第二話 夜明けを待つ君のために 1
第二回。
いつ「春の夜」
どこで「庭で」
だれが「少女とロボットが」
長くなってしまったので、分割しました。…この半分で書けるようにならなきゃなあ…。
紅を薄く掃いた空に
ぼんやりと浮かぶ
くすんだ青と灰色にとりまかれて
やがて時が満ち
魔法が光を放ちはじめる
遠く 世界の果てまでも
そして 花開く夜の庭
時にあらざる時
地上にあらざる地上に
もうひとつの地平が現れる
それは魔法
現実にはないはずの 幻の地球
白い花々の香は甘く
迷い込んだ旅人は
夜うぐいすの調べに聞き惚れて
現実への道を 見失う
K・サハラ
『月光魔法庭園』より
* * *
庭園は、春のやわらかな気配で満ちていた。眠たげで、わずかに肌にまとわりつく大気。どこかで小さくうなる虫の羽音。遠く響く夜うぐいすの歌声。甘く香る白い花。
空にはおぼろに霞む月。
「私は夜明けを待っているの」
蔦がからまる白いテラス。そこには古風な装飾をされたランタンがつり下げられ、やわらかな光を放っている。少女は籐の椅子に腰かけていた。かたわらには小さなテーブル。薔薇の模様のティーポットとカップ、そして古びた表紙の本が乗っている。
「知っている? 夜明けには、山の稜線を薄赤く染めて、光が空を踊るのよ。それまで黒かった空が濃紺になり、紫になり、金と赤と水色の、やわらかな光に染まって明るくなるの。目を覚ました昼の小鳥たちが歌い出す。そしてね、朝顔が咲くわ」
朝顔は夏の花だよとぼくが言うと、彼女は笑った。
「良いのよ。広がる青い空、その下に同じ色の花が咲いているなんて、考えただけで素敵じゃない? 一面のヘブンリーブルー」
シンプルな白い木綿のドレスは、彼女に良く似合っていた。黒髪を長く垂らした少女は、明るい青の瞳をしていた。
「素敵な響きよね。天国の青」
彼女に近づこうとして、何かの壁にぶつかった。ぎ、ぎ、と体がきしむ音がする。彼女はぼくの方を見て言った。
「ロボットさん。あなたはここでは異分子よ。私を護るシールドは強固なの。それ以上、近づいては駄目」
……どうして近づけないんだ。
「だってあなたは、正規のお客さまじゃないもの。私はとても繊細なのですって。雑菌だらけのお客さまは、近づけないの」
ひどいなと言うと、少女は笑った。
「こうしてお話しているだけでは駄目なの? 私、全てを拒んでいるわけではないのよ。お勉強は続けているし、『外』から来るお客さまと話をする事もできるわ」
それから少女はぼくに尋ねた。
「あなたはここへ何をしに来たの? 私を訪れるお客さまは大抵、何か相談があるのよ」
何も。そう言うと彼女は首をかしげた。
「では、どうしてここに来たの?」
……ただ、会ってみたかった。
「そう? ではもう、目的は果たしたわね」
……そうだね。
「これからどうするの?」
ぼくは沈黙した。考えていなかった。
少女はくすくす笑うと、古びた本を手に取った。
「何も考えていなかったのね。それなら私は、この本を読んでしまうわ」
……それは、何?
「詩集。古い言葉の本よ」
……聞いても良い?
「良いわよ。
『夜が美しい。
なんとすずやかな月の音色。
時が静かに瞬いて、何かを囁きかけてくる。
誰も、いない。
起きている者は誰も。
愚か者がひとり、夜に魅せられて……』」
そこで言葉を止めると彼女は、空を振り仰いだ。
「時間切れだわ、ロボットさん。あなた、見張りに気づかれたわ。お逃げなさい、早く。ここにいるとずたずたにされてしまう」
ちちち、と鋭く鳴く鳥の声。殺意が押し寄せる。アラームがぼくの内側で点滅する。危険。危険。ぼくは慌てて後ろに下がった。だがどうすれば良いのかわからない。どこから逃げれば?
うろたえていると、少女がぼくに手をかざす。途端に足元に穴が開き、ぼくはそこに墜ちた。庭が遠ざかる。この空間から放り出される。白い光がぼくを包む。世界が消えてゆくのをぼくは眺めた……。
「さようなら。気をつけてお帰りなさい、外のかた」
最後に聞いたのは、少女のやわらかな声。
* * *
覚醒は、不安な思いと微かな頭痛をもたらした。目を開けたぼくは、見慣れた自分の部屋の天井をしばらく見上げていた。
何だったんだ、あれは?
泥屑領域。廃棄情報の切れ端が浮遊する、ネットスラムの底の底。屑情報が汚泥のように降り積もるそこは、意味をなさない切れ端や、かつて何かであっただろうかけらが、ただ漂い、沈んでいる。
そこに異世界への門があるという噂を聞いたのは、数カ月前。月光に照らされる美しい庭園と、お姫さまが住んでいるというおとぎ話だ。何人かがそこに入り込み、幻想の庭園を散策し。しかし二度とは入れなかったと言う。話半分に聞きながら、何かがあるのなら面白いと、退屈な探索を続けていた。そうして見つけた手がかり。
忘れ去られた古い時代の詩の言葉。
その一行を鍵として、門は開かれた。ぼくは勇んで中に入った。そうして、噂通りの美しい夜の庭を目の当たりにした。
ヘッドセットを頭から外す。意識を完全にバーチャルネットから切り離すと、ぼくは自分の手を見つめた。ごく普通の人間の手だ。二十歳は過ぎているが、まだ少し少年ぽさを残す男の手。
あそこでは、ぼくの意識は、ロボットのキャラクターに押し込められていた。なぜかはわからない。だが、自分の体がぎしぎしきしみ、ぎくしゃくとした動きしかできなかったいらだたしさは覚えている。
何かのプログラムでああなるのか。それともバグか。
わからないままにぼくは、庭園を散策した。パスワードは何とか探り当てたものの、ここに管理者がいるとしたら、いつまでも見逃してはもらえないだろうと思ったのだ。あれほど緻密なプログラムを組んだ人間が、甘いセキュリティを組んでいるとは思えない。裏口は一応作ってきたが、残っているかどうか。
緻密。そう。庭園は、0と1でできているとは思えないほど、緻密にプログラムされていた。企業が提供するバーチャル環境など及びもしないそれは、現実としか思えないほど真に迫っていた。
微かに吹く風に木々の葉が揺れる。ほのかに香る花、漂う緑の青い香り。
踏みつけると、足の下で折れる小枝の微かな音。
飛んでゆく羽虫の気配。
どこかで鳴く鳥。そして月光。
その全てにぼくは、感嘆すると同時に呆れ果てた。一枚一枚の葉の動きが違う。小さな虫の動きも、一匹として同じ動きのものがない。緑や花の香りはあまりにも自然だ。月光はごくささいな所でも省略される所なく降り注ぎ、鳥は見事なランダムさと感情を込めて歌っている。
これだけの自然さを出すのに、どれだけの演算計算がされているのか。どれだけの容量を食っているのか。
ネットスラムにある以上、違法なプログラムのはずなのに。
一体、どこの誰がこんなふざけた真似をしたのだろう。そう思いつつ探索していたぼくは、小さな家を見つけた。木造のあずまや。白い柱と壁には緑の蔦がしげり、古びた赤い屋根に月光が降り注いでいる。
そこに、彼女がいた。
『いらっしゃい、ロボットさん。どこからこの『ガーデン』に入り込んだの?』
白いドレスの少女はぼくを見ると、微笑んでそう言った……。
「ヘブンリーブルー」
朝顔の種類だということは、少女が教えてくれた。検索してみると、水色の朝顔がヒットした。こういう花なのか。
彼女の瞳の色と同じだ、とぼくは思った。天国の空の青。この花が一面に咲いたなら、確かにそこは楽園のようだろう。
「夜明けを待っている……」
あの少女はネット上の疑似人格なのだろうか。それにしては対応が人間臭く、自然だった。では生身の人間だろうか。だがそれもおかしい。人間があんなネットスラムの片隅で、一体何をしているのだ。
「姿は少女でも、中身は電脳オタクの中年男だとか? 都市伝説をばらまいては楽しんでいるとか」
ぼくは眉をしかめた。あの少女はひどく愛らしかった。中身が中年男だとはあまり考えたくはない。あの庭園をプログラムした者なら、より人間らしい疑似人格を作り上げる事も可能だろう。だが。
『お逃げなさい、早く』
ぼくを案じてくれた彼女は、作り物だとは思えなかった。感傷からくる思いなのだとはわかっていたが、……思いたくなかった。
「それにしてもあの詩、……誰のものだ?」
ぼくは思考を切り換えた。少女が手にしていた本の詩を思い出そうとする。
覚えている言葉の断片を手がかりに、ぼくは検索を始めた。あちこち調べた後で、ようやく見つける。
K・サハラ。
夭折した詩人で生前はほとんど評価されず、死後も多くに受け入れられたとは言い難い。
作品には幻想的な世界を歌ったものが多く、正直言ってぼくにはいささか、感傷過多で重苦しすぎるように思えた。普段は詩など読まないから、余計そう感じたのかもしれない。
だが彼の詩を好む人間は、ひどくのめり込むようだった。影響を受けたとされる人々の名をざっと見て、ぼくは眉を上げた。工学博士や遺伝子産業関係者、バーチャル産業で有名な企業のトップの名まである。
若くして世を去ったので、あまり多くの作品は残っていない。だが……、こういう人々が好むというのは、何かあるのだろうか。
ぼくは彼の作品を探し始めた。
「よう、KC。調子はどうだ?」
翌日。久しぶりに大学に行くと、悪友のジョンが声をかけてきた。
「いいよ。面白いものを見つけてさ」
「また悪さしてるのか? 電脳オタク」
「人聞きが悪いな。ぼくはシステムを破壊した事も、データを盗んだ事もないよ。珍しいセキュリティを破った事ならあるけどさ。でも今は、そういうのとは違うんだ。別の謎があってさ」
「今度教えてくれよ。そう言えば今週、フットボールの試合があるんだ」
ジョンはフットボールチームのメンバーだ。女の子にも、すごくもてる。対してぼくはパソコンをいじっているのが楽しいという人間で、女の子との付き合いらしいものは、今までに一度もなかった。全然接点のない者同士なのにどうしてぼくたちの仲が良いのか、謎だとぼくらの知り合いはいつも言う。ぼくも謎だ。だが何となく、ジョンとはうまがあった。
「応援に行くよ」
「ああ。じゃ、またな」
ジョンは手を振り、彼を呼びに来た女の子と立ち去った。ぼくは中断していた古い資料の閲覧を再開した。
* * *
「また来たのね、ロボットさん」
庭園はあの時と同じ、春の夜。月光は変わらず降り注ぎ、やわらかで眠たげな気配が空間を支配している。白いドレスの少女が、ぼくを見て微笑んだ。
「もう来ないかと思ったわ」
……どうして。
「手荒い落ち方をさせてしまったもの。あの後、どこか悪くなったりしなかった?」
大丈夫だよと言うと、少女はほっとしたような顔をした。
「今日は何をしに来たの?」
……君に会いに。
この言葉を聞いて、彼女は首をかしげた。
「前もそう言っていたわね。さあ、それではあなたは私と会ったわ。この後は? 何をするの?」
……考えていない。
少女は笑った。
「この会話も前と同じね」
そうだねと言ってからぼくは、ぎしぎしと音を立てる腕を動かした。そうしてずっと気になっていた事を尋ねる。君の名前は?
「私に名前はないわ。みんな、好きな名前で私を呼ぶから」
……そうなの?
「そうよ。私はここで、人の悩みを聞いて過ごしているの。その人たちにとって、私は誰でもない。その人の娘、あるいは孫。恋人の時もあるわ。だから私に名前はないの。
あなたも私を好きに呼んでも良いのよ、ロボットさん。どんな名前をつける?」
ぼくは面食らった。名前をつける? どういう事だ。なぜ名乗らないのだろう。そう思い、名乗れないな、とも思った。違法なプログラムの中で、違法なアクセスをしている。そんな状況で、わずかでも個人情報を漏らせばどうなるか。
ぼくは彼女を見つめた。白い木綿のドレス。黒い髪。空の色の瞳。彼女に相応しい名は何だろう。
……ヘブンリーブルー。
ややしてからそう言うと、少女は目を丸くした。
「あなたは私を、花の名前で呼ぶの?」
……駄目かな。
「駄目ではないけれど。どうして?」
……君の瞳は、昼間の空の色をしているから。
少女は微笑した。
「ではそう呼んで。相応しいかもしれないわ。朝顔は夜明けを待つ花ですものね」
……本当は、思いつかなかったんだよ。でも君は、メアリーやジェーンって感じじゃないし。
「そう?」
……前に会った時、朝顔の話をしていたし。だから。
「そうね、ロボットさん。私は夜明けと朝顔の話をしたわ」
何となくぼくは気恥ずかしくなった。彼女に見つめられているのが、うれしいような、こそばゆいような気がして落ち着かない。どうして良いかわからず、腕を動かしてテーブルの上の本を指した。何か話題をと思ったのだ。
……そこにある詩集、サハラのものかい?
「これ? それもあるけど、他のものもあるわ。サハラの詩はあまり好きじゃないの」
……? 君は前、それを朗読していただろう?
「だって退屈。ここの事しか書いてないのだもの」
少女は本を手に取ると、ぱらぱらとページをめくり、読み上げた。
「『ご覧、夜鶯鳥、
あのひとが通る。
しっとりと天鵞絨の夜の中、
銀の糸を吐く月のもと。
ご覧、夜鶯鳥、
夜がちりちりと金に鳴り響く。
あのひとの吐息がつまびく、
月さえ魅入られた静寂を。
さまよい出たのはあのひとか、(それとも私か?)
夜の青さに身を浸して。
迷わされたのは夜か、月か、(それとも私か?)
あのひとの夢に酔い痴れたのは。
ご覧、夜鶯鳥、
私はあのひとをつかまえるよ。
夜でつつんで、月光で絡めとろう。
歌っておくれ、夜鶯鳥。』」
少女の言葉が終わると、少しの間、静寂があった。
……綺麗だと思うけれど。
そうぼくが言うと、少女は苦笑した。
「たまに来る人ならそう思うかもね。でも私はここに住んでいるの。月光の魔法でできた、この『ガーデン』に。
ここには静寂と夜しかないわ。降り注ぐのは月光、鳴いているのは夜うぐいす(ナイチンゲール)。いつもそう。
それしかないものを歌われてもね……」
……そうか。そうかもしれないね。でもぼくは今日、ここに来て驚いた。
「何に?」
……サハラの詩の通りだったから。ここが。最初来た時はわからなかったけれど……誰がプログラムしたんだい、この庭は。
「それは言ってはならない事なの」
……そう?
「でも詩の通りって言うのはそうよ。ここを作った人は、サハラが大好きだったの。彼の歌う夜と静寂が。だから私もここにいるのよ」
……君も?
「彼の詩に、少女の出てくるものがあるでしょう?」
ぼくは思い出した。彼女のようだと、読んだ時に思ったあの詩。
……女の子が、花を抱きしめている詩があったね。
そう言うと、彼女はふふっと笑った。
「『両腕にいっぱいの花を抱きしめて
25時の地球に少女がたたずんでいる
さやさやと
ふりそそぐ 月の光
両腕にいっぱいの時を抱きしめて
月明かりの世界に少女がたたずんでいる
ゆらゆらと
通りすぎる いくつもの夢……』」
歌うように暗唱する。
「私の事よ」
彼女は言った。
「完璧でしょう? この庭に、私」
……そうだね。ぼくはぼんやりと彼女を見つめて答えた。完璧だ。
「みんなそう言うわ。でもね。私は夜明けの方が好き。夜よりも」
……そうなのかい? そう言えば、夜明けを待っていると言っていたね。
「ええ。私は夜明けを待っているの。もうずいぶんと長い間」
少女はどこか、遠いまなざしをした。
* * *
落ちた後の覚醒。ぼくはヘッドセットを外した。裏口は消されていた。パスワードも変更されており、入るのには難儀した。
けれどふと思いついたサハラの詩を口にしてみると、扉が開いた。思い返してみると前回開いた時、言葉の中にナイチンゲールがあった。ぼくが口にしたのは別の詩人の作品だったが、あれが実はパスワードだったのかもしれない。
今回のパスワードは『すずやかな月の音色』。少女が前回、口にしていた詩だ。愚か者が夜と静寂に魅了されているという、ただそれだけの詩。正直言って、どこが良いのかわからなかった。
ただ、彼女が口にしていたから。それだけで読んで覚えた。
話せば話すほど、わからなくなる。あの子が人間なのか、疑似人格なのか。
「あそこに住んでいると言っていた……」
だが疑似人格とは思えない。いくら精密な疑似人格でも、少し話せばおかしな所が出てくる。人間の持つ曖昧さが、プログラムでは出せないのだ。似せる事はできる。だがあくまでも『似せた』だけだ。どうしても不自然さはついてまわる。
彼女の言動は自然に見えた。
「病気か事故で寝たきりになって、ずっとアクセスしているとか?」
尋ねてみようか。だが面と向かって『あなたは疑似人格ですか』などと尋ねるのは、どこのネットでも失礼な行為に当たる。人間らしく見えないと侮辱した事になるからだ。
嫌われるかもしれない。
そう思うと怖くて尋ねられない。
白状しよう。ぼくはこの時点で既に、幻の庭園に住む少女に心を奪われていた。
「KC」
大学の講義を終えると、ジョンが声をかけてきた。
「なんかやつれてないか、おまえ……どうしたんだ?」
「手のかかる問題があってさ……なあ、ジョン。相談したい事があるんだけど」
「なんだ?」
「女の子って、どんなものを喜ぶんだ?」
ヘブンリーブルーとの会話を思い起こしながらぼくは尋ねた。女の子とは今まで、まともにつきあった事がない。思い返すとあの会話は、とてつもなくセンスが悪くて情けなかった気がした。少しはまともに話ができないのかとぼくは落ち込んだ。
ジョンは口を開けてまじまじとぼくを見つめると、ややしてからその口を閉じ、改めて尋ねた。
「彼女でもできたのか?」
「そういうのじゃないんだ。ただ、何を話せば良いのかわからないんだよ」
「ははあ。可愛い子なのか?」
「可愛いって言うか……彼女と話をしていると、別の世界が開ける気がする。何もかもが思ってもいない方向に進んで、それがとても不思議なんだ」
ぼくの言葉にジョンは呆れた顔をした。
「電脳オタクのおまえさんが、詩人にでもなったのか?」
「詩? そうだな。彼女は詩そのものだ」
ぼくがそう言うと、ジョンは天を仰いだ。
「重症だな。で? その彼女とはどういう関係なんだ。少しは話ができてたりするのか?」
「話は……二回したよ。会えたり、会えなかったり。でもすぐ時間切れになっちまう。今度も会えるかどうか」
ぼくは頭を抱えた。そうだ。パスワード。前回から変更になっているだろう。次にも入り込めるだろうか。
「会えるかな。また会えるんだろうか」
「おい、KC……」
「どうしよう。二度と会えなかったら」
むー、とうなると彼は、ぼくの背をぽんぽんと叩いた。
「まああれだ。とにかくおまえ、ガッツだよ。まず彼女の事を良く知るのが大事なんじゃないか? 女の子って言っても色々だよ。一人一人違うんだからさ」
さすがモテ男。彼の言う事には真実味がある。
「ありがとう、ジョン。具体的にはぼくは、どうすりゃいい?」
「まずは身だしなみをどうにかしろ。見知らぬ相手と知り合う場合、見た目は結構、重要だ。女性はだらしないのを嫌がる」
「あんまり関係ないと思う。生身では会ってないし」
「ネットで知り合ったのか?」
納得したようにジョンはうなずいた。
「まあでも、あれだ。身だしなみはきちんとしとけ。いつオフで出会う事になるかわからんだろ。それに、ケイトが言ってたんだが。私生活がだらしない男は、どれだけ取り繕っても何となくわかるんだとよ。こいつ駄目だって」
ケイトというのは、ジョンの最新の彼女だ。
「そうなのか?」
「そうらしい。俺にはわからんが。女たちには何か、そのたぐいの超感覚があると思っとけよ」
……そういうものなのか。
「それで、普段からそれなりに気をつける必要が出てくるわけだ。おれだって、何もしないでもててるわけじゃないんだぞ? それなりに気を配ってる。付き合ってる女の子たちが鉢合わせしないように、デートの日程を組んだりだな」
「他の男たちから殺されるぞ、ジョン……」
「いや、まあ。つまり普段から気を引き締めてかかれって事だよ。付け焼き刃はすぐバレるから」
それはそうだ。
「でも、何を話せばいいんだろう。言葉が出なくなるんだよ、彼女の前に出ると」
「それなら、彼女にしゃべってもらったらどうだ。好きなものとか、目指しているものとか。尋ねてみろよ。彼女の事もわかるし、一石二鳥だろ?」
「そ、そうだな。うん。そうしてみる。ありがとう、ジョン」
「うまくいくといいな」
ジョンはそう言って笑った。いい奴だなとぼくは思った。
* * *
ヘブンリーブルーは白や青の花をまとめて花束にすると、小さくハミングしながら花瓶にさした。甘い香りが漂う。
今回、入るのには苦労した。けれどサハラの詩を片っ端から暗唱してみると、『25時の地球』で扉が開いた。
「それで、ロボットさん。今日の用事はなあに?」
……君に、会いにきた。
「それ、毎回同じね。その後、何をするのか考えていなかったって言うのでしょ?」
……そうだね。
古びた本は、いつもと同じにテーブルの上。そちらに目をやると少女は、「アンデルセンよ」と言った。
……アンデルセン?
「『人魚姫』の話を読んでいるの。フーケの『水妖記』に少し似ているわね。私、こっちの方が好きだわ」
……『水妖記』って?
「水の精が騎士に恋をして、結婚するの。でも彼女は元々人間ではないから、結局うまくいかなくなって。最後には悲劇に終わる。ドイツの詩人の作品よ。伝説を元にしたものらしいわ」
……おとぎ話か。君は結構、夢見がちな所があるんだな。
「時には真実が、おとぎ話に隠れている事もあるわ。それってとても大切な事よ」
少女は紅茶をポットからカップに注いだ。綺麗な赤い色。湯気が立ちのぼる。
「お客さまにお出しするわね」
白いカップをぼくの方に持ってくると、そっと地面に置いた。
「触ってみて。どう?」
彼女が椅子に戻ってから、ぼくはそろそろと動いた。カップに触れようとする。何か微妙に砂を押しているような感触。
カップは分解して消えた。中身の紅茶だけがしばらくそこに残っていたが、それもやがて消滅する。
「だめね」
少女は残念そうな顔をした。どうしてこんな事に、と尋ねると、こちらを見た。空と同じ青い瞳。
「私とあなたが、同じ所にいないからよ」
……会っているのに?
「ええ。でもいないの。私たちは『ガーデン』にいるわ。ここにね。
でも私のいる領域と、あなたがいる領域は、理論上では別の所にあるの。近くにいるように見えて私たちの間には、無限に近い空間が広がっているわ」
……詩的だね、ヘブンリーブルー。
「事実はいつも、どこかで詩的なものよ、ロボットさん」
……ぼくはここにいるけれど、君もここにいるけれど、二人ともここにいないのかい?
「私はここにいるわ。カップも私に所属するものよ。でもあなたは違う。
あなたはパスワードで扉を開けはしたけれど、実際にはここに入っていない。
ここのセキュリティは厳しいの。侵入者を丸々許容するなんて事はあり得ないわ。だから、事実はこう。
あなたは小さなほころびを見つけたけれど、そこはあなた自身の全てが入れるほど大きな穴ではなかったのよ」
……つまり?
「あなたはここには入れなかった。自分の一部をここに所属する何かにダウンロードして、のぞいているだけの状態なの」
ぼくは自分の体を見下ろした。ロボットの体。ぎ、ぎ、とどこかがきしむ音がする。
「どうしてその姿でいると思うの?」
……このロボットの形?
「バグよ」
少女は微笑んだ。
「なつかしいわ。ここができたばかりの頃、作業をしてくれていたわ。不具合の処理や庭のデータ処理に、その姿のロボットが何体も動いていたの。庭が完成してからは、雰囲気にそぐわないと消去されてしまったのだけれど。
あなたが身にまとったのは多分、どこかに残っていた彼のデータ。それでここのシステムをだまして入り込んでいるのよ。でもバグだから、どちらにせよ正規の情報処理からは外れてしまう。セキュリティがあなたを攻撃するのは、あなたを外からの攻撃と見なしているからよ」
……そうなのか。それがわかっていてどうして、君はぼくに紅茶を出したんだ?
「お客さまですもの」
……受け取れない事はわかっていたんだろう?
「ええ。でもこういう事は、理屈でするわけではないでしょう? 来てくれたお客さまに、お茶をお出しする。話しかける。居心地良く過ごせるように気を配る。……違う?」
考えた事もなかった。良くわからない、と答えると、少女は苦笑した。
「ロボットさん、あなた人間のはずなのに、本当にロボットみたいね。人間同士って、お互いの為にゆずりあったり、気をつかいあったりするのではなかったかしら」
……無意味な事をするのは、時間の無駄だよ。
自分がいかに無粋か認めるのが嫌でそう言うと、彼女はふうと息をついた。
「では、あなたにお茶をお出しするのは二度としないわ。詩の朗読もしない。無駄の最たるものでしょうから。それで良い?」
それも何となく嫌だった。だがそれを言う前にセキュリティに気づかれ、ぼくは急いで落ちる羽目になった。
* * *
「ぼくは、馬鹿だ……」
どよんと落ち込むぼくに、ジョンはふー、と息をついた。
「何したんだ、おまえ」
「彼女を怒らせたかもしれない……」
「だから話してみろよ。何したんだ」
「彼女が僕に……お茶を」
「カフェに誘われたのか? やったじゃないか! 仮想現実のカフェでも、最近は良いのがあるしな。で、何かヘマしたのか?」
「違うんだ……」
「何が違うんだ」
「だから、お茶。実際に飲めないのに、出されても意味がないと思って。それで、時間の無駄だって言っちゃったんだよ」
「おまえは馬鹿かーっ!?」
ジョンが叫んだ。ぼくはさらに落ち込んだ。
* * *
月光が静かに降り注いでいる。
陰影をつける木々の葉の間をくぐり抜け、ぼくは歩いた。ぎしぎしと体がきしむ。ぼくの意識をダウンロードしたロボットの体は、データであるにも関わらず、ひどくリアルに錆び付いた音を立てた。
今回のパスワードは『蜘蛛の糸』。思いもよらない言葉だった。見つけるまでにかなり時間がかかった。
入ったは良いが、ぼくの足は重かった。彼女を怒らせたのではという思いがぐるぐると頭を巡り、今夜ここに来るまで何も手につかなかった。大学でもバイト先でもヘマを繰り返すぼくに、周囲の人々は呆れた顔をしていた。
やっとここにアクセスできた後は、彼女に嫌われていたらどうしようという思いが頭を占めて、怖くて前に進めない。
会わずに帰ろうか。
嫌われるよりはその方が良いかもしれない。
でも、……会いたい。
情けない思いでいっぱいになりながら、ぼくは重い足どりで歩いた。ジョンは、まず謝れと助言してくれた。ただし、何でも良いから謝っておこうというような謝り方はするなと。どういう事かと尋ねると、余計怒らせるからと彼は答えた。
『あのな、KC。女ってのは、感情にものすごく敏感なんだ。何だかわからないけど謝っとけっていうのは、駄目だ。確実に見抜かれる。言っとくが、そういう事したら火に油だ。馬鹿にされたと思って相手は激怒する』
しみじみとした言い方は、彼にも何か痛い思い出があったのかもしれない。
『自分が何に対して怒っているのか、それを男にわかってほしくて怒るんだよ、女ってのは。なのにそれ無視してとにかく謝ればいいやー、なんて事しでかしたら、その場で引導渡される。マジで。その後どれだけ機嫌とっても、こいつは不誠実な男だって評価は二度と回復しない。嘘だと思うだろ? でもそうなんだよ。十年たっても二十年たっても、一度そういう評価されたら、二度とくつがえらないんだ。そういう生き物なんだよ女ってのは!』
何でそんなことにと尋ねると、『わからん』という返事が返ってきた。
『マリアンの話だと、女は総合的に判断するからだそうだ。評価を下す時には、過去の言動や現在の言動、全てを総合的に見て、その上で下すんだとよ。どうやるんだかはナゾだが。
だから一度評価を下したら、その評価が変わる事はないんだそうだ。つまりはそういう事だよ。男の場合は説得すりゃ評価が変わる事はある。なんだー、こいついいやつじゃん、とかそういうのは結構ある! でも女の場合、それはない。絶望的なまでにない。
その代わりに五年とか十年とか、時間かけて評価する忍耐強さがあるんだけどな……。なぜとかどうしてとかは、おれに聞くな。わからなくてもそういう生き物なんだと思え』
マリアンというのは、ケイトと同じくジョンの彼女だ。心理学か何かを勉強中らしい。じゃあどう謝れば良いんだと尋ねると、『正直に謝れ』という返事がかえってきた。
『自分を良く見せようとか、取り繕ったりするな。自分の言った事を思い出して、その時どんな感情を持っていたのかを説明しろ。男には恥ずかしいし難しい事なんだが、それをやらないと女には伝わらん。
女にとって感情ってのは、ものすごーく重要なものなんだ。
何に対して相手が怒っているのかわからない時は、正直にそう言って教えてくれと頼め。謝りたいけど鈍くてわからない、だから教えてくれってすがりついてでも頼め。
いついかなる時でも、自分とは全然別の生き物を相手にしてるんだという意識を忘れるな。自分の常識が通じるとは、ひとかけらでも思っちゃいかん!』
女の子との付き合い方と言うより、未知の生き物対策講座のようだった。
ぎし、と体がきしんだ。ぼくは立ち止まった。どうしよう、とまた逡巡する。何を言えば良いのかわからない。嫌われるのが怖い。
会いたい。
自分がひどく馬鹿な事をしている気がした。情けなくて涙が出そうだ。
ヘブンリーブルー。
迷ったあげく、ぼくはしげみをそっとかき分けた。葉の間から、テラスが見えるはずだ。彼女の姿が見えるかもしれない……。
けれど彼女はそこにいなかった。
ぼくは唖然とした。慌ててテラスに向かう。テーブルも、籐の椅子もいつも通りだ。ランタンの灯は柔らかく周囲を照らし、古い本もいつも通りに置いてある。けれど、彼女だけがいない。
どこに……?
そう思って周囲を見回すと、「ロボットさん、来たの?」という声がした。
「裏にいるの。こっちに来られる?」
ぼくは、テラスの裏に回った。
あずまやの背後には、湖が広がっていた。星の光がまたたいて、水面にちらちらと揺れている。いや、星ではない……?
「夜光虫よ」
ヘブンリーブルーは揺れる光に手を振って言った。
「『ガーデン』の魔法の光。星空が降りているようでしょう?」
すごく、綺麗だ。ぼんやりとしてそう言うと、少女は微笑んだ。
「良い時に来たわ、ロボットさん。今夜は特別なの。一晩だけの花が咲くのよ。ほら……」
彼女が示した先に、うっすらと輝く光があった。湖の中から何かが現れる。
すんなりと伸びた、白く光る花のつぼみ。
ちりちりと鈴のような音が鳴る。湖の底から現れたつぼみは、ゆっくりと花びらを開き始めた。透きとおった花びらは水晶のようだ。中央には輝く露がダイヤモンドのように輝いている。花は次々と湖から現れ、ちりちりと歌い、花びらを開かせる。
これは何の夢だ。
誰の夢なんだ……。
湖にあふれる幻想的な眺めにそう思っていると、声に出していたらしい。少女がふり向いた。
「誰かと言われれば、サハラの夢よ。多分ね」
身をかがめて彼女は、岸辺近くに咲いている花を一つ手に取った。花は彼女の手の中で輝き、ちりちりと音を立てた。
「『ガーデン』はサハラの夢をプログラムしたものだから。でも彼本人が、こんな風に世界を見ていたのかどうかはわからないわ」
……そうなのか?
「プログラムしたのはサハラではないもの。彼の詩を愛した人ではあるけれど、彼本人ではないわ」
……若くして亡くなったそうだからね。
少女は花をそっと抱きしめた。
「そうね。彼を愛した人々は、それは嘆いた。そうして彼の夢を形にしようとしたの。それが、『ガーデン』が作られたきっかけ」
彼の詩のようだ。花を抱きしめる彼女にそう思った。花は、りん、と音を立て、光の塊に変わった。そうして彼女が両腕を空に広げると、光は無数のしずくになり、空に向かって飛び立った。
りいん。
りりいん。
しゃん。しゃりん。
湖いっぱいに咲いた水晶の花たちも、次々とやわらかくほどけてゆく。すずやかな響きを立てながら。
光のしずくが歌いながら空に向かう。
地上から空に向かい、星が降る。
りりいん……。
「あと何度、花を空に帰せるのかしら」
幻想的な光景に言葉をなくしていると、少女がつぶやいた。ぼくが彼女を見やると、彼女はふり向いた。
「あなたの名前を教えてくれる?」
……KC。
少女は目を丸くしてから微笑んだ。
「ケイシー。そう。ケイシーと言うの」
……君は?
「私はヘブンリーブルーよ。あなたがくれた名前は優しいわ」
……名前が、優しい?
「花の名前で私を呼ぶ人は、今までにいなかったから」
意味がわからず困惑していると、彼女は「セキュリティが復活したわ」とつぶやいた。
「ロボットさんにこの光景を見せたくて、監視を眠らせたの。でももう限界みたい。落ちた方が良いわ、ケイシー」
ぼくの足元にぽかりと穴が開く。強制退去コマンド。前もこれをやられた。
……まだ謝っていない。ぼくは君に謝りに来たんだ!
慌ててそう言うと、少女の笑い声が聞こえた。
「明日聞くわ。次のパスワードは『静寂の音色』よ」
最後に聞こえたのはその一言。
* * *
「おい、KC。こっちに戻ってきてるのか、おまえの頭。ぼーっとしてるけど、彼女とはうまくいったのか?」
ジョンが声をかけてきた。
「ああ……良くわからない。会えたんだけど、……夢見てるみたいで」
「はあ?」
「今日も会える事になった。そうだ。ぼく、名前を尋ねられたんだよ、彼女に!」
勢い込んで言うと、ジョンは妙な顔になった。
「そこまでもいってなかったのか……」
「それで、今日ちゃんと謝るつもりなんだよ!」
「そうか。がんばれ」
何やら気の毒そうな顔をされたがかまわなかった。ぼくにとっては大きな進歩だ。だって、彼女の方から名前を尋ねて来たんだ! しかもパスワードまで教えてくれた。
ああ、だけど昨日の彼女は本当に綺麗だった……。
「『そして 花開く夜の庭、時にあらざる時、地上にあらざる地上に、もうひとつの地平が現れる……』」
「ああ? なんだそりゃ」
「サハラっていう詩人の詩。彼女はそんな感じなんだ……」
ジョンは「重症だな」とつぶやいた。ぼくはうっとりしながら、彼女の姿を思い浮かべた。
* * *
庭園はいつも通り、月の光に彩られていた。月光魔法庭園。サハラの詩を思い浮かべ、ぼくは微笑んだ。
なんて美しいのだろう。
彼女と出会って以来、世界が変わった気がする。今までぼくは一体何を見てきたのだろう。大気の色が、花や木々の気配が、こんなにも鮮やかであるとは知らなかった。
この仮想現実の空間を作った人間も、そんな風に思っていたのだろうか。
あずまやに向かうと、彼女がいた。けれど一人ではなかった。もう一人、背の高い紳士がいて、彼女と話をしていた。黒いスーツをぴしりと着こなしている姿は、ぼくが言うのも何だけれど決まっていて、彼女と並んでいると姫君と騎士のようで、似合いの一対に見えた。
ぼくは立ち止まった。誰だ?
「ケイシー」
ヘブンリーブルーが手を振った。ぎしぎしなる体を動かしてぼくは、彼女の方に近寄った。
「エドおじさま。彼がケイシーよ。ケイシー。この方は、私の後見人をしているエドおじさま」
彼女は微笑んでぼくたちを紹介した。
「やあ、ケイシー。そう呼んでも良いかな? 君の事は、クリスタルから聞いているよ」
……クリスタル?
「エドおじさまは私をそう呼ぶの」
「魔法の月光を浴びて輝く宝石。私にとっての君はそれだから」
紳士は微笑んでからぼくの方を向いた。
「昨夜は彼女の側にいてくれたのだってね。礼を言うよ。いつもは誰かが一緒にいるのだが、……昨夜は一人にしてしまったと、悔やんでいた」
「私は大丈夫よ、おじさま」
「君は私たちにとって、かけがえのない存在なのだよ、クリスタル」
「知っているわ。でも私は、私でしかないのよ」
彼女の言葉に紳士は、少しつらそうな顔になった。
「そうだね。だが、私たちが君を大切に思っているのも本当だ。彼と少し話をしてもいいかな?」
「それなら私、湖の方に行っているわ。ケイシー。エドおじさまをお願いね。ここでの姿は若いけれど、もうかなりのお年なの。無理はさせないでね?」
そう言うとヘブンリーブルーは微笑んで、家の裏手に歩いていった。
残されたぼくは、ぎしぎしとなる体を持て余しながら紳士を見上げた。何となく、みじめだった。彼は若くすらりとしていて、ポンコツのロボットの姿をしたぼくとは、かけ離れて見えた。
「君は彼女をヘブンリーブルーと呼んだのだそうだね」
……いけませんでしたか。
そう言うと彼は微笑んだ。
「いや。あの子は喜んでいたよ。我々は彼女を、水晶になぞらえてしか呼べないのでね……」
ふうと息をつくと、彼はテラスの階段に腰をおろした。
「あの子には友だちがいない。ずっとそうだった。私たちは彼女の後見人で、彼女を愛してはいるが。友だちかと言うと首をかしげざるを得ないからね……ありがとう。彼女の側にいてくれて」
……何もしていません。
「してくれているよ。あの子が喜んでいる、それだけで本当にありがたい。ケイシー。君がどうしてこの『ガーデン』に迷い込んだのかわからないが、何度もやって来て、あの子と話をしてくれた事に感謝する」
意味がわからず、ぼくは彼を見た。彼は苦笑すると、周囲に向かって手をふった。
「驚いただろう、ここに来た時は」
……驚きました。ここはとんでもない。
「そうだろう。私も呆れたよ。ここまでやるかという執念のプログラムだ。容量も半端じゃない」
……あなたが組んだプログラムではないのですか?
「いいや。手伝いはしたがね。私ではない」
……では、誰が。
「それは言わない方が良いだろう。今はまだ。言える事は、彼は……ケイショウ・サハラに取り憑かれてしまったという事だ」
……ケイショウ?
「知らなかったのかね? K・サハラの本名だ。ケイショウ。彼は日系人だった。君の名を聞いた時にはだから、驚いたよ。ケイシーとケイショウ。妙な偶然じゃないかね?」
エドは宙に向かって指を動かした。指先から光が生じ、宙にきらきらと線を残し、デザインにしか見えない複雑な模様を作った。
「『カンジ』だよ。日本と中国……あと、コリアでも使われているかな? 綺麗な模様に見えるが、文字だ」
佐原 珪晶
彼の描いたのはそういう模様で、ぼくには全く読めなかった。
「これでサハラ、ケイショウと読む。サハラと言うと、我々は砂や砂漠をイメージするが。ハラ、という音には泉の沸く野原という意味があるらしいよ。
ケイショウの文字にはどちらにも、水晶の意味がある。だからケイショウ・サハラは……彼は、泉の沸く野原で輝く水晶という名前を持っていたんだ」
彼は微笑んだ。
「そのものという感じだったな。夢が人間の形を取れば、彼のようだったろう。彼からは、美しい夢が泉のように涌き出ていた。その夢はきらめく結晶になって、絶え間なく彼からこぼれ落ちた」
本人を知っていたのか。そう思い、ぼくは相手がかなりの年齢なのだろうと見当をつけた。サハラの没年は、何十年も前のはずだ。
……あなたの方が詩人のような気がします。
そう言うと、彼は肩をすくめた。
「私が? そうじゃないさ。私も彼に参ったくちだからね。長年彼の夢から離れられなくて、少しはこういう事も言えるようになった。
彼に出会った時、こういう人間もいるのだと初めて知った。それまでの私は全てを論理的に考え、理詰めで生きていたからね。
本当に参ったよ。あそこまでわけのわからない、論理で割り切れない存在がいるとは。
いらいらして腹が立った。でも目が離せない。美しいと感じる自分がいるんだ。全く、本当に腹の立つ男だった……」
彼は苦笑し、けれどどこか懐かしげな目をして言った。
「ここをプログラムした男は、ケイショウの親友だった」
……親友。
「ほとんど恋の域に見えたがね。彼のケイショウへの執着は、すごかったから」
……恋!?
「実際に恋愛関係にあったわけじゃないさ。みんな若かった。友情が、何より大切だと言い切れる年代だったんだ」
エドは目を伏せた。
「年を取れば、そうも言えなくなってくる。やがては落ち着いた友情に変わり、互いに家庭を持ち……ごく普通の関係になっただろう。だが、その前にケイショウは死んでしまった」
どう見ても青年に見える相手が昔を懐かしむような発言をしているのは、少し奇妙な気がした。けれど彼の言葉には真実を語っている重みがあって、ぼくには何も口をはさめなかった。
「ここを作った男は私と同じように、全てを理詰めで考える人間だった。そう……天才と言っても良いだろうね。
そういう人間は、ある種の人間に麻薬のように魅了される。彼にとってのケイショウは、その麻薬だった」
……麻薬?
「うまく夢が見れないのだよ。そういう人間は。感性で何かを表現する事が難しい。けれど感性がないわけでも、そういう世界が嫌いなわけでもない。ずっと憧れ続けている。
ケイショウは、夢が凝縮されたような人間だった。理詰めで生きている我々のような人間にとって、そんな人間に出会った時、反応は二つしかないんだ。
嫌い抜いて遠ざかるか、全面降伏して愛するか」
小さく笑うとエドは続けた。
「私もそうだったが、彼にとっては、世界がひっくり返るほど衝撃的な出会いだったようだ。彼の中に自分の夢があると言ったほどだったからね。それぐらい目の離せない存在だったのだろう。
それでも相手が生身の人間なら、幻滅する事はある。情熱がさめる事だってあっただろう。
だがケイショウは死に、彼は夢からさめるきっかけを失った。その執着の果てに産み出されたのが、ここだ」
エドの言葉は淡々としていた。淡々としている分、余計に重みを感じた。
「今も彼はケイショウに取り憑かれたまま、彼を求め続けている。妻や子を持ち、財をなし、ひとかどの人物として名をあげた。それでも彼の中心にあるのは今もケイショウだ。
それが幸せな事なのか、不幸せな事なのか……私にはわからん。ある意味、幸せではあるのだろうが。
ここを維持するのにどれだけの費用がかかっているか、わかるかね?」
……大変な額である事はわかります。労力も相当にかかるはずだ。
「その為に彼は、自分の自由にできる財産を作ったのだよ」
エドは首を振った。
「呆れはしたが、理解はできた。ここがあるからこそ彼は立ち直り、現実と折り合いをつけて生きる事ができた。だが彼女については……これで良かったのかどうか、今も悩む」
……彼女?
「あの子に水晶という名を与えたのは彼だ。新しいケイショウを彼は求め、ここに産み出した」
……産み出した?
エドはぼくを見た。
「気がつかなかったのかね? 彼女はプログラムだ。この『ガーデン』を制御する、疑似人格だよ」
湖は暗く沈み、夜光虫の光がちらちらとまたたいていた。
「おじさまとのお話は終わったの?」
……うん。
「ぼんやりしているのね」
ぼくは何も答えなかった。言えなかった。プログラム。この少女が。
『わからなかったとしても無理はない。彼女にかかった費用と時間は莫大なものだった。『ガーデン』を象徴する少女をその辺の人形と同じようなものにはしたくないと彼は言い、それには我々も同意見だったからね。
より人間らしく。より自然に。同じ言葉しか受け答えしない限界のある疑似人格ではなく、成長し、自分で判断できる夢の疑似人格』
エドはそう言った。
「ケイシー?」
少女がぼくを見る。少し心配そうに。
……君は、プログラムだったの、ヘブンリーブルー。
そう言うと、少女は微笑んだ。
「そうよ。私はこの『ガーデン』に住む少女だから」
……『ガーデン』。
「月光の魔法は、現代では0と1でできているの。ここは夢で、私は夢の住人。私はそのイメージで作られたの。だからここに来る人はみんな、私を自分の呼びたい名前で呼ぶわ」
……でも君は、自分の意思があるように見える。
「そう見せているだけよ。ケイシー。ロボットさん。私はとても大きな容量を持っているの。それは毎日、増え続けているわ。でも私は人間じゃない。あくまでもプログラムにすぎないの」
……そうは見えないよ。
「あなたがそう思いたいからよ。だからあなたの目には、私が人間に見えてしまう」
……だって君は……、すごく。人間らしい。
ぼくは混乱していた。怒ればいいのか、泣けばいいのかわからないような思いを味わっていた。
……ぼくは、お茶なんか味わって飲まないんだ。詩だって読まない。おとぎ話だって全然だ。
そんなものには何の意味もないと思っていた。必要ないだろ、生きていくのには。
でも、君は詩を読むんだ。おとぎ話には真実が隠れているって言うんだ。
ぼくにお茶を出してくれるんだ。
意味のない事でも、相手を思いやるのには大事な事だって言うんだ。
プログラムだって? じゃあぼくは何だ。ぼくは何なんだ。
ぼくの方こそロボットだよ。数列でできてるような人間だよ。君がぼくに見せてくれた事なんて知らない。全然知らなかった。
それなのに君がプログラムだって? そんなはずない。そんなはずないよ!
何を言っているのか、自分でもわからなかった。体をぎしぎしさせながら、ぼくはわめいていた。
……月光のきらめきを、光の花の美しさを、ぼくに見せてくれたのは君だ。そんなものには何の意味もないと思っていたのに、ぼくには目が離せなかった。
君が見せてくれると、全部に意味があると思うんだ。
緑の色が、星の光が、みんな、みんな、意味があるって。
なのにひどいよ。君は、自分が偽物だって言うのか。人間じゃないって。
全部偽物だったって言うのかい。ひどいよ!
「ケイシー」
……全部が物真似かい。全部が偽物なのかい。一つとして君自身のものはないのかい。ぼくはそんなものに感動して、そんなものに会いたいって、そう思ってたって言うのかい。それじゃあんまり……あんまりじゃないか!
「ケイシー……」
……君が偽物であるわけがないんだ!
叫ぶと少女は、なぜか悲しい顔をした。
「それでも私はプログラムなの。この事実があなたを傷つけてしまったのなら、ごめんなさい」
……謝らないでくれよ!
ぼくは叫んだ。そうして彼女に会ってから初めての行動を取った。
自分から接続を切り、魔法の庭園から落ちたのだ。
* * *
「ひどい顔してるぞ、KC」
ジョンが恐る恐るという風に言った。ぼくはぼんやりと彼を見返した。
「何かあったのか? 言いたくないんなら別に言わなくても良いんだが」
「ぼくは最低だ」
「KC?」
「最低の、最悪の、大馬鹿野郎だ。彼女のせいじゃないのに。ぼくが勘違いしたのに。なのに彼女に八つ当たりした。自分がこんな情けない奴だったとは思わなかった」
ジョンは黙ってぼくを見つめると、呼びにきたケイトだかマリアンだかに何か言って向こうに帰した。それからぼくの所に戻ってきて、「飲みに行くか?」と言った。
「そんな気力ないよ」
「良いから付き合えよ。男には誰だって、自分が大馬鹿野郎だと思う時があるんだよ」
「君にもあったのか?」
「しょっちゅうだ」
その夜ぼくは、ジョンと飲んだ。彼女についてあれこれしゃべった気がするが、酔っぱらいの常で脈絡のない事を並べ立てたようだ。
翌朝、ジョンの部屋で目を覚ますと、二日酔いの薬と一緒に「人魚で天使な彼女が大事なら、すがりついてでも逃すな。とっとと謝ってしまえ」と置き手紙があった。
薬はありがたくいただいたが、ぼくは手紙を握りつぶした。