空飛ぶスコットランド人の怪
酒場での一件を済ませたジョー・スミスは、テムズ川を横断する跳開橋を北から南へと渡り、十字路で箒を持って立っている少年を見つけた。
彼らは一般的に箒を持って立つ人々と呼ばれている。箒を携えて四つ角の一角に立ち、道路を横断しようとする貴婦人がたのドレスが馬糞などで汚れないように行く手を掃いて銭を稼ぐのを生業としている。
「よう、パロット。調子はどうだい」
パロットと呼ばれた少年は、よれよれになったサスペンダーのゴムを引っ張って居住まいを正すと、ベレー帽を脱いで軽く頭を下げた。再びベレー帽をかぶり直した彼は肩を竦め、
「調子もなにも商売上がったりっスよ、こっちは」
「どうして」
と、訊ねた矢先に跳開橋を通ってきた蒸気車両がエンジンを唸らせながら目の前を横切っていった。
「おいらに掃除されるためのクソをひり出してくれるヤツがお役御免とあっちゃあ……ねぇ?」
「ならなんでまだ箒を持ってるんだよ」
「そりゃあお兄さんみたいな人がいるからですよ」
そう言ってパレットは箒を肩に寄りかからせて満面の笑みで両の手のひらを見せつけた。
「最近のこのあたりの動向。……一シリンクでどうです?」
「フン、ちゃっかりしてやがる。ほらよ」
「へへッ、毎度」
傍から見れば、みずぼらしい少年に施しを与えただけであるが、倫敦ではこういった少年ほど侮れない。なぜなら彼らはどこにでもいて、そっと聞き耳を立てている。そうやって集積された噂話は、いわば大衆紙などで加工される前の生の情報だ。ゆえに新聞社が朝に仕入れた情報をその日の夕刊に報道するよりも先に真実に手が届く時もある。
「──とはいっても特に大それたネタは入ってないっスね。年末ですし、どこも年越しの用意にあちこち走り回ってます。出不精の師匠も十二月になると働けとせっつかれるのか、もう数日も家に帰っていません。あ、ただ一ヶ月ほど前に倫敦の新聞で治験の募集がありまして、向こうの通りで靴磨きの仕事をしていた若い絵描きとか、テムズ川のどぶさらいをしてヴァイキングの落とし物を売り払って生計を立てていたおっさんとか。ごっそりと見なくなりましたね」
「どこに行ったんだ?」
「英国陸軍の軍事病院っス」
「へぇ……」と興味のないふりをしながら、ジョーは治験という言葉によからぬ印象を抱いていた。すぐに考え過ぎだろうと思い至って小さく頭を振ったが。
「他にはマン島レースが今年もあったとか」
「マン島?」
「蒸気車のレースっス。いろんな国が参加していて盛り上がっているそうですよ。ただ英国の順位はそんなによくないみたいっスけど」
「なんでだ。蒸気機関の発祥は英国だろ?」
「蒸気機関車のシェアを車に奪われたくない鉄道とその鉄道から莫大な献金を受けている国の圧力があってもっぱら個人製作のほうが出来いい、なんて言われてるんス。変な話っスよね。個人製作といえばティムさんはどうなんス? あの人なら車くらい作ってしまえそうですが」
「どうだろうな。基本的にできあがったもの以外は教えてくれないから」
「ストイックっスねぇ~。アダマンズのウエイトレスさんの義足とかも特注品にしては破格の値段で、その割にはめちゃくちゃ出来がいいって近所の職人の間で噂になってましたよ」
「その言葉、伝えておくよ。きっと喜ぶ」
じゃあな、と切り出してジョーは歩き始め、ケインズフォード・ストリートに入った。
陰気な空気が立ち込めるこの通りを訊ねた目的はさびれた宿屋だった。明朝に預けたレイチェル・アンバーのその後と具体的な指示を訊いておかなければならない。
出入口と通りをつなぐ小さな石階段は、ひげや髪が伸び放題な浮浪者の寝床と化していた。彼はこちらが近づくのを察するや否や錆びついた扉を押し開くようにゆっくりとまぶたを開け、んんっ、と声をもらしながら起き上がってぎろりと睨んできた。
が。
相手がジョー・スミスであると把握した途端、再び横になってしまった。ごわごわした手袋をつけた手をひらひらと揺らし、さっさと通れ、と自分の上を跨ぐよう手振りで言うと、通りから背を向けるように身体を丸めた。テムズ川から一本離れた通りとはいえ、十二月の凍えるような寒さが身にしみるのだろう。傍らに抱いたウォッカの瓶からロシア遠征で英諸外国が得た寒さへの教訓が見て取れる。ロシア人が度数の高い酒を好むのは、寒波によって胃が凍るのをアルコールが防いでくれるからだ。
ジョーは元同業者として、レイン・メーカーに雇われた名の知らぬ見張りの苦労をおもんぱかりながら、宿屋の扉を開けた。
・・・
「────以上だよ。ジョー・スミスについての疑問はこれで氷解したかな?」
レイン・メーカーはつまらなそうに椅子に腰かけ、お団子に結わえきれず両耳を覆うように垂れ下がったミルクチョコレート色の髪の毛を指先でいじりながら、扉口へ視線を持ち上げる。
「おや、ウワサをすれば」
暖炉のぬくもりがすきま風と打ち消し合って微妙に肌寒い一室。
レイン・メーカーは椅子に座って暖炉のそばに、レイチェル・アンバーは暖炉から離れたベッドの上で毛布にくるまっていた。
「今回は……あんたがレイン・メーカー?」
「わたしたちにそういう呼称を求めないでもらいたいんだけどね。まぁ、前頭葉が発達していないきみに合わせてそういうことにしてあげるよ」
「脳みその外側で言葉こねくり回すのお上手ッすね」
「わたしたちは頭脳労働が専門なんでね」
「こちらは肉体労働が専門なんだけど、適材適所って言葉はご存知っすかね?」
「黙れクソ野郎」
直截な物言いにジョーは内心ほくそ笑んだ。
「──彼に死んでもらっては困ります」
「駒に感情移入すると最悪の状況で足元をすくわれるよ」
「……駒の性質を知っておかねば適切な運用はできません」
「ハッ。まぁ、いいよ。わたしたちは慣れ合う気ないし。きみを連れ出したのも慈善事業ってわけじゃあないから。……さて! 役者も揃ったことだし、今後についての大事なお話をしましょっか」
景気よく二度、手を叩いて席を立ったレイン・メーカーは、カーテンを広げて陽光を遮り薄暗い、いかにも密会をしています、と言わんばかりの状況をこしらえた。
「じゃあまず、わたしたちの勝利条件について確認しておこうか。一つ目は言うまでもなくミス・アンバーの逃走の手引きを行うこと。ただこれはビジネス。お分かり? ジョー・スミス」
「もったいぶった話し方をするじゃあないか。レイン・メーカー」
「対価を得ずに無賃労働をしそうな甘ちゃんに釘を刺しているんだよ」
「なにもお返しをせず、自由を得られるとは思っていませんが、ぼくにはお金がありません。その対価はお金以外なら助かるのですが……」
「もちろん。きみに金銭を要求するつもりは毛頭ないよ」
「じゃあ代わりになにを求めているのですか?」
「頭脳」
とんとん、と人差し指でこめかみを突っついて、レイン・メーカーは不敵に嗤った。
「わたしたちが思うにきみの勝利条件は二つだ。一つ目は檻を壊すこと。檻とは、きみのパパやその後ろにいる人々のことだ。彼らはちょっとやそっとじゃ触れない闇を抱えていてね。わたしたちは、その企みのためにきみが生まれたと睨んでいる。ただ試作品が何かしらの問題を抱えているように、きみはおそらく賢すぎた。その賢さこそがかれらにとっての諸刃の剣となったワケさ」
「……っ、てーと?」
ジョーは舌が絡まりそうになりながら相槌を打った。
「レイチェル・アンバー。きみはありとあらゆる手段でもって追手を振り払いながら、その素性を突き止め、なおかつパパの企みを白日の下に晒さなければならない」
「実の父親を嵌める手伝いをさせるつもりなのかよ?」
「彼女を通して伝えたと思うけど、裏にイギリス陸軍が一枚噛んでいるのは言ってるよね。くだらない私情を挟むのはやめてもらえるかな。こっちもね。組織として、いろいろと思惑っていうのがあるんだよね。それとも復讐の好機を捨ててまで女の子にいい顔をしたいのかな?」
「そりゃあ……」
「美少女守りたがりのシスコンクソ野郎でも限度、あるよ?」
「黙れクソアマ」
「きゃっ、こわぁい♪」
「ジョーさん。心配してくださってありがとうございます。ぼくはだいじょうぶです。それに、ちょっとうれしいのです。あまりぼくがホームズの真似事をしても喜ぶ人は少なかったのです。気味が悪い、と……だから、えへへ……こういう形でもお役に立てるなら、と思うと。だからぼくはだいじょうぶです。ジョーさん、お気遣いありがとうございます」
レイチェル・アンバーはぺこり、と頭を下げて気恥ずかしそうに笑った。
自らの技術に自信があり、それを誇りに思っているからこそ出たのだろう正直な言葉と表情を見せられてしまった以上、ジョー・スミスは腹を括った。
「俺はなにをすればいい。彼女の弾避け。それは分かるが、あてもなく逃避行を続けさせてくれるほど連中は甘くない。少なくとも当面の目的と金が必要だ」
「まぁ、待ちなよ。その前に確認したいことがあるんだよ。あの子には」
「確認?」
「なんなりと」
貞淑な妻のように両手を重ねて下腹部へ置き、背筋をぴんとのばしたレイチェルは、曇りなき眼でレイン・メーカーを見た。穢れを知らない純粋の権化。そういう印象を抱かせるに足る立ち居振る舞いに、ジョーは出会った時に感じ取った違和感を思い出していた。
「きみ、洗脳されてる自覚はある?」
【ロンドン塔】
中世に建てられた城塞にして監獄。そのため著名な人物が数多くここで処刑されている。その歴史的経緯により、夏目漱石が留学中の経験をもとにして執筆した「倫敦塔」でも亡霊を幻視するなどの表現が組み込まれている。
近くには大きな跳開橋があるが、これはロンドン橋ではない。塔の近辺にあることからタワーブリッジと呼称されている橋だ。
ガイ・リッチー版のシャーロックホームズにて決戦の場となったあそこである。ちなみに拙作のジョー・スミスは原作のワトソンよりもガイ・リッチー版にてジュード・ロウが演じた肉体派のワトソンから強く影響を受けている。




