近づきすぎると見えなくなる
前提条件を整理しましょう、とレイチェルは言った。
「まずはぼくらの立ち位置から。予約客車の一室にぼくと彼と彼女。あなたがた三人は別の四人用個室にいて、あなたがたの横を通らなければ一般客車へ行くことはできませんし当然車掌さん二人は事が起こる直前まで持ち場を離れていません。ぼくたちは喉の渇きを訴え、水をいただくために食堂車へ赴きました。自由だった時間は数分ちょっとです。これはあとで彼らに確認すれば分かることです。ここまではよろしいでしょうか」
「いいよ」
クローリー・カーストーンが代表して答えた。
「……楽し気ですね。なにか面白いことでもありましたか?」
「えっ? いや、失敬。きみ、すごいねぇ。まるでそう。コナン・ドイルの本に出てくるあの……探偵の、えぇーっとぉ────」
「シャーロック・ホームズ」
「そうそれ! シャーロック・ホームズ」
含みのある言い方にジョーの身体が強張った。
レイン・メーカーは腕組みをしたまま片目を閉じ、もう片方の目でクローリーを見つめている。波紋を投げかけた元凶は薄ら笑いを浮かべたまま不思議そうに小首を傾げていた。彼は真っすぐに見つめ返してくるレイチェルの様子を観察しているようだったが、彼女はまったくと言っていい程に動揺の色を見せなかった。
「おっと、話の腰を折ってしまったね。賢い子は好きだよ。さぁ、続けて続けて」
ジョーは、クローリーの目線に説明しがたい嫌な湿度を感じ取った。
心に生じた不安に突き動かされるままにレイチェルへ目線を移す。
彼女は素直な賞賛なのか皮肉なのか考え込んでいた。
そして、
「…………犯人は淡水車のほうから食堂車に侵入しました」
にわかに動揺が起こる。
「それは機関士の他にも乗組員がいたということかな?」
「それは違うと思います。車掌は機関士と機関助士は、と言っていましたので」
「となると誰かが潜伏していた可能性は低いっつーことか……だがよォ……横を通り過ぎたヤツは誰もいないはずだ。少なくとも俺は見ていない」
「視えないからって存在しないとは限らないわ」
「相手は透明人間だとでも言うのかよ?」
「今のところ地球上に物理的に肌が透明な人間は存在しないわ。どのような状況にもなんらかの手法が隠されているの。わたしたちはそれに気づいていないだけ。つまり、わたしたちにも死角があるってことよ。手品で考えてみれば分かる。そうでしょ?」
レイン・メーカーの意見を受け取ってレイチェル・アンバーは口を開いた。
「アメリカには豪奢な奇術という催しがあるのをご存じでしょうか。フィニアス・テイラー・バーナム。そう、アメリカで奇人などを見世物にした地上最大の興行の仕掛け人が裏方を務めたものなのですが、その主演を務めたジェシー・アイゼンバーグという奇術師は、観客によくこう語りかけていたそうです。近づきすぎると見えなくなる。鯨の腹の中にいては鯨というものを正しく認識できるわけがない。全体を見よ。誰よりも利口になれ、と」
「つまり……どういうことだろう? 私たちにも分かるようにお願いしたい」
「大切なのは二つ。全体を捉えること。そして視覚以外にも他者の存在を知覚する手段はあるということです。ぼくたちは予約客車の四人用個室から通路が見えるせいでこう思い込んでいたのです。ここを通らなければ食堂車に行くのは不可能だ、と」
いち早くその言葉の意図を理解したのはレイン・メーカーだった。
「なるほどね。思い込みを利用するのは手品の常とう手段。。……久しぶりにやられたわ。だからあなたあの時、トンネルの耐久性がどうのこうのって言っていたわけね?」
耐久性。
その時、ジョー・スミスの脳裏に半時前の会話が浮かび上がってきた。
『このトンネル地帯の耐久性はいかほどのものですか?』
『あはは、えっとぉ……なんでもって言ったわたしたちのせいか。ん、まぁ、いいや。えっと、崩落事故の類とか? 十年くらい前に一度あった、とは聞いたことあるよ。でも確か一年前に国家事業で舗装工事が終わったとか。だから急に崩れるようなことはないんじゃない? 専門家じゃないから知んないけど』
なぜレイチェルは急にトンネル地帯の耐久性を訊ねた?
不安に思うようななにかに気がついたからだ。
なにか、とはなにだ?
「音?」
咄嗟に口を突いて出た単語にレイチェルが驚いた様子で振り向いた。
「……証拠を基にお話すべき推理に個人的な感覚を持ち込むのはよくないのですが、実はぼく人より少々耳がよいのです。少し前────四人用個室でくつろいでいた時に奇妙な音を聴きました。はじめはトンネルの天井が剥がれ落ちて走行中の屋根にぶつかった音……かっ、こっ、と。そういう類の音だと思っていました。けれどその音には奇妙な点があったのです。それは音源が前方車両のほうへ少しずつ移動しているということでした。走行中の機関車に小石がぶつかったなら、小石は勢いよく弾き飛ばされてしまうか後方に流れるはずです。なのに音は少しずつ前進していた────」
レイチェルはクローリー・カーストーンの目を見る。
そして。
「────ぼくは後方車両から屋根に上がった何者かが犯人だと思っています」
その言葉の裏側には、やはり第一発見者は犯人じゃないという意図が含まれていた。それを察してか少し考え込むように俯いたクローリー・カーストーンは、可能性を一つずつ潰していくように冷静にこう言い返し始めた。
「四人用個室の窓から直接、屋根に上がった可能性は?」
「彼は義手です。片腕で窓から這い上がるのは現実的ではありません。助力をしたとして窓から戻ってくるのはかなりの危険を伴うでしょう」
「ふむ。現実的ではないというわけだね? ではなぜ犯人はトンネル地帯に入ってから犯行に? 失敗すればトンネルの外壁に弾かれて列車から弾き落とされる可能性だってあったはずだけれど。この時点で相当に危険な行為だと思わないかい?」
「犯人が列車の屋根を用いた可能性があると考えた理由は音の他にもあります。淡水車から機関車へは壁や屋根がないのはご存知でしょうか? ぼくは、彼が機関士さんたちの無事を見に行ったあとに気づいたのですが、黒い粒子がべったりと付着した手すりの中で一箇所だけ不自然に粒子が踏み固められている箇所があったのです。どうぞ確認なさってください」
レイチェルはそう言ってクローリー・カーストーンのお付きの二人へ目線を投げかけた。彼らはジョー・スミスの横を通り過ぎて食堂車を出て、レイチェルの指示通りに錆と煤とでジャリついた手すりを見ると、幅五センチから六センチほど、錆と煤とでジャリついていない箇所を発見した。「ありました!」と声高な報告を受けたレイチェルは自らの仮説を再びとうとうと語り始めた。
「この食堂車の高さは約二メートル。大の大人が足場もなしによじ登るには難しい高さです。しかし、野ざらしでジャリついていた手すりの不自然な箇所が踏み固められてできたものだと仮定すると犯人が手すりを踏んで屋根へ上った、という証拠になるのではないでしょうか?」
「ふむ。しかしそれは機関車へ確認に行った彼の工作活動とも考えられる」
クローリー・カーストーンの牙城は堅牢だった。
レイチェルは目を細めて、
「なかなか強情なのですね」
「徹底的に可能性を排するのは軍人の性だよ。不確定要素を残した状態で戦いは仕掛けない。享楽趣味でない限りはね」
「おっしゃる通りです。では少し話を戻して犯人がなぜトンネル地帯に入ってから行動を起こしたのか、という理由について持論を述べさせていただきます。結論から申し上げると一つはカモフラージュです。屋根を歩く、というと素晴らしい抜け道に思えますがこれには明確な欠点が二つ存在します。風や日の光を遮るものがないこと。そして照明がないことです」
「ふむ……明確な欠点とは思えないけれど、続けて」
促され、一息ついて呼吸を整える。
そして、
「夕暮れ時。横から打ちつけるような日差しの入り方をした場合、高所にいる人間の影は低所にいる人間のそれより高く長くなります。つまり誰かがふとした時に窓の外へ目を向けた途端、屋根の上にいるのが影でバレてしまう。かといって夜まで待つと明かりがないので足元が覚束ない。滑落の危険がつきまといます。つまりまだ日のある時間帯で、なおかつ窓の外に意識が向きにくいタイミングがトンネル地帯を抜ける時です。石炭の煙を車内に入れないために窓を閉めるのが当たり前です。トンネルの内壁を見てもつまらないでしょうから自然と目線は窓から離れます。万が一、乗客に影を見られたとしても一瞬だけなら窓の汚れと見間違う可能性も高い。トンネル一つ抜けただけで黒くざらついた粒子がべっとりとついていましたからね」
「豊かな想像力だね。発想は面白い。けれども断続的とはいえ閉塞した空間で煤を浴び続けたら窒息するのではないかな。そういう事故は過去にもあったと思うけど」
「それならこういうのでやり過ごせずはずだ」
そう言ってジョー・スミスは腰に下げたごついマスクを取り出した。
「軍用マスク……ですか。ちなみにそれ、一般には出回っていないはずですが?」
「第二次ポーア戦争で全滅した部隊の生き残りから譲り受けた。なにか問題でも?」
「……まあ、いいでしょう。窒息にはそういう道具で対処した可能性もあると。しかし確たる証拠がない。どれもそれは彼女の推論だ」
「その通りです。ぼくは、だからこそ今から後方車両に向かって調べたいと思っています」
「目撃者がいると思っています。なにかを見た人がいるはずです」
クローリー・カーストーンは沈黙した。
「ねぇ。軍人さんがなにを悩んでるのか知らないけどさ。彼女は信用ならない? たしかに意図的に第一発見者のこいつを犯人から外そうと動いているけど、言っていることに不自然な点は見受けられないわよ。そっちが第一発見者であるというだけで疑い続けるのは苦しんじゃないかしら。少なくとも彼女の推理を尊重するなら車掌たちとあなたたちに通路を塞がれていたわたしたちに犯行は不可能だわ。一般客車へと迎えるあなたたちを除いて、ね」
「貴様! 我々を疑っているのか!?」
「うっさいわねェ……いちいち声を荒げないで論理的に考えなさいよ」
「そちらの婦人の言う通りだ。名を窺っても?」
「アイリーン」
レイン・メーカーは明らかな偽名を答えた。
「ははっ、ホームズまがいの子どもにアイリーン! 私はいつの間にかコナン・ドイルの世界に迷い込んでしまったようですね。クッハハハ……ならさしずめ彼のあだ名はワトソン博士ですか? ……いやぁ、失敬。ミス・アイリーン。あなたのご指摘通りですね。むやみに疑ってミス・ホームズの行動を阻害するよりは彼女にこの事件、任せてみるのも一興かもしれない。隠し立てするつもりはなかったのですが、実は私の付き人は機関士の心得がありまして。この蒸気機関車も燃料を入れ続けなければやがて止まりますから」
「だからとりあえず走らせてヨークへ向かおうと?」
「イングランド北部。ノースヨークシャーにも警察署があります。引き返す術が分からない今、ヨークシャー警察署まで赴いて事件を引き継ぐのがもっとも利口な手段ではないか、と。しかし翌朝にはエディンバラにつける予定だったことを考えると……まぁ……面倒なことになりましたねお互いに。エディンバラへは旅行ですか?」
「帰郷だ」
ジョー・スミスが答えた。
「あんたは?」
「避難ですかね。倫敦の年越しは派手ですが小うるさいですから」
「とりあえず現場保全のために誰かが残る必要があると思うのだけど? わたし、残るわよ。他に誰かいる?」
「私も残りましょう。戻ってきた車掌たちに状況を説明しなければなりませんし。彼らにはそのまま機関室へ。ミス・ホームズとミスター・ワトソンはいかがなさいますか?」
「俺たちは後方車両へ行かせてもらう。理由はもちろん」
「この事件を解決するために、です」
そうしてジョー・スミスはレイチェル・アンバーと共に一般客車へと向かった。
【近づきすぎると見えなくなる】
この台詞は2013年に公開された洋画、グランドイリュージョンに登場する。奇術師が観客の興味を巧みに誘導して奇跡じみた現象を起こして魅了する……手品の普遍的な要点を端的に言い表していると同時に一歩引いて物事を見る、俯瞰的に眺めることの重要性を説いている。
ついでに物事を一歩引いてみると事実が見えてくる、というのが分かる西洋のことわざを一つ紹介しよう。
Devil May Cry?(悪魔は泣いているか?)
某有名アクションゲームのようであるが実はそうではない。
これは単純な問いかけに見えるけれども発音の区切り方をちょっと変えるだけでDevil Make Lie(悪魔は嘘を作る)という言葉が浮かび上がってくるという発音を利用した英語らしい言葉遊びの一種である。
もともとは悪魔と対峙するエクソシストの心得だと言われているが、それが世に広まって変化したそうで十九世紀末当時は「泣いている美女の言葉を安易に信じるのは危険だ」という経験に基づいた警句を後進に伝えるために用いられたらしい。
真に迫った女の嘘泣きは時に悪魔のそれをも凌駕する、と本気で考えられていたのだろう。実際、コナンドイルの短編【ボヘミアの醜聞】でシャーロック・ホームズはアイリーン・アドラーという女性に出し抜かれている。
美しいものなどはついつい近くで見てみたくなる。だが、近づきすぎると見えなくなる。
罠にかかった後では遅いのだということを男性諸君はくれぐれも忘れないように。