調度品は語る
「……一旦、話を整理する。紆余曲折を経ておおかたの情勢を理解してくれたと思うが、根本は陸軍連中の権力拡大を阻止することにある。そのキーマンであるのがダーバード・アンバー。ヤツの懐へは多額の金が流れ込んでいる。その証拠にヤツの部屋は大層立派だったしな」
ふん、とネルソン海軍大尉は嫌悪感を一切隠そうとしなかった。
「っ、ちょっと待ってください。あなたは父の研究室を訪れたのですか?」
これまで口を閉ざしていたレイチェル・アンバーが突然、食ってかかるような勢いで訊ねた。
「あ、ああ……それが、どうかしたのかね?」
「その時のことを教えてください。できる限り詳細に」
「ふむ……」
「父の研究室はどのような様子でしたか?」
「よく整えられていた。研究室というよりは書斎に近い印象を受けた。実際、あそこは彼の書斎だったのだろう。本棚には英語、フランス語、ラテン語、ドイツ語、ロシア語……正直言って吾輩には判別できないものまで多数収蔵されていた。彼はデスクに腰かけ、吾輩は杖をつきながらデスクの前に立った。彼の頭上には豪奢な絵がかかっていた。左乳房を露わにした少女が描かれた陰気で悲しげな絵だった」
「その絵は」レイチェルは椅子に座り直し、重ねていた両手を解いて指をからめ、それから少し肌寒そうに手のひらをこすり合わせた。
「ジャン・バティスト・グルーズ作の【壊れた甕】で間違いないでしょう。彼は千七百五十年から千八百年にかけて人気があったフランスの画家で存命当時より現代のほうが高く評価されています」
「……要領を得んな。それは今、重要な事かね」
「もちろん。その人間のすべてを分析する時に無用なことなど一つとしてありません。たとえばグルーズ随一の代表作である【村の花嫁】は千七百六十一年のサロンにて絶大な支持を集めた後、アベル・フランソワ・ポワソン・ド・ヴァンディエール。またの名を建築総督マリニが約四万リーブル(日本円にすると約千八百万から二千万)という破格の金額で購入しています」
「ほう」
彼女の博識に感心してか、ネルソン海軍大尉の声色に好奇心が宿る。
「これはソブリン金貨に換算するとおおよそ二千。絵画自体の値段がそうなのですから、ここから運搬にかかる費用なども考えると途方もない金額です。また信頼できる資料をいくつかあたると分かるのですが、内科医の平均年収はおよそ五百ソブリンだそうです。父は特殊な立ち位置ですから多少色をつけたとしても二千ソブリンもする絵画を自分の書斎にかけられるほど年収が高かったとは思えません」
「となるとあの絵は貰い物か贋作か……」
「または非合法的な収入源があった、と考えられるでしょうね。父は過去にぼくに芸術の指導をしていた際、ジャン・バティスト・グルーズを指して『彼の絵は高かった』と口を滑らせたことがあったので。……まぁ、まさか実体験に基づいていたとは、その時は考えもしませんでしたが」
「やはり陸軍の存在か」
「帳簿が出てくるまで断言はできませんが、おそらく」
「さすがシャーロック・ホームズの名を冠するだけはあるな。見事な推理だ」
培った推理力を褒められてレイチェルは嬉しそうな声で「いえ」と謙遜して、
「っ、ふわぁ…………っっ! し、失礼しました……」
「よい。生理現象にいちいち目くじらを立てるほど吾輩は不寛容ではない」
「ありがとうございます。……ちなみに、父とはどういった話をされましたか?」
「兵士の精神について議論した。彼は吾輩に、強い兵士の精神条件を訊ねた。吾輩はこう答えた。『気高く誇り高く一本筋通った武人こそ強者である』と。彼は言った。『面白い。僕にはない考え方です』。吾輩は訊ねた。『なれば貴公はどう考えるかね』。彼はこう答えた。『愛』と」
「ずいぶんとロマンチックな返答ね。彼はロマンチストなの?」
レイン・メーカーの問いかけにレイチェルは顎に手を当てながら小さく首を傾げていた。
「……洗脳の言い換えだろ」
ジョーはレイチェルにちらと目をやった後、ネルソン海軍大尉へ目線を移した。
「レイチェルと出会ったころから漠然と思っていたんだ。こんなすごいことができる子に育て上げるまでにどれだけの金と時間が必要なのか。そこで思い出した。試作品って言葉を。あんまり知らねぇけどよ。試作品の場合は採算度外視で設計思想、設計目的に沿ったものを作ってもいいっていうのがあるらしいじゃねぇか。だからレイチェルがヤツの研究の試作品なんじゃないか? 徹底的に洗脳教育を施して望む性格に作り替える研究のための。前に……レイン・メーカーに訊ねられた時もそういう研究だと言ってた」
「だとすると妙だと思わんかね。確かにダーバードの研究は教育という分野に革命をもたらすに値する結果を出している。だが、それは彼女が天才の原石だっただけかもしれん。それに費用対効果を考えるならば彼女はまだ一銭も生み出していないだろう。そもそも軟禁状態だったのだろう? 仮にそういう目的があったとして……割に合うとは到底思えんな」
「それは英国社会が男社会だからか?」
ネルソン海軍大尉は重々しく息を吐いて。
頷いた。
みなが一様に言葉を閉口する中。
「千八百八十六年」とレイチェルが歴史書を開くように口火を切った。
「フランスの作家、ヴェリエ・ド・リラダンは【未来のイブ】という作品を発表しました。この作品は、理想の女性像に悩む主人公のためにエジソン博士が人造人間を創造します。ギリシャ神話のピュグマリオンでは、現実の女性に失望していたピュグマリオンは、自らの理想とする女性、ガラテアを彫刻します。ピュグマリオンは裸では恥ずかしいだろうとガラテアに服を与え、ガラテアに恋をし、食事を用意し、話しかけるようになり、やがて本物の人間になるように願いました。ガラテアは後に女神の計らいによって生命を与えられ、ピュグマリオンは彼女を妻に迎えました」
彼女はそこで話を区切って、悲しそうなに唇を甘噛みしながらジョーを見上げた。
「自分の理想とする人間を自分の手で作りだしたい。それは、なんとなく大層なことのように聞こえますが実際はどこの家庭でも見受けられる光景なのではないでしょうか。とくに貴族社会では男はこうあるべし。女はこうあるべし、と厳しく教育されます。穿った見方をするならばそれらもまた洗脳なのかもしれません。ぼくは決してロイヤルフライング・スコッツマンで見かけた乗客たちの異様な光景を擁護する気はありませんが、ぼく自身にされた様々なことが教育なのか洗脳なのか。……正直……判断がつかないと言わざるを……」
不意にレイチェルの身体が傾いて、とスン、とジョーの胸に寄りかかった。
「レイチェル?」
「…………すみません。ちょっと……集中が……」
「いい。目を開けるな。分かったな?」
シャツに額をこすりつけるように小さく頷いた。
「……今日はもうお開きにできないか?」
ネルソン海軍大尉は書記係に目配せすると、彼はそそくさと道具をまとめて退室していった。
「今夜は吾輩の船で休んでいくがよい。今回のことは電報係に届けさせる」
「上の判断を仰ぐってワケね」
「じゃあ倫敦にとんぼ返りする可能性もあるってことか?」
「いや。その可能性はおそらく低い」
「なぜそう思うんだ?」
「今日の昼過ぎにジョセフ・ベル教授が病に倒れた」
思わぬ報せに動揺が走る。眠りに落ちかかっていたレイチェルもかすかに目を開け、少し驚いた様子でなにかを言いたそうに口を開けていたが、ネルソン海軍大尉が会話の主導権を手放そうとしないのを察してか口は挟まなかった。
「とうに知っているだろうがシャーロック・ホームズのモデルとなった彼だ。実は、彼にとってダーバード・アンバーは教え子でもあったのだ。密偵から新たな情報が入り次第、お前たちには再び最寄りの駅へ行ってもらう。陸軍の国立研究所に引きこもっていたヤツには長年手が出せなかった。これは千載一遇の好機だ。二度はない」
「……いいのかよ。腐っても味方だろ?」
「命令をこなすのが兵士であり、命令違反を指示するのが我ら将校の役目だ」
「もう軍の犬じゃねぇ。いたずらにレイチェルを危険にさらすのは反対だ」
「では蹴るかね? その場合、きみには今ここであの女技師と一緒に下船してもらうが」
「やめときなさいよジョー・スミス。その仕事、受理するわ。でも報酬は引き上げるわよ」
「ほう。国相手に交渉の真似事か?」
「あんたらが地雷を踏まなければ他のわたしたちが表舞台に上がることはない」
ネルソン海軍大尉は真意を推し測るように目を細めると、ゆっくりとまぶたを閉じて背もたれに寄りかかった。
「一蓮托生という東方の言葉を知っているかね。よい行いをした者は極楽の同じ蓮華の上に生まれること。転じて結果のよしあしに関わらず行動や運命を共にすることだ」
「……どうでもいいけど契約成立ね。そろそろ休んでもいいかしら? 疲れちゃったんだけど」
彼は勝手にしろ、と言いたそうに「フン」と鼻で笑った。
寝ぼけたレイチェルを右腕で背負って、先に席を立ったレイン・メーカーの後を追う。
「教育と」不意に引き留めるように彼は言った。「洗脳の違いについて知っているかね」
「藪から棒になに?」
「教育とは、国や社会にとって望ましい人間に育てること。
洗脳とは、特定の人間や集団にとって望ましい価値観や考え方を植えつけることだ。
両者は非常に近しい存在であり、時と場合によっては同居することもできる」
警告と脅しの入り混じった声色でネルソン海軍大尉はさらに続けた。
「彼女は我々にとって貴重な交渉の材料である。が、その頭脳は諸刃の剣でもある。……シャーロック・ホームズがジェームズ・モリアーティにならぬことを願っているよ」
【コミュニケーションの93%】
世の中にはバーバルコミュニケーションとノンバーバルコミュニケーションというものがあります。
前者は言葉を用いた交流。後者は言葉によらない交流です。
コミュニケーションの九十三%は後者のノンバーバルコミュニケーションだそうです。作中でもレイチェル・アンバーが相手の様子からその素性を推理したり、部屋に飾られた絵画から懐具合を推理したり。まぁ、懐具合を推理するのは厳密にはノンバーバルコミュニケーションではありませんが、目は口ほどに物を言う、ということわざがあるように態度というのは相手を分析する上で非常に大きな手掛かりになるわけです。こういうことを言うと嘘っぽく聞こえてしまうのが人情ですが、デフォルメされたアニメキャラクターを思い浮かべて見てください。
たとえばツンデレ、クーデレ、ヤンデレ。
そのどれらの言動もあなたは容易く想像できると思います。楽しい時はどのような口をして、怒る時は眉毛がどのよううに動くのか。悲しむときは肩が下がるのか。喜んだ時の目尻はどうか。全体をぼんやりと捉えていると見逃しがちなサインを目ざとく受け取って総合的に判断する。
いかがです? ノンバーバルコミュニケーション。言葉はむずかしそうですが、案外みんなやっていることでしょう? 現実や創作でもこういう細かな仕草に注目してみると、あの人の違った一面が見えるかもしれませんね。




