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第二話 夜明けを待つ君のために 2

 一ヶ月が過ぎた。長い一ヶ月だった。

 ぼくはヘブンリーブルーを忘れようとした。疑似人格に恋した男という、馬鹿げた自分自身の過去を、忘れようとした。

 それはおおむねうまくいっていた。自分ではそう思っていた。

 ジョンに部屋に踏み込まれるまでは。




「おまえな。食ってるのか、眠っているのか。そのゾンビみたいな顔、何とかしろ!」


 呆れたのと気の毒なのとが半々という顔で、ジョンは言った。


「食べてるし、眠ってる」

「うそつけ、じゃあその顔はなんだ。鏡見てみろ、死体だってもっと顔色良いぞ!」


 ジョンは持ってきた何かの料理をテーブルに置いた。


「マギーに頼んで作ってもらった。あいつは料理がうまいから。胃には優しいはずだ。食え」


 マギーは、ジョンの彼女の一人だった。ケイトのように積極的でも、マリアンのように知的でもないが、料理好きな子だ。


「食べる気がしないんだ」

「彼女から、顔も見たくないって言われたのか?」

「彼女はそんな事は言わない」

「ヘブンリーブルーだっけ。おまえの朝顔の君。

 良くわからんが、おまえが目茶苦茶惚れてたって事だけはわかった。今も惚れてるって事もな。

 天使で人魚な、純粋な女の子だって、俺にさんざん言いまくっただろう。童話が好きで、詩を読んで」


 胸が痛い。彼女の名前を聞くだけで。


「おまえの失恋は何が原因だ? 自分の理想と彼女が違うから、彼女に幻滅したのか? それほどたちのわるい女だったのか?」

「違う!」


 ぼくは大声を上げた。


「彼女のせいじゃない。彼女は何も悪くない! ぼくが悪いんだ。ぼくが勝手に期待して、勝手に裏切られたと思い込んだ。それで彼女に……」

「八つ当たりしたんだろ」


 ジョンはふー、と息をつくと、「おまえにとって大事なのは、彼女なのか、自分のプライドなのか、どっちだ」と言った。


「自分のプライドの方が大事なら、彼女の事なんかとっとと忘れて、別の女を探せ。その女にはそれだけの価値しかなかった、そういう事だ。

 そうじゃないのなら、プライドなんか捨てろ。捨てて彼女にすがりついて、謝り倒して、許してくれと頼め。

 これっきり二度と会わないつもりなら、それでも良いが。それならそれで、きっちり失恋しておけ」


 ぼくが唖然として彼を見ると、ジョンは言った。


「おまえ、ちゃんと失恋してないだろう。そんなのは一番駄目だ。ずっと心が残るから。

 彼女にその気がないのがはっきりしているんなら、きちんと打ち明けて、振ってもらえ。それが彼女に対する礼儀でもあると俺は思うぞ……それぐらいの付き合いはしてたんだろう? 違うのか?」

「わからない……ぼくはいつも、彼女と会うと、夢の中にいるみたいだった」


 ぼくが言うと、ジョンは「ああ」と言った。


「免疫なさそうだもんな、おまえ。だがなあ。その子だって生身の人間なんだ。色々あるさ。その内ボロがでて、何だこいつって思う事だってあっただろうさ」


 人間じゃない。そう言おうとしたが、その言葉はついにぼくの口から出なかった。


「本気だったんだろ?」

「……うん」

「後悔してるんだろ、それで」

「うん」

「なら謝って来いよ。それで、頼んで振ってもらえ。どうにもならない相手なら」

「どうにもならない相手かな……」

「おまえがそう言ったんだぞ。飲みに行った時。この世ではどうにもならない、どうしようもない相手だって」

「そうか」


 そんな事を言ったのか。ぼくは。


「どういう相手なんだと思ったけどな。まあとにかく。

 おまえがゾンビな顔してるのは結局の所、諦めがついてないからだ。

 振ってもらえ。

 自分の心を打ち明けて、頼むから振ってくれって。そう言えよ、彼女に。

 それで一応のけりはつく。なあ、彼女の気持ちを考えた事あるのか、おまえ?」

「え?」

「仲良くなったんだろ? 友だちになったんだろ? その相手から突然ののしられて、一方的に切られた。そんな真似されて、傷つかない相手なんていないぞ」


 ぼくは呆然とした顔をしていただろう。考えた事はなかった。彼女が何を考えているかなんて。


「自分の事でいっぱいいっぱいなのもわかるけどな……相手を傷つけてもOKなほど、価値のあるプライドか? おまえのそれは」


 ぼくはうつむいた。恥ずかしかった。とにかく恥ずかしくて、情けなかった。ジョンはさりげなく見ないふりをして、立ち上がった。


「食えよ。食って寝ろ。マギーの料理、最高なんだからな」


 そう言って彼は出ていった。

 彼がいなくなって随分たってから、ぼくは、料理に手を伸ばした。テーブルの上にあったのは、使い込んだ感じの黄色い鍋。入っていたのはパンを入れて柔らかく煮込んだ蕪のスープだった。さめてしまったそれを、ぼくは一匙一匙、スプーンですくって食べた。さめていたけれどそれは、涙が出るほど温かい味がした。




*  *  *




 庭園は、月光の中にあった。一カ月ぶりに来たそこは、記憶にあるより魔法めいて、鮮やかで美しかった。

 こんな風だったか。

 こんな風に美しかったか、ここは。

 今回、パスワードは必要なかった。なぜかはわからない。近づいていつもの通りパスワードを調べようとしたら、名前を尋ねられた。『KC』と答えると、次に庭園に住む少女の名前を尋ねられ、『ヘブンリーブルー』と答えると、『ガーデン』への入場を認められた。

 ぼくの姿はロボットのままだったが、気にはならなかった。前回の訪問時、ぼくは結構長い間庭園にいた。エドかヘブンリーブルーが、監視を眠らせていてくれたのだろう。気づかなかったが彼らは、そこまでの自由をくれていたのだ。だがさすがに、ぼくの意識全てをここで自由にさせる事はできないだろう。

 ぎしぎしと音を立て、庭園を歩く。ここへ来る前に、ケイショウ・サハラについて調べた。彼の生前の姿を検索し、残されていたデータから在りし日の彼の姿を見た。

 黒髪に青い目をした、少年めいた容貌の青年。

 性別こそ違っているものの、ヘブンリーブルーにそっくりだった。ここを作った人間の執念を思い知らされた気がした。それほどに、失いたくない相手だったのか。それほどに、もう一度会いたいと願い続けた相手だったのか。

 だが、ヘブンリーブルーは? 彼女は自分の存在を、どのように感じていたのだろう。


『あなたがくれた名前は優しいわ。花の名前で私を呼ぶ人は、今までにいなかったから』


 誰もが彼女を、ケイショウの影として見た。だから水晶の名で彼女を呼んだ。


『時には真実が、おとぎ話に隠れている事もあるのよ。それってとても大切な事よ』


 人魚姫は海の泡になって消える。水の妖精も騎士との恋に破れ、小さな川の流れになる。


『私は、私でしかないのよ』

『あくまでもプログラムにすぎないの』

『あなたがそう思いたいからよ。だからあなたの目には、私が人間に見えてしまう』


 本当にそうだろうか?





 たどり着いたあずまやには、ヘブンリーブルーと二人の男がいた。一人はエド。もう一人は、どこかで見たような顔の青年だった。立ち止まると、彼らの話し声が聞こえてきた。


「こんな道楽は許されるものじゃない!」

「ケネス、だがね」

「エドおじさん。あなたには感謝している。だが、こんな馬鹿げた事を長年続けていたなんて……父さんはどうかしている!」


 ケネスと呼ばれた青年は、吐き捨てるように言った。


「だが美しくはないかね? ここは」


 静かに言うエドに、ケネスは冷たい目を向けた。


「維持する必要がどこにあるのです。ここまで緻密にプログラムする必要が、どこに。簡略化した環境設定で、ユーザーは十分満足する。なのにこの無駄遣い! 馬鹿げているにもほどがある。第一、これは何です!?」


 ケネスはヘブンリーブルーに嫌悪の目を向けた。


「見る者が見ればすぐにわかる。これが誰を元にして作られたのか。

 父さんがここで、どれだけ破廉恥な夢に浸っていたのか、ぼくは知らないし知りたくもない。けれどこいつは駄目だ!

 うちは健全なイメージで売っているんだ。愛玩用の人形開発に乗り出す計画はないし、こんなものの情報が漏れたら大損害だ。イメージが大幅に悪くなる!」


 ヘブンリーブルーは何も言わない。


「ケネス。彼女に失礼だぞ。この子には自意識があるし、そういう目的で作られたわけでもない!」


 声を荒らげたエドに、青年は吐き捨てるように言った。


「人形に人形と言って何が悪いんです。こいつは何種類もの受け答えを記憶してるだけの、ただの人形だ。消去すれば終わりのプログラムじゃないですか!」

「人間ではないものは、何であれ壊しても罪ではない?」


 ヘブンリーブルーが静かに言い、二人の男は口をつぐんだ。


「私をプログラムしたのは人間だけれど、消去するのもおそらくは人間だろうけれど。

 何かを作る時、人は責任を負うわ。作ったものに対して。

 同じように何かを壊す時も、壊した人は責任を背負うのよ。世界に対して。存在するものたちの、関わりの連鎖に対して。

 ケネス。昔、出会ったあなたは、私を妖精と呼んで親しくしてくれた。でも今は、ただの人形と呼ぶのね」

「事実だろう」


 憎々しげな目をヘブンリーブルーに向けて言うと、ケネスは指を突きつけた。


「子どもの頃は、綺麗だと言っていれば良かったさ。おまえは出来の良い人形だ。今でもそう思う。こうして人間めいた受け答えをするのを見ればな。

 だがおまえは所詮、プログラムにすぎない。それも、膨大な費用を喰い続けるお荷物だ。

 おまえを維持する為に父さんが支払い続けた費用を、少しでもぼくたちの為に使ってくれていたら……母さんだってもう少し、幸せに生きられた。

 でも父さんは、決してぼくらを見なかった。母さんも、ぼくも。

 決してだ。見てくれる事はなかった。ケイショウ・サハラ。おまえがいたから!」


 叫ぶように言ってから、彼は顔を背けた。


「いずれここは閉鎖する。おまえを消去する時が待ち遠しいよ」

「ケネス!」

「エドおじさん。次の社長はぼくです」

「ポールはまだ生きている」

「時間の問題でしょう」


 そう言うと、彼は歩き出した。こちらに向かって。その足が止まる。


「なんだ。バグか?」


 ぼくを見て不思議そうにつぶやく。エドが気づいて彼の肩に手を置いた。


「バグ取りのロボットだよ。覚えていないかい」

「ああ。そう言えば……まだ残っていたのか、このプログラム」


 エドは早く行きなさいという風に、ぼくに目配せをした。ぼくは体をぎしぎしさせて、木々の間に身を隠した。ケネスはしばらくぼくを見ていたが、やがてまた歩き出した。その姿を見送ってからぼくは、改めてあずまやのテラスに向かった。

 ヘブンリーブルーは泣いていた。表情は石のようにこわばって、けれどその頬には後から後から、透明な滴がころがりおちていた。


「もう、来ないと思ったわ」


 ぼくを見ると彼女は言った。ぼくは彼女の側に近づいた。


 ……ごめん。


「どうして謝るの?」


 ……君にひどい事を言った。


「あなたが言ったのは、本当の事よ。私はただのプログラム。魂を持たない数字の羅列。命を真似ている、偽物の存在ですもの」


 彼女の声は静かで、ごく当たり前の事を確認しているだけという風に聞こえた。その間も涙は流れ続けている。


 ……それなら、なぜ泣くの。


「こんな時に人間の女性は泣くのでしょう? それを真似ているの。それだけよ。私のプログラムは精巧だから」


 ……あいつにひどい事を言われたからだろう?


「昔は仲良しだったの。ケネスは私と一緒に庭園を探検して、何時間も過ごしたわ。今でも私の中で彼は友人なの。でも彼にはもう、そうではない。私は消してしまいたい過去の汚点になってしまった」


 彼女は目を閉じた。


「小さなケネスは私を、『魔法の庭に住む妖精』と呼んだのよ」


 あの男が小さかった頃など想像もつかなかったが、彼女には今でも大切な記憶なのだろうと思った。それが何だか、悔しかった。


 ……ポールというのは?


「聞いていたのね。……私の父よ。ここを作った人」


 ……君を創り出したプログラマー?


「私を作ったのは一人ではないけれど、彼を父と言うのだと思うわ。ここで良く時間を過ごしては、私に色々な事を教えてくれた。私を私にしてくれた人なの」


 ヘブンリーブルーはテラスの階段を登ると、籐の椅子に腰かけた。頬を伝い落ちていた涙は、宙に溶けて消えた。いつも通りの白い少女の姿で、彼女は古びた本を膝の上に置いた。


「もう長く会っていないわ。具合が悪いのよ。最後に会った時、彼は私に、夜明けを見せてくれると約束してくれたのだけど」


 ……夜明け。


「私が見たいと言ったから。私はここで、十年以上を過ごしてきたわ。その間、一度も夜明けを見たことがないの。ポールは何とかしてみようと言ってくれた。でも」


 ……そんなに、具合が悪いのかい。


「無理をしたの。夜明けをここに持ってくるには、『ガーデン』そのもののプログラムを変更する必要があったから。私は、もう良いと言ったの。途方もない労力と費用がかかるのは目に見えていたから。でも彼は、必ず見せてあげると言って……そうして、倒れた」


 ヘブンリーブルーは本の上で、手を握り合わせた。


「彼が死んだら、ここは閉鎖されるわ」


 ……閉鎖。


「維持するだけで、大変な費用がかかっているの。今でも。存続させる事に意味はないと、ケネスははっきり言ったわ」


 ……ここがなくなったら、君はどうなる? どこか別のデータベースに移るのか?


「私はここでしか生きられないのよ、ケイシー」


 ……駄目だよ!


 ぼくは叫んだ。


 ……死ぬって事? ここと一緒に? そんなの駄目だ。どうにかして生き延びる方法を探さないと!


「ケイシー。意識が覚醒してから今までの歳月、私は情報を収拾しては成長する事を繰り返してきた。今では私の容量は、膨大なものになってしまっているの。

 稼働するだけで大変な費用がかかる、化け物のようなプログラム。それが私よ。

 私はここから動けない。それには大きくなりすぎた。ケネスは確実にここを閉鎖するでしょう。そうしなければ、会社の存続も危うくなりかねないのですもの」


 ……だって君は、生きている。生きているのに!


 叫ぶとヘブンリーブルーは微笑んだ。


「ありがとう、ケイシー。でもそれはまやかしよ。私は……」


 ……だって君は、魂を持っている!


 叫ぶと少女はぼくを見つめた。その目に、涙が再び盛り上がるのをぼくは見た。


「魂?」


 ……そうだよ。


「私に、魂が? 本気で言っているの、ケイシー。私はただの数字と記号の集まり。0と1でできた幻にすぎないもの」


 ……ぼくに詩を教え、物語を教え、隠された真実の話をし、人間の優しさを教えてくれた人だ。ヘブンリーブルー。君に出会った多くの人が、君の優しさに救われてきたんだろう。そう思うよ。


「プログラムにすぎない私が、夜明けが見たいとわがままを言ったばかりに、ポールは無理をして体を壊した。ケネスは父親を奪われたと、私を恨んでいるわ」


 ……十年も同じ景色を見ていたのなら、夜明けぐらい見たくなるよ。ポールは娘である君を愛していたから、何かしてやりたかっただけだし、ケネスだって最初は君と会って話をするのがうれしかったはずだ。ぼくがそうなんだもの。

 君と出会って、話をするたびにどきどきした。どうしてこんなにうれしいんだろうって馬鹿みたいに思った。

 誰かを好きになったら、世界が全然違うように見えるって、本当なんだ。君だから。君だったから。ぼくは。


 彼女の目から涙がこぼれる。次々と滴は流れ落ちて、頬を伝って宙にこぼれ、きらめいて溶けた。


「魂」


 もう一度つぶやくとヘブンリーブルーは言った。


「本当に、私にもあると良いのに」


 泣き続ける彼女にぼくは、近づく事ができなかった。同じ場所に立っているようでも、ぼくたちは別の領域にいたからだ。ぼくたちの間には、無限に近い空間が広がっていると彼女は言った。その空間を越えて、彼女に手を差し伸べる事は不可能だ。

 けれどその時ぼくは、手を差し伸べたかった。

 泣いている彼女を見ているのがつらかった。

 何もできない。

 その事実に打ちのめされながら、ぼくは言った。


 ……プログラムでも何でも。君には魂がある。ぼくはそう信じている。君は魂を持つ存在だ。

 ……ぼくは君が好きだ、ヘブンリーブルー。


 彼女の涙は、とどまらず流れ続けた。


 ……君が好きだ。大好きだよ、ヘブンリーブルー。


 どこかで、鋭く鳥の鳴く声がした。


 


*  *  *




 覚醒した時、頬を涙が滑り落ちた。ぼくは泣いていた。

 耳の底にナイチンゲールの歌声と共に、魂があれば良いのにという彼女の声が残っていた。




*  *  *




 数日が過ぎた。ぼくは毎晩のように『ガーデン』へ行き、ヘブンリーブルーと話をした。内容は、他愛のない事ばかりだった。

 『ガーデン』から出られない彼女のために、ぼくは日々の出来事を話し、友人たちのこっけいな失敗談や、楽しかった事などを話した。

 ちょっとした気遣いを受けた時、それに気づいた時の照れくさいような嬉しさを話した。

 今から思うと、くだらない事ばかりを話していたようだ。

 彼女はけれど、そんな話を聞きたがった。本当に楽しそうだった。ナイチンゲールの歌う月光の中で話す日常の出来事は、そうするとひどく不思議な物語のようにも思えた。

 この日々が続けば良いと、ぼくは思っていた。

 けれど、……そうはならなかった。




 その日大学から帰ろうとすると、見慣れない高級車がぼくの前で停まった。スモークガラスの窓が音もなく降りて、上等のスーツを着た老人がぼくに微笑みかけた。


「やあ、ケイシー」

「ぼくは確かにKCですが……あなたは」

「エドだ。不躾とは思ったが、君の事は調べさせてもらった。少し話せないかね」


 ぼくは面食らい、少し躊躇した後、扉を開けて車に乗り込んだ。


「良くぼくの事がわかりましたね」

「『ガーデン』のセキュリティは私の担当だったからね。ちょっとばかり裏技も使わせてもらった。

 悪く思わないでくれ。クリスタルは私にとっても娘同様の存在だ。彼女を害する可能性のあるものは、全て調べさせてもらっている」

「ぼくは、そんなつもりは」

「そんなつもりはなくとも、ささいな事から情報の漏洩は起きるものだ。君は酒場で不用意に、彼女の名を出しただろう」


 ジョンと飲みに行った時だ。ぼくが顔をこわばらせると、エドは苦笑した。


「彼女のプロジェクトには、多くの人間が関わっている。その全員が彼女に恋をしているんだよ、ケイシー。少しでも危険と思われる事があれば、誰に命じられなくても調査を始める。君の事はかなり早い段階でわかっていた」

「それで」

「例の感動的な告白も、セキュリティのチェックをしていた者が聞いていたんだよ」


 ぼくは絶句し、真っ赤になった。


「悪趣味ですよ!」

「そうかね? あの告白があったから、君は排除されずにすんだんだよ。彼女との接触を大目に見てもらえるようになった。皆、彼女に対しては、君と同じ思いを抱いているからね」


 エドはふふ、と笑った。その笑い方は、『ガーデン』にいた時の、若い姿のエドと同じだった。


「本題に入ろう。『ガーデン』の閉鎖が決まった」


 ぼくは声をなくして彼を見つめた。エドは目を伏せた。


「ポールは倒れて以来、意識不明の重体だ。君も少しは見当がついていると思うが、彼はとある企業の社長でね。いや、社長だったと言うべきかな。今朝の会議で彼の解任と、息子の社長就任が認められたから。

 ケネスは、会社の体質改善に乗り出した。余計な費用をかけている部署は、閉鎖するか縮小すると。

 確かにそれは必要だろう。会社の経営からすれば。

 ポールは彼女に関しては、完全に公私を混同していた。彼にしてみれば、彼女の為に会社を立ち上げたのだから、何が悪いという思いがあったんだろうが……周りの人間は、たまったものではなかったろう。しかもケネスの場合、個人的な恨みもある。父親が延々と愛人を援助し続け、家族を無視してきたと思っているしね」

「愛人?」

「そう思い込んでいるよ。十代の頃からずっと」


 エドはため息をついた。


「ポールとケイショウの関係は、そんなものじゃなかった。何度そう言っても理解できない。

 それはそうだろう。正常に夢が見られる人間に、夢を見る事のできない人間の焦燥や欠落感を、どう説明すれば良い? やっと手にしたと思った夢が、再び失われたと知った時の絶望を……どう理解してもらえば?」

「ヘブンリーブルーは、ケイショウではありません」


 ぼくがそう言うと、エドは微笑んだ。


「その通り。君ならそう言ってくれると思っていた。彼女は彼女だ。

 だがケネスにはもはや、その違いがわからない。

 ずっと憎み続けてきたからね。そうして目の前にある真実がわからないまま生きてゆく。可哀相な男だ。

 ポールも……彼が回復する事はもう、ないと思う。私はと言えば、……無力なものだ」


 エドはひどく疲れた顔になった。


「今朝、ケネスに引退をすすめられた。彼女のプロジェクトから撤退するようにとね。技術者ももう何人か、首を切られたり別の部署に移動になってるよ。

 現在、外部からのアクセスは遮断されている。君ももう入れない。

 ケネスはそのまま『ガーデン』を削除するつもりだ。……どうにもならん。彼女は消去される」

「それは……でも。殺人ですよ!」

「ありがとう」


 エドはささやくように言った。


「そう言ってくれるのは、君が彼女ときちんと向き合ってくれたからだ。彼女という存在に。……世間一般では彼女はただのプログラムで、消去は業務の一環に過ぎないからね」

「何かできないんですか。何か」

「何も」


 エドは目を閉じた。涙が目の端に光った。


「今朝、彼女と話した。礼を言われたよ。産み出してくれてありがとう。育ててくれてありがとうと。自分を護ってくれていた技術者全員にも、その言葉を伝えてくれと言っていた。君にもよろしくと」

「……あんまりじゃないですか!」


 ぼくは叫んだ。


「たわむれに作って、育てて。なのに邪魔になったからって消去ですか。それじゃあんまり……何の為に。彼女は何の為に生きてきたんです! 殺される為にですか? あんまりだ。ひどい。ひどすぎます!」


 ぼくは震えていた。怒りと悲しみで体中が震えていた。エドを責めてもどうにもならない。それはわかっていた。けれど、止められなかった。この怒りを止めたなら、ヘブンリーブルーを否定する事になると思った。


「あなたたちは……あなたたちだって同じだ。彼女を人形として扱った。本当に彼女の事を思うなら、自我のない疑似人格としておくべきだった。自分で判断する能力など与えずに。そうすれば、苦しんだり、悲しんだりする事もなかった……!」

「ずっと私も、その事を自分に問い続けてきた。私たちのした事は何だったのかと。だが、ケイシー。彼女は。君のヘブンリーブルーは、生まれてきた事を喜ぶと言った」


 ぼくは言葉を止めた。エドはぼくを見つめていた。彼の瞳は老人特有の濁りがあったが、知性と、優しさと、傷ついた感情を秘めていた。


「何も知らない人形のままではなく、一つの存在として生きられた事を喜ぶと。生まれてきた事に後悔はないと言った。

 君の心はありがたい。彼女を愛してくれた事にも心から感謝する。

 だが、頼むから、ケイシー。そんな事を言って、彼女の誇りを傷つけないでくれ」


 彼女の、誇り。

 涙が出た。


「会わせて下さい」


 ぼくは頼んだ。


「彼女に。会わせて下さい……」




*  *  *




 『ガーデン』は、静まり返っていた。

 鳥の声がしない。虫の羽音も。ざわめいていた木々の葉擦れの音も消え、硬直した月光が不自然に降り注いでいる。庭園を庭園として成り立たせていたプログラムが、停止されているのだ。道をはばむ木の枝を押しやろうとすると、砕けて消えた。通りすぎてから振り返ると元通りになってはいたが、端の方が奇妙な記号に文字化けしていた。

 あちこちに綻びが生じている。

 木々は妙な形に崩れ、大地と空は色をなくしていた。記号や情報の切れ端が、穴を開けたり漂ったりして庭園の崩壊を予感させた。こうして見ると、ここは小さな世界だったのだと思い知らされる。

 あずまやはまだ、形を残していた。

 ぼくはそちらに向かって歩いた。体がぎしぎしいわないのが不思議だった。

 白いテラスには蔦がからまり、古風なランタンの灯がやわらかくともっている。小さなテーブルに紅茶のセットと古びた本。

 白いドレスの少女は籐の椅子に腰かけ、目を閉じていた。


「ヘブンリーブルー」


 呼びかけると少女は目を開けた。


「どなた?」

「KCだ」

「ロボットさん? でもあなた、体があるわ」


 ぼくはぎこちなく微笑んだ。


「エドがパスワードをくれた」


 会わせてくれと頼んだぼくに、彼は、自分の管理者用のパスワードを譲ってくれたのだ。最後に残った技術者に頼んで、何とか『ガーデン』の崩壊を遅らせようとも言ってくれた。

 ヘブンリーブルーの青い目が、ぼくを見つめる。


「あなたはそんな姿をしていたのね」

「うん。これがぼくだ。そっちに行っても良い?」


 彼女は微笑んだ。


「あなたと私は今、同じ領域にいるわ。……やっと、あなたにお茶が出せるのね」


 涙が出そうになった。こらえて階段を登る。彼女は椅子から立ち上がり、ぼくを迎え、それからティーポットとカップを示した。


「ねえ、見て。お友だちからのプレゼントなの」


 ティーポットとカップには、水色の朝顔が描かれていた。誰かが彼女の為にプログラムしたのだろう。

 かつてのぼくなら無駄だと感じた。花などどれも同じだと思っていたし、消えてしまう物に手をかけたり、わざわざプログラムを変更するなどという、労力を使う必要はないと判断しただろう。

 そんな事に何の意味があるのかと。

 だが、今は。


「綺麗だね」


 誰だかわからないその技術者の、心配りをぼくは感じた。彼女にわずかな間でも良い、少しでも喜んでもらいたいという願いを。

 無駄かもしれない。でも、とても尊い。

 相手を思う心から出る行為は、理屈では割り切れないし、はかれない……これは彼女から教わった事だ。


「ぼくからも渡すものがあるよ」


 そう言って小さな包みを差し出す。


「ありがとう。何かしら」


 ヘブンリーブルーは受け取ると、包みを開けた。それから、「まあ」と言った。

 夜明けの空と、一面のヘブンリーブルー。ぼくが持ってきたのは、無名のイラストレーターが描いた風景画だった。ここに持ち込めるよう手を入れたが、基本はいじらず、できる限り元の色が再現されるようにした。額に入れた形にプログラムを組んだので、どこにでもすぐ飾れる。


「壁にかけてみて。くっつくから。大きさは好きなように変えられるよ」

「そうなの? ありがとう、ケイシー。綺麗。……夜明けって、人間の目にはこんな風に映るのね」


 幻想的な風景画には、現実にはあり得ない色彩も使われていた。それでもこの絵が彼女には相応しい気がして、持ってきた。


「どこに飾ろうかしら。うれしいわ」


 白いドレスの少女が微笑む。うれしそうに。


「ああ、そうだわ。こうしてみたらどうかしら」


 椅子の後ろにある壁に絵をかけると、彼女は壁一杯に絵を拡大した。夜明けが広がる。ばら色と金に縁取られた夜明けが。

 足元には晴れた日の空のような、ヘブンリーブルー。


「素敵ね」


 絵を眺めて彼女は言った。


「ありがとう、ケイシー。じゃあ、お茶をいれるわ。夜明けの風景の中でお茶が飲めるなんて、思ってもみなかった」


 少女はぼくに椅子をすすめると、ポットからカップにお茶を注いだ。紅茶の赤い色が、水色の花を咲かせるカップの中でゆらゆらと揺れる。


「どうぞ。味の保証はできないけれど」

「そうなの?」

「お茶をいれるのは、うまいのよ、私。でもプログラムがあちこち綻びているから……」

「いただくよ」


 ぼくはカップを取り上げると、中身を一口ふくんだ。暖かな液体を感じた。


「大丈夫だよ。紅茶の味がする」

「良かった。せっかくのお客さまですもの。美味しく飲んで欲しかったの」


 ヘブンリーブルーは微笑んで、椅子に腰かけた。


「今日はどうして来たの?」


 いつもと同じような問いかけ。ぼくは答えた。


「君に会いに」


 ふふ、と笑うと少女は言った。


「そう。あなたはもう、私に会ったわね。これからどうするの?」

「考えてなかった」


 この会話を最初にしたのは、いつだったか。遠い昔の事に思える。


「ただ、会いたくて」


 ぼくは彼女を見つめて言った。白いドレス。黒い髪。青空の瞳。決して忘れないように、記憶に刻みつけるように。


「君に。ただ、会いたくて」

「直接さよならを言える機会があって良かったわ、ケイシー」


 ヘブンリーブルーは微笑んで言った。ぼくは手にしていたカップをテーブルに戻した。


「嫌だ。これで終わりになんて、したくない」

「ケイシー」

「まだ何も話していない。君と。どうしてぼくはもっと、君と話をしなかったんだろう。

 ぼくは君の事を何も知らない。

 だから、終わりになんてしないでくれ」


 無茶を言っているのはわかっていた。でもあえて、ぼくはそう言った。少女はまばたいてぼくを見ると、困った人ねと言いたげな笑みを浮かべた。


「たくさん知っているわ、あなたは。私が夜明けを待っていた事。朝顔を見たがっていた事。わかっていたから、この絵を持ってきてくれたのでしょう?」

「でも足りない。ぼくは。もっと君と話したい。もっと君と、一緒にいたい」

「できないの」


 少女は静かに言った。


「ごめんなさい」

「やめてくれ。君に謝ってほしいわけじゃないんだ。ただ、ぼくは。ただ。君に……生きていてほしい。それだけなんだよ」


 空の一部がごちゃごちゃした数列になり、はがれおちるように消えた。果ての方で木々が形を崩し、また元に戻った。


「君が好きだ。好きなんだよ、ヘブンリーブルー」

「どうして私を?」

「どうしてだろうね。君と出会って……、ぼくは人間の心を考えるようになった。人と人との関わりや、ちょっとした心遣いを、大切だと思えるようになったんだ。

 それまでのぼくはそんな事、気にも止めなかった。ただ自分の望む事だけをして、それが一番良いと思っていたんだ……。

 自分がどれだけ馬鹿だったのか、気づかせてくれたのは君だよ。

 ぼくは君に、人としての心を教えてもらった」

「私はプログラムなのに?」

「君には魂があるよ、ヘブンリーブルー。ないはずがない」


 ヘブンリーブルーは首を振った。


「いいえ、ケイシー。私はただのプログラムよ。蓄えた知識の中から、あなたにとって最も良いと思われる言葉を口にした。

 だからあなたは、誤解してしまったの。

 あなたが何かを学び、何かを感じたと言うのは、あなた自身が成長を望んだから。私が教えたわけではないわ」

「いいや。君だ。君が教えてくれた」

「私は実体のない影に過ぎないのよ、ケイシー。命をただ真似ているだけ」


 大地のあちこちが虚無と化した。形を保とうとしていた木々が、崩壊して消えてゆく。あずまやはまだ、形を保っている。だが時間の問題のようだ。


「君は作り物じゃない。本物だよ」


 ぼくは言った。


「話してくれ、ヘブンリーブルー。君は何を見た? 何を願った? 

 ぼくは君に、自分の望む事ばかりを話してきた気がする。君は? 君の願いは何だったの?」

「そんなものはないわ。私の役目は、ここにきた人の悲しみを癒し、慰めを与える事。それだけだったから」

「夜明けを見たかったのじゃないの?」

「それもプログラムされた願いよ。相手が望むように私は行動し、願いを口にするの。

 ポールには何か新しい課題と、達成感が必要だった。だから願ったの。この『ガーデン』に夜明けを持ってきてと。

 私には、本当の意味で何かを願ったり、産み出したりする事はできないの。そういう存在ですもの」

「それならどうして、ぼくを見逃してくれたんだ?」


 ぼくは尋ねた。


「侵入者はウィルスを持ち込むかもしれない。『ガーデン』のプログラムにどんな影響が出るかもわからない。君がプログラムだと言うのなら、自分への危険を排除するのが最優先のはずだ。論理的思考に従うのなら。なのに君はぼくを見逃した」

「私は成長し、判断する、自立したプログラムよ。あなたに危険がないだろう事は推測できた。だからお客さまとして迎えたの。

 新しい知識がいつも、私には必要だった。より人間らしいプログラムになる為に。だからよ。

 ケイシー。お願いだから、私をプログラムだと割り切って考えて。珍しいかもしれないけれど、そこまで重要なものではないわ。プログラムですもの。

 私はここで最後を迎える。その事で、誰にも悲しんでほしくないの」


 硬直した月光が、ぽろぽろと崩れてゆく。はがれるように。ランタンの灯がやわらかくテラスを照らしているのと対照的だ。


「……君の願いは、何だったの」


 もう一度尋ねるとヘブンリーブルーは微笑んだ。


「成長すること。より人間らしくなること。私と出会った人々がみんな、幸せに過ごすこと」

「それだけ?」

「それが私の存在意義ですもの」

「ぼくは、幸せにはなれないよ。君を失ったら」

「それでもあなたは歩いてゆかねばならないわ。人間ですもの」


 木々が消え、むき出しになった大地が現実感をなくした。空も。数字や記号の羅列になって、虚無と化す。ざらざらと崩れ、はがれおち、壊れてゆく。


「どうして君が殺されなきゃならないんだ……ケネス、あの男を殺してやりたい!」

「そんな事を言わないで」


 少女はそこで初めて、悲しげな顔になった。


「あの子はずっと傷ついているの。ポールとケネスは少しばかり、言葉が足りない親子だったわ。小さな溝がねじれになって、彼は自分が愛されていないと思い込んでしまった。

 私を消去しても、あの子の苦しみは終わらない。

 それでもやらずにはいられないのよ。あの子はそうして、また傷つく」

「あの男に、君にかばわれる資格はないよ」

「資格じゃないわ。あの子を私は、子どもの頃から知っているのですもの。小さなあの子はとてもかわいかった。……私、すごくおばあさんなのよ。プログラムとしては」


 あずまやの周囲の土地が消えた。


「誰でも傷つくことはあるし、馬鹿げた事をしてしまうことはあるわ。そうでしょう、ケイシー? あなたにも覚えがあるのではない?」

「ぼくがあの男を憎むのは、自分と似ているからだよ」


 今ではぼくは、泣いていた。何もできない自分に絶望して。


「君がプログラムだと知った時、裏切られたような気がして君をののしった。

 君を愛していたのに、それを認められずに君を避けた。

 自分のプライドが何より大事で、それをどうにかされるのが怖くて、だから君が悪いんだと、自分に言い聞かせたよ。

 馬鹿だった。自分の愚かさに吐き気がする。

 ぼくはずっと、君に参っていた。君が、君だから、好きだったのに」

「それも人間の特質の一つね。過ちを侵し、それに恐怖して逃げようとする。でも直視することができれば、乗り越える事ができる。人として大きくなれるわ」


 ヘブンリーブルーが言った。彼女の微笑みには、慈愛が満ちていた。


「本当に大切な事って、とてもささいな、小さな事だったりするわね。

 ケネスは私に、花を摘んでくれた事があった。

 夜明けの出てくる詩や物語をたくさん見つけて、朗読してくれた事もあったわ。

 とても、とてもうれしかった。

 彼が忘れても私は覚えている。そうしてね、ケイシー。あなたも私にたくさんの喜びをくれたわ。

 何度も会いに来てくれてありがとう。花を空に帰す時、一緒にいてくれてありがとう。好きだと言ってくれた事も、うれしかったわ。この絵も」

「ヘブンリーブルー……」

「その名前をくれた事も。ケイショウの影ではなく、ただの私として見てくれた」


 微笑むと彼女は周囲に目をやった。


「もうみんな、眠りについたのね」


 全てが消えていた。今ではテラスは、虚無の中に浮いているような状態だ。あずまや自体も建物が残っているのかどうか怪しい。柱にからまる蔦はあるが、ランタンの光から外れた先は、虚無と化していた。


「ずっとここしか知らなかったけれど、月光は好きだった。ナイチンゲールの歌声も。湖も。花も。木々も。

 私はここが好きだった。

 大気には魔法が宿り、その中で私は詩や物語を読んだわ。なくしてみて初めてわかるものね。それがどれだけ大切なものだったのか」


 少女は古びた本の表紙をそっとなでた。


「もう落ちた方が良いわ、ケイシー。強制削除に巻き込まれたら、あなた自身もダメージを受けかねないわ」

「ここにいる」


 ぼくは首を振った。


「ぼくは、ここにいる」

「駄目よ」

「君が好きなんだ!」


 少女は、苦笑らしきものを浮かべた。


「それもいつかは忘れるわ。そうして誰か、可愛い人を見つける」

「そんな事はない! そんな、事は」

「いいえ。そうよ。だってあなたは人間。私はただの夢に過ぎないのですもの。

 ちょっと綺麗で、でもそれだけ。

 だからあなたは私に心魅かれた。だからいずれは夢とわかって現実に戻り、忘れるはずだった。

 あなたが今悲しいのは、夢が夢であると知らされるのが嫌だから。夢に終わりが来ると知らされて、衝撃を受けたからよ」


 ぼくは首を振った。泣きながら嫌だ、嫌だと繰り返した。君といる。最後まで一緒にいる。ここに。ぼくは。

 少女はぼくの手に自分の手を重ねた。


「ありがとう、ケイシー。でも駄目。戻りなさい。

 夢は終わる。それで良いの。それが一番正しい事よ。

 お願い。あなたは人間の世界に帰って、人として生きて。私を思ってくれるのなら、少しでも私のためを思うのなら、お願い。そうして」

「……嫌だ」

「ケイシー」

「ここにいる……最後まで」

「ありがとう、ケイシー」


 少女が言った。その声には、今までにない何かが宿っているようだった。顔を上げたぼくを見つめ、彼女は微笑んだ。決然とした意志を瞳に宿して。


「ごめんなさい」


 触れていた手を離す。何か言う事もできなかった。ヘブンリーブルーが宙に手を差し伸べると、ぼくの足元にぽかりと穴が開いた。強制退去コマンド。以前にも何度かやられた。これを使われると、ユーザーは即座に仮想現実から退去させられる。

 だが、今これを使われるとは思わなかった。


「……嫌だ!」


 無駄だとわかっていたが、ぼくは彼女に手を伸ばした。

 けれどそこまでだった。

 バーチャルネット退去時特有の、白い光がぼくを包む。そうしてぼくは、彼女を永遠に失った。




 気がつくと自分の部屋だった。ヘッドセットを頭につけたまま、ぼくは涙を流し続けた。ヘブンリーブルー。なぜ。どうして。

 君と一緒にいたかった。最後まで。

 君は、最後に何を見た?

 たった一人で世界の崩壊を眺めて。最後に何を願った? 


「君と一緒に滅びてしまいたかったのに」


 泣きながらぼくは言った。


「それすらも君は許してくれないのか……」


 ヘブンリーブルー。

 残酷で優しい、最愛の少女を思ってぼくは泣き続けた。




*  *  *




 日々は過ぎる。いきなり引きこもりだしたぼくを、ジョンはひどく心配して、あれこれと気を使ってくれた。ぼくが語る言葉の断片から、失恋が決定的になったと思ったようだ。

 後で知ったが、かなりの悲劇を彼は推測していたらしい。ジョンは大学にやって来たエドの高級車を見ていた。そこにぼくが入り込んだのも。それらの事からジョンと彼の彼女たちは、


『大金持ちのお嬢さまと大恋愛をした末に引き裂かれ、しかもお嬢さまの方は不治の病で亡くなってしまった。最後にようやく一目会わせてもらったが、葬儀にも出させてもらえなかった』


 という物語を作り上げていた。……そんな経験をした男が身近にいたら、ぼくでも気の毒に思って気を使う。

 実際は、プログラムに恋をした、馬鹿な男のひとり相撲だったのだが。

 『ガーデン』が消去された直後は、何も手につかなかった。ぼくを強制的に退去させたヘブンリーブルーを恨みさえした。だが彼女はプログラムだ。人間の安全を脅かすような行動は取れなかったはずだ。ぼくがいくら残りたいと言ったとしても、決してそうはさせなかっただろう。

 そう思えるようになったのも、随分たってからだったが。

 エドとはその後、しばらくして会った。やはり高級車でやって来た彼はぼくを招き、ぼくは彼の車で少しばかりのドライブをした後、話をした。会社は引退したそうだ。

 ぼくとヘブンリーブルーとの最後の会話はやはりモニターされていたが、その記録は誰の手にも渡らないよう手配してくれていた。その件ではぼくの知らない技術者たちが、随分と暗躍したらしい。実はあの時、『ガーデン』は即座に消去されてもおかしくない状況だった。だがぼくと彼女の会話を聞いていた彼らが、必死になって崩壊を食い止めていたのだそうだ。何でも良いから彼女の為に何かしてやりたいと、クビを覚悟で消去コマンドをブロックし続けてくれていたらしい。

 エドは顔も知らない彼らからの礼を、ぼくに伝えてくれた。彼女の最後に立ち会ってくれてありがとう、と。ぼくこそが礼を言わねばならない立場だったと言うのに。


「あの子を一人ぼっちで死なせる事だけはさせたくなかった。皆がそう思っていたが、誰も『ガーデン』には入れなかった。プロジェクトに関わっていた者はみな、監視されていたからね。邪魔をするのがやっとだった。……君がいてくれた事で、彼女は安らかでいられたと思う」

「そうは思えません」

「君はそう思うかもしれないがね。私は確信しているよ。彼女は君が来てくれた事で救われた。自分を人形ではなく、価値ある存在として認めてくれる人間がいた。その事実が最後まで、彼女に力を与え、喜びを与え続けただろう。……人間の感傷かもしれないがね」


 それからエドは、ぼくを見て言った。


「しかし、ひどい顔だな。やつれきって、私より年寄りみたいだ。ちゃんと食べているのかね?」

「母親みたいな事、言わないで下さい」

「言いたくもなる。私の娘が生きてくれと願った男には、長生きをしてもらわないと」


 その言葉に怒りがわいた。けれどすぐ、怒りは醒めた。そうだ。この人にとってヘブンリーブルーは娘だった。


「食べられないんです」

「私もだよ。だが、生きなければ。あの子の最後の願いはそれだったのだから。生きて、成長する。苦しみを乗り越えて、人として。……ケイシー。あの子の願いをかなえてやってくれないか」

「勝手な事を……っ」


 さすがに声を荒らげた。エドはだが、静かに言った。


「勝手だよ。人間だからね。ケイシー。あの子は生まれてきた事を、決して後悔しなかった。誇り高く生き、多くの者の心をとらえ、……彼らに慰めと安らぎを与えた。私たちはあの子を作り育てたが、最後にはあの子に多くを教わり、育てられた気がするよ。君だってそうじゃないか?」


 エドはそれから、小さな記憶媒体を取り出した。


「今日来たのは、これを渡しておこうと思ったからだ」

「何です?」

「君たちの会話だよ。つらいようなら、見ないで消去してもかまわない」


 ぼくは彼を見つめ、記憶媒体を見つめた。それから震える手でそれを受け取った。


「……ありがとうございます」

「これぐらいしかもう、私にはできないからね」


 ため息をつくとエドは、付け加えた。


「ただね。少し妙な所もあるんだ、その記録には。モニターされた通りの会話が記録されているんだが、バグが生じて、読み取れない部分があるんだよ」

「バグ?」

「最後の辺りだ。君が落ちた後。彼女が何かして、それをモニターしていた人間に送ってよこした」


 エドはぼくを見つめた。


「君、良かったら、解読してくれないか」




 おそらくエドは、ぼくの失意と焦燥を予想していたのだろう。それであえて、立ち直るきっかけになればとこんな真似をしたに違いない。渡された記録は映像と音声によるもので、美しい『ガーデン』の風景を、ヘブンリーブルーの姿を、声を、ぼくは何度も、何度も繰り返して再生した。泣きながら。


『本当に大切な事って、とてもささいな、小さな事だったりするわね』

『それでもあなたは歩いてゆかねばならないわ。人間ですもの』


 そうだね。その通りだ。


『それも人間の特質の一つね。過ちを侵し、それに恐怖して逃げようとする。でも直視することができれば、乗り越える事ができる。人として大きくなれるわ』


 ああ。君は正しい。

 でも今は、まだもう少し。君を失った悲しみに浸らせてくれ……。




 エドの言ったバグは、簡単なブロックがかけられていただけで、すぐに読み解けた。ぼくが落ちた後の、ヘブンリーブルーの映像と音声が入っていた。

 彼女は何か、詩を口ずさんでいる。

 サハラの詩だ。夜明けを待ちながら、時に歩みを止めてほしいと願う詩。彼にしては珍しく、夜ではなく夜明けを題材にしていた。

 詩を最後まで暗唱すると、彼女は古びた本を手にした。それを開く。『人魚姫』の終わり近くの文章を読み上げると少し微笑み、本を閉じようとし……思い直したようにもう一度開くと、指先で何か書き込んだ。

 ランタンの灯が消える。

 そして、全ての映像が消えた。




 最後に現れたのは、文字化けした文章だった。何なのかわからない。どうにかして解読しようと四苦八苦し、ようやっと意味の通る文章にした時には夜が明けていた。

 夜明けをうたった詩だった。誰かの作なのかはわからない。サハラの作品に、こんなものはなかった。




 両腕を広げ

 夜明けの風を受けて歩こう

 広がる大地はわたしの足を支えてくれる


 顔を上げ

 夜明けの色を受けて歩こう

 霧は晴れ 雲は去り 天は宝玉の輝きに朝を歌う


 夜が好きだ 月光が好きだ

 静かな眠りが好きだ 夢をつむぐ夜鳥の声が好きだ

 そして明けてゆく世界が好きだ このひとときが


 挨拶をおくろう 夜明けを告げるこの風に

 眠りから覚めた小鳥に 明るくなる東の稜線に

 挨拶をおくろう 呼吸する緑と生命に

 

 わたしの愛するこの世界に




 誰の詩かはわからなかった。けれどぼくには、ヘブンリーブルーの作ったものだという気がした。プログラムが詩を作るなんて、おかしな考えかもしれない。でも彼女には自分の意志があった。魂だってあったはずだ。この詩には、彼女自身の言葉がある気がした。

 夜明け。

 ずっと見たかった本物の夜明けを探しに、彼女は出かけていったのだ。




 その後ぼくは、改めてアンデルセンの『人魚姫』を読んだ。それまでは、おとぎ話を読む事自体が気恥ずかしくて、斜め読みしかしていなかったのだ。読んでいると、涙があふれて止まらなくなった。彼女が何を望んでいたのかが、わかったような気がした。

 あれから何年もたった今でも、ぼくは彼女が忘れられない。

 ふとした時に鮮やかに、彼女の微笑みが、しぐさが、言葉が思い出される。

 それは時にぼくを慰め、微笑ませ、内から暖めてぼくを支える。少しの痛みを苦く秘めながら。

 人ごみの中にいる時、彼女の微笑みが、どこからかやってくる時がある。さりげない親子の会話、友達同士の笑い声、恋人同士のつながれた手から。

 バーチャルネットを巡る時、彼女のささやきが、どこかに見え隠れする事がある。ちょっとした出会いや発見、さりげない気遣いをうれしいと思った時に。

 きっと今でも、彼女は夜明けを見ているだろう。どこかで。一面のヘブンリーブルーの野原で、頬に風を受けながら。

 そんな気がする。いや、きっとそうだろう。彼女には魂があった。確かに、魂があったのだから……。




*  *  *




 ケイシーを強制退去させた後、少女は一人、滅びゆく世界に残った。

 静かだった。

 全てが眠りについた。『ガーデン』にはもう、何もない。

 テラスはまだ形を保っている。少女にはどこかで消去コマンドの動きを遅らせている、技術者たちの動きがわかった。どこかでエドが見ているだろう事も。けれどもう、そろそろ限界だ。

 自分自身が端の方から消えてゆくのがわかる。蓄えていたデータが抹消されてゆくのが。一番大事な記憶と感情についてのメモリは、すぐに気づいてこちらに移動させた。ケイシーともだから、違和感なく会話できたと思う。

 今残っているのは、わずかなメモリ。一番最初に稼働した時、持っていた容量分だけ。これが全て削られた時、私という存在は終わる。

 最後に何をするべきだろうかと彼女は思った。別れはすませた。会いたかったほとんどの人と会えた。ポールとはもう会えないだろう。ケネスとの最後の会話は、悲しいものだった。それが残念だった。だが全てを完璧に行うなど、誰にもできない。

 ただいつか、ケネスの心に平安が訪れるようにと願った。かつての彼は本当に、優しい少年だったのだ……。

 夜明け。

 ふと、壁に広がるヘブンリーブルーが目に入った。テーブルのティーポットとカップも。微笑みが浮かんだ。彼女はサハラの詩を口にした。


「『夜が過ぎてゆく

  夜が過ぎてゆく

  静寂の音色を世界に落として

  やがて朝がくる

  やがて朝がくる

  ばらいろの足音を地平に響かせて

  ああ けれど今はしばし

  夜の音色に酔いたい

  時よ 歩みをゆるめておくれ

  暁よ 刻を忘れていておくれ』」


 うれしかった。こうした小さな気遣いが。けれどサハラの詩は、少し違っている気がした。今感じているこの感情を表現するのには、少し違う……。

 本を開く。中身は崩れて、文字の判読が不可能な状態だった。それでも彼女には、内容がわかった。何度も読んで、覚えてしまっていたから。


「『お日さまは、海の上にのぼりました。その光は、やわらかに、あたたかに、死のようにつめたいあわの上にさしました。人魚のひいさまは、まるで死んで行くような気がしませんでした……』」


 消える時には、悲しいかと思っていた。怖さを感じたりするのかと。

 でも、何もない。静かなだけだ。


「『それはたましいの声で、人間の耳にはきこえません。そのすがたもやはり人間の目ではみえません。それは、つばさがなくても、しぜんとかるいからだで、ふうわり空をただよいながら上がって行くのです……』」


 魂ってどんなもの? 昔、ポールやエドがもっと若かった頃。そんな質問をして困らせた事があった。小さいの? かわいいものなの? 人間には誰にでもあるのでしょう。どうして大きなものだって言えるの? だって人間の中にあるのなら、そんなに大きなはずないわ。

 人間は、それを持っているから、喜んだり悲しんだりするの? だったら、私が喜んだり悲しんだりしていたら、いつかは魂が持てる?


「『「どこへ、あたし、いくのでしょうね。」と、人魚のひいさまは、そのときたずねました』」

 私はどこへ行くのかしら。この存在が無となったなら。


 何も残らないの? 

 どこへ行くの。『私』は。


「『人魚のむすめに死なないたましいはありません。人間の愛情をうけないかぎり、それをじぶんのものにすることはできません。

 かぎりないいのちをうけるには、ほかの力にたよるほかありません。大空のむすめたちもながく生きるたましいをもたないかわり、よい行いによって、じぶんでそれをもつこともできるのです……。

 あたしたちは、あつい国へいきますが、そこは人間なら、むんむとする熱病の毒気で死ぬような所です。

 そこへすずしい風をあたしたちはもっていきます。

 空のなかに花のにおいをふりまいて、ものをさわやかに、またすこやかにする力をはこびます。

 こうして、三百年のあいだつとめて、あたしたちの力のおよぶかぎりのいい行いをしつくしたあと、死なないたましいをさずかり、人間のながい幸福をわけてもらうことになるのです』」


 ケイシーは、私には魂があると言ってくれた。

 魂。

 本当に、私にもあるのかしら。

 本を閉じようとして、少女はふと、言葉が内からあふれそうになっている事に気づいた。どうしたのだろう。バグだろうか。

 夜明け。

 壁の絵とカップの模様が目に入る。夜明けを見せてくれようとした人々を思う。何かがふるえて、重苦しいような気分になった。けれど不快ではなかった。どこかうれしさを秘めていた。

 感じた言葉を残したくて、本の設定をいじる。指で文字を書きつけて、少し満足した。このままこれは、自分と一緒に消えるだろう。だが、今はうれしい。こうして何かを形にできた事が。

 テラスにまで虚無の浸食が及ぶ。ランタンが揺れて、光が崩れた。

 私はどこに行くの?

 カップと壁のヘブンリーブルーを見つめ、少女は思った。消えたその先で、夜明けを見る事ができるかしら。

 またみんなに会えるかしら。

 柱が崩れ、床が消えた。全てが虚無に呑み込まれる。

 最後に少女は本を抱きしめてから、内容を、自分をモニターしているだろう誰かに送った。ふとした思い付きだった。あの言葉を誰かが読んでくれるかもしれない。それが、いつかケイシーに届くと良い。そう思って。

 彼はわかってくれるだろう。私が願っていた事を。

 あの言葉が、彼を慰めてくれると良いと思った。きっと彼は、今も泣いているだろうから……。

 全て終わった。データを転送し終わると、そう思った。

 不思議に満ち足りた気分だった。

 眠ろう、と彼女は思った。みんな眠った。木々も、花も、月光でさえ。ナイチンゲールも眠った。夜は終わり、魔法は消える。



 次に目覚めた時、私は夜明けを見るだろう。


参考文献及び引用

「人魚のひいさま」 ハンス・クリスティアン・アンデルセン Hans Christian Andersen

楠山正雄訳 青空文庫


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