも違いない、とオッカムのかみそりのようにそれ以外の可能性をばっさりと削ぎ落としてしまう断定口調に危うさを覚えた。そこで、僕が代用品として考案したのが体癖学だった」
「体癖学は違うと言うのですか?」
ダーバードは上着の首元を緩めながら頭を横に振った。
「ああ、違う。違うね。ベル教授のそれはどの知識も個々のつながりがない。逆に体癖学は、万以上の検体に基づいて趣味嗜好を判断するし、あくまでも最初の印象、情報の少ない相手へまずこのように見ますよ、と色眼鏡を宣告していく。そこから正否を確認することで推理があちらこちらへ飛び散らないようにし、効率よく相手の趣味嗜好性格を分析していくための第一歩である。……まァ、応用すれば見知った相手の考えていることは多少読み取れる、という副産物はあったがね。対してベル教授のあれはそういう論理でも何でもない。人格なき学識の暴力だから得体が知れないし後進も育たない。彼は百年後も偉大視されるような素晴らしい医師だろう。これは断定せざるを得ない」
それで、と彼は演説を切って、
「なにか言いたいことがあるなら言ったらどうだね。言葉が唇の端から声にならない震えとなってこぼれかかっているのは見えていた。お前は今、革新的な推理をしているが真実を知るのをおそれている。だから、質問をするという単純な行為すら躊躇している」
「その本には、他人の顔色を見ただけで心が読める方法まで書いてあるのですか?」
「額、眉、眉間、目、耳、頬、鼻、鼻下、唇、口角、顎と細かく分類しているが?」
腹の探り合いでは勝ち目がないと悟ったレイチェルはため息をつくと、上体を起こして両膝に手を置いた。背筋をのばして相手の一挙手一投足に目を凝らしつつ、
「十五年前に殺されたロバート・レックス教授の弟子がぼくの父だと聞きました」
「だとしたら?」
「あなたの肩書きは内科医か内科医だったはずでは?」
「解剖学は、人の臓物を漁ることは忌避される行為のように語られるがその実、治療が正しかったのかどうか。その人の性格や癖、趣味嗜好、価値観などのすべてをつまびらかにする、医学的に重要な行いだ。レックスに黒い噂が付きまとっていたことは百も承知だったが、僕はそれでもよかった」
一息ついて、
「僕は────人の口がなによりもおそろしかった。そこには感情がいの一番に表れるところで、大抵それは悪意を孕んでいた。しかし、あの東洋の少女の口元には何の感情も浮かんでいなかった。いや、正確には浮かんでいたが、遠くの山々に向かって叫んだ時に経験できる少々遅れたやまびこのように、その口元はゆったりとしていた。ならば彼女の感情はまずどこへ? 疑問とともにおそるおそる目線を持ち上げた僕の目に、満天の星空のような無垢で美しい、好意に満ち満ちた眼差しがあった。ああ……彼ら東洋の兄妹は物事を目で語るのか、と。僕は、その珍しい振る舞いに心惹かれたのか、彼女の厚意に心惹かれたのか、とにかくそのすべてに胸を打たれた。これがお前の母親とのなれそめだった」
東洋の兄妹と聞いてジョーの脳裏にはアマツミヤという名が浮かんでいた。
「サピアウォーフの仮説を知っているかね」
「えっと、住む場所住む地域によって表現の多様性が変化する仮説だったと認識しています。たとえば雪が降る土地には雪という現象を表現する言葉が豊かですが、降雪のない土地には雪を表現する語句が乏しいか、そもそも雪という言葉が存在しません」
「その通り。国語は思考や認識に少なからず影響を及ぼすのだ。その仮説に基づいて考えた時、僕は東洋には目は口程に物を言う、という言葉があることを知った。新たな語句を通じて思考や認識が広がったのだ」
淡々と理屈を述べるダーバードの口調には、どことなく嬉しさが滲んでいた。
いつも仏頂面をして、素っ気ない態度を取る父親の姿と重ならない。
どうしてこのような会話ができなかったのか。
レイチェルは目を伏せ、湧き上がった苦い感情を奥歯でぎゅっとすり潰した。
「母親の名は、なんと言うのですか」
「…………訊いてどうする」
「この一連の、もはや事件という言葉では収まらないあなたの凶行、その動機に値する存在だと睨んでいるからです。アマツミヤ……彼、ジョーさんからそう呼ばれ、慕われた東方のお医者さんがいたことは聞いています。今更情報を出し渋ってもエディンバラに到着すればいずれ分かりますよ。病院で訊ねればすぐ済むことでしょうから」
「すべてお見通しだと言いたいわけか」
「ええ」
レイチェルは、疑いの眼差しを向ける父親へ胸を張って、
はっきりと。
断言してみせた。
「今更、真相を知ってどうなる?」
「ぼくが知りたいから知るのです。聞きたいから訊くのです」
「僕を罪には問えないぞ。なにせ証拠がない」
「ぼくのような小娘の証言をまともに聞き入れてくれるようなところもないでしょうね」
「出版社に駆け込むか?」
「三流ゴシップの陰謀論と一蹴されるのが関の山でしょう」
「なら共にライヘンバッハの滝壺へ落ちるか?」
「あいにくですが、ぼくは諦めて心中を選ぶほど利口ではありませんので」
「……ホームズが諦めたと?」
「そうでしょう? 足掻くのをやめた。生き残ったのはただのファンの都合に過ぎません」
「フン……ホームズ論者が……目が、覚めたとでもいうのか」
「ただ憧れたままじゃ理解の及ばない領域に答えを潜ませている人もいると学んだだけですよ」
「親を理解しようというのか。おこがましい」
「むしろ家族なら腹を割って話せるべきだったのです。辛いことや苦しいことを共有して生きるべきだったのです。ぼくは、たしかにまだ大人ではないのかもしれませんがただの子どもでもありません。男子三日会わざれば刮目してみよ、という言葉があるようですが、あなたの頭の中のレイチェル・アンバーは、いったい何歳で止まっているのですか?」
「減らず口を……ずいぶんと生意気を言うようになったな。再会した時はびくびくと怯えていたのに急に肝が据わって。あのみずぼらしい義手の男か? 感銘を受けるほどの立派な考えを持っているようには見えなかったが」
「あの人は、ただの優しい人ですよ。損得抜きでひとの心配ができて、大した見返りを求めようともせず、ただ本気でぼくに手を貸してくれた。ただの諦めの悪いお人好しです」
「人殺しの悪人だろうに」
「断定を忌避するのがあなたの奥ゆかしさだったのでは?」
ダーバードは沈黙した。
レイチェルは追撃に出た。
「駅でのあなたの言動にも引っかかる点がありました。あなた、迎えが来るまでのわずかな間に七回も悪人という言葉を使っていましたよね。ジョーさんへ反射的に言い返した時や流罪の説明の時にも。短期間で同じ言葉を繰り返すのは刷り込みという技法で、相手の無意識に働きかける作用があります。兵士の心的外傷の治療にあたっていたあなたが、このような心理学的技法について知らなかった、とは到底思えません。つまりあなたは正論を笠に着た上で意識的に相手を悪人だと断定して優位性を確保していたのではありませんか?」
「だとしたら?」
「あなたはどうなのですか?」
「なに?」
「裏社会の住人であるレイン・メーカーさんを従え、違法な人体実験をしているあなたも同じ悪人じゃあないのですか?」
【サピアウォーフの仮説】
これは仮説であり、あくまでもそうだと断言できるほどのものではありませんが、調べてみると非常に面白い考え方となっています。とくに小説を書く、小説を読む、文字に触れるのが好きな人間ならきっと興味を持つでしょう。
サピアウォーフの仮説は、個々が住む世界によって世界の見方が変わる、観る語句が育まれるという考え方です。たとえば北米だと雪を表現する語句はせいぜい四、五しかないのに対してエスキモー語(北米の北方先住民の言語集団の総称/アメ リカはそのままだが、現在ではカナダではイヌイットと呼ばれる)は雪を表現する語句が三十以上もあると言われています。これは雪が降る日本でもそうで類語辞典で雪と入力してみるとたくさんの雪を表現する言葉がヒットします。言語が認識を規定する、住む世界が違えば見え方も違う、という言葉を証明する考え方の一つではないでしょうか。




