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第四話 夏の朝、森で。

いつ「夏の朝」

どこで「森で」

だれが「二人の男が」


こうなりました。

 ぱり、と足の下で乾いた音がした。




 さり、さり、さり。




 歩くたび、足の下で骨が砕ける。砕けた骨が、砂になって音を立てる。


 寒い。


 冷えた大気が体を縛る。




 さり、さり……。




 ぱりん、と小さな音を立て、どこかで石化した木々の枝が砕けた。


 ドームの中の気温は、なるべく一定になるように作られている。けれど、周囲の環境に影響されないわけではない。


 気温や、気流。変化は確実に起きる。


 そうした変化に耐えきれず、石化し、結晶化したものたちは、静かにその形を崩す。


 夜明け前のこの時間、下がった気温が変動する。その動きに。


 固くてもろいものたちは、耐えられずに砕けてしまう。




 ぱりん。

 しゃらん。

 ちりちり……。




 砕けた枝は、すぐに細かな砂になる。




 ぱりん。

 ぱりん。

 しゃらしゃらん……。




 砂になり、降り積もる。



 

 ぱりん。

 ちりちりちり。

 からん。

 しゃら、しゃらしゃら……。




 ドームの内側でも、外側でも。かすかな音を立てて砕け、降り積もる。ただ、降り積もる。静かに。時の流れのように。




 ちりちりちり。

 ぱり。ぱりん。

 ぱりん。



 さり、さり、さり……。




「今は、いつなんだ?」



 つぶやくと、「夏だな」といういらえがあった。おだやかに落ち着いた、低い声。



「そういう事じゃない」


「夏の、夜明けだ。朝が来る」


「だから、そういう事を尋ねているのじゃない」



 いらいらとして立ち止まると、白く枯れた骨の森の合間から、見慣れた姿が現れた。


 古びたジャンプスーツを着込んだ、黒髪の男。背はさほど高くないが、しっかりとした体つきで、ごつごつとした手は、力仕事に慣れている事を示している。


 顔つきは朴訥ぼくとつとして、人込みの中にいれば紛れてしまい、家族や友人でなければ見失ってしまいそうだ。どこにでもいるたぐいの、けれど親しい数人には、彼でなければと言わせる善良な部分を持つ、ごく普通の、当り前の印象を与える男がいた。


 灰色の目がわたしを認め、頬に笑みが掃かれた。




*  *  *




 惑星シンライ。


 かつては、銀河の碧玉エメラルドとまで呼ばれた美しい惑星だった。緑あふれるこの星を、人々は魔法の惑星と呼んだ。


 事実、魔法のようであったのだ。


 シンライに育つ緑や花々には稀少にして貴重な薬効成分を持つものが多く、製薬会社や医学を研究する者の間では、シンライの名は『秘薬の宝庫』の意味でもあった。


 しかし。




 さり、さり……




「夜明けを見に行くのかい」



 声が、背後からついてくる。ささくれ立った心を落ち着かせるような、穏やかな声。



「それぐらいしか、する事がない」


「そうだな」



 彼がうなずく気配がした。


 わたしは歩く。石化した木々の間を。伸びる枝々に葉の影はなく、命の気配が見える事もない。滅び、蛋白石オパールになり果て、あとはただ、風化を待つのみ。


 合間に見える、何かの動物の骨。大きなものも小さなものも、何も言わず、大地に横たわる。天に向かう肋骨も、端から崩れて砂になり、やがては大地に還るのだろう。


 白。白。ただ、白。


 今のこの世界には、骨と、石と、砂しかない。


 悪い夢のようだ。


 かつての緑は、どこに行ってしまったのだろう。


 あふれんばかりの、あの緑。輝いていた命は。


 どこに。




 ぱりん。

 ぱりん。からん。

 ちりり、ちり。

 さり、さり、さり……。




「魔法使いに石にされた、王さまや王子さまの話があったな」



 わたしが言うと、「そうなのか?」という声がした。



「おとぎ話だ」


「話の結末は、どうなるんだ」


「誰かが、かかった魔法を解くのさ。勇者や、勇敢なお姫さま。そうして全てが元通り。みんな幸せに暮らす。いつまでも、いつまでもってね」


「このシンライでは、そうもゆかないな」



 彼が苦笑する気配がした。




 ぱりん。

 しゃらん。

 ちりり。




「この惑星の見た、悪い夢は解けない」



 彼の声には、何かを惜しむような、懐かしむような響きがあった。振り向かなくてもわかった。彼は今、どこか、遠くを見るような眼差しをしているのだろう。



「だろうな」



 相槌を打つと立ち止まり、わたしは周囲を見回した。


 白。


 静寂の中にある、ただ白く。砕け、滅びるのを待っているだけの森。



「わたしの夢も、解けないままだ」



 彼が側に来る気配がした。



「君のこれは、夢か?」


「悪夢だろう。記憶を失うなんて」



 振り返らない。振り返りはしない。



「命は失っていない」


「ああ。だが……、自分が何者なのかわからないのは、嫌なものだ。何をしていても宙ぶらりん。自分の足元がどこにあるのかわからない。ずっと手さぐりで歩いているみたいだ」



 白い世界。静寂の中にある、ただ、白い……。



「わたしは自分の名すら忘れた」


「シンライだからな」


「君は、なぜそうも落ち着いていられる。君だって、自分がわからないんだろう」


「ここはそういう場所だ。仕方がない」




 ぱりん。




 わたしは顔をしかめた。たまらなかった。白が。この静寂が。


 だから、振り向いて彼を見た。黒髪に、灰色の瞳。色彩を持つ彼を。


 おだやかな瞳が、わたしを静かに見つめていた。



「君は、寒くないのか」


「寒いさ」


「そうは見えない。どうしてそう、余裕なんだ」


「余裕があるわけじゃない」



 投げかけた言葉に、彼が返す。


 穏やかさが彼の余裕を示しているようで、それが自分の余裕のなさを感じさせられて。何となく苛立った。


 それでもそのまま、とげとげしい言葉を投げつけるのは、間違っていることぐらいはわかっていた。八つ当たりをして何になる?


 だから、その話題を避けて、別の問いを口にした。



「なぜ、シンライは滅びたんだ」



 何度も繰り返した問いかけを。


 美しい惑星。命輝く緑の星。


 シンライはある日、突然滅びた。


 魔法のようだと言われた美しい命は、二度と戻らなかった。残ったのはただ、しかばね。骨のように枯れきった木々と、白い、白い、骨の群れだけ。


 枯れきった、骨の森だけ。



「なぜ。こんな風になってしまった」



 問いかける。


 その答を知っている。


 知っているのに。問わずにはいられない。



「なぜ。……あんなに、美しい場所だったのに」


「ありがとう」



 彼が側に来る気配がした。



「どうして、ありがとうなんだ」


「何となくだ」


「記憶はないんだろう」


「ああ。だが、礼を言いたくなったんだ。変か?」


「変だ。わたしたちは……、何なんだ。名前もわからず、何のためにいるのかもわからず。ただ、ここにいる。ここにいるだけ。それなのに」



 わたしは頭を抱えた。



「どうして、この惑星のことがわかるんだ!」



 そう。わかる。


 わたしが通り抜けてきた森は、かつて、メイキと呼ばれた森の一部だった。人々が集い、感謝の歌を捧げる場所でもあった。


 きらきらと輝く緑。人々の歌声。和するココロドリのさえずり。ゆったりと歩む、メイキジカの雄々しい角。


 手にした月明花と、日光花の香り。揺れるランタンの灯まで思い出せる。


 けれど、わたしは。



「わたしはシンライ人じゃない。その血を継いでも、関わる事もなかったはずだ。なのに、どうして」


「ここが、シンライだからだ」



 彼が言った。



「シンライは、心をつなぐ惑星。住民は夢をつないで惑星を保っていた。そのバランスが崩れた時、悪夢が全てを滅ぼした」



 そう。


 それが、シンライの滅びた理由。


 シンライ人は、いや、シンライに生じた生命たちは、共感能力で全てつながっていた。そうやってお互いに依存し合いながら、惑星の生態系のバランスを保っていた。


 だから、ここには魔法があった。


 だから、ここには安息があった。


 そうして、シンライ以外の惑星の住民をも魅了した。


 つながりの輪に入ること。与え合うこと。


 シンライで暮らす唯一の条件がそれだった。なのに。



「人の欲が、シンライを壊した」



 始めたのは、誰だったのか。


 シンライの動植物に、その効果に、成分に。巨額の富を夢見た者たちが群がった。


 もっと、もっと。


 もっとたくさん。


 もっと何かあるだろう。


 もっと役に立つものがあるだろう。


 何を隠しているんだ。


 全部あばきたてろ。


 そうして、


 もっと、われわれに寄越せ。


 富を。豊かさを。富を!




 密猟者による違法な狩りや、搾取が次々と行われた。それらはただ奪うだけ。ただ壊すだけ。


 惑星外からやって来た、星間企業の研究所があちこちに建てられた。


 研究の名の元に、無法が合法的に行われた。


 しかも彼らは競合し、さらに、さらにと欲を深めた。


 シンライの、共感ネットワークの中で。




 やがて、豊かだった森が枯れ始めた。


 それでも人々は、シンライからの搾取をやめなかった。


 もっと富を。もっと、もっとと求め続けた。




 大地が荒れ、森が消えた。


 生き物の姿が次々と消え始めた。


 それでも人々は、やめなかった。自分がやめれば、他の者が得をする。それは許せない。


 この程度ならどうとでもなると言って、荒れた惑星からの搾取をさらに増やした。


 効率よくと言いながら。




 効率とは、何なのか。何をする効率か。より多く貪り、奪うのをたやすくする為の方法か。


 得とは、何なのか。何に対しての得なのか。それは元々、誰のものなのか。


 惑星の生命は決して、人間だけでできているのではない。


 人間も、動物も、植物も。石や鉱物、目に見えない微生物に至るまで。全てが補いあって、バランスを保ち、形作られている。


 それらを無視して秩序を壊し、回復が不可能なまでに干上がらせ、奪い取ったものを惑星に還元させず、持ち去って消費する。


 その行為のどこに、良いものがあるのか。


 全てを失わせるよう仕向ける、その行く先に、得をする者などどこにいるのか。




 けれど人々は意味を理解せず、盲目的に欲に従い、奪い続けた。ただひたすらに、貪り続けた。


 目の前に起きている事を、見ようとしなかった。


 気づいた時には、惑星の生態系は、手の施しようのないほど破壊されつくされていた。


 そうして。


 それが始まった。





 記憶にあるのは、光。


 滅びは一瞬だった。


 惑星上にあった、メイキの森。シンライ人の信仰の拠り所とも言える場所。それらは恐るべき速さで進んだ破壊の中、細々と命脈を保っていた。


 奪うものが見当たらなくなった人々は、そこにも手をつけようとしたのだ。


 小さなメイキの森と、その側にあった集落が襲われた。まずは、住民の安全確保という名目でシンライ人がとらえられ、


 続いてメイキの森に、土を掘り返し、木を切り倒す作業用の機械が侵入した。


 その時、


 光が走った。


 掘り返されたメイキの森から、他のメイキの森に向けて。


 そこから惑星上に残った、全ての命と森に向けて。


 悲鳴のように。


 ささやきのように。


 嘆きのように。


 ……子守歌のように。


 光は一瞬で、惑星全てを走り抜け、


 終わった時には、全てが石と化していた。


 木々も。花も。生き物も。


 石となり、骨となり、無言のしかばねをただ晒し、天をあおぐ物となり果てていたのだ。






「夢がシンライを殺した」



 わたしはつぶやいた。美しく織りなされていた惑星の夢。それが悪夢に転じた時。


 全ての命を奪うものとなった。



「そうだな。夢は、この惑星を覆うものだったから」



 彼が言った。空を仰ぐ。これだけは変わらない、夜明けの美しい色。



「シンライにはもはや、新たな夢を紡ぐものはいない。全てが消えた。全てが悪夢に囚われたまま、失われてしまったから」


「夢が失せれば、命も失せる」



 わたしたちのつぶやきは、二人でありながら、一人のもののようでもあった。なぜなら、わたしたちの持つ記憶は、


 わたしたちのものではなかったから。


 ゆっくりと、東の空が金色に染まる。


 淡い青と、ばら色がゆるやかに、稜線を染めてゆく。


 光が。


 シンライを訪れる。


 わたしたちのいる、ドームにも。



「夏は、良い季節だった」


「ああ、良い季節だった」



 記憶にあるのは、夏の季節の輝く森。


 命がきらめき、喜びと歌にあふれていたメイキの森。


 今はただ、屍の林にうずもれる。


 夏は。メイキの森の夏は。


 本当に、良い季節だったのだ……。


 光が動く。


 白い砂と結晶の木々、骨の林に囲まれるドームが、夜明けの色に染まり始めた。


 その中心にある巨木、


 メイキの心、メイキの主たるシンの木にも、淡く、色をつけてゆく。


 動く。光が動く。影がゆらめく。色彩が脈動するかのように、動いて。動いて。


 白を染めてゆく。


 まるで……命を吹き込もうとするかのように。





 滅びが起きた時。シンライ人はもとより、惑星外から来ていた人々や、密猟者もまた、巻き込まれた。


 生き延びた者もいた。


 彼らはしかし、精神に異常をきたしていた。


 救助に来た者は何が起きたかわからず、質問を繰り返したのだが、要領を得ない言葉をきれぎれに繰り返すばかりで、なんの手がかりにもならなかったのだ。





 原因がわかったのは、惑星外にいた、シンライ人の血を引く者たちの証言からだった。


 惑星から離れた、それでもシンライと結ばれていた彼らは、滅びが起きた時に全員、同じ幻を見た。全てを飲み込む悪夢が、惑星全体を覆い尽くした幻を。





 それまでは企業の発展が優先され、シンライ人も、彼らの血を引く者も、権利はないに等しかったが、惑星全体が滅びるという大惨事が起きている。混乱の中、小さくされていた彼らの声が、ようやく人々の耳に届いた。


 シンライの惑星共感ネットワークを、惑星外から来た人々が破壊した挙げ句、悪夢を流すものと変えてしまったという事実を。


 それまでは、シンライ人の宗教観や、文化などは、ほとんど注目されて来なかった。


 惑星に入ってきたのは、営利目的の企業や、珍しい動植物を売りさばこうとする密猟者が主であったので、そのようなものに着目したりはしなかったのだ。


 しかし、少し調べれば、シンライにある惑星共感ネットワークのことはすぐにわかる。


 それが、メイキの森によってつながっている事も。





 人々がメイキの森を掘り返そうと中に入った時。利潤を追求し、破壊し、奪うのみの思惑が、メイキの森を通して全惑星に流れた。


 人々が、自分自身の行為に対して値を支払う事になるのは、当然の成り行きだった。




 ちりちり、ちりちり。

 ぱり、ぱりん。

 ぱりん。

 しゃら、しゃらしゃら。




 気温の変動により、あちこちで枝が砕ける。


 夜明けの太陽の熱により、ドームの中も温められているからだ。


 


 ぱりん。

 ぱり、しゃ、しゃ、からん。

 ぱり、ぱり、ぱり……。




 砕けて。


 記憶を、思念を大気にまき散らす。


 広がるばら色と金色。


 白い枯れ野、骨の森を染め上げる夜明けの光。




 ぱりん。しゃらん。

 しゃ、しゃ、から、

 ぱりぱり、からからからから、

 しゃしゃざざさざざさーっ……。




 光に触れ、


 熱に触れ、


 次々と砕け散る白い森。


 砕け、歌う石化の森。


 メイキよ。


 メイキの森の大樹よ。


 石と化してなお、惑星の記憶を留める、われらの神樹。




 ざざざざざざざざざざ、




 まるで、かつての森を、吹き過ぎた風に揺れる葉ずれの音のように。


 砕け散る。骨が、枝が、音を立てて。


 そして、


 そして、



「そしてわれらは日々を歌う」



 わたしの唇が勝手に動き、夜明けの歌を太陽の光に捧げた。



「思いの輪よ。和せよ。奏でよ」



 となりに立つ彼が、続けて歌う。



「命よ。死よ。光よ。闇よ。空よ。大地よ。風よ。波よ」


「和せよ」


「奏でよ」


「輪を描け」


「代々に、代々につながりゆく」


「過去と未来が今ここにあり」


「われらはその輪に加わる」



 夜明けの光に歌いたい。ただ、歌いたい。


 歌い、感謝の祈りを捧げたい。この地に今、あることを。



「輪を描き」


「和をなせ」


「在れよ。在れ」


「輪を描き」



 互いに歌いながら、わたしたちは夜明けの光に手を差し伸べた。




 どどどどどどどどどどおおおおおおおおっ。




 温められた大地から風が生まれ、緑を失った大地に激しいうねりをもたらした。ドームに打ちつけられる、嵐に似た叫び。




 どおん!




 彼がわたしの腕を引いた。



「もう無理だ。戻れ」



 嫌だ。歌いたい。



「もう少し!」




 どおん!



「駄目だ、これ以上は」



 夜明けの光に。歌を。



「もう少しなんだ! 太陽の光があと少しで」




 どどどおん!




「地平線に……」



 祈りを。輪の中に在る祈りを。


 夜明けの、太陽に。




「……ああ!」




 どどどどどおおおおおおおっ!




 激しい衝撃。


 わたしは意識を失った。




*  *  *




 気がつくと、神樹の根元に横たわっていた。彼が側でわたしを見ていた。



「無茶をする」



 彼が言った。わたしは間を伏せた。



「夜明けの歌だったんだ」



 つぶやくように言う。



「太陽の光に対する感謝の祈り。その歌を……捧げたいと」


「それは、君の願いではないだろう。かつてここにいた、誰かの願いだ。君はそれに巻き込まれた」


「そうかもしれない。だが、歌いたかった」


「なぜだ」


「名前がないからだ」



 ぼんやりと、宙を見上げながらわたしは言った。



「わたしには、名前がない。ここで失くした。だから、……せめて歌いたかったんだ。わたしが持っている記憶は、わたしのものではない。そうだとしても、あの時。ただ」



 シンライが滅びてから。


 原因を調査しようとした者や、シンライの動植物があきらめきれない者たちが、何度か惑星に降りた。


 しかし彼らはことごとく、逃げ帰る羽目になった。


 惑星の共感ネットワークがまだ、生きていたからだ。





 シンライに降りた者は、記憶を失う。


 自分が誰であるかを失う。真っ白にされてしまう。


 そうして……シンライにまだ残されている『惑星の記憶』を、移植されてしまうのだ。





 だから、知る。なぜシンライが滅びたか。


 だから、思い出せる。シンライで、どのように人々が暮らしていたか。


 自分のものではないのに。鮮やかに、昨日の事のように、


 他者の記憶を、思い出せてしまう。





 ある学者は、シンライの文化を研究したいと惑星に降りた。そうして三日後、廃人のようになって救助された。


 惑星に残る記憶から、滅びの際の人々や動植物の、断末魔の苦しみや悲しみを、まともに受け取ってしまったのだ。


 何度もカウンセリングを受けたが回復せず、最後には辺境の惑星の修道院に入り、生涯を終えた。





 ある宙賊は、好奇心から惑星に降りた。そうして多くの歌の記憶を植えつけられた。


 シンライの歌は、祈りと同じである。彼は二度と宙賊には戻れず、とある宗教の宣教師になり、放浪しながら歌い続ける者となったと言う。





 ある人々は、欲から惑星に降りた。戻ってきた時には、何人かは死亡しており、何人かは全く別人に変えられていた。


 また別の者は、別の理由で惑星に降りた。彼らのうちの何人かは恐怖を見たが、すぐに忘れてしまった。何人かは、自分は人間ではなく、動物や植物であると主張するようになった。


 戻る事はできたが、目覚めないまま眠り続けた者もいた。





 残った共感ネットワーク。しかしそれは、いびつな形で働き続けていた。


 そうして惑星に降りた命あるもの、『夢』を見る事のできる生物を、ことごとく巻き込み続けたのだ。





 シンライは、禁忌の惑星。その悪夢が果てるまで、決して近づいてはならない。そのような認識が出来上がったのは、自然な流れだった。


 運が良ければ、かつてのシンライの文化的な知識が手に入る。自分自身を保ったままで。しかし運が悪ければ、狂った挙げ句に人であることすら忘れてしまう。場合によっては命を落とす。


 今のシンライは、静寂の中に危険をはらむ、そういう所なのだ。



「歌うことだけが……、わたしが、今ここにいると。生きているのだと。その、証明になる」


「誰に対する証明だ?」


「自分自身にだよ」



 わたしは答えた。



「つまりは……、ただの意地だ」

 



 ぱり、ぱり、ぱり。

 ちりちり、ちり……

 ぱりん。

 ざざざ、からん……。




 かすかな音があちこちから響いた。神樹がきらめいて、枝を揺らしている。


 白く石と貸した幹が、つやつやと光っている。


 メイキの神樹。記憶を司る心の基。



「なぜ、わたしはここに降りたのだろう」



 見上げて、わたしはつぶやいた。



「好奇心が強かったんだろう」



 彼が返した。



「そうだろうか」


「夜明けの光に歌を捧げる。ここに来てから君は、それを欠かした事がない」


「だから?」


「好奇心が強くて。実行力がある。たぶん、律儀で、優しいのだと思う」



 彼の言葉に首を振った。



「意地を張っているだけだ」


「そうかな」


「第一、律儀に見えたとしても……後から付け加えられたものかもしれない。わたしの記憶は曖昧だ。今、何かを考えているこの自分ですら、本当に自分なのか自信が持てない。百年前か、二百年前に死んだ人間の思考を、ただなぞっているだけなのかもしれない」


「そうなのかな」


「思うんだ。実は犯罪者で、ここに逃げてきたのではないかって」



 彼は軽く眉をひそめると、首をかしげた。



「どうして?」


「だって、おかしいじゃないか。シンライが禁忌の惑星だと、わたしはその記憶を持っている。危険な場所であると。


 それを知りながら、なぜ降りたんだ。降りざるを得ない、何かの理由があったからじゃないのか。


 何が何でも逃げ延びたい、囚われるのが嫌で、逃げ込む先にここを選んだのじゃないかって」


「ひどいな。それだと俺も、同罪の可能性があるぞ」



 苦笑して、彼が言った。



「君と同じく、こんな惑星にいるんだからな。どうしよう。指名手配された二人組だったら」


「本気にしていないだろう、君」


「しているさ。案外、俺の方が犯罪者で、君は正義に燃えた刑事だったのかもしれないぞ。凶悪犯を何としても逮捕しようと、ここまで乗り込んだ」



 彼は空を振り仰いだ。穏やかな青紫色が、金色の光を帯びて広がっている。



「それはないだろう。君は……、犯罪を犯すようには見えない」



 穏やかに佇む彼の姿は、この惑星にしっくりと馴染んでいるように見えた。かつての、緑の惑星の記憶にも。今ある、白い枯れた世界にも。



「穏やかで、思慮深い。そんな人間に見える」


「君だってそうだ。律儀で優しい人間に見えるよ」



 振り向いた彼は、微笑んだ。



「あまり悩むな。ここはそういう場所だ。そう思って割り切っておけ」


「だが」


「俺たちは、何にでもなれるんだ。ここにいる間は。そうじゃないか? だったら、俺は穏やかな人間になりたい。しっかりと地面に足をつけて立つ、思慮深い、友人から信頼される、そういう人間になりたいんだ」


「君は……もう、そう見える」


「そうか。ありがとう。君もな。ありたい姿の自分でいると良い。そのように願い、そのようにあると良い。そうなれる」


「そう、なれる……?」


「今、この時、この場でなら」



 わたしは彼を見つめた。いつも通りに見えた。


 けれどどこかに、悲しみを感じた。


 なぜだろう。


 なぜ、わたしは。彼は。


 こんなにも、悲しいのだろう。


 その悲しみの由来すら、わからないのに。



「なれたら良いな」



 わからないまま、目を閉じた。



「そういう自分に……なれたら、良い、な」



 光が。


 ましろな静寂に満ちた世界に、色をつける。


 ……命を吹き込もうとするかのように……。




*  *  *




 ざざざ、と波が轟くような音に目を覚ます。


 シンの巨木の根元でわたしは、横たわっていた。


 緑が。


 美しい緑が見える。

 



 ざざざ、ざざ




 風が梢を揺らし、シンの木が歌う。




 ひょーい。

 ひょーい、ひょーおー、

 ひょーろろろろろろ……。




 あれは、ココロドリの歌声か?



 ……和せよ。

 われらは日々を歌う……。



 旋律。重なる声。誰かが歌っている。



 ……思いの輪よ。和せよ。奏でよ……



 むっとする草いきれ。群れ飛ぶ宝火虫。濃密な花の香り。揺れるランタンの灯。唱和する鳥たち。



 ……命よ。死よ。光よ。

 闇よ。空よ。大地よ。

 風よ。波よ……



 幾重にも輪を描いて重なる声。広がる歌。響く音。



 ……和せよ。奏でよ。

 輪を描け。



 体の奥底で輝く力。血管を流れてゆく歌とリズム。



 ……代々に、代々につながりゆく。



「過去と未来が今ここにあり、われらはその輪に加わる」



 ささやくようにつぶやくと、誰かが横にいる事に気づいた。



「輪を描き、和をなせ。在れよ。在れ」



 そう言って、彼が膝をついた。わたしの横に。


 黒髪。灰色の目。見慣れた人好きのする微笑み。


 古風な衣装をまとい、赤い石の飾りを身につけ、緑の葉で編んだ冠をかぶる彼が。


 ココロドリが、高く鳴いた。



「美しいだろう?」



 彼が笑った。屈託のない笑み。



「ああ」



 ジャンプスーツ姿ではない彼を見て、それでもどこかで納得している自分がいた。こちらの方が、彼の本来の姿だと。



「こんなに綺麗だったんだな」


「そうだ。かつては」



 彼の言葉に、静かに歌が重なる。


 穏やかで、それでいて力強く、美しい。


 命の輝きに満ちた、調和する世界。



「どうして、わたしはこの光景を見ているんだ?」


「君は今、夢を見ている」


「そうなのか」



 何となく納得して、彼を見た。



「過去と未来がつながったんだ」


「つながる……」


「輪を描いて、和をなした」

 



 ざざざ、ざざざざざ

 ひょーい、ひょーおー……




「君はなぜ、……そんな姿なんだ」



 体に力が入らない。起き上がろうとして失敗し、横たわったままそう言った。



「刻限が来た」


「刻限?」


「夜明けが過ぎた。今は夏だ。シンライの美しい季節」



 ふっ、と彼の姿が揺らいだ。緑の世界に白い石化の森が一瞬、重なった。しかしそれは、すぐに消える。濃密な花の香りがわたしを包み、ランタンの灯が揺れた。




 ざ、ざざざざざざ




 シンの木の梢が歌う。風に揺られて。


 胸元の飾りを一つ外し、彼はわたしの手に握らせた。小さく光る、赤い石。石の表面には、不思議な紋様が彫り込まれている。



「君は行かなければ」


「どこへ」


「君を待つ人々の所へ」


「君は?」



 彼は小さく笑った。



「俺も、俺を待つ者の所へ行く」




 ざ、ざ、ざざざああああああ……。




「そうか」



 良くわからなかった。握られた手を握り返し、わたしは尋ねた。



「また会えるのか?」


「いつかは」


「いつかって……いつ」


「君が、輪に戻る時に」



 戻る?



「君はこれから、輪から外れるんだ」


「外れる?」


「ああ」


「なぜ……外れるんだ」


「刻限だからだ。この歌は美しいだろう?」


「ああ」




 ざざざざざ、ざざざざざ




 緑が。風が。ココロドリの歌が。メイキジカの角の輝きが。


 唱和される人々の感謝の祈りの歌が。


 全てが手を取り合い、そこにある。


 握られていた、彼の手が外れた。その手を追おうとして気恥ずかしくなり、わたしは自分の手を降ろした。


 手のひらに、石の感触。彼がわたしに寄越したもの。



「これは」


「記念だ。ただの」


「綺麗だな」


「ありがとう」



 眺めてから彼を見上げる。彼は周囲に目をやった。



「見てくれ。この世界を。見て、覚えていてくれ」


「この世界を?」


「この美しさを。喜びを」


「ああ……」



 わたしも周囲を見渡した。緑の森は命と力に満ちて輝いていた。



「どうしてこんなに美しいのだろう」


「夜明けだから」


「本当に、……綺麗だ」



 涙が出そうになった。



「刻限なのか?」


「ああ」


「ここから離れるのか」


「そうなる」


「わたしたちは、これを失うのか」


「そうでもないさ。記憶には残る。おそらくは」


「けれどこれは……、これは、過去の記憶だ。現実にはもう失われている。ないんだ」


「そうだな」


「なぜ」



 頬をつたうものを感じながら、わたしは言った。



「なぜ、これが……失われねばならなかったんだろう」


「さあ。けれど宇宙の中では、大した問題ではないさ」


「そんな事はない。わたしは悲しい。これが……失われてしまったのが」


「悲しむのは人だけだ。……滅ぼしたのも人だが。それが人というものなのだろう」


「この記憶を持つわたしはそうして、二度も失うことになる。この世界を」


「それもまた、……人であるからこそなのだろう」



 そう言うと、彼はわたしを抱え起こした。



「目を覚ませ。これ以上はもう、守れない」


「守る?」


「目覚めるんだ。夏の朝はもう終わる」


「君は……」


「夜明けの歌を感謝する」



 ざわめく緑。

 草いきれ。

 濃密な花の香り。

 ココロドリの歌。



「祈りの歌を感謝する。俺には、与えられないと思っていたから」



 メイキジカの角の輝き。

 ランタンの灯のゆらめき。

 遠く近く響く歌。

 その全てが。



「だから目覚めてくれ。悲しくても」


「待て。……待ってくれ」



 遠ざかる。



「進んでくれ。その先に」


「わたしはまだ、」



 遠ざかる。

 わたしから。

 伸ばした手からすり抜けて、


「まだ、……夜明けの歌を最後まで、」


 遠ざかる。


 ……遠ざかる。全てが。



「歌っていない……待ってくれ!」



 そうして、闇が落ちた。




*  *  *




「気がつかれましたか、ドクター」



 覚醒は、突然だった。


 開いた目に飛び込んできた白い天井と、肌にあたる布の感触。機械が稼働する静かな響き。


 わたしを見下ろしている、黒髪に灰色の目の女性。



「きみ、は」


「エリヤ・ジン・トワ。巡回パトロール船トロワのカウンセラーです。ご気分は?」


「気分……」



 わたしは目を閉じた。頭がぐらぐらした。



「なにが、……いったい」


「ご自分の名前は、覚えておいでですか」


「なまえ」



 おうむ返しに言ってから、わたしは目を閉じた。わたしの、名前。



「クライヴ。クライヴ・ソーン」



 そうだ。それがわたしの名前だった。



「辺境宙域……トリフォ・ステーションの……医師」


「はい」


「わたしは……、わたし、は。確か。惑星ミディの、医師会議に出席しようと……トリフォの風土病、の。新型ワクチンが……研究レポートを」



 とりとめのないわたしの言葉を、エリヤは辛抱強く聞いている。



「ミディの風土病と……似ていると。解決の為に……あ、あ、炎が。攻撃を受けて……、テロリスト、テロリストが!」


「落ち着いて下さい、ドクター。もう大丈夫です」



 起き上がろうとしたわたしの肩に手をやり、エリヤは静かに言った。



「テロは鎮圧されました。あなたは助かったのです」



 ぜいぜいと、荒い息をつく。わたしは目を閉じた。



「わた……、わたし、は。なぜ」



 乗っていたのは、航宙艦ハクア。攻撃してきたのは、宙海まがいのテロリスト。



「ハクアには、休暇中の銀河連邦軍の軍人が数名乗っていました。彼らが迅速に動いたのでテロは失敗に終わり、テロリストたちは速やかに鎮圧されました」



 エリヤが言った。



「けれど一人、悪あがきをした者がいた……」


「ああ、」



 そうだ。


 テロリストの一人が。乗客を人質に取って、小型の宇宙船に乗って脱出した……。


 人質に取られたのは。



「わたしは……、彼の人質だった」



 黒髪の、まだ若いテロリスト。


 灰色の目の。



「彼は、あなたと共に宇宙船に乗り込み……、けれど、焦っていたのでしょう。操作を誤り、惑星シンライに墜落しました」



 そうだ。


 ふたりして、あの惑星に落ちた。



「連絡を受け、近くにいたわたしたちが駆けつけましたが……宇宙船のたどった航路を割り出すのに手間取り、迎えが遅れました。


 正直、生存は絶望的だと思われていました。


 運の強い方だ。あの惑星に落ちて、三日も生き延びるなんて」


「三日……」



 たった三日。


 あの日々は、三日だけだったのか……?



『俺たちは、何にでもなれるんだ。ここにいる間は。そうじゃないか?』



 あれは、彼の本心か。


 

『俺は穏やかな人間になりたい。しっかりと地面に足をつけて立つ、思慮深い、友人から信頼される、そういう人間になりたいんだ』



 君は、そうなりたかったのか。そんな人生を送りたかったのか。



「ドクター・ソーン?」


「彼は……、どうなった?」


「テロリストですか? 墜落した時には既に、死亡していたようです」


「墜落した時に?」



 そんな馬鹿な。



「わたしは三日間、彼といた。話もした」


「あり得ません。どう見ても即死でした。何か話す時間の余裕があったとは」


「だが、……それでは、わたしと一緒にいたのは誰なんだ」



 頭を抱える。小さく息をつく。



「映像か何かないか。彼の姿の」



 エリヤは手元の機械を操作した。宙に一人の青年の姿が浮かび上がる。



「この人物ですが……」



 尖った視線の、険しい表情の青年。


 似ている。


 別人のようにも思えるが。



「名前は、わかるかい」


「ラキ・アドラット。あちこちでテロを繰り返してきた人物です。第四級の指名手配犯でした」


「ラキ……」



 彼に相応しい名前のようにも、相応しくない名前のようにも思えた。



「なぜ、わたしは助かったんだ。シンライは惑星全体が砂漠化して、……気温の変化を緩和する緑が失われたため、昼と夜との温度変化が嵐を起こす。人間一人など、ひとたまりもない」


「あなたは、シンの木の側にいました」


「それが?」


「あの惑星の共感ネットワークは、今も生きている。滅びが起きたのは二百年前。ネットワークは夢見るものを失って、休眠状態になりました。


 けれど死んだわけではなく、命ある、夢見ることのできるものが触れると活性化するのです。


 シンの木はネットワークの要。一種の電子頭脳と言っても良い。


 あれは命あるものを感知すると、それを保護するように動く。夢を、夢見ることを、続けさせるために。


 あなたが側にあった事で、シンの木は一時的に力を取り戻したのです。自分の側に保護膜を張り、大気を温存し、できうる限りあなたの生存が続くよう、働きました」



 それで、あんなドームがあったのか。



「わたしは幸運だったのだな……」


「本当に」



 エリヤはうなずいた。



「けれど……、では。彼は誰だったんだ。もうひとり、いたんだ。確かにいた。ずっと一緒だった」



 エリヤが、気の毒そうな表情になった。



「われわれが見つけた時、あなたは一人でした、ドクター」


「寸前まで、一緒にいた」



 わたしは自分の手を見つめた。握られた手の感触が、まだ残っている。



「石をくれた。わたしは何か、握ってはいなかったか」


「何か、持っていたようでしたが。上陸班がドクターを収容しようとした時に、砕けてしまったそうです」


「砕けた……」


「乾いて脆くなった、蛋白石オパールか何かのようだった、と」


「赤くなかったか」


「色までは」



 エリヤは首を振った。黒髪が揺れて、隠れていた耳が露になった。その耳につけられた飾りを見て、わたしは、目を見張った。


 変った意匠の彫り込まれた、赤い石。


 彼が寄越した石と同じ模様。



「その……耳飾り」


「ああ、これは」



 エリヤは片手を耳に当てた。



「わたしはシンライ人の血を引くのです。曾祖父がシンライ出身者でした。


 カウンセラーをしているのも、共感能力が役に立つからです。


 これは、我が家に伝わる意匠」


「彼が持っていた。同じ物だ」



 エリヤはわたしを見つめ、それから目を伏せた。



「では、あなたが出会ったのは、惑星シンライで命を終えた、シンライ人の司祭でしょう。これは司祭が身につけたしるしです」


「司祭……」


「夜明けの歌を司り、宵闇の歌を司った者たちです」


「姿は、ラキ……のものだった」


「死ぬ寸前に、惑星に残されていた司祭の記憶と混じってしまったのでしょう。何か、強い思いが重なったのではないでしょうか。


 その思いが二人を混じり合わせた。


 そうしてラキであると同時に、司祭でもある。そのような存在になった。


 ……シンライでなら、あり得ることです」



 エリヤは言った。



「あそこは、多くのものの記憶を混じり合わせる場所ですから」



 そうだ。そうだった。わたしもまた、誰かの記憶を植えつけられ、自分を失ってしまっていたではないか。


 あの惑星は、思考を、記憶を、混じり合わせてしまうのだ。



「本当に、ドクターは幸運でした。自分を保ち、人として戻られた。意識もしっかりしておられます」


「そうだな。植物になっていた可能性もあったものな」



 小さく息をついて、わたしは言った。



「けれど……だとしたら。彼はなぜ、わたしを守ろうとしたのだろう」



 最後の会話を思い出しながら、わたしはつぶやいた。



「守ろうとしたのですか?」


「そう言っていた」


「ドクターは、シンライで何を得、何をなしたのですか」



 わたしは自分の手のひらを見つめた。何も握っていない、何も握れなかった手のひらを。



「夜明けの歌を歌った……彼と共に。祈りの歌。感謝の歌だ。わたしがしたのは、それだけだ」




*  *  *




 何日にも及ぶ検査と、カウンセリングを終えて、わたしは日常に戻った。シンライから生還し、記憶の混濁も見られない、極めて幸運な人物として、わたしは記録された。


 その間も、わたしは何かを失くしたという思いを捨てられなかった。何かがごっそりとわたしから失われ、ぽかりと穴があいている。


 それでいて、その空虚な部分には、何かが詰め込まれていた。


 日々、わたしを何かが焼いた。


 じりじりと。深く、静かに。


 小さく。けれど強く。


 爪でひっかかれたような痛み。それが心の奥底からずっと響いてくる。


 痛みはわたしを追い立てた。何か。何かが。


 何かが足りない。


 目的が見つからない。


 伸ばした手はただ、空をつかんでいる。


 そんな焦燥がずっと、わたしを責めさいなんだ。


 そうした痛みを忘れるために、わたしはことさらに仕事を引き受け、忙しく過ごした。夜には疲れ果て、何も考えることなく眠りについた。そうでもしなければ、わめき散らして泣きだしてしまいそうだった。


 それぐらい、……追い詰められていた。


 そうして忙しく働き、倒れるように眠ったある夜。


 夢を見た。




*  *  *



 緑したたる美しい世界。ココロドリの歌声。

 濃密な花の香り。

 メイキジカの角の輝き。

 響く。響く。歌の輪。

 梢を風に歌わせる、シンの巨木。




 ざざざ、ざざざざざざざ

 ひょーい、

 ひょーおー……。




 なぜだろう。心がひどく静かだった。

 心地よい風。

 かつて感じた事のないほどの安らぎを、わたしはそこで感じていた。




 ひょーおー、

 ひょーろろろろ……

 ざざざざ、ざざざ




 そこに、

 彼がいた。



『やあ』



 微笑む彼は、輝く緑の世界、その命の中心に立っていた。

 ラキ・アドラットの姿で。それでいて、古風な司祭の衣装をまとって。



「ラキ・アドラット……?」


『それが俺だ』



 微笑んで、彼が答えた。



「エリヤは、過去のシンライ人の司祭でもあると」


『それもわたしだ』


「名を、尋ねても?」



 彼は名乗った。けれど、夢の中のわたしはその名を聞き取る事ができなかった。聞いた端から記憶が薄れ、名がこぼれ落ちてゆく。



「ここは……夢なんだな」


『そうだ』


「なぜ、わたしは夢を」


『君の心が助けを求めていた』


「心が」


『ああ。もっと早くに来たかったが。今までかかってしまった。すまない』




 ざざざざざ、ざざざ……




「詫びないでくれ。わたしは、君を忘れようとした。苦しくて」


『そうか』


「考えたくなかった。シンライでのことも。何もかも」


『そうか』


「だから、仕事をして、……何も考えないように……」


『その間ずっと、君は助けてくれと叫んでいた』



 

 ひょーろろろろ……




「助けて……なんて」


『俺には聞こえた』


「言えない。言えるはずが、」


『どうして』


「だって……、君は」


『俺は?』


「君は、……死んで。わたしは助かったのに。助けて、なんて。言えるはずがっ!」



 膝をついて、わたしは叫んだ。涙があふれた。



「生き延びた、わたしがっ。苦しいなんて……言えるはずがない。言ったら駄目だろう! 君は、……君は助からなかった。命を落としてしまったんだ。なのにっ!」


『なぜ、駄目なんだ』



 彼がわたしの前に、膝をつく。



『死者には死者の。生き延びたものには生き延びたものの。それぞれの悲しみや苦しみがあるものだ。どうして、声を上げて助けを求めたら駄目なんだ?』


「あんまりっ……、自分本意だろうっ、こんなっ、」



 嗚咽が止まらない。涙がとめどなくあふれる。


 苦しくて。


 悲しくて。



「すまない……」



 止まらない。



「すまない。すまな……っ!」


『馬鹿だな』



 彼の手が、わたしに触れた。



『傷を負えば痛む。普通の事だ。助けを求めることの、何がいけないんだ』


「み、醜いっ、醜い存在だ。わたしはっ、自分のことばかり、」



 ぼろぼろと涙をこぼしながら、わたしは言った。



『生きることは、みっともない事の連続さ』



 うつむいたわたしの肩を、彼が軽く叩いた。とんとん、と。一定のリズムで。



『なあ。それで良いんだよ。泣けよ。叫んだら良い。苦しいと。苦しかったと。助けてくれと。それをしないから、傷が深くなる。君は余計にひねくれるんだ』


「ひ、……ひねくれ、る?」


『自分じゃわからないだろう。妙な具合にひねくれてるぞ、君』



 彼が笑った。



『別にそれで、俺が困るわけでもないんだ。カウンセラーも周囲の人も、君を助けようとしてくれているんだろう。違うのか? ちゃんと声に出して、助けを求めろ』


「き、……、君は。わたしの親父かっ」



 思わずそう言うと、彼は笑った。



『はっは! そんな気分になる事もあるな』



 激情が去った後は、気恥ずかしかった。ただもう、恥ずかしかった。


 まだ流れ続けている涙を、ぐい、とぬぐうと、わたしは彼を見つめた。



「あ、……会えて、うれしい。礼を、言いたかったんだ」


『ああ』


「今さらな、気もするけど」


『そんなことはない』


「本当に、……会えてうれしいんだ」


『知ってる』



 穏やかな表情。朴訥とした顔だち。人込みの中に紛れれば、すぐに見失ってしまいそうな。それでいて家族や友人たちからは、彼でなければと言わせる善良な部分を持つ、ごく普通の、どこにでもいるたぐいの……、


 特別な、存在。


 灰色の目に優しい光が浮かび、頬に笑みが掃かれた。



「君とは……また。こうして、何度も会えるのか」


『いいや。これは俺の、最後の力だ』



 ラキであり、司祭でもある彼は微笑んだ。



『俺は、終わってしまった夢でもある。人は、そのような夢を美しく感じるが。何度も関われば、それにおぼれる。それは良い事ではない』


「そうか」


『ああ』


「もう会えないのか」


『いつか、また会えるさ』


「いつかって、いつなんだ」


『いつかだ』


「そんな不確かな……」


『不確かではない。確かなことだ』



 わたしは沈黙し、それから目を伏せた。



「すまない。君を責めたかったわけじゃないんだ」


『ああ』


「ただ、……わからない。君の言っている事が」


『そんなものだよ』


「そうなのか?」


『何もかもがわかる人間など、いないさ』


「君は、本当に司祭なんだな……今の回りくどい感じの言い草は、それっぽい」


『本当にも何も、司祭だからな』



 わたしは小さく笑った。涙がまたあふれ、頬をつたうのがわかった。



「会えて、良かった。なあ。これは、本当に、本当だ。


 わたしは、礼が言いたかった。君に。あの三日間。わたしが狂わずに済んだのは、君が、いてくれたからだ。一人ではないと、思えた。それが……わたしを支えた。


 自分の名前すら、わからなくなっていたんだ。それでも耐えられた。一人では、なかったから」



 そこでふと、手のひらに目が行った。



「それと……すまない。君から受け取った石、砕けてしまった」



 詫びると、彼は微笑んだ。



『かまわない。石は、ただ石であるだけ。俺が渡したかったのは、石ではない』


「石ではない……?」


『俺は渡した。君は受け取った。だから、良いんだよ』



 わからない。


 けれど、わかる。



「だが……、」


『どうしても気になると言うのなら、似た石を探して、作りなおせば良い』


「レプリカを作れと? それで良いのか?」


『元々が、ただのしるしだ。君はもう、受け取るべきものを受け取っている。あの石は単に、象徴に過ぎない。その事実の』



 わたしは、あの時。何を受け取ったのだろう。


 歌か。記憶か。……祈りか。



「そうか」


『ああ』


「俺はもう……受け取っているのだな」


『確かに渡したよ』



 彼の穏やかな、灰色の瞳を見つめる。



「エリヤのような、赤い石を見つける。あの意匠を頼んで刻んでもらうことにしよう」


『そうか』


「その石を……、身につけるよ」


『そうか』



 それで良いのだと思った。


 ただ、それで良いのだと。



「なぜ君は、わたしの側にいたんだ。あの三日間」



 尋ねると、彼はわたしを見つめた。



『俺の……わたしの最後の願いは、夜明けの歌を聞く事だった』



 少しの沈黙の後、彼は言った。



『一人で死にゆくのは嫌だった。誰かに、祈りの歌を歌って欲しかった。その歌で送って欲しかったのだ』



 彼から夢がやってくる。閃光のように輝き、わたしの中に飛び込んだ。


 彼の過去が。


 彼は司祭だった。シンの木の側で夜明けの歌を司り、宵闇の歌を司る者だった。


 あの破滅が起きた時。彼は、シンの木の側にいた。そうして全てが滅びたあと。二日の間、生き延びたのだ。


 けれどそれは、悲しみと苦痛の時間でもあった。死ぬまでに時間があったため、たった一人で砂漠化してゆく惑星の生命を見続ける事となった。押し寄せる破滅の熱と思念を受け、半ば狂ったようになりながら。彼は最後まで、一人でそれを見続けたのだ。



『声の続く限り、わたしは歌った。送るために。消えてゆく世界と、死にゆく命のために』



 彼はささやくように言った。



『そうして全てが静寂に包まれた時。わたしの為に歌ってくれる者はいなかった。わたしは一人で、……最後まで、一人だった』


『祈りが欲しかった』


『歌が欲しかった』


『一人ではないと、思わせて欲しかった』


『わたしは。それを。ただ願ったのだ』



 その声が。その言葉が。わたしの胸に突き刺さる。その悲しみが。その孤独が。


 静かに、淡々と語られているのに。叫びのように突き刺さる。



『ありがとう』



 彼の手が伸びて、わたしの頬に触れた。ぬぐわれる感触に、自分がまた泣いていることに気づく。



『君は、わたしの願いをかなえてくれた』



 滅びが起きたのは、二百年近く前だ。


 二百年。二百年もの間。彼は待ち続けていたのか。



「何もしていない」


『歌ってくれた』


「それだけだ」


『それだけが、わたしには何よりも得難いものだった』



 夜明けの歌。祈りの歌。


 君の為じゃなかった。


 君の為に歌っていたのじゃなかった。


 わたしは、ただ。



「意地で、歌っていただけなのに」


『そうか』


「生きていると。ただ、自分でそれを確認する為だけの歌だったんだ」


『そうか』


「全然、君が……感謝するようなことじゃないんだよ」


『それでもわたしは、君が歌ってくれたことで、救われた』



 わたしは、ゆるく首を振った。



「そんなものじゃない。そんなものじゃなかったんだ……」




 ざざざ、ざざざざ

 ひょーい、

 ひょーおー、ひょーろろろろ……




「ラキは、……ラキ・アドラットは。何を願ったんだ。死ぬ寸前に」



 彼の顔を見ていられなくなって、うつむいた。尋ねると、彼は答えた。



『この姿を持っていた若者もまた、同じ願いを持っていた』


『一人で死にゆくのは嫌だ。せめて、誰かに。側にいて欲しい』


『祈って欲しい』


『そうして自分を送って欲しい、と』



 テロリストなのに。


 いや。それでも。


 穏やかに、地に足をつけて、人から信頼されながら生きる。そんな人生を送りたいと、彼がそう願っていたのも真実なのだろう。



「わたしはこれから、どうすれば良い」


『何がしたい?』



 彼の姿が薄れ始めた。



「わからない。わたしは……、自分を取り戻した」


『ああ』


「けれど、わからない。わたしの中に、記憶があるんだ。この世界の。知っているはずのない、理想郷の記憶が」


『誰もが、そうだ』



 ゆらゆらと揺れて。存在が薄れてゆく。



『シンライに降りたものは。誰もがそうなる』


「では、どうすれば。日常に戻ったはずなのに、わたしを何かが焼く。内側から。静かに、深く、小さいのに、それでいて強力でずっと消えない炎で」


『歌え』



 緑が消える。

 森も。小鳥たちも。

 彼も。



『歌え……歌ってくれ。兄弟』



 夢が、終わる。





 泣きながら、目を覚ました。


 何かを失くした。


 けれど同時に与えられた。


 ただ、そう思った。





*  *  *





 エリヤと同じ意匠を赤い石に刻み、わたしはそれを身につけた。


 今日は、シンライ人の血を引く人々の前で歌う。



「ドクター・ソーン。十弦琴の準備ができました」


「はい」



 立ち上がると、古風な衣装がさらさらと音を立てた。



「そうしていると、はるか昔のシンライ人のようですね」



 音響担当の青年が言った。わたしはそちらに目をやった。



「この衣装ですか。記憶を元に再現しましたから、かなり現物に近いと思いますよ」


「ああ……、ドクターは『記憶人きおくびと』だから……」



 惑星シンライに降りて、過去の記憶を持つようになった者を、『記憶人』と呼びならわすのだと、後に聞いた。



「わたしがもらった記憶は、歌だけです」


「それでも、鎮魂の歌を復活させたのはドクターでしょう。長く失われていた祭儀の歌を」


「運が良かった。それだけです」



 微笑むと、青年は照れたような顔になった。



「今日は、俺も楽しみにしてるんです。あの、俺のひいひいばあさん、シンライ人だったんで」


「そうなんですか」


「だから、うれしいんです。一つでも、……故郷の何かが戻ってくるのは」



 故郷。



「そうですね」



 わたしは、耳につけた赤い石に触れた。





 わたしは今も、医師として働いている。


 けれど時折、求められればこうした舞台に立って、シンライの歌を歌う。


 夜明けの歌を。


 宵闇の歌を。


 あの惑星でわたしと共にいた、彼がわたしに送って寄越した歌の全てを。



「ドクター、ステージへ」



 歩き出す。故郷を遠く離れた人々の前へ。


 故郷をよみがえらせるために。


 歌により、人々をつなぎ、はるかなシンライをこの場に呼び起こすために。



『俺は渡した。君は受け取った』



 ああ。そうだね。



『歌え』


『歌ってくれ。兄弟』




 わたしは足を止めた。ライトを浴びながら礼をする。


 拍手が、シンの木の梢を揺らす、風の音のようだった。


 十弦琴が鳴り、鈴の音がしゃん、と重なる。


 息を吸い、身体を開き、声を放つ。


 歌が始まる。


 そこはもう、舞台ではなかった。


 緑したたる、輝く森。


 夏の夜明けを祝い、何度となくよみがえる。


 喜びの歌が響き、祝福が輪を描く、ココロドリの歌声と、メイキジカの角が光る、





 故郷シンライ


BGM:フェイト/ステイナイト

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