胃の主は誰?
「……奇妙ですね。それは」
クローリー・カーストーンは意見の食い違う男女を見て端的な感想を述べた。
「単純にどちらかが犯人とつながってるってことでしょ? まぁ、どちらかじゃなくてそっちの男のほうかにゃ? フフフ」
「なっ! 冗談じゃない! 僕は嘘をついてないですよ!」
「わたしは見ました。本当です」
しれっとそう言ってのける女性を恨めしそうに青年が睨んでいる。
「ミス・ホームズはどう思いますか」
「二人の主張を精査すべきだと思います」
「この子どもとそっちの女性は怪しい! 明らかに知り合いっぽかったし密談もしていた! 僕を嵌めようとしてるんじゃないのか!?」
「男なのにギャーギャーうっさいわねぇ……でもまぁ、知り合いっぽいっていうのは気になるわね。密談というのもどういうことか説明してもらったら? 作り話ならどこかにぼろが出るはずだし。そうでしょう? 陸軍大佐さん」
「ミス・アイリーンの言う通りでしょうね。まずはお名前を窺ってもよろしいですか?」
「はい」
女性は背筋をピンとのばして堂々とした佇まいで応じた。
「わたしの名前は、リオノーラ。リオノーラ・クレイと申します。今朝までアンバー家で使用人たちを束ねる女中長を務めておりましたが、わけあって解雇され、帰郷をするためにこのエディンバラ行きの列車に飛び乗りました」
さらっと語られた重大な事実にジョーは心の中で動揺した。
レイン・メーカーの顔色を窺うと彼女もまた信じられない生き物を見るような目でレイチェル・アンバーの様子を窺っている。いったいどのような手品を用いて彼女を従わせているのか皆目見当もつかないが、とにかくリオノーラ・クレイの主張に黙って耳を傾ける他になかった。
「今朝解雇されて、その足すぐにエディンバラへ? 行動が早いのですね」
「もともと年始はエディンバラの実家で過ごす予定だったので荷造りは済ませていました。女中ですから自分の荷物はあまり多くありませんし、身勝手な主には愛想を尽かしておりましたので良い機会だったのかもしれません。最悪なクリスマスプレゼントをどうもありがとう、と」
「なるほど」
清々しいまでにきっぱりと言い切ってみせるリオノーラの言葉からは本当のことを話しているという自信と主人への強い憤りを感じることができた。
「彼女との関係性は?」
「当家のお嬢様────と非常に親しい関係にあった子どもです。顔見知りだったのでよもやこんなところで出会うとは、と驚きました。彼女はずっと身寄りがなかった、と言っていたのですが数日前から急に姿を見せなくなってしまって。心配していたのですが、なるほど。ご兄妹のかたが迎えにいらっしゃったのですね。この列車に乗っているのもお兄さんの故郷へ一緒に行くためだと。ですよね?」
唖然とした。
それは真っ赤な嘘であったが、はたしてこの嘘を見抜ける人間がこの世にいるだろうか。
いや、いない。
レイチェル・アンバーの正体を完璧に把握している人間でなければ、この嘘は絶対に見抜けない。
あの数分の間になにがあったのか。ジョーにはそれが気になって仕方がなかったが、レイチェルが仕掛けた一世一代のブラフをぶち壊すわけにはいかない。彼が今できるのはリオノーラの言うでたらめに便乗してそれらしい相槌を打つことだけだった。
「──ふむ。では質問ですが、見た、とは実際に何を見たのでしょう?」
「展望室かトイレかは知りませんけど、そこへ向かう人を」
「どのような人相か覚えていますか?」
「さぁ? でも誰かが行ったのは覚えてますよ」
「……仮に行ったとしましょう。なら、なぜ彼は行ってないと言っているのでしょう?」
「さぁ?」
「……………………」
クローリー・カーストーンの質問が止まった。
リオノーラ・クレイの意見は単純明快だった。
見た。けど人相までは興味がなかったので覚えていない。
おかしな点は見受けられない。目撃証拠としては弱いが誰かひとりでも行った可能性があり、それを肯定する証人がいるならばレイチェル・アンバーの推理は正当性を保てる。第一発見者に犯行は不可能ということになり、いたずらに疑惑の目を向けられることもない。
矛先を変えよう。
誰もがそう思った。
「──そっちのきみ、名前を訊いてもいいかしら?」
攻守交代。
積極的に青年へ質問を投げかけたのはレイン・メーカーだった。
「は、はい! アリスター・アレイスタです! 生まれは倫敦、育ちも倫敦。し、仕事は靴磨きを主に……その、まぁ、いろいろと…………」
「緊張しているのかしら? べつに思うように喋ってくれていいのよ」
「ええ、まァ…………はい」
そう言ってアリスター・アレイスタさり気なくレイチェルのほうを見ていた。次にリオノーラ、そしてクローリー、その次にレイン・メーカー…………ジョー・スミスが軽く目を見つめ返すと驚いたように肩を震わせて縮こまった。元気だが緊張しがち。赤面症のケもあるのか、耳まで真っ赤になってしまっていた。明らかに人前に立つことに慣れていない。
「あまり自分から喋るのは苦手みたいだな。見ていない、と思った根拠を……と言っても難しいだろうが、とにかく列車に乗ってなにをどうしていたか教えてくれないか?」
アリスターはまだ幼さの残る眼差しを不安そうに細めて唇を甘噛みすると、観念したように小さく息を吐いた。そして、
「べつに……ぼ、僕はエディンバラの隣にあるグラスゴーという街に里帰りしようと思って……それでこの機関車に乗りました。えと……靴磨きは副業で、主に絵を。ですが無名の絵など買ってくれる人がいるわけもなく、エンジェル……えっと、僕のように画家としての才能を青田買いしてくれる経済的支援者のことなのですが、その人からも見捨てられちゃって。それでなんとか路銀を稼いでこの機関車に乗ったわけです。眠ろうと思ったのですが、どうにも悔しくて。それでずっとボーっと起きていました。絵描きの性質なのか、人間観察をするのが好きだったので周囲の人の手や顔を見たり窓の外を見たりして時間を潰していました」
「人間観察、ですか」
ここでレイチェル・アンバーが口を開いた。
「いくつか質問してもよろしいでしょうか」
「えっ? あ、あぁ……いいけど」
仰々しい物言いをする見ずぼらしい格好をした少年の底知れぬ迫力に気圧されてか、アリスターの外面は崩れて口調はいつの間にかフランクなものになっていた。
「靴磨きをなさっていたのはいつ頃から?」
「一ヶ月前からだよ。秋の個展で結果が振るわなくて、それで」
「手のひらを見せていただいてもよろしいですか?」
「えっ、まぁ、どうぞ」
差し出された右手を手に取って、まるで品定めをするように手のひら、手の甲、親指、人差し指、中指、薬指、小指、そして各指の間を観察していく。
「きれいな手ですね。左手もお願いします」と言うので同様の流れを経た後、「ありがとうございました」とレイチェルは簡素に礼を述べた。
「靴磨きをする際についてお尋ねしますが、たとえば彼のような靴を磨く際はどのようになさいますか?」
例にあげられたのはクローリー・カーストーンの真っ黒な革靴だった。
「……僕みたいな貧乏な磨き屋のもとにあんな上等な靴の履き手はまず来ないけど、ブラシで表面の埃などを落としてから溶剤を使ってブラシで取れなかった汚れを落とす。それから靴に細かくクリームを塗って柔らかい布なんかで革に馴染ませるかな。靴底が破れている場合は交換したりもするけど……」
「ちょっと待ちなさいよ。それって変じゃない?」
犯行の決定的瞬間と捉えたと言わんばかりの剣幕でレイン・メーカーが迫った。
「へ、変ってどういう意味だよ。ぼ、僕が嘘を言っているっていうのか!?」
「手順におかしな点はないわ。ただ、それにしては手が《《綺麗すぎる》》のよ、あんた」
「リオノーラさん。こちらへ」
レイチェルの呼びかけに答えて歩み寄った彼女は、ちらと意図を探るように目配せした後、赤切れやひび割れの跡が残った両手を見せつけた。
「彼女は流し湯女中や台所女中という手を酷使する地位から実力で成り上がった人です。当然、靴を磨いた経験もあります。そうですね?」
アリスター・アレイスタの手を見るリオノーラ・クレイの表情は冷めていた。軽蔑に近い感情さえ見え隠れしていた。
「話の趣旨を覆すようですが、職業的観点からの指摘を付け加えるまでもなく彼の手は仕事人の手ではありませんよ。何故なら彼の手からは冬の傷跡が見えませんもの。冷たい水に手を突っ込んだ経験すらほとんどないのでは?」
「僕が嘘を────「あなたが嘘を言っているとは思いません」…………」
「ところで話は変わりますがわたし、これに乗る前に一つ簡単な取材を受けましたの。とあるご息女……まぁ、ぼかしても仕方がありませんので言いますが、わたしがお仕えしていたアンバー家のご息女が誘拐されまして。それで倫敦のタイムズ紙の記者から直々に取材を受けましたの」
「ほう。それで?」
相槌を打ったのはクローリー・カーストーンだった。
ジョー・スミスは完全に肝を冷やしていた。
急になにを言い出すのか。
なにが狙いなのか。
「分かりませんか?」
挑発的な態度で質問を投げかけたのはレイチェルだった。
「いくつかの信頼できる資料を読み比べれば簡単に分かることですが、女中長の年収はおおよそ百から百五十ソブリン(日本円に換算すると約百五十万から二百万円)です。これは同じ女中の中でも頭一つ抜けて高いのですが、長として来客を迎えたり外に出かけたりしなければならない用事に際して恥ずかしくない格好をさせるための衣装代も含んでの額でした。ロイヤルフライング・スコッツマンは、片道予約客車で一人三ソブリン(約三万円)。一般客車で一・五ソブリン(約一万六千円)ですから決して安くありません。そこで問題になるのが、元絵描きで収入もないアリスター・アレイスタがどうやって議会列車ではなくこの列車に乗れたのか」
一つずつ、丁寧に逃げ場が塞がれていく。
「そ、それは一日中働いて一ヶ月で…………」
「あんた、靴磨きたちの平均日収知ってる? 一日頑張ってよくて一クラウン(約五千円)。大抵は半クラウン(約二千五百円)よ。ここからその日の食費を捻出するの。住む場所はもっぱら空き家で、商売道具はその辺で拾った乱杭歯状態のブラシ。伝手のない靴磨きはそこから徐々に経験を積んで靴屋から信頼を得て道具や仕事を紹介してもらうのよ」
アリスターの額には、嫌な汗が浮かんでいた。
「アリスターさん。あなたがどのようにして一ヶ月を生き延びたのかは分かりません。もしかすると経済的支援者さんはあなたにひと月は生き延びられる程度のお金を握らせていたのかもしれません。すぐに実家へ帰れと言われたのに絵への未練を断ち切れず、前にも後ろにも進めないままやがて現状維持すらも困難になってしまい、非合法な方法を使ってでもとりあえず帰郷しようとこの列車に乗っていたのだとしても今、その証拠はありません」
彼は、薄気味悪い化け物を見るような目でレイチェルを見つめた後、拳をぎゅっと握りしめて殴りかかろうとした。だが、ジョーが即座に横っ面を張り倒すとついでにポケットからピカピカに磨かれた真新しいソブリン金貨が数枚こぼれ落ちた。
彼は、拾い集めようとはしなかった。
彼は、みっともなく床に倒れたままだった。
嗚咽がこぼれた。
肩が震えていた。
「────いやぁ、すごいすごい。これで共犯者をひとり捕まえたわけですね。ミス・ホームズ」
場違いな拍手の主はクローリー・カーストーンだった。
レイチェルは冷めた目でそれを見つめ、小さく息を吐いた。
そして。
ハンチング帽の庇に指をかけながら、ちっとも嬉しくなさそうな声でこう言い返した。
「────犯人はあなたですね? クローリー・カーストーン陸軍大佐」
【シャーロック・ホームズのジレンマ】
万能探偵のように思えるシャーロック・ホームズにも失敗はありまして、犯人を取り逃がすこともあればわざと見逃すこともありますし、作中で描写されていない範囲だと証拠がないせいで正しく罪に問えないこともある点について言及されています。たとえば緋色の研究では以下のような台詞があります。
>「去年フランクフォートでフォン・ビスチョフ事件があった。この試験が存在していれば、彼は間違いなく絞首刑になっていただろう。それからブラッドフォードのマンソン、そして悪名高いミューラー、それにモンペリエのルフェーブル、そしてニューオリンズのサムソン。この検査方法が決め手になったはずの事件をいくらでも挙げることが出来る」
人を裁く。
そのためには必ず証拠が必要なわけですが、十九世紀末だとまだ血痕に反応する識別薬すらまともにない状態だったので犯罪の立件というのがとても難しかったわけです。指紋捜査ですら二十世紀に入ってから、他国の警察署で研究、発表されたのをスコットランドヤードがようやく採用し始めたレベルなので、痕跡を消すという意識がほんの少しでもあれば簡単に完全犯罪を成し遂げることができたわけです。
ただし証拠がないからといって罪が消えるわけではありません。
そのあたりは次回の本編をお楽しみに。