傷痍軍人と探偵
ぎゅっと握り込んでいた右手をゆっくりと開く。
木製のカウンターに粗悪な銅貨が三枚転がった。
「……麦酒を一パイント」
額から眉間、鼻筋を通り過ぎて右頬に至る大きな傷跡を持つ人相の悪い男は、深々とため息をつきながら、どかっと席に腰を下ろした。向かいに立っていた恰幅の良い髭面の店主は、厚手のグローブに似たごつい手で硬貨を軽く突き返す。
「三ペンスじゃあ足りねェよ、兄ちゃん。あれは一杯四ペンスだ」
「…………」
男はぱちぱちとまぶたを瞬かせると、水をひっかけて手櫛で後ろに撫でつけただけのような短髪の頭を人差し指でガリガリと引っ掻きながらバツの悪そうに席を立った。擦り切れた外套の裾がなびいて、黒ずんだ靴の踵がこっ、こっ、と床を叩く音が響く。
「おい、お客さん小銭──」
指摘しようとした仏頂面の店主が息を呑む。
なぜか。
その右手に回転式拳銃が握られていたからだ。
「っ、お、おいおい……安酒一杯のために正気か!?」
男は小首を傾げ、あくどい笑みを浮かべてみせる。
その凶悪な雰囲気を察して、店主が降参の構えを取ったその時であった。
銃身が前のめりに半回転した。
トリガーガードに通された人差し指を支点に、銃身が逆さまにぶらんぶらんと揺れている。
突然の道化じみた振る舞いに店主は困惑した。
「驚かしてすまなかった。代わりと言っちゃあなんだが──」
中指と薬指、小指の三指をぐっと折り曲げ、ひっくり返った銃身を上から弾く。たんっ、と跳ねあがった銃身の勢いを殺さぬように、彼は手の中で器用に拳銃を縦回転させてみせた。ぐるぐるぐる、と右手の中で回り続ける猟犬は不意にぴたっと回転を止め、お次は横に回り始めた。魔法のような男の手捌きに呆気に取られる。いよいよ気分が盛り上がって来たのか、男は口角を引き上げながらジャグリングのように拳銃を放り投げた。
────ひゅんひゅんひゅん。
鋭く空気を裂きながら落ちてくる。男は右腕を上げ、回転する銃把を正確に掴むと、落下する勢いに身を任せるように腰に帯びたホルスターへと拳銃を滑り込ませていった。左腕をまったく使わない見事な片手芸である。
「っ、ふぅーっ……銃芸で一ペニーだけ、頼むよ。マスター」
呆気に取られた様子の店主は数秒固まった後、ため息混じりに頭を掻きながらとんとんと人差し指でカウンターを叩いて、飾っていたジョッキを一つ、手に取った。
・・・
「あんたぁ……出身はアメリカ西部かい」
「いや、エディンバラだ」
「スコットランドか。北部からきた割には流暢に喋るじゃアないか」
「もともと軍人でね。その時の上司に戦闘中に聞き取りにくい英語を話されちゃ困るっつーことで徹底的に容認発音もどきを叩き込まれたんだ。まぁ、さしずめ軍隊英語ってとこか」
「ほォ。そんなに酷かったのかい。訛り」
「さぁ? どうだったかな。ただ同期の倫敦訛りは酷かったな。Adam and eveがBelieve《信じること》だった時は度肝を抜かれたよ」
「はっはっはっ。なるほど。倫敦にゃ仕事かい? 軍の」
「いや、もう除隊してる。第二次ボーア戦争に参加していたんだ。ホントは故郷に帰ろうかとも思ったんだが生まれ育ったのがあのウェストポート事件の起こったクソ治安の悪い旧市街だったから、定住はせずこっちをさすらうことにしたんだ。まとまった貯金もなかったしな」
「それで旅芸人ってワケかい。でもよォ。傷痍軍人ならまとまった手当てが出るんじゃアないのか? 知り合いにそれで細々と暮らしてるジジイを知ってるぜ」
「まっとうなヤツなら、な」
「あんたは違うって言うのかい」
男は自嘲気味に口角を引き上げ、ジョッキになみなみと注がれた黄金色の酒に口をつけた。
「ッ、ぁぁ~っ! ふぅーっ……なぁ、マスター。軍人の“義務”ってなんだと思う」
「あン? そうだなァ…………お国のために働くこと、かい?」
「そりゃあ大義だな。大義名分。実際に戦場に立ったらよぉ。国王の顔なんてすぐ忘れちまう。親とか恋人とか。まぁ、俺にはいなかったが、大体のやつが身近な誰かのために銃を取るんだ。おっと、話が逸れちまったな。……俺は、シンプルに二つの義務があると思っている。それは敵を殺すことと仲間を守ることだ。どちらかに特化する場合もあるな」
「ほう?」
「俺のいた部隊は、ボーア戦争が始まってからだいぶ後になって結成された。当時、英国は二十五万の兵でもってトランスヴァールって国とオレンジって国を管理していたんだが、全然人手が足りなかった。監視体制は穴あきチーズだった。奴らはその“穴”を巧妙に利用してきた。俺の部隊はその“落とし穴”に嵌まった味方の撤退を援護するのが仕事だったんだ」
「……と言うと?」
「包囲されている状況での撤退は死がつきまとう。四方八方から撃たれるんだ。まぁ、当たり前の話だが、そんな地獄の的当てゲームの的を無事に逃がしてやらなきゃならない。それが俺の義務だったからだ。でも、すぐに分かった。……本当に難しいのは、撤退を援護しに来た俺たちが無事に撤退することだ。…………上官サマから出番をいただく度に仲間が死んだ。そういう日々に心底嫌気が差した時、二つの“義務”を投げ捨ててもバチが当たらない状況がやってきた。まるで、曇天の切れ間から気まぐれに太陽がフッと顔を出したようだった。俺は、軍に戻らずに逃げた。敵も味方も全員死んでいて敵前逃亡で上官サマに撃たれる心配もなかった」
「お前さん、だから──」
「そ。軍人としての義務を途中で放棄しちまったせいでせっかくもらえるはずだった傷痍軍人手当もパァ。笑える話だろ? ふふんっ」
男が肩をすくめておどけてみせると、店主はしばし沈黙した後、カウンターのペニー銅貨三枚を無言で突き返してきた。
「さっきのガンプレイ、四ペニー分の価値はあった」
素っ気なくそう言ってこちらに背を向け、保冷庫から食材を取り出して調理を始める。
「……恩に着る」
店主は何も言わず、包丁の切る軽快な音が響いた。
男は彼の背中から目線を外して店内を眺めながら、じっくりと麦酒の残りを堪能した。
「──ああ、それとな。路銀に困ってンなら、あと二時間ちょっとで近くの鉱山で働いている労働階級どもが夕食にどっとやってくる。急ぎの用がねェなら、得意の銃芸でちったァ稼いでいくといい」
「じゃあ、そいつは俺の間食かい? マスター」
「ハッ、お前さん。そのボロッちいナリで貴族ってツラかよ」
「しっかり腹ごしらえして臨まないと披露宴でステップを間違えちゃうかもしれないだろ?」
「ハハッ、ちげえねェ」
「相変わらずよく回るお口だこと」
それは、カランコロンと入り口で揺れている鈴の音を、自然と意識の外に追いやられてしまうような凛とした声だった。この世のどの音よりも優先して耳に飛び込んでくるような、はきはきとした教養を感じさせる容認発音だった。
「ティム!」
彼女は、男の呼びかけに手を軽く振って応えつつ、彼の隣に座った。
「ハロー、マスター。えっと、あたしとそこの野良犬に軽食をいただけるかしら」
「えっと……お嬢ちゃんの知り合いかい?」
「んっ、まぁ、仕事仲間ってところ。お金ならあるわ。値段は……そうね。二シリンクくらい?」
そう言って彼女は帯びていたマフラーをほどいて膝にかけ、それから腰に提げていた袋を開けて、おおよそペニー銅貨十二枚分の価値を誇るシリンク銀貨を二枚、取り出した。
「十分。軽食ならそれで釣りがくる。勘定は後でいい。ちょっと待っててくれ」
そうして本格的に調理に取りかかった店主から目線を切った彼女は、ため息をつきながら頬杖をついた。その視線の先には、ジョッキに残った麦酒の雫が垂れてくるのを大口開けて待っている男がいた。「ジョー」と呼ばれた男はジョッキを置いて答える。
「なんだって今回は俺を呼んだんだ?」
「仕事」
「だと思った」
「あなたに披露宴で踊ってもらおうと思って」
「ハハッ、そりゃいいな。で、お相手は?」
「シャーロック・ホームズ」
「………………………………は?」
「先にご飯にしましょう。あなたの左腕の整備もしないといけないから。話はその時に」
「りょーかい」
【英国通貨の基礎知識】
ソブリン、シリング、ペンス────。
これらはアメリカで用いられたミル、セント、ドルと同じく価値を示す単位である。
一ソブリンと半ソブリンは金貨。
一クラウン、半クラウン、一フロリン、一シリング、六ペンス、三ペンスは銀貨。
一ペンス(パイント)、その半ペンス、一ファージングは銅貨。
このあたりは掘り下げると難しい話であるので、金貨を一万円札、五千円札、銀貨を五千円から五百円、銅貨をそれ以下と考えておくと理解するのが楽になる。もっとも、これらの価値を現在の紙幣価値に正しく換算することはむずかしく、もっぱら雰囲気で楽しむのが吉である。
ちなみに作中のロンドンパイントを強引に現在の紙幣価値に変換するなら約五百円から二百円。
軽食は二シリンク、一シリンクを千円から五百円のどこかと定めるなら二人で約二千円だろう。
シャーロック・ホームズシリーズの一幕、ボヘミアの醜聞では質の良い便箋を品定めする際、「一冊半クラウン以下ではこんな紙は買えない」というやり取りがある。この半クラウンは現代の価値に換算すると六千円ほどと言われており、紙がどれほど貴重なものであったかが窺える貴重な描写である。