互いの領分
ゲス注意
「…………なんの話でしょう」
とぼけるクローリー・カーストーンに向かってレイチェルが告げる。
「そして共犯者はぼくと彼女、彼、そしてリオノーラさんを除いた乗客たちですね?」
空気が張り詰める。
彼はゆったりとした所作で立ち上がると、
「証拠は?」
「ありません」
「……ずいぶんと馬鹿げたことを言うね、ミス・ホームズ。証拠もなしに犯人とは」
「ええ。だからここから先はぼくの妄想ですが、たとえあなたがマントを羽織って蒸気機関車の屋根にあがり、食堂車にてコックを殺し、そのまま屋根から最後尾へ戻って煤で汚れた身体を洗面所で拭ってマントを窓の外から投げ捨てていたとしても証拠がないので立証はできません。どうせ誰も見ていないのですから。仮に身体のどこかに煤が残っていたとして倫敦だとそれは珍しくないでしょうね。道中でスモッグを浴びたのかもしれません。トンネルに入る時に窓を閉め遅れたのかも。いずれにせよ物証としては弱いと言わざるを得ない。それに子どもと陸軍大佐。どちらの言葉を警察が信じるかは明白でしょうし」
レイチェルは早口でそうまくし立てると苛立ちを抑えるように息を吐いた。
倫敦の労働階級の少年に成り代わるために身に着けていたハンチング帽のひさしを人差し指と親指でつまんで、目元を隠すように若干俯くと唇をキュッと真一文字に結ぶ。
なにかを堪えるように唇がわなわなと震え、収まった。
ゆっくりとハンチング帽を脱ぐ。
「なんの真似かな、それは」
「あなたには脱帽しました。これは完敗の証です」
「……理由を聞かせてくれるかな。ミス・ホームズ。いや、レイチェル・アンバー」
「世界は、誰ひとりとして気づかない明白なことでいっぱいです。しかし、その明白とは素直な性根によって成り立ちます。そうだと認めない相手には証拠を突きつけるしかないわけですが常に証拠が残っているとは限りません。鴉を黒という人がいたとして、残り九人が白といえば真実は容易にねじ曲がっていくのです。蝶が巧妙に張られた蜘蛛の巣にかかってしまったことに気づいたとて、それを周囲の蜘蛛に指摘したところで素直に巣から逃がしてくれるでしょうか? ……ぼくは今回の経験を経て探偵の領分の限界を悟りました。いえ、ぼく自身の考えの甘さでしょうか。心のどこかでは分かっていながら過信していた……自分の能力。そして世の倫理観に。今なら彼と出会った時、なぜ苛立っていたのかが分かります。現実は甘くない。それを学ばされた、と認めざるを得ません」
彼女の敗北宣言を聞いた。
その瞬間。
クローリーは豹変した。
「ッ……くくく……げははははははははははァん! いやぁ、好いッ! いいねェ! お前は本当に面白れェよ! 決して驕らず、油断もしねェ。そのくせそんなにも落ち着いて負けを認めてきやがった! こんな面白れェヤツは己の人生の中でも初めてだよ! レイチェル・アンバー!」
そうしてまだ笑い続ける異様な光景に、場の空気は呑まれていた。
「ふーっ……ところでソーホー地区って知ってるかな。ああ、そっちの小僧は知ってそうだ」
「……風俗地区だろ。倫敦じゃ有名だ」
「ご名答。賢いレイチェルちゃんは、己がなにを言いたいかもう分かったかな~?」
ジョーは、クローリーの陰湿で下卑た眼差しからレイチェルを守るように間に割って入り、
「お前……こいつを連れ戻しに来たんじゃないのか」
「おいおいおいおいおいおいおいおい────」
両目を見開いて、まるで幽鬼のような迫力を帯びたまま詰め寄ってきた。
無言で回転式拳銃を抜いて、クローリーの眼前に突きつける。
「────退けやガキ。己は彼女に質問をしてンだ」
「退くかよ。脅しじゃねぇぞ回転式拳銃は」
「へぇ────」
口角が裂けてしまいそうなほどに歪み切った笑みを湛えたまま、あろうことかクローリーは銃口へ自らの額を押し当ててみせた。
「なんの真似だ」
「おいおいおいおいようやく引き金に指をかけ始めるのかよ、口先だけは達者だなァお前。……そんな低い殺意で守れると思ってンの? 撃つなら命賭けて狙えよ。じゃなきゃ、外した瞬間にお前の首を掻っ切るぞ」
強い自信に裏打ちされた脅しは、場の空気を一気に締め上げた。
両腕をだらんと垂れ下がらせて不敵な笑みを浮かべ続けるクローリーの思惑は読めない。
そもそも頭で考えて理解るような相手ではない。
殺すか。
殺されるか。
「ぼくを────どうするつもりなのですか」
その、一触即発の空気にレイチェルが割り込んできた。
「……高い女の条件ってお嬢ちゃんは知ってるか? 顔の良さか? 身体のエロさ? 気立ての良さ? それとも愛嬌か? どれも正しい。正しいが的を射てはいない。まぁ、せいぜいカウントアップで四百点。初心者卒業おめでとさん、ってとこだな。価値の高ぇ女にとっていちばん肝心なのは……教養だよ。たとえば高級紙のロンドンタイムズは必須だな。デイリーテレグラフもいい。ガーディアンやオブザーバーは自由主義に寄っててちと小うるさいが、まあ押さえておくと面白い。大衆紙ならデイリーメールとニュースオブザワールドだ。庶民的な話題もこなせる女は高級紙ばかり読んでいる頭のお堅い貴族連中に思いがけない視点を与えてくれる」
「下種が頭の出来を語るか…ッ!」
「男は一皮むけば誰だって下種だろうがよ! そうやって澄ました顔で番犬気取ってるてめぇだって、そこの嬢ちゃんが成長してきれーな女になったらよォ。みっともなく股のモンおっ勃起てんだろうが。それとも既に貫通済みだったりするのか? ガキとはいえ国境越えは安くねェっていうもんなァ! ゲハハハハァン!」
てめぇ、と奥歯を噛みしめる。
「レイチェルを娼婦だとでも思ってンのか!」
「女は男を立てるのが役割だろうがよ。んだよ、命を取る気はねェよ。むしろ軟禁状態からも己が解放してやるよ。間違えてぶっ殺しました、っつってな。ただまァ、己の女にはなってもらうけどなぁ。ゲハハハ──っ、ぐっ!?」
笑い声が呻き声となって途切れた。
左腕は義手だからと高をくくっていた相手の虚を突いて、左足と左肩を鋭く突き出して胸板を押し叩き、怯んでのけぞった隙を狙って────銃声!
「おおっとっとォ!」
上半身を軟体動物のように器用に反らしながら紙一重で躱していく。銃口と引き金をよく観察て正確に身体を動かしている。享楽的た物言いに惑わされそうになるが、この男────
「「……思ったよりも機敏に動きやがる(じゃないの)」」
ジョーは外套を脱いだ。
蒸気機関を内蔵した厳つい義手が、吊るされた照明の輝きを受けて鈍く光っている。
「今のやり取りを観察て、よく理解っただろ。レイチェル。世の中にはああいうクズがそこら中に掃いて捨てるほどいやがる。不条理で理不尽の権化どもだ」
「ぼくは……」
「だが、絶対に負けたと思うな」
「ふぇっ?」
一度ガンベルトに回転式拳銃を戻した後、右手を義手の手首に這わせ、ちょこんと突き出ていた小さな輪っかに中指を通す。
「お前は正しい。探偵として証拠を突きつけ、相手に罪を認めさせようとしていた。その姿勢は、人としても正しいものだ。だがああいう人でなしには言って聞かせようとしても意味がないんだ。平気で他人の心を踏みつけて真実ってのを捻じ曲げやがる。だからこそ────」
そして、
「────こっからは軍人の領分なんだ」
英国陸軍への復讐を誓った男。
その蒸気式義手が目覚めた。
誰もが思わず耳を塞ぎたくなるような。
暴力的な雄叫びと共に。
「さぁ、来いよクソ野郎。軍人らしく戦争で決着、つけようじゃねェか」
【客車】
鉄道における最上級客室車は基本的に進行方向に対して後方、最後尾に近い位置へ配置されることが多い。これは現代でいうところのタクシーの乗車時、乗る人間の座席位置が地位によって決まるものに近い。要するに事故などが起きた際に上等客ほど安全が確保されるようになっているのである。
同様の理由で家畜や荷物の搬入車輌は立場が安いため、前方に位置することが多い。ただし貴族の所有する馬など、物品扱いのものでも所有者の地位が絡んでくるものはやはり、後方に位置する。
現代だと競走馬の運搬中に人身事故を起こしそうになった場合は(馬の賠償の方が高額なため)ブレーキをかけない、という都市伝説があるが真相は定かではない。
ちなみに作中のロイヤルフライング・スコッツマンは急速な発展を繰り返す蒸気機関車の歴史では度々起こっていた牽引力の増加に伴う増築、というていを取っているため一般客車が予約客車より後方に配置されている。脱線事故以外にも追突事故、機関室のボイラー爆発事故などから効率よく金持ちを守るためには中央がいちばん安全なのではないか、と考えられた結果でもあるらしい。




