レイチェル・アンバーという少女について
あまりにも歯に衣着せぬ物言いに呼吸が一瞬、止まった。
「はい」
「……ずいぶんとあっさり認めるね?」
レイン・メーカーは片目をつむったまま、薬品実験の過程を見守るように言った。
「貴族社会では、親の期待に沿う形で子の教育を行う。当然のことです。ご存知でしょうが、ぼくは貴族社会では異端です。普通の──貴族の令嬢を普通と形容するのが正しいかどうかは分かりませんが──とにかく普通の女の子はよその家へ嫁がせるためにあります。なぜなら家の資産、すなわち土地の相続権は基本的に長男が持っているものだからです。アンバー家に男児はいません。母は物心つく前に亡くなったと聞いています。男の子の養子を迎えるつもりもなかったようです。父は、最初からどのような子が生まれてきたとしても、その子をシャーロック・ホームズにするつもりだった、と。ぼくは、父のそういう教育の実験台だったと考えています」
「そういう教育、とは?」
レイチェルはベッドに座り直し、重ねていた両手を解いて指をからめ、それから少し肌寒そうに手のひらをこすり合わせた。
「たとえば今の仕草です」
ジョーは小さく首を傾げ、考え込むように眉間にぐっと力を込めた。
レイン・メーカーは沈黙している。
「手をこすり合わせる。これは作中でシャーロック・ホームズが事件に興味を抱いて、相手の語る一言一句を正確に聞き取ろうと身構えた際に表れる癖です。短編の海軍条約文書で登場します。他の作品にも似たような描写があるかと思いますがそれは置いといて、父はこういった手癖の模倣から、現代に至るまでの犯罪資料の熟読。スコットランドヤード警察の現役警官を招いての捜査手法の説明。その他細々とした風土や文化への理解をぼくに求めました。月に二度行われるテストで及第点を取れなかった際は折檻を受けました。unlearned is unlikely《無知には鞭を》。あっ、ここ笑い所ですね。……笑えませんか? そうですか」
彼女はコホン、と咳払いして、
「倫敦が彼の庭であったように、アンバー家とその敷地はぼくの庭となりました。靴や裾に付着した土からその者の一日の行動を言い当てることができました。足音で個人を判別できるようにもなりました。たいていのことは一度で覚えられるようになりました。手先が不器用だったのでヴァイオリンはあまり上手に弾けませんでしたが。
……そんな顔をなさらないでください。作家のモニカ・ベル・トロイヤは代表作、女中の誇りにてこのように記しました。『目的をもって生まれる人など一人もいない。目的とは自らの目で見定めるもの』。思考の自由を妨げる門、錠、かんぬきなどこの世には存在しません。ぼくは、ぼくの目的のために今ここにいるのであって、誰かの同情を惹くための悲劇のヒロインになりたいわけではないのです」
ジョーは、強い衝撃に心を震わせていた。
「お嬢……いや、レイチェル・アンバー。俺は、きみを侮ってた。こまっしゃくれたガキんちょだと心のどこかで思ってしまっていた。子どもは守られるべき存在だ、ってな。亡くなった妹と年齢も近そうだった。しかしその認識は改めなくてはならないな。きみは今、本気で家と縁を切りたいと願っている。つまり、きみに膨大な知識を与えたあの家にいては、絶対に手に入らないと確信しているなにかがあるんだろう。最後に今一度確認したい。それはなんだ?」
「正義の名探偵です」
「正義の名探偵さまがわたしたちのような悪党と手を組んでいいのかにゃあ?」
「ぼくの目の届く範囲でそういう行為に及ぼうとしたなら、すぐにでも警察に突きつけますよ。証拠があれば、の話ですけど」
「おーおー……怖い怖い。まるで少しでも扱いを間違えると炸裂する爆弾のようだね、きみは」
「もしかすると父も今のあなたと同じ見解に至ったからこそ、そういう判断を下したのかもしれません」
「ふぅん……強力すぎる駒は時に指し手を惑わせる……だから軟禁した、と? もしその通りなら、きみのパパはずいぶんと姑息な手を打ったね。それじゃあ一時しのぎにしかならないだろうに」
「果物のように熟成させて理想主義を抜こうとしたのかもしれません」
「わたしたちは多少、現実主義ほうが好みだけどね。ふむ……なるほどなるほど。これは……状況は思いのほかひっ迫しているのかもしれないね」
「ってーと……どういうことだよ、レイン・メーカー」
「いずれ分かるよ、ワトソンくん。それよりも今は当面の目的だっけ」
レイン・メーカーはパシンッ、と景気よく手を叩くとこう続けた。
「エディンバラ──なんてどう?」
エディンバラ。
グレートブリテンおよびアイルランド連合王国──通称英国の北部に位置する。
スコットランドの要と呼べる都市であり、ジョー・スミスの故郷であるが今、なによりも重要なのは別の事実であった。
ジョセフ・ベル教授。
彼はエディンバラ大学病院に勤める医師であり、エディンバラ大学医学校で講師であり、
シャーロック・ホームズの原型だった。
【箒を持って立つ人】
世の中にはたくさんの職業があるが、十九世紀から二十世紀初頭の倫敦の汚染を表す上でもっとも分かりやすいのは箒を持って立つ人々であった。彼らの仕事は単純明快、通りを歩く人々の行く手を掃いてあげることであった。
なぜそのような職が成り立つのかと言うと、当時の移動手段はもっぱら馬車であり、馬の糞が通りに散乱していたからである。手に職を持たない人間は、ない知恵を絞って仕事を生み出すのである。これらは車の発展につれて馬車が減少したため自然消滅した。その時代に合わせて仕事とは変化していくものである、という分かりやすい一例である。