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理想は、雲よりも遠く

 翌朝。


 海軍から譲り受けた清潔なシャツとズボンを穿いてガンベルトを巻き、預けていた古めかしい拳銃と真新しい弾丸を受け取った。そして、ボイラー室で乾かされた擦り切れた外套をはおり、左腕なかみのない袖をなびかせながら船を降りたジョー・スミスは、四人乗りの馬車の客室前で待っていた彼女たちのほうへ歩き出した。


「おはよ。よく眠れた?」


 まぶたの上がりきらない眠たげな表情でティムが言った。


「ぼちぼち」

「誰かさんのいびきがうるさくて眠れなかったわよ。わたしたちは」

「あたしは付き合い長いからとっくに慣れっこだけど?」


 猫が威嚇するようにキッ、とレイン・メーカーが睨んだ。


「眠れなかったのよ! わたしは!」

「きゃーきゃーうるさいなぁ……。そんなに主張しなくても伝わってるよ……」

「ティム、レイチェルは?」


 彼女はレイン・メーカー側に面する耳を手で塞ぎつつ「あっち」と馬車の先頭を指した。

 レイチェル・アンバーは人参を持って御者ぎょしゃの傍らに立っていた。


「こう……撫でてやるんだ。そうして警戒心を解く。……ほれ」


 口数は少ないが丁寧な教え方をする彼の言葉に従って、朝飯前の運動を強いられてやや興奮状態の馬のたてがみをそっと撫でる。ぶるるっ、と鼻息荒くいなないた馬は、すぐに大人しくなってレイチェルの手に身を任せていた。スッと口元に人参を向けるとバクバクとかじり始め、すぐにぺろりと平らげてしまった。もう片方の馬も御者から朝飯を与えられ、やや眠そうにまぶたを閉じながら無心で咀嚼を繰り返している。


「レイチェル」

「おはようございます」

「もっと休んでおかなくてだいじょうぶか?」

「ええ……その、あまり寝つけなくて」

「船の揺れのせいか?」

「いえ。昨日のネルソン海軍大尉とのお話で。父について……すこし」

「思うところがあったってワケか。……差し支えなければ教えてくれないか?」


「ひとつ質問をしてもよいですか?」

「ああ」とジョーは返答した。「俺に答えられることなら」

「人を殺す、ということはどういう感覚なのでしょうか」


「……ずいぶんとまた、難しい質問だな。それとダーバードにどういう関係があるのかは知らんが……そうだな。俺がこれまで参考にしてきた考え方を言うと“取捨選択”だ。まだ徴兵されて数日のころだ。俺の部隊の隊長は、決して人殺しに乗り気じゃなかった俺の未熟な姿勢を見抜いていた。善悪で語るなら人殺しは悪だ。ただ戦争という場所だとそういう倫理観に意味なんてない。頭で分かっていても血走った目や絶叫を聞くと足がすくんだ。俺のその情けない意見を聞いた後、隊長はこう言った。目の前に拳銃を持った人がいたとする。傍らには自分の大切な人がいる。撃つのを躊躇えばその人が撃たれる。撃ってしまえばその人は助かる」

「……取捨選択」

「そうだ。目の前にいる敵の迫力に呑み込まれて傍らにいる味方の存在を忘れていたら、それは優しい人間か? まぁ、人の痛みに心を痛められる人間ではあるだろうな。ただそれは自分の手を汚したくないという臆病者の理屈だ。……現にレイチェルも分かってるだろ? 昨日、俺は間接的に人を殺した。食堂車より以降はあのごつい軍用列車に弾き飛ばされた。中にいた乗客はまぁ、生きちゃいないだろう。蒸気鎧に詰め込まれた人もおそらく死んでるんだろうな。ファラリスの雄牛よろしく蒸し焼きにされて全身にやけどを負ってる。生きちゃいねぇよ」


 レイチェルは俯いた。馬が心配そうにこちらに顔を向けている。


「正義ってなんだろーなァ……」

「シャーロック・ホームズの最後の事件では」とレイチェルは面を上げた。「宿敵モリアーティ教授と共にライヘンバッハの滝壺へ落下してしまいます。ホームズがやむ負えず彼と心中を図ったのかどうかは不明ですが、ライヘンバッハの滝へと通じる小道へは二組の足跡がくっきりと残っていて戻ろうとした形跡はありませんでした。行き止まり付近は踏み荒らされて争った形跡だけがあったそうです。その行き止まりには登山杖が置かれていて、その傍らにはホームズからワトソンへの手紙が残されていました。……手紙の内容はこうです」


『親愛なるワトソンへ


 僕はこの手紙をモリアーティ氏の厚意で書いている。彼は二人の間にある諸問題について最終的な話し合いをしたいと、僕が時間を都合するのを待っている。彼はどのようにしてイギリス警察の手を逃れたか、いかに僕達の行動を見張っていたか、その手口をざっと語ってくれた。僕は彼の能力を非常に高く評価していたが、これは間違いなくそれを裏付けるものだった。僕は社会に対する彼の影響をこれで取り除けると思うと嬉しい気持ちだ。しかし、僕はその対価が友人たちに苦痛を与えることを恐れている。特に親愛なるワトソン、君に対して。しかし、すでに君に説明していたように、僕の仕事はとにかく重大な局面を迎えていたのだ。そしてこれ以上、僕にふさわしい結末はありえないだろう。君に正直に告白しよう。マイリンゲンから来た手紙が偽物だということは、僕には完全に分かっていた。そして、おそらく、こういう展開になりそうだという確信がありながら僕は君にその使いに行かせたのだ。パターソン警部に伝えてくれ。一味を有罪にするのに必要な書類は整理棚のM。モリアーティと書かれた青い封筒の中にすべて入っている。僕はイギリスを発つ前にすべての財産を処分し、兄のマイクロフトの手に預けた。奥さんによろしく伝えてくれ。親愛なる友人へ。


 さようなら。

 シャーロック・ホームズ』


 おそらく何十回、何百回と読み直したのだろう。

 一言一句を正確にそらんじてみせたレイチェル・アンバーの声色には滝壺へ落下していった親友のことを思い、叫び、そして悲しんだジョン・ワトソンの魂が宿っていた。


 ただ。


 シャーロック・ホームズに憧れてそうなるように育てられた少女の眼差しは、彼を心酔していたジョン・ワトソンがあえて目を背けていた罪へと向けられていく。


「ぼくは、このホームズを()()()だと思いました。彼はコナン・ドイルから疎まれていた。あのお話にはそういう現実的な都合もあったでしょう。ですが先を読んでいながらあえてそれを受け入れ、ふさわしい結末などと言い訳をしてモリアーティ教授と滝壺へ落ちたホームズの行いはそれまでの正義の名探偵としての立ち居振る舞いから考えると明らかに矛盾しています」

「……一から十まで完璧に清廉潔白な人間なんていねぇよ。考えすぎじゃアないのか?」

「かもしれません」

「これまではどうやって目を逸らしてた? ホームズの矛盾なんぞとっくの昔に気づいてたろ」

「ええ、まぁ……」

「親愛なるパパがモリアーティ教授の手先みてぇな真似をしてて幻滅したか?」


 レイチェルは沈黙した。


「図星かよ」と思わず毒づくと「図星で悪いですか?」と唇を尖らせながら返された。

「そいつは色眼鏡だろうよ。真っ白いシーツにしみが一つあるのとすでに汚れていて新たにしみが一つ増えたのだと印象はまったく違う。そうだろ? お前は正しい。でも誠実すぎてちょっと潔癖になってやしないか」

「……大人になれ、と?」

「現実を見ろ、っつってんだよ」

「ぼくが一度も挫折したことがないように見えますか?」

「ああ、見えるね。温室でぬくぬくと育ってきたヤツらしい馬鹿げた考え方をしてるよ、お前。なにが正義の名探偵だよ。ろくに力もない子どもが無茶な理想を掲げてんじゃねぇよ。シャーロック・ホームズになる、だァ? くっだらねぇ。お前がどれだけ努力してきたのか知らねぇけど、あのクソッタレな陸軍野郎に負けたじゃねぇか。そうだろ?」

「っ……不愉快です。ぼくは今、とっても、不愉快なっ……気持ち、です」


 言葉の合間に鼻をすするような声が混じる。

 ちらっと目線を下げると、海軍から支給された小奇麗な上着の端をぎゅっと握りしめているのが見えた。理知的過ぎるが故に怒りもぐっと抑え込めてしまうのがジョーには憐れに思えてならなかった。


「……よく味わいな名探偵。それが敗北の味だ」


 誰に聞かせるでもなくぼそりと呟いた後、ジョーはその場から離れることに決めた。

 遠巻きからやり取りを眺めていたティムは、腕を組みながら馬車の戸に寄りかかっていた。


「なにしてたのお兄ちゃん」

「お兄ちゃんじゃねぇよ」

「妹にずいぶんと世話、焼いてたじゃない」

「妹はもういない」

「ま、なんでもいいけどさ。あんた、このままだと死ぬよ。腹の刺し傷。ぜんぜん浅くない。包帯と薬でなんとかなっているけどこれ以上激しい運動はだめ。次、無茶したら確実に命の保証はできない」

「……この勝負、降りろって?」

「まだ復讐、考えてる? まだ身を焦がすような怒りはある? ないでしょ。ぶっちゃけ。人の感情なんてそんなもんだよ。あたしももう亡くなったあの人の声が思い出せない。亡くなった年すらあやふやなんだ。当時はみっともなくあんたの胸にすがりついて泣き散らしたはずなのに、時間が経てば記憶は劣化してぼやけてくる。……結局さ。妹さんは病気で亡くなって仲間は戦争で死んじゃったんだよ。たしかに奇妙な点はあった。それは認める。英国陸軍はなにかしらやってた。でも、そろそろいいんじゃない? ここら辺が潮時だと思うよ」


 耳が痛い。


「そうだな……そうかもしれん──「なら」お前は、いわしの群れを見たことあるか? 俺は、戦争に行くために船で海を渡った時に見た。大きめの水槽に入っていた鰯の群れだ。外から餌を投げ込むと群れは渦を巻いて、取り囲んで、ちり一つ残さず食い尽くした。それを見て正直、ゾッとした。俺がこれから戦地で求められる役割は、その狂った宴の中から無事に餌をすくい上げることだったからだ。……ここであいつを見捨てて武器を置いて、倫敦に戻るのがいちばん賢い選択なんだろう。だが、そうしたら俺はまた後悔するはめになる。理想を求めてひたむきに頑張ってる奴は報われなきゃおかしいんだ。そうだろ?」

「っ、はぁ~~~~……要は死んだ妹と重ねてんのね?」

「いや、俺は──」

「あー、はいはい。もういいわ。分かりました。じゃあ、あたしはせいぜいあんたが簡単に死なないようにするから。あんたも大見得切ったんだから、簡単にくたばんないでよね」

「お、おう……当たり前だ」


 約束ね、とティムは素っ気なく言って馬車の戸を開けた。

 そこには眠そうに欠伸をしながらこちらを睥睨するレイン・メーカーと真新しい義手と整備機具の入った道具箱が置かれていたのだった。

【シャーロック・ホームズの倫理観について】

 今ではコナン・ドイルに疎まれていたからこそ最後の事件でモリアーティ教授と心中するはめになったというのは有名な話ですが、ホームズが殺人犯を情状酌量の余地ありとして見逃した話があるのはご存知でしょうか。

 短編の悪魔の足では、最愛の人を殺された犯人の供述を聞いてそれを見逃した後、ホームズはこのように述懐しています。

「ワトソン、僕は人を愛したことがない。しかしもし僕が人を愛し、愛する女性があのような最期を遂げれば、あの無法者のライオンハンターがやったのと同じようにするかもしれない。まあ、わからんがね」

 殺人の是非については今でも難しいことでしょう。

 人の数だけ意見があってしかるべき事柄です。

 ですから本作で今後、述べられるであろう意見もまた諸兄らの倫理の本棚の末端に加えていただければこれ幸い。わたしも記憶の片隅に留めておくに足る物語をお届けできるよう善処いたします。更新が遅くなって失礼しました。今後ともよろしくお願いいたします。

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― 新着の感想 ―
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[一言] 日露戦争のくだりは一般的でない一個人の考えなので作品に入れ込む必要はまったくないです。 歴史的にはこの時はまだ日本とイギリスの間では日英同盟が結ばれており、そもそも日英同盟の目的が、イギリ…
2020/07/17 07:29 退会済み
管理
[良い点] 現実と理想の狭間で悶えるホームズちゃんがいじらしくて萌える。 [気になる点] ここまでで、ホームズちゃんがたいして活躍していないのに、鬱展開になっているため、とても嫌な気分になりました。そ…
2020/07/17 00:20 退会済み
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