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溢れ出る波紋

作者: dorge

 脆弱な風がくるくると回って、それに流されて青い葉の群れが舞い上がる。


 葉の流れは緩やかだが大きい。風は辺りの木々の葉を次々とかすめ取り、それぞれの葉が上へ上へと巻き上がって行く。

 その穏やかな竜巻は建物の上にゆっくりと伸びていき、幅も大きく広がっていく。


 街の人々はその時、牛を追いかけるのに夢中になっていたので、それに気づかなかった。

 それを目に止めたとしても気にとめはしなかった。


 街の坂を勢いよくかけ降りていく牛の数は全部で6頭。

 彼らは鍵をかけ忘れた檻から逃げ出したのだ。

 逃げ出した牛は全部で7頭だった。1頭はどこかへ消えてしまった。

 毛並みは汚れているが角が凛々しい。

 牛たちの角はそれぞれ、手に入れれば一生遊んで暮らせるという代物だった。


 だから街の人々は皆、夢を追って駆けた。

 肉屋や魚屋も店を放って駆け出し、客を乗せたタクシーは、目的地を忘れ、客と一緒に、牛の元へ向かった。子供達も学校から飛び出した。というのも先生たちも牛を追いかけに行ってしまって学校にいなかったから。

 街はお祭り騒ぎになった。

 詰めかける人々の群れにも関わらず、牛たちはうまく逃げた。

 車の通れない網目のような旧市街にいたのも捕獲を難しくさせた。

 人々は手に物干し竿だとか、バッド、闘牛士風の大きな旗、杖、どこかのカフェの屋外の椅子など、手近にあった道具を携えた。



 《場面転換》


 黄色や、赤の花、それに種々の草木がそよぐ。街の脇のある庭。

 晴天には緩やかに雲が流れ、止まってしまいそうな風が地面を撫ぜた。

 牛追いの喧騒も街の中心から離れたここでは無縁だった。


 庭は丈の低い集合住宅の屋上に土を敷き詰めてできたもので、周囲を鉄網で囲われている。集合住宅の背は崖に面していた。それで屋上は崖の上と地続きで、鉄網だけがその間を隔てていた。

 庭は集合住宅住人の有志で管理されていた。


 チーン。


 庭の隅に突き出ていたエレベーターがベルを鳴らす。

 扉が開くと中から女が出てきた。

 彼女の髪はブロンドで、頭につばの短いベージュの帽子をかぶり、手には水の入ったプラスチックの如雨露(じょうろ)を提げていた。

 彼女は庭の草木に水を注ぎ歩き始めたが、そのうちふと鉄網の方を見て、その動きを止めた。


 鉄網の反対側に一匹の牛がいた。

 彼/彼女は、鉄網から(あふ)れた庭の草花を()んでる最中だった。

 鮮やかな花弁と緑葉を、むしり、咀嚼する牛の表情からはその感情は見えない。


 女は水やりを止めて牛に近づいていった。

 牛からは家畜特有の(にお)いがして、花の匂いと絡まった。

 女は鉄網の先に指を伸ばし、牛の顔に触れた。

 牛の鼻からは生暖かい息が漏れ、腕にあたる。


 庭の外側には道が一本横たわっている。その道は整備されておらず、コンクリートは凹凸(おうとつ)し、ひび割れ、朽ちかけている。


 牛に触れていた彼女のその時の感情はなんだっただろう。喜び、そこに喜びがあったことは疑いない。生き物に触れる時共通に感じる根源的な喜びがあった。だが、それは仄かなもので、この奇妙さへの不思議の感覚が大きく彼女の喜びを包んでいた。


 ふと足音がして、振り向くと、金網の向こうの道路を一人の男が歩いてきていた。手には猟銃か何かを持っている。白髪が幾分多く、銀フレームの眼鏡をかけている。

 あちらの男も牛に気づいたようで驚いたような表情をしていた。

 そしてゆっくりと牛の方へ近づいて来た。


 男は銃を牛に向け、構えた。

 男が言う。

「ちょっとそこの姉ちゃんどいててくれんかなあ、危ないから。」

 牛の表情は動かない。口は草花の咀嚼を続ける。

 女は戸惑った。はじめ一瞬何を言っているのかわからなかった。

 そのあと、ふと、牛の角が高く売れると言う話をどこかで聞いたことを思い出した。

 思わず少し後ずさりして、それからしかし、男に言った。

「やめてください、こんなこと。良くないことですよ。」

 男は答えなかった。

 若い見知らぬ女の好意と、一生遊べる大金の二つが、(はかり)にかけられたが、そんなことは比べるまでもないことだった。


 男が自分を無視するのを見て、「ちょっと、そのまま少し待っていてください」女は言って駆け出し、建物の非常階段を駆け下りていった。


 牛の目は変わらずどこか遠くを見ていた。


 女が去ってから男は引き金を引こうと思いながらも、躊躇し、実行できなかった。

 何しろ彼も動物を相手に引き金を引いたことはほとんどなかった。それに、人間というのは、何事も先延ばしにしたがる生き物なのだ。

 彼は、銃を構え、引き金に指を置き、ただ何か、タイミングを待っていた。


 その間も牛はのろのろと周囲の手入れされた草を食べ尽くしていった。


 チーン。


 音が鳴り、エレベーターの扉が開き、先の彼女が出てきた。手には古ぼけた猟銃を持っていた。

 男は驚いた。

「まさか、あんなこと言ってお前さんも分け前が欲しくなったっていうのかい。」

「そんなことあるわけないじゃない。」

 言うと、女は男に向けて銃を構えた。

 男は慌てた。そして、自分の銃を彼女に向けた。

「お嬢さん、馬鹿なことするんじゃないよ。それは人に向けちゃあいかんのだよ?」

「撃たれたくなかったら、早くそこを離れてください。」


 そのまま数秒が経過した。男は冷静になって、彼女が持っている銃が本物か、彼女が本当にそれを扱えるのか、疑念を抱いた。それに、彼女と男は十分距離が開いていた。

 そもそも彼女に本当に引き金が引けるだろうか。

 いずれにせよ、彼には彼女を撃つ選択肢もこのまま帰る選択肢も到底ありえないものだった。


「可哀想かもしれんが、仕方ないんだ。」

 男は、牛の方に再び、ゆっくりと銃口を向けた。

「ちょっと待ってくださいよ。」彼女が慌てて言う。


 やっぱり早く済ませてしまえばよかった。


 呼吸を整える。

 そして心では牛と彼女への贖罪の祈りを捧げた。


 しかし、彼の深い息と祈りは不意の衝撃に断ち切られた。


 服が赤く染まる。

 振り向くと、彼女の銃口から煙がもうもうと上がっていた。


 男は膝を付き、そしてコンクリートに倒れた。


 彼女は驚いてこちらに駆け寄る。



「ごめんなさい。

 本当に当たると思ってなくて。でも、あなたが悪いんですよ。」

 鉄網ごしに彼女が言う。


 男はなんだか笑いたくなった。



 男には牛の姿が見える。

 牛は表情を変えない。

 色鮮やかな蝶が一匹、牛の鼻つらの上に止まった。

 牛はそれにゆっくり気づくと、鼻から息を吐き出した。

 蝶はしかたなく牛の鼻を離れ、フラフラと散歩を再開した。



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