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幻想蒸奇譚シャーロック─未熟な名探偵と鉄腕の帰還兵─  作者: ジルクライハート
第二章・空飛ぶスコットランド人の怪
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嘘つき

 案の定、一般客車は喧騒に包まれていた。


 多種多様な恰好をした人種が皆一様に不平不満、そして不安を露わにしている。

 車掌ガードたちはそれらをなだめるので手いっぱいだった。


 その輪に加わる前に観察をすべきだと言うレイチェルの提案を尊重したジョーは、予約客車から一般客車をしばらく眺めることに決めた。


「男性ばかりですね」

「倫敦に来るのはもっぱら出稼ぎの労働者だ。働き口が少なくて懐の寂しい女性だったり旅行者だったりはほとんど議会列車パラメンタリーを利用するんだ。俺も普段は諸経費を節約するために議会列車を使ってる。政府主導で鉄道会社に低運賃で乗れるよう命令を出した特別な車両だから人気が高いんだが、そのせいで問題も多い。だから中産階級の男は遠方へ赴く時にちょっと背伸びすることが多いんだ。そのほうが快適だからな。まぁ、今回は不運だったが」

「あの人は怪しいと思いますか?」

「クローリー・カーストーン陸軍大佐か? 分からん。証拠がない。ただそうだと言うなら真っ先に捕まえに来ない理由が分からない。大義名分は向こうにある。泳がせる理由がない。……確証がないから向こうも動きあぐねているのか、本当に休暇中で情報が行き渡っていないのか。それともまったく別の思惑があるのか。なんにせよ警戒して損はないだろう」


 会話が途切れた。

 線路を跳ねる車輪の音が響く。


「鯨の…………腹の中」

「ん?」

「いえ……先程の自分の言葉を思い出していたのです。ボヘミアの醜聞ではホームズが見ることと観察することの違いについてこう語っています。『君は見ているが観察してはいない。その差は明白だ。例えば、君は玄関からこの部屋に続く階段を頻繁に見ているはずだ。しかし何段あるか? 分からない? そういうことだ。君は観察していない。それでも見てはいる。僕が指摘したいのはその点だ。いいか? 僕は階段が十七段あることを知っている。なぜなら僕は見て観察しているからだ』。これは微に入り細を穿つものの見方ですが、それらを集積して大局を見る場合にも利用できます」

「……俺たちの死角の話か?」

「思い込みの話、と言っていいかもしれません」

「思い込み?」


 これ以上、彼女はなにを思い込んでいると言うのだろうか。


「スコットランドヤード警察には一万六千人の人員がいることはお話したと思います。あくまでも仮定の話ですが。軍人さんには愚問かもしれませんが全滅の定義はご存知でしょうか」

「部隊の三割の損失。もしくは戦闘人員の六割」

「愚問でしたね。ごほんっ。……隊というシステムを維持するためには七割以上が必須。雑にこの意見を警察に当てはめて考えた場合、ぼくたちを捕まえるため、最低限のシステムを維持するための人員を残して三割を総動員してきたら、一万六千の三割で約四千人以上……正直、何千人という人が敵になることの重大さをぼくはちゃんと理解できません。想像できないのです」

「……そうだな。途方もないことだけは分かる。イギリス陸軍の総数を考えればその数はもっと大きくなるだろう。たとえばこの蒸気機関車に乗っている人員すべてを足しても、足の小指にも満たないと思う。……どうしたよ。今更臆病風に吹かれたか?」


 レイチェルは答えない。その沈黙は肯定だった。


「…………なにをするのですか」


 軽く頭をぽんぽんと撫でると彼女は不機嫌そうに唇を尖らせた。


「俺は味方だ。なにがあっても」

「あなたがそこまでする義理はないと思います」

「あいにくと俺は賢くなくてな。人に価値を見出してもらうためには身体を張るしかねェんだ」

「弾除けですか?」

「その通り」

「復讐はどうするのですか?」

「……レイン・メーカーか。ったく、あいつ…………ふーっ…………なにをもって復讐を成したと考える? クリミア戦争を仕掛けた連中を軒並みぶっ殺したら? それとも俺の隊を潰した連中か? ……俺だってすこし考えりゃそれが荒唐無稽だって分かってんだよ。それに純粋に国を守るために戦ってる奴はどうなる? 今だってどっかの戦地で誰かが死んでる。そういう連中は報われなきゃならないんだ。俺は、一矢報いれればそれでいい。その一矢はお前だ。レイチェル。お前が自由になって、それで連中が困るなら俺はそれが見てみたい。それでちったぁ胸がすく。それで区切りをつけられる気がするんだ」


 レイチェルは何も言い返そうとはしなかった。


 ただ少しだけ悲しそうに、申し訳なさそうに目を伏せた後、こちらに気づいた車掌たちに反応して一般客車へと歩き始めた。

 ジョー・スミスは課せられた役目を果たすべくその後を追った。


   ・・・


 イギリス陸軍大佐のクローリー・カーストーンを筆頭にその部下が列車を引き続き走らせていること。現在進行形で殺人事件があったこと。食事は早急に用意するので待ってほしいことを訴えると乗客たちはひとまずの落ち着きを見せ始めていた。


「──そこで質問なんだが、誰か後方車両へ向かった人物の人相を覚えている人はいないか?」


 まだ見た目が幼いレイチェルの代わりにジョーが質問を投げかける。だが空腹と思わぬトラブルの合わせ技で苛立ちを募らせていた乗客の反応は鈍かった。ダメか、と諦めが湧き始めた時、手が挙がった。眉毛が濃く無精ひげを生やした男性だった。後方車両へと続く戸の傍に座っていた彼はおずおずと立ち上がると「おれは見てない」と言った。


「俺も」「僕も」「私も」


 乗客たちの声が続く。


「……この車両には犯人はいないってことか?」


 レイチェル・アンバーは次の客車へ向かった。


 そこはロイヤルフライング・スコッツマンの最後尾でもあった。

 彼女の推理通りなら誰かがなにかを見ていてもおかしくない。


 後を追うジョーの心中に緊張が走る。


「最後尾にはなにがありますか?」

「洗面所。あとは車掌が手信号を送ったり乗客が風に当たったりするための展望室がある。展望室といっても小さなベランダのようなものだ。屋根に上るには最適な場所だろうな」


 ジョーは、面識のあるほうの車掌を連れて同様の説明を行い、そして、


「──誰か後方車両へ向かった人物の人相を覚えている人はいないか?」


 再びの静寂。

 レイチェルは何も言わずに展望室へ向かったので、ジョーが代わりに周囲に目線を配りながら乗客たちの反応を待った。ハナッから話に無関心な者、隣人とどうだったか話し合っている者、腕組みをしている者、眠っている者……反応は十人十色であったが真っ先に出てくると思われた「見た」という言葉はなかなか出てこない。


 なぜだ。


 疑問がかま首をもたげる。


 最後列まで歩いてきた時、展望室への出入口の傍に座っていた生真面目そうな少年がこちらを見上げているのに気づいた。


「あの……」


 彼は、不安そうに言った。


「僕はずっと起きていましたが、列車が出てから展望室へ行った人もトイレに行った人もいなかったですよ」


 ジョーは目を見開いた。

 右手が強張った。掴みかかりそうになったのを必死に抑えた。

 レイチェルが間違えた? 別の可能性が?


「……それは本当か?」

「えっ、ぼ、僕を疑ってるんですか? 本当ですよ。嘘ついてどうするって言うんですか」

「……それもそうか。すまん」


 肩を落とす。


 当てが外れた。

 想定外の展開だった。


 展望室からレイチェルが戻ってきた。

 いつもの無表情だったので感情は読めないが、こちらの落胆の表情に状況を察したのか、ぐるりと周囲に目線を配ると「弱りましたね」と小声で言った。


「そうだな。()()()()()はこの状況、どう見る?」


 唇をきゅっと結んで俯いている。

 きっと頭の中では想像もつかないような数々の推論がめまぐるしく構築されては破棄されている。力になってやりたいのは山々であったが、頭脳労働は専門外だったので途方に暮れていたまさにその時だった。


「もし……もし……」


 外套をちょいちょいと引っ張られた。

 声の主は女性だった。やや老いてくたびれてはいるが、まとう雰囲気に品がある。


「どうかしたか?」

「あの……もしかして……()()()……?」

「……あんた、何を言っているんだ?」

「そちらの子どもです。あの……知り合いに面影がよく……ああっ! やっぱり! 間違いありません! どうしてこのような場所で!? ッ、となるとあなたもしや────」

「っ、こっち!」


 まるで子どもが駄々をこねるようだった。

 レイチェルは唐突に女性の手を掴むと、叫び出しそうになった彼女を展望室へと連れ込んだ。バタン! と力強く閉められた戸の向こう側でどのような言い争いが繰り広げられたのか皆目見当もつかないが、数分も経たずに二人は戻ってきた。

 そして、落ち着いた面持ちになった女性は神妙な表情でジョーにこう告げる。


「わたし、見ました」


「なっ!? ……よく聞かせてくれ。それはいったいどういうことだ?」

「言葉通りでございます」

「ちょっと待ってくださいよ! 黙って聞いてれば、まるで僕が嘘をついているみたいじゃないですか! 僕は誰も見てないですよ! ほんとです!」

「わたしは見ました。本当です」


 ジョーは混乱した。


 見た。

 見ていない。

 つまり白か黒か。

 そんな単純な二択だと思っていた。

 その二つは同居できないと思っていた。

 しかし今目の前には見たという女性と見ていないという青年がいる。


「…………」


 口元に手を当てて誰にも聞こえないような小さな声で、まさか、と呟く。

 レイチェル・アンバーは動揺する青年の前に立ってこう言った。


「見ていない側の代表としてあなたに来ていただきたいのです。よろしいでしょうか」


 心底厄介なことになった。安易に口を出すのではなかった。

 彼は、そういう顔をしていた。

 申し訳ないが同情心はこれっぽっちも湧かなかった。


 なぜなら。

 ()()()()()()()()()()()()()()()


 なにもかもが不明瞭な中でそれだけはハッキリしていた。

【十九世紀英国の税制度について】

 十九世紀英国の税制度は非常に幅が広い(悪い意味で)で知られている。

 現代でも理解しやすい土地、所得なんて序の口でそこから新聞、硝子、蝋燭、ビール、紙、煉瓦、石、石炭、召使、穀物、馬、犬、砂糖、塩etc.と当時の税制度は非常に細かく分かれていた。中でも狂っていると評判だったのが石鹸税と窓税である。石鹸税は千八百五十年ごろまで課税対象だったのだが、石鹸が安易に手に入らないせいで定期的に疫病が蔓延して人口が激減した。劣悪な衛生環境が温床となったのだ。中世ヨーロッパが汚い、という風説の一因である。

 窓税というのは読んで字のごとく窓にかかる税金のことで、作中でもレイチェル・アンバーのお屋敷を訪れた際、このような描写が存在する。


 >窓税撤廃前に建てられた建物だったのだろう、この正面玄関には月明かりを取り込んでくれるような窓が一切なかったので、暗闇に目を凝らしてようやくぼんやりと窺えるわずかな物の輪郭を頼って階段を上っていく。


 当時は税金を避けるためにあえて窓のない建物を作ったり、窓を塞げるようにして課税を逃れていた。また、実はこの窓、調理場の煙突なども課税対象だったので十九世紀の調理場は非常に換気性が悪く、熱がこもりやすい環境だったと言われている。今では到底考えられないことであるが、昔はこの税金を逃れるために調理場が地下に作られたりもしたそうだ。いやはや、政治とはなんともおそろしいものである。

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