連続トンネル地帯
「そういえばさぁ、車内販売とかないのかしらね。お腹空いたんだけど全然こないしィ」
ぶうぶうと不満を垂れ流すレイン・メーカーの言葉に反応してレイチェルがパンフレットを読み返している。
「……普段はやっていらっしゃるようですが、今の時期は料理に力を注いでいるようです。前方から三両目、えと、この予約客車の一つ前が食堂車なのですが、なんでも倫敦の著名なコックを雇っているので盛大なコース料理が楽しめるようになっているみたいですよ」
「もう駅弁でもいいンだけど~」
「残念ながら寝台特急なので目的地までは止まらないようですよ」
「……訊きたくないけどそれって何時よ」
「明日の午前八時ごろだそうです」
「十時間以上じゃない! は~っ! ないわ! ほんと地方ってありえない!」
「過去に新聞で八時間半を記録した代わりに脱線事故を起こした、という記事を読んだ記憶がありますので安全に最大限注意を払っているのでしょう」
「……まァ、事故られるよりはマシだな」
「なぁに悠長なこと言ってるのよ。ったく」
「文句があるならどうしてついてきたんだよ。組織はいつも丸投げだったろ?」
「しょうがないじゃない。今回はそういう流れになったのよ」
「どういう流れだよ……」
突然、チンチン──……とベルの音が会話に割り込んできた。
レイン・メーカーは猫のように椅子に寝転がったまま動こうとしない。
ジョーは「はいはい」と二つ返事して開けていた窓を閉めた。
「どうかなさったのですか?」
「トンネル」
首を小さく傾げて考えていた矢先、もう一度ベルが鳴った。
視界が一気に煤けた赤黒い煉瓦の壁に変わった。
それも見えなくなり、あまり意識していなかった客車内のささやかな照明が、いよいよ出番かと存在感を強めてくる。狭いトンネル内をぴゅーっと走っていく蒸気機関車が生み出すこもった音の数々は、レイチェルには物珍しかったのだろう。
ジョーが振り返った時、彼女は目を閉じ、両手を両耳の後ろにあてがって初めての経験をじっくりと堪能していた。やがて蒸気機関車がトンネルを出て、再び茜色が客車内に注がれた。ほんのちょっとだけのトンネル潜行だったのに、窓の外側は黒っぽいざらついた粒子がたくさんこびりついていた。
「窓を閉めているとちょっぴり息苦しいものを感じますね。音のつながりが外と隔たれていて」
「あいにくともうしばらくはこのままだよ~。こっから連続トンネル地帯だから」
「連続トンネル……でもこれだけ速度が出るならわざわざ丘や山をくり抜く必要があったのでしょうか」
「きみは蒸気機関車の起こりって知ってる? まぁ、知ってなくてもいいンだけどさ、できたばかりの蒸気機関車っつーのは牽引力、物を引っ張る力がぜんぜんなかったワケ。最高速度だって大人が全速力で走れば追いつける程度でね。そこから地道に改良してって今に至るわけだけど、長らく頭を抱えていたある問題があったのよ。それが坂道。で、当時の人たちは馬とか牛とか石炭とか人を乗っけた状態じゃあ坂道を上るだけの牽引力が出せない、と判断して英国中から人をかき集めて強引にぶち抜くことにしたの。この連続トンネルは各地に残るそういう工夫の一つってワケ。お分かり?」
「納得です」
「やけに詳しいじゃないか」
「べつに……わたしたちの中にはそういう時代を生き延びた人間もいた、ってだけ。とくに……わたしは、組織の中じゃ青二才だもの。こういう言葉を知ってるかしら? 愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ。わたしたちは賢いからね。様々な事実から教訓を得て今があるのだよ。分かるかな~? ワトソンくん」
「はいはい、俺は愚か者ですよ」
「経験のない人間の言葉に重みは宿りません。百聞は一見に如かず、とも言いますから」
「言われてンぜ? 賢者さん」
「かと言って自身の経験を過信するあまり痛い目を見る例は枚挙にいとまがありません」
「言われてるよ、愚者くん」
「何事もバランスが大事なのではないでしょうか。ここは一つもっと仲良くしましょう」
ジョーとレイン・メーカーは心底嫌そうな顔になった。
「なにかぼくの意見に綻びがありましたか? もしもそうならご指摘ください。ぼくにもまだまだ世の中は謎だらけなので、素っ頓狂なことを口走ってしまっているかもしれませんので」
「きみがどういう絵本で育ってきたのか知んないけどさ。世の中には仲良しこよしで万々歳、っつーわけにはいかない事情ってのもあるワケ。安易に人の姿勢に口出しするのは無用な衝突招くからさ。止めといたほうがいいんじゃないかなーって、人生の先輩から忠言」
「覚えておきます。ところでひとつ訊ねてもよいでしょうか」
「えっ、なに? わたしたち?」
「はい」
「……まぁ、どうぞ? なに?」
「このトンネル地帯の耐久性はいかほどのものですか?」
「耐久性?」
まったく想像だにしていなかった質問にレイン・メーカーの動きが止まった。
起き上がり、質問の真意を探るようにジョーへ目線をちらっと配るが彼も困惑した表情でレイチェル・アンバーの横顔を見つめている。
「あはは、えっとぉ……なんでもって言ったわたしたちのせいか。ん、まぁ、いいや。えっと、崩落事故の類とか? 十年くらい前に一度あった、とは聞いたことあるよ。でも確か一年前に国家事業で舗装工事が終わったとか。だから急に崩れるようなことはないんじゃない? 専門家じゃないから知んないけど」
「俺たちを捕まえるためにトンネルを爆破する可能性がある……とか?」
レイン・メーカーの表情に不安の色が差す。
「なるほど……パンフレットにある通りのようです。ありがとうございます」
「書いてあったのに訊いたの? …………まぁ、いいわ。好きにして。もうわたしたちはお腹が空いたの。そうよね、愚か者」
「ンだよ、都会っ子っていうのは身体が貧弱にできてンだなァ。もうお腹ペコペコで動けませんってか? 足手まといにはなるなよ?」
「なるわけないじゃん。わたしたちはただ万年筆より重いものは持ったことがないのさ。ほら、賢いってお金になるじゃん? ほら、わたしたち賢いじゃん? どこかの誰かさんと違って頭脳だけで稼げちゃうから~♪」
「自信に満ちあふれているのは素晴らしいですね」
「輝きすぎて足元見えなくなってるだろ、きっと」
「そんな間抜け晒さないわよ、って……あっ、ちょっとー?」
レイン・メーカーが四人用個室から身を乗り出して手を振る。
食堂車のほうからロンドン・M&A・スコティッシュ鉄道の、エレベーターボーイを思わせる紺一色のスマートな制服に身を包んだ男性職員が現れた。
「はい、なんでしょうか。お客様」
「わたし、お腹が空いたのだけれどその……夕飯はまだかしら?」
大人びた女性を思わせる声色に気圧されてか駅員は心底申し訳なさそうに困り眉になり、
「も、申し訳ございません……少々、予定よりも遅れておりまして」
「水だけでももらえないか? この子も喉が渇いてると。あれなら俺が直接出向くが」
「予定よりも遅れているのでしょう? 後ろで待たされている方々のもとへそれを報せに行く途中だったのでしょう? ご苦労様です。お水は、自分たちで取りに行ってまいります」
スッと席を立ったレイチェル・アンバーの後を追うようにジョーも席を立つ。
男性職員はまさに彼女の言う通りだ、と言わんばかりに目を丸くしていた。ちらっと首をひねって振り返ってみた限りでは引き止めようとする素振りは見えないので、前を歩いていくレイチェルの後ろについて通路を進んだ。
ロイヤルフライング・スコッツマンが再びトンネルに入って、周囲が一気に暗くなった。
がたん、と一際大きく車体が揺れる。
「おっと」
倒れ込みそうになったレイチェルを支える。
「ご、ごめんなさいです」
「暗いうちは立ち止まっていればいい」
「はいです」
腕の中で小さく頷いた彼女は、そのまま素直に大人しくしていた。
やがてトンネルを抜け、再び歩きだした二人は扉を開けて。
惨劇を見た。
【蒸気機関車】
技術革新とはたいがいがそうですが、蒸気機関車も例に漏れず最初は前時代的発想を引きずっていた。乗合馬車の延長線上と見なされていたのだ。たとえば機関士はドライバー、車掌はガードと呼ばれ、車両はキャリッジと呼ばれていた。拙作ではボックスルームと訳しているものはコーチと言われていて、六人用で共有の通路がなかった。つまり観覧車の用に個々の車両が独立していて、現在のように車両間の移動ができるようになったのが千八百九十一年のころからだと言われている。
・・・
次回事件開始