辿り着いた果てに
天文二年(一五三三年)、下総国佐倉において小さな合戦があった。名もない戦に過ぎないこの小競り合いに、下総国馬里郡竹ケ花村の若者、甚八は従軍していた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
初めての戦場、それは地獄だった。どうすればいいのかわからぬ俺は、その場で教わった事をただ必死に守っていた。
『槍衾は崩すな。固まっとりゃあ簡単に死んだりせん』
教えは忠実に守った。しかし側面から敵が現れたと思った瞬間、味方の槍衾は一気に瓦解した。
隣にいた人も討たれ、俺は槍を捨て無我夢中で逃げ出した。背後から飛来した矢を肩に受けたが、構わず戦場を駆け抜けた。
やがて俺は深い藪の中を走っていた。
矢の刺さった肩を逆の手で抑え、捻挫した右足を庇いながらの走行は歩いているのと然程変わらぬ速度だろう。
それでも俺は必死に走る。捕まるわけにはいかない。殺されるわけにいかない。
俺は何としても生きて村へ帰らねばならぬのだ。約束を果たすため。
菊との誓いを守る為。
「お菊、待っとれ。待っとれよ。甚八は今帰るからのぉ。待っとれよ」
菊とは俺より二つ年下の齢十四になる許嫁だ。気立てが良く働き者で幼子や老人に優しい正に俺の理想とする娘だった。
その菊との祝言を上げる日取りも決まり、幸せな日々が訪れようとする目前の従軍となったのだ。
ゆえに決して死ぬわけにはいかぬ俺は、藪の抜け目から洩れる光に向かって突き進む。一刻も早く愛する者が待つ故郷へ帰る為。
ところが藪を抜け出た俺は驚愕した。そこは急斜面になっている断崖だったのだ。俺の体はごろごろと転がり岩肌に叩きつけられた。
「うわぁー!!」
崖下まで転がり落ちた俺は全身に走る激痛に悶絶した。立ち上がることも叶わぬ大怪我を負い、それでも俺は先に進む。這ってでも村に帰るんだ。絶対に死ねない。
どれほど長い時間這い続けたか。照りつける日差しに体力を奪われ、傷口は熱を持ち灼熱地獄を味わっているようだ。もうだいぶ長いこと水を飲んでいない。
「お菊……待っとれよ……お、菊……」
朦朧とする意識の中、菊との誓いを胸に俺は進み続けた。
だけど、もう身体が動かない。前に進めない。すまぬお菊、すまぬ。
「甚……甚八」
意識が遠退いたその時、俺の名を呼ぶ声が聞こえた。この声は−−。
薄っすらと開いた視界に映るのは、愛を誓いあった許嫁お菊であった。お菊だけではない。父に母もいる。いや、よく見れば村人全員がそこにいるではないか!
しかし、俺はそんなはずがないとわかっていた。これは死に際に俺の脳が求めた光景。いわば幻だ。
だが、幻とわかっても尚最期に愛するものたちの顔が見れて嬉しかった。
「甚八、ようやった! よう戦ったなぁ!」
父が褒めてくれる。その隣で優しい笑みを浮かべ頷く母。
俺は菊へと目をやる。
「お菊、すまねぇ。祝言、果たせなくて」
お菊は静かな笑みを湛え首を振る。
「いいのよ。もういいの。もう頑張らないで、ゆっくり眠っていいの」
「菊……」
「今までずっとずっとありがとう。大好きよ、甚八」
「俺も菊が大好きだ」
そして俺の意識は暗闇へと沈んでいき、皆の顔が見えなくなった。
全身に降りかかる冷たい感覚に俺の意識がぼんやりとだが、確かに覚醒する。
俺は生きているのか?
その問いの答えを知るべく自らの身体をまさぐると、肩に突き立った矢や、激しい痛みを訴える全身の打撲。その激痛に目覚めは最悪だったが、それは生きている証拠に他ならない。
激しい雨のおかげで全身の乾きも潤い、身体を起こすと何とか立ち上がることができた。
俺は喜び勇んで歓喜の声を上げる。
「はははっ! お菊、お別れをするにはまだ早かったようじゃのぉ! 待っとけよぉ」
辺りを見渡せばそこは既に見知った道で、知らず知らずのうちにこんな所まで辿り着いていたのかと驚く。
村が近いことがわかると否応なしに足も速まる。
やや、あれに見えるは間違いなく竹ケ花村! 皆、甚八が今帰ったぞ!
しかし村に近づくにつれて途方もない違和感を覚える。村の様子があまりにも違っていた。
どういうことだ? やはり、俺は死んでいるのか? 現世への未練が霊となった後も俺をこの世に留めおいておるのか?
辺りを見渡しながら歩く俺は次第に吐き気を催してきた。
わかった。もうよい、菊との祝言を果たせぬまま逝くのは誠に遺憾ではあるが、もう認めようではないか、俺は死んだのだと。さあ、甚八の魂をあの世へ導いてくれ。
そしてついにその光景を目の当たりにした時、胃の奥から逆流した胃液を盛大にぶち撒けた。
ツンと鼻を突く臭いが立ち込める。
「ふ、ふははは、やはり俺は死んでいたのか。そうだ死んだに相違ない。
死んだのだ……頼む。死んだのであってくれ。どうか! 死んだのは俺であってくれぇぇぇーッッ!!」
踏み荒らされた田畑、荒らされた家屋。変わり果てた故郷の地。轟く雷光、降りしきる豪雨。
物言わぬ愛する者を抱きしめ、甚八の慟哭は何時までも辺りに響きわたっていた。