ウエストポート事件と地政学
「彼は書記係だ。顔は覚えんでくれよ。こちらも彼が外に漏らすようなことがあれば容赦なく口を封じる。いないものとして会話してもらって構わない。彼も書記に専念すべきであるしな」
食後、部下たちが食器を片付け終えるときりっとした顔をした軍人が一人、部屋にやって来てネルソン海軍大尉の近くに座った。物騒な前置きを聞いても眉一つ動かさずに冷静にインクとペンを並べている。
「ここからの会話はすべて記録され、あのお方への報告書として提出される。どのような発言も議論の進行に寄与するのであれば自由であるが、流れを澱ませるものには容赦できん。以上に留意した上、清らかな進行になることを願っている」
「なら早速訊くけどよ。いったいあんたらとレイン・メーカーとは、どういう関係なんだ? なにかしらの理由で陸軍と対立している……政治戦争のためか?」
「あまりわたしたちの関係に首を突っ込まないほうがいいと思うけどね」
いさめるようなレイン・メーカーの態度を、ネルソン海軍大尉は手振りで制し、
「まぁ、よい。お前、確か脱走兵であったな。陸軍の。徴兵はどこで受けた」
「あン? …………エディンバラだが」
「そう。エディンバラ。すべてはそこから始まっている。ウエストポート事件から」
「ウエストポート事件ってアレよね。
バークは肉屋で♪
ヘアは盗っ人♪
レックス坊ちゃま、肉買った♪
って童謡の。子どものころに聞いたことがあるわ」
然り、とネルソン海軍大尉は指を組み合わせて神妙な面持ちで頷いた。
生きる犯罪史料館が事件の概要に踏み込んでいく。
「別名バークとヘア連続殺人事件。千八百二十七年から二十八年にかけて起こった事件で、主犯格のウィリアム・バークとウィリアム・ヘア。共犯者はバークの愛人のヘレン・マクドゥガル。そしてヘアの妻であるマーガレット。彼らは罪のない十七人を殺し、エディンバラ医学校にその死体を売っています。買ったのはロバート・レックス医師。レックス医師は医学生たちの前でそれを解剖の授業に使用しています。その童謡はこの事件を端的に表したものです」
「うへぇ、マジ?」
「マジだ。その童謡を作ったヤツもずいぶんとイイ趣味してるよな」
「あんたが故郷に帰らず各地を放浪している理由、なんとなく分かった気がするわ」
レイン・メーカーの同情混じりの発言にジョーは肩をすくめて苦笑した。
「昔は些細な罪でも死罪にかけていたそうですが、それを改正して安易に死罪を持ち出さなくなりました。しかしそれが皮肉にも解剖学への死体供給を減らすことになった。そのため解剖学発展のための死体が、需要に対して供給が追いつかないようになり、そこにつけ込んだ犯罪者たちが死体泥棒を始めた……。後に国は死体にまつわる法律の改正を強いられました。世間に大きな衝撃を与えた有名な凶悪犯罪の一つです」
「さすがシャーロックの名を冠するだけはある。よく知っているな」
「たしかに俺はエディンバラの旧市街で生まれ育った。あそこの治安の悪さもよく知ってる。だが、その事件はもう五十年以上も前の話だろ? ついでに犯人も捕まって裁判も終わってる」
「その通り。だが、終わっていなかったと言ったら?」
「……なんだって?」
どういう意味だよ、と前のめりになったジョーの刺々しい雰囲気に驚いたのか、レイチェルはおずおずと、まるでその場に立ち会っていたかと思うほどに丁寧に当時を振り返り始める。
「……当時の判決はこうです。ウィリアム・バークは絞首刑。彼の妻のマーガレットとヘレン・マクドゥガルは釈放。とはいっても義憤に駆られた群衆にリンチされ、その後の消息は不明。ウィリアム・ヘアも同様に消息不明です。倫敦で盲目の乞食をしていたなどと噂がありますが、せいぜい噂です」
「そして盗っ人から肉を買ったレックスお坊ちゃまは不問。というのもバークとヘアから死体を買いはしたが、その死体がどこの誰でどうやって調達したのか知らない、と答えたそうだ。まともな証拠がないのも手伝ってか彼はその後もエディンバラ医大学で教授を務めていた」
「しかし、彼は今から十五年ほど前に殺された、と。父が集めてくれた膨大な犯罪資料の中の一つにそう記載されていました」
ふむ、とネルソン海軍大尉は肘掛けに肘を置いて頬杖をついた。
「父とは?」
「……ダーバード・アンバーです」
「きみ、年齢は?」
「……今年で十六……今はまだ十五歳ですが」
「ではロバート・レックス教授の最後の弟子の名前を知っているか?」
「まさか」
ジョーのつぶやきに反応するようにレイン・メーカーが唸る。
「ダーバード・アンバー。きみの父親だ」
レイチェルは沈黙していた。唇は微かに開いたまま。
彼女の頭脳は今きっと、目まぐるしく動き回っている。
「初耳だったか? フン。天才は一を聞いて十を知る、と言う。しかし、ツーカーでは第三者は納得せん。流れとは清廉であるべきであり、説明とは明瞭であるべきなのだ。吾輩はきみに一つパズルのピースを提供した。ダーバードの過去だ。……この意味が分かるね?」
「いや、まだ話が見えねぇな。たしかダーバードは現役の内科医であり外科医でもある、っつーのはこの仕事を受ける前に聞いたことがある。医療を勉強する道すがらレックスに師事を仰いだとして、それがどう巡り巡って今のこの状況に繋がってくるんだ? 英国陸軍が鉄道会社と手を組んでレイチェルを追い詰めるような計画を一介の医者が描けるとは思えねぇ」
「存外賢いじゃないか野良犬。お前の言う通りこの蜘蛛の巣、一介の医者が張り巡らせたものではない。だが、首謀者にたどり着くにはこの糸の一本一本を手繰って、その意図を理解しなければならない。事態は非常に複雑なのだ。ヤツが彼に目をつけたせいでな」
「ヤツ?」
「ホレイショ・キッチナー。陸軍の現役元帥。コナン・ドイルの著書で例えるならば彼がこのお話における本当の黒幕だ」
話の駒を一つ進めよう、とネルソン海軍大尉は言った。
「地政学という学問を知っているかね」
「ちせい……がく?」
「知性のない返答をどうもありがとう。その名の通り土地から政治を考える学問のことだ。これは非常に多様な知識を要するためこの場ではかいつまんで説明するが、国とは二種類に分けられる。それは海洋国家と陸上国家だ。我が英国が有する地理学者のサー・ハルフォード・ジョン・マッキンダーは学生時代から政治にきわめて高い関心を持っていた。その彼が、ここ数年ある主張を繰り返している。それはユーラシア大陸の中央部を制するものが世界を制する、と。彼は陸上権力の提唱者なのだ」
地政学。
サー・ハルフォード・ジョン・マッキンダー。
陸上権力。
一気に様々な情報を浴びせられたジョーは、両手を前に突き出して狼狽えた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ! ……そのランドパワーっていうのはなんなんだ?」
「噛み砕いて説明してあげる」と言ったのはレイン・メーカーだった。
「ランドパワーっていうのはそのまんま土地の広さ、その土地が潜在的に持っている能力のことよ。広い未開拓の農地を思い浮かべてみて。土地が広ければそれだけ人が多く住めるし、農業や畜産業で食料が作れるわ。たくさん山があれば貴金属が掘れるかもしれない。石炭なんかもね。たとえば露西亜と英国ならどちらのほうが国土は広い?」
「そりゃあ露西亜だ」
「正解。つまり露西亜は英国より高い陸上権力を持っている、ということになるの。ただ陸の力が世界の優勢を決するわけじゃない。近年だと日露戦争がそれを証明した」
レイン・メーカーはちらっとネルソン海軍大尉の様子を窺い、そして講義を続けた。
「陸の対義語は海。つまり海上権力。英国は島国であり、周囲は海に囲まれている。これを定義したのはアルフレッド・セイヤー・マハンっていうアメリカの海軍少将。そしてこのシーパワーの話はそのまま英国の────」
「我ら英国は、かつて七つの海を支配していた。大西洋、地中海、カリブ海、メキシコ湾、太平洋、インド洋、北極海。しかし、議会の連中すらまともに気づいちゃいないが現在の英国海軍は海兵の質も悪ければ潤沢な軍資金もない。その理由はひとえに己の領分を超えた力を得ようとしている議会と陸軍によるものだ。彼らは地政学における海上権力の原則に背いて英国を、両方の力を有する超大国にしようと馬鹿げた妄想に耽っているのだ」
あんたが主張したいものはなんとなく察するが、と前置きしてジョーは訊ねる。
「その原則ってなんだ?」
「ジョー。あんたは島国の利点ってなんだと思う?」
「……質問の意図が分からないな」
「じゃあもう少し焦点を絞ろうか。軍事的に見た場合、島国って攻めやすいと思う?」
「……いや。周囲を海で覆われている。軍隊で動くなら艦船は目立つし陸で戦うのとは違って海戦になる可能性がある。その場合、普段から船に慣れ親しんでいる連中のほうが有利だ」
「さすが元軍人は戦うことに関してだけは鼻がきくね。じゃあその島国が対岸の国を占拠して植民地にしてしまったとしたら?」
「は? んなもん対岸の国なんだから海の向こうなんだろ? それじゃあせっかくの利点……」
ジョーはそこまで言っておそるおそる口元を手で覆った。
「察しが良いな、野良犬。海は国境線には適しているが腹に収めるには大きすぎるのだ」
「っ、馬鹿げてる! ンなモン連中が気づいてないわけがないだろ!」
「その通りだよ。でも強行している。その血の一滴がきみのような脱走兵だ」
「…………話を進めてくれ。陸軍は無理な行軍を続けて他国への侵略戦争をしている。あんたの言葉を参考にするならそうだ。だが、それでなぜ海軍が出張ってくる必要がある? 戦争をしたけりゃ勝手にさせてればいい。違うか?」
「民衆というのは見えないから無限だと思いたがる。国家予算とはたしかに個々人の資産と比べれば莫大でまともに数えるのが馬鹿らしい額であるが、それでも有限なのだ。もちろん、兵士として徴兵される人も。彼らが無理な行軍を続け、議会がそれを促進させる。そのツケをどこが払っていると思う? 本来、吾輩たち海軍にあてがわれるはずだった予算からだ!」
ネルソン海軍大尉は力強くテーブルを叩いた。
「……近年、日露戦争のおかげで世界の勢力図が大きく変わった。幸い日本は我が国に好意的であり、使者を多数受け入れている。数年前までエディンバラ大学病院に勤務していた日本人医師は、異国の地であるにも関わらずその命尽きるまで働いたと聞く。お前も知っているな?」
「ああ」とジョーは頷いた。
「アマツミヤ先生には俺も昔、世話になった」
「アマツミヤって?」とレイン・メーカーが首を傾げる。
「エディンバラの旧市街から発生した原因不明の流行り病を治療した日本人の医者だ。まぁ、本人も治療行為中に病にかかってしまって……結局助からなかったんだが、エディンバラには彼の慰霊碑があるはずだ。それくらいあの街では有名な人だったんだ」
「ふぅん。日本人っていうのはずいぶんと世話焼きなのね」
「すごい人さ。……妹さんが亡くなってそう何年も経ってなかったはずだし」
「親しいんだ?」
「病気がちな妹の面倒をよく見てくれたんだ。俺には金なんてなかったけど、タダでいいって」
レイン・メーカーは信じられないと言いたそうな顔で唇をきゅっと結んで肩をすくめた。
「うぉっほん! ……そろそろ話を戻してもよいかね? ……海洋国家の原則は、貿易と技術革新だ。それに則って行動した結果が千八百五十年ごろのクリミア戦争であり、我らが英国は宿敵露西亜に対して産業革命を経て獲得した蒸気機関などの技術や外交的手腕をもって彼奴らの南下政策を防ぐことに成功している」
「南下政策? どうしてそこで露西亜が出てくるんだ?」
「彼は、戦争の違いを説明しているんだよ。クリミア戦争の主目的は領土の防衛。露西亜の目的は南下政策。まぁ、このあたりの事情を説明するとややこしくなるから割愛するけれど、さっき彼が話題にしていた地政学者。サー・ハルフォード・ジョン・マッキンダー氏はユーラシア大陸の中央部を制するものが世界を制する、と提唱しているわけだけれど、露西亜が南下してきて中央を握らないように、と英国が邪魔しに行ったのがクリミア戦争なんだ」
それで、とレイン・メーカーは話題をつないだ。
「きみが参戦させられたボーア戦争の主目的は侵略。南アフリカを植民地にするための戦争だった。具体的に言うならダイヤモンドと金鉱脈を欲しがった英国議会の要求に陸軍がお応えした、ってワケ。世間では植民地政策によって大英帝国が拡大すれば世界に道徳と秩序をもたらすと信じられている」
「道徳と秩序って……」
ジョーが嫌悪感を露わにしていると、ネルソン海軍大尉はいまだにショックが抜けないレイチェル・アンバーを横目にこう言った。
「コナン・ドイルがそれを吹聴していたのだよ。【大ボーア戦争】と【南アフリカ戦争 原因と行い】にはこのような記述がある。『イギリス軍が民間人の家を焼くのは、そこがゲリラの拠点となった時であり、責任はゲリラ戦法を行ったボーア人にある』。強制収容所については『焼け出された婦女子を保護するのは文明国英国の義務である。食事もちゃんと提供されている。収容者の死亡率が高いのは病気のせいであり、それは英国軍内でも同様で差別的行いによるものではない』。また、英国軍人における婦女子強姦については『いついかなる戦争でも女性は憎悪に晒される。副次的被害は避けられない』と」
「胸糞悪い話だ」
「実際に銃を持って戦った者からするとどう思うかね」
「……昔、俺に色々とものを教えてくれた部隊の隊長は言っていた」とジョーは語り始める。「『一昔前と比べて現代の戦闘や戦争は、だいぶ趣の異なったものになっている』と。隊長は昔、アメリカ西部で暮らしていた。向こうでは決闘の際、英国のそれと同じように一対一で向かい合い、正々堂々と撃ち合って勝者を決めるそうだ。また、一昔前の英国の行軍も基本は歩きで戦いん時には名乗りをあげながら突撃するような勇猛果敢なものだったと聞いた。隊長は、ガンスピンを俺に教えながらぼやいていた。『今は簡単に人が殺せる。昔も確かに人殺しはあったが、剣や槍は持てば誰でも人が殺せるというほど単純明快ではなかった。振り方一つとっても多様な考えがあるし、肉を裂いた時の感触や敵の絶叫、憎悪に満ちた目は心に拭い難い罪悪感を植えつける。ある意味で戦争とは一握りの者にしかできない専門的な行いだったのだ。けれども拳銃は、その罪悪感を和らげる第一歩となった。武器が変わっても敵への敬意を忘れない者は前時代的な戦い方を重んじていたが、世代が移り変わって拳銃しか知らない者が現れるとより効率的な戦い方に勝手に移行していった。戦争を知らぬ者が語る道徳と秩序に惑わされるな。戦って生き残っていつか故郷に帰ることだけを考えろ。自分のことだけ考えろ』と」
「真理であるな。その隊長はその後、どうなったのだ」
「俺を庇って死んだ」
ネルソン海軍大尉はわずかに目を見開いた後、「そうか」と言って唇を真一文字に結んだ。
【英国海軍】
作中の英国海軍が陸軍と議会によって弱体化していた、というのは予算の他に圧倒的な経験値不足が背景にあった。彼らがもっとも輝いていたのはナポレオン一世を撃破した千八百五年のトラファルガーの海戦だった。作中時間のおよそ百年前である。クリミア戦争でも活躍したという記録は残っているが、それでも一世紀もの間英国海軍はほとんど海戦を経験せずにもっぱら奴隷貿易を取り締まったり未知なる大地を探したり。英国の周辺の警らのために働いていた。また議会も海軍を痛めつけ、まともに戦うことができなくなってようやく事の重大さに気付いたという有様だった。
海軍内部も腐敗がひどかった。コネによる昇進が横行しており、有能な人材は何年も海軍大尉のまま立ち往生させられたという。千八百十六年にジェーン・オースティンが執筆した【説得】という小説では、「あの船を志願していた者のなかで、君よりすぐれた人間が二十人はいたに違いない。なんであれ、君のように縁故(コネのこと)もなくて、こんなに早く手に入れられるなんて運のいい人だよ」という台詞があったのでどれほどコネが強かったかは想像に難くない。




