最悪の味方
瀕死になった彼のもとへ駆け寄ろうしたレイチェルは、その腕を父親にぐっと掴まれていた。やわな細腕で振り払うのは難しく、子どもが駄々をこねるみたいに金切り声で叫ぶことしかできない。
ダーバードは、レイチェルを力で抱き寄せると両頬を骨ばった手で挟み込んで地にふす彼の姿をまざまざと見せつけるようにした。
「これがお前の自由の代償なのだろうな」
その一言がレイチェル・アンバーの反骨精神をくじいた。
罪悪感で胸がいっぱいになった彼女はしゅんと大人しくなり、ぼろぼろと泣き始め、脱力し、その場にへたり込んだ。
不意に白い吐息が視界にちらついた。わずかに首を持ち上げるとジョー・スミスの顔あたりからこぼれているのが見え、死に行く身体を全細胞がなんとか生存させようと燃焼されていた。もう指一本動かすのもつらいはずなのに、その右手は固く握りこまれ、復讐心が背中から湯気のように立ち昇っているように思えた。
『だが、絶対に諦めるな』
フライング・スコッツマンにて言われた言葉がレイチェルの脳内に響く。
ぷしゅぅ、と圧力が抜けた音が鳴って蒸気機関車が到着した。ぞろぞろと英国陸軍の制服に身を包んだ兵隊が現れる。
「やめて! 彼に触らないで! もう、そっとしておいてあげて!」
家族の命乞いをする母親のように、レイチェルは俊敏にジョーの上に覆いかぶさって恥も外聞もなく叫んでいた。ダーバードは、それを軽蔑するような目で見下しては顎で指し示すとサッサと客車内へ入っていき、レイン・メーカーも後を追った。こちらへは横目でチラッとこちらを見るだけだった。
「離して! 触らないで!」
近づいてくる軍人をヒステリックに追い返そうとする。
無駄な行為であるのは百も承知だったが、無様を晒すことこそが狙いだった。
その時、
「おいおいおいおいィ……なんだァそのザマはよォ……」
背筋がゾクッとした。
まったくもって想像だにしていなかった人物の声にレイチェルは真顔になって蒸気機関車のほうを見た。すると腕を固定具で吊り下げた軍人がひとり、下卑た笑みを湛えながら素行不良児のような横柄な足取りで近づいてきた。
──クローリー・カーストーン陸軍大佐。
「どうして……いえ、この一連のあれこれ、あの人が糸を引いているならあなたにも息がかかっていると考えるのが妥当でしたね……クローリー・カーストーンさん」
「まァ、雑な仕事してくれるよな。あのレイン・メーカーとかいうガキ。あいつがわざと列車内にお前んとこの女中を紛れ込ませたせいで俺なりにない知恵しぼって画策した完全犯罪が台無し。しなくてもいい痛い思いをしなくちゃならなくなった。……ま、所詮、計画。予定通りに事が運ぶとは思っちゃいなかったがよ。どーにも気に食わねェよなァ? あのアマ。なにがアイリーンだ。今思い返してみるとずいぶんと皮肉が効いてら。なァ? ミス・ホームズ」
「…………相変わらずよく回る舌ですね」
「おしゃべりは嫌いかい?」
「時間はあまりないのでしょう?」
可愛げのないガキだ、と彼は鼻で笑って、
「そいつは死ぬか」
「右太ももを後ろから。銃弾は貫通しているようですが、あなたにやられた腹からも出血しています。この寒さですからこのまま野ざらしにしておけば長くはないでしょう」
「そうか。じゃあわざわざ手を下す必要もないわけだ」
「……そのようなことを言っていていいのですか? マキャベリズムに傾倒している父なら可能性を残すような真似は許さないはず」
「『加害行為は、一気にやってしまわなくてはいけない。そうすることで、人にそれほど苦渋をなめさせなければ、それだけ人の恨みを買わずにすむ』か?」
「……あなたが君主論を読んでいたとは驚きです」
「人の上に立つ者として読まされたことがあるだけだ。君主論に基づいて考えるなら俺たちのリーダーにはこうも思ってもらわないと不公平だろ? あんたの地位も安泰ではない、ってな」
「……おそろしくないのですか?」
「ないね。『人を従わせるリーダーは、恨みを買うことなくおそれられよ』。親近感も抱いていないに恐怖心もない。所詮、ちぃとばかり頭が回るただの解剖医に過ぎない。それ以外はどれも仮面だと思っている。証拠はなにもねぇがな。鼻がどうもヤツのきな臭い雰囲気に敏感に反応しやがるのよ。お前こそ……大人しく降伏したところでもう二度と外には出られないかもよ?」
「構いません。ぼくの存在が、彼を覆い隠してくれるならそれで」
「ずいぶんと入れ込むじゃあないか」
「君主論は、悪意を薄皮の裏に隠すのが非常にうまい理論です。この人も長い間、復讐すべきは英国陸軍だと漠然と感じていました。ただ蒸気機関でもなんでもエネルギーの効率というのは方向性をしぼってやらないと十分な働きを見せません」
「逆に、対象が明確になれば蒸気機関のピストンのように一気にパワーが増す……か」
「マキャベリズムの悪手でもあります。彼が、父に悪趣味な意趣返しをさせたおかげです」
「あのお澄まし顔が醜く歪んだ瞬間、ぜひとも拝んでみたかったな」
「あなたも大概悪趣味ですね」
「ハッ! おい。娘を連れていけ。そこでのびているヤツの処理は俺がする」
「なッ、あなたは────」
両脇から抱えられ、暴れる暇もなく列車に乗せられたレイチェルと入れ替わるようにクローリー・カーストーンは拳銃を携え、虫の息となっているジョー・スミスに歩み寄った。
彼は無言のまま荒く呼吸を繰り返す仇敵を見下ろして、
発砲。
発砲。
発砲。
のどかな田舎に似合わない暴力的な音が断続的に鳴り、木立から小鳥が飛び立った。
その後、クローリーは出発の合図を聞いてサッと列車に飛び乗った。
「……おいおい、そんな怖い顔をするなよ」
「……殺したのですか?」
「愚問だな。敵兵は殺す。戦争の常識だろうが」
行くぞ、と部下に声をかけてクローリーはどこかへと歩き出した。
うつむいて、失意のどん底に落とされていたレイチェルは、それでもわずかな期待を込めて窓の外を見た。ゆるやかに流れ始めた景色はすでに駅の外だったが、頬っぺたをくっつけて目を凝らすとかろうじて駅の状況が窺えた。
「…………あれ?」
彼はどこへ行った?
ホームのすぐそばで倒れていたはずなのに、姿が見えない。
もしやと思って跳ねるように窓から離れてクローリー・カーストーンを睨みつけた。
彼はこちらの視線に気がつくと肩を揺するように笑い、
「……せいぜい期待させてもらおうじゃない。手負いの狼の本気ってヤツを。ま、期待外れだった時は嬢ちゃんで狐狩りさせてもらうんで、そこんとこヨロシクな。ゲハハハハァン!」
【君主論】
・「天国へ行くのに最も有効な方法は、地獄へ行く道を熟知することである」
・「個人の間では法律や契約書や協定が信義を守るのに役立つ。しかし、権力者の間で信義が守られるのは力によってのみである」
・「自らの安全を自らの力によって守る意思をもたない場合、いかなる国家といえども、独立と平和を期待することはできない」
・「われわれの経験では、信義を守ることなど気にしなかった君主のほうが、偉大な事業を成し遂げていることを教えてくれる」
・「加害行為は一気にやってしまわなくてはいけない。人にそれほど苦汁を舐めさせなければ、それだけ人の恨みを買わずにすむ。これに引き換え恩恵は、人々に長くそれを味わわせるためにも小出しに施すべきである」
これらの名言、つまりマキャベリズムは現在ではダークトライアドと呼ばれ、サイコパスやナルシズムと並んで危険な思想であるとされています。ただたしかに危険な思想ではあるのですが当時の社会情勢などを加味すると一概に悪と断じて忌避するのは違うように感じられてなりません。発展途上国において経済的な面から鑑みると独裁者は肯定されるように(他者の反対を押し切って設備投資に全力を注ぎ、技術革新や土地改革などの積極的な政策を打てるため)。




