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蜘蛛の巣の中心にいたモノ

「結局、いただいてしまってよかったのでしょうか」

「あいつがお前を気に入った証拠だよ。後ろめたい気持ちがあるなら大切に使い倒してやれ」

「……はい」


 ジョーとレイン・メーカー、そしてティムから眼鏡を受け取ったレイチェルの三人は、踏み固められた道をがたがたと進んでいく馬車に揺られながら他愛もない雑談をしていた。


「あの人には、昨晩も話し相手になってもらいました。ジョーさんが目を覚まさない間もずっと大丈夫だと励ましてくださって。『あたしはなにかあった時の助っ人にしかなれない。舞台裏で役者が演技しているのを見守ることしかできないけれど、代わりに予期せぬ事態(アクシデント)が起これば真っ先に飛んでいく。そういう役どころなのさ』って」

「あいつらしいな」

「もしもの時は()()お世話になるかもしれませんね」


 その、また、の言い方にはどことなく強調するような意図が込められているように感じて、ジョーは無言でレイチェルのほうを見た。


「安易に心を許しすぎなんじゃない? 現にわたしたちは一度、カーストーンに一杯食わされたんだ。彼女が信用ならないというわけじゃあない。ただ海軍の助っ人だってそもそも手配したのはこっち。あの子じゃない。おべっかに気をよくして緊張感をなくされると足元をすくわれるよ」

「そうですね。一理あります。迂闊でした。ごめんなさい」


 ぺこり、と素直に謝意を示したレイチェルを、レイン・メーカーはそれ以上糾弾しなかった。


「ところでこの馬車はどこへ向かっているんだ?」

「ロンドンからエディンバラへ向かう路線の中継駅。連中のところへ忍ばせている密偵によるとレイチェルの誘拐を受けてダーバードの身辺警護がなされることになって、年末の忙しい時期に十分な警戒態勢を敷くために専用列車の使用を要請したところ空きがないってことで現役を引退した蒸気機関車にお鉢が回ったんだって。ひと世代前の列車は牽引力がある代わりに燃費があまり良くなくて、給水塔を設けた中継駅に停まっては息継ぎをするように燃料と水を補給して走る、という設計になっているの。だからダーバードの乗り込んだ列車が分かれば給水ペースが割り出せるし、どこの中継駅に停車するかも分かる。わたしたちはその給水の隙を突いて敵地に潜入しろ、っていうのが今回の作戦の概要ってワケ。お分かり?」

「子守をしながらやる作戦とは到底思えないな……」

「ただ単に本人をどうこうするだけじゃあ口を割らないって判断したんでしょ。ダーバードにとってレイチェルは唯一の家族だし」

「ぼくが拷問されたとてあの人が口を割るとは思えません。あの人にとって大事なのは……というより大事だったのはお母さんですから」


「その前に一つだけ質問してもいいかしら。『客観的な事実してホームズもぼくの親も、そしてあなたも人殺しです』。ホームズは最後の事件。そいつは元軍人だからよね。だったらダーバードを一緒にした理由ってなに? たしかに昨晩、ロバート・ノックス教授の件と絡めてネルソン海軍大尉ルーテナントは意味深な物言いをしていたわ。けれどノックス教授を殺したのがダーバードである、とは断言しなかった。違う?」

「あれは、ロイヤルフライング・スコッツマンの事件と関わりがあるからそう言ったまでですよ。あの乗客の豹変に関わっているなら人殺しに違いありませんから」

「なるほど。変に深読みしちゃってたわ。クローリー・カーストーンが目立つ一件だったけれど裏で糸を引いている者の中にはダーバードもいる。そう考えると確かに辻褄は合うわね」


 そう納得した面持ちのレイン・メーカーに対してレイチェルの表情は暗い。

「どうかしたのか?」

「いえ……その、昨日、【壊れた甕】という絵の話になったのを覚えていますでしょうか。実は、その絵がちょっと引っかかっていて」

「なにか曰く付きの絵なのか?」

「その絵自体によからぬ噂があるわけではありません。ただ絵が内包する意味が不穏なのです。ジャン・バティスト・グルーズ作の【壊れたかめ】をネルソン海軍大尉がどのように表現していたか覚えてますか? 左乳房を露わにした少女が描かれた陰気で悲しげな絵、です。絵についてぼくの覚えている範囲で説明すると無邪気な目を大きく見開いて、紫色のリボンと花を頭に挿した無垢な少女がドレスの裾をたくし上げ、()()()()()()()()()()()を抱えています。これらはひとえに失われた純潔、処女を表現しているそうです」

「失われた純潔……陰惨な話だな。それを知ってたら手元に置きたいとは思えない」

「ただ意味も調べずに直感で大金を出すとも思えません。父の性格を考えると」

「考察は結構だけれどどうやら着いたみたいよ」


 馬車の揺れが徐々に収まってきて──止まった。


「着いたぞ」と御者がそっけなく言う。扉を開けると蒸気スチームやスモッグに侵されていない、しんとした冷たい空気が飛び込んできてレイチェルが寒そうに唇を噛んだ。船で衣服を乾かしてもらったとはいえマフラーや手袋なんて気の利いた防寒具はない。


「静かですね」


 レイチェルが開口一番、みなが思っていたことを代弁した。

 さびれた駅だった。ところどころ虫に食われた柱や塗料がはがれ落ちた壁、中継駅と銘打たれた看板も錆にまみれている。御者が鞭を打って走り去っていく音が明瞭に耳に入ってくる程度には、静寂に包まれた無人駅ホールトだった。出入口の向こう側にはすぐ路線があって、簡素な椅子が野ざらしに並んでいた。本当に、水と石炭を補給するためだけがこの駅の存在理由なのだろう。


「まだ着いていない?」

「それともすでに通過した後、とか?」


 ジョーの予想と反対の意見をぶつけてきたレイン・メーカーは「とにかく」と駅舎内に足を踏み入れる。


「出遅れたのなら議会列車パラメンタリーで後を追いかける必要があるわ」

「自由を求めて逃げてきたのに今度は追いかける側だなんてとんだ皮肉だな」

「灯台下暗しということなのでしょう」

「幸せの青い鳥かもしれないわよ?」

「現実を直視せずに理想ばかり追い求めている、と?」

「ハッ! ……そう聞こえたならそうなんじゃない?」


 レイン・メーカーは皮肉っぽく口角を引き上げた。


「結果だけで優劣を決める姿勢には賛同できません」

「世間は結果だけで優劣を決めるものさ」


 そう鋭く切り返されたレイチェルは大きな瞳を見開いた後、しょんぼりとまぶたを少し下ろしてレイン・メーカーのほうへ合わせていた鼻先を逸らした。ぎゅっと握りこまれていた右拳が解かれ、降って湧いた怒りを飲み込めた──ように一瞬見えたけれど、力の入れ所が上体へと移行しただけみたいで右肩がいかり肩っぽく上がっていた。


「……であれば結果を出すほかありませんね」


 ささくれだった精神から搾り出した大人びた結論を述べ、レイチェルは進む。

 ジョーは、その小さな背中に似合わない使命感に身を焦がす彼女に、病弱でありながらも兄を心配させまいとしっかり者であろうとする妹の姿が重なっていることに気づいたのだった。


   ・・・


 レイチェル・アンバーの神経は太いほうだ。

 目新しいものには積極的に興味を示し、些細なものへも頭脳を使うことを惜しまない。死体を見ても恐れ続けるような真似はせず、醜悪な人間性を浴びせられてもすぐに立ち直って今、ふたたび自分の問題解決のためにちゃんと前進をしている。

 しかし。

 ほんの一瞬。

 彼女は明確に怯えていた。

 ギクリとしていた。


「人格というのは不思議なもので相対する人間の数だけ表れる。ジョー・スミスと相対した時の人格やレイン・メーカーと相対した時の人格。そして()()()()と相対した時の人格は、決してイコールでは片付けられない繊細な違いに満ちている────」


 ジョー・スミスは彼の外見をあまりよく知らなかった。

 けれども二人の顔色に表れた明確な怯え、戸惑い、困惑の感情から本能的に危険を察知してかレイチェルと彼とのつながりを阻害するように立って、こう訊ねた。


「お前は誰だ」


 閑散としたベンチに座っていた男は、表紙も奥付もない、市場に流通しているとは思えないのっぺらぼうな文庫本をぱたんと閉じ、ぬぅっと立ち上がった。百八十に近いジョーよりもまだ高い背は、その高さのわりに痩せていて華奢な印象を受ける。髪の毛は刈り上げていて精悍な雰囲気を漂わせているが、ぎょろりとこちらを見つめる爬虫類とかげみたいに感情の読めない眼差しからは誠実さなどみじんも感じられなかった。

 綺麗にそられた髭のあとをなぞるように顎に手を当てながら、フゥむ、とへの字に曲がった厚ぼったい唇から白い吐息をこぼす。万華鏡のようにいくつもの感情がほんのわずかなきらめきとなって瞳の中でかすかにまたたいた。


 やがて、彼は目をすぼめて非常に興味を持った様子でジョーに目線を合わせ、


「筋肉の一筋一筋が復讐へ向けて躍動していないな。報告書からはもう少し飢えた狼のような顔つきを想像していたが、愚かな娘の理想論にあてられたか。それともきみの本質は犬で、娘を庇護対象に入れることで失った心の代替え品にして平静を保っているのか。さて、どちらか……ふむ。どうやら左ひざの緊張具合からして図星こうしゃのようだ。先に言っておこう。この場で僕の喉笛を掻っ切ろうが状況は好転しないよ。番犬ブラックドック

「っ、質問に答えになってねぇぞテメェ」

「そう唸るな。隻腕のくせに威勢がいいな。いや、向こう見ずだからこそ腕を失ったとも考えられようか。()()()()()。答えてやる。よく聞いておけ。僕の名はダーバード。ダーバード・アンバー。お前の後ろでがたがたと震えているみっともない娘の……まァ、ただの親だよ」

【体癖論】

 体癖論とは身体の特徴や動かし方の癖から相手の性格や価値観を読み取る学問です。

 もともとは野口晴哉のぐちはるちかという整体師が考案したものであり、作中より何十年も先の未来で生まれた考え方なのですが、この部分は作中で拾うところもであるので割愛。


 話を戻しまして作中で行ったように相手の動作から感情を読み取るというのはやってみようとするとぞんがいできるものです。これらは体癖の種別としてちゃんと明確に分類されており、自分の体癖がどれかというのを理解すると自己理解がより深まること間違いありません。けれども自分の嫌な部分まで否応なし自覚させられる場合もあり、個人的にはなかなか危険な思想だなと感じました。非常に便利であるのは間違いないのですが安易な決めつけを行ったりむやみに人を分析にかけたりするのはとても失礼な行為に当たるので濫用は止めておきましょう。

 けれども小説家を志し、しっかりとした人間を描きたいのであれば興味深い思想であるのは間違いないので節度を守って学ぶことをお勧めします。ちょっとした会話のネタにもなりますしね。

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