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第一話 進化の階梯

そういう訳で、第一回目。


いつ「冬の朝」

どこで「階段で」

だれが「女とスライムが」


……よりにもよってスライム……


 天界。



 白く(かす)む清らかな世界を、天使たちが行き来している。慈愛(じあい)を羽に乗せ、やわらかな雨のように輝かせ、行く先々を潤しながら。


 一人の天使が雲間を通り抜け、淡く輝きながら霞む庭に降り立った。天界の領域にありながら地上の世界に重なるそこには、地上から、無数の階段が伸びている。


 階段はそれぞれが違う色をし、形はもちろん、材質すらも違っていた。似たものはある。だが一つとして同じものはない。


 あるものは木の梯子だった。あるものは縄にこぶがついているだけ。そうかと思えば花を編んだ華やかなものや、金属らしき無骨なものもある。材質が何なのか、わからないものもあった。


 それらは一つ一つに目を止めると確かにそこにあるのだが、視線を外すと途端に重なり合い、絡み合って判別が難しくなった。そうしてはるかな地上から、さほど広くはないその庭に向かい、幾千、幾万、幾億と、ゆるやかに曲がりくねりながら伸びている。


 人には判別は不可能だ。だが天使たちには、一つ一つの区別がついた。その意味するところも。


 進化の階梯(かいてい)


 あらゆる命が魂の成長を望む時、天に向かって伸びる(きざはし)がこれである。



「おや」



 天使は首をかしげた。一つの階段が目にとまったのだ。前に来た時にはなかったものだった。



「意識を高め、魂を進化させようとする生命が、新たに現れたのですね」



 微笑んだ天使は、若い娘の姿をしていた。まだそれほど上級ではないので、性別のあるかたちを取っている。黒髪に青い目の彼女は、動くたびに金の光を残像として残した。背には二枚の白い翼。


 彼女の名はシュリア。この『(きざはし)の庭』で、命あるものたちの、魂の進化を見守る役目を負っている。




*  *  *




「これは……何の生き物?」



 困惑したようにシュリアはつぶやいた。目の前にある階段は、不安定で、不格好だった。それは良い。材質が泥に見えるが、そういう事もたまにはある。


 しかし伝わってくる命の波動、魂のかたちがどうにも不明瞭だ。



「人間……ではありませんね。たまに泥の階段を形作ってくる者がいるけれど。こんな風に魂がふらふらと定まらず、切れ切れの気配をさせる事はない。どうにも存在がぼやけている……」



 同時に寒さを感じた。凍てつくような冷えた大気。白と黒、青の気配。冬だ。それも夜明け頃の、暗い時間。


 この生き物は冬の季節のその時間帯を、魂に強烈に刻んでいる。


 何かよほどの事があったのだろう。ただそれにしては、感情が希薄だった。伝わってくる印象は冷えた大気と色らしきものだけで、他には何もない。普通、ここまで明確に具現化される記憶や印象は、喜びや怒り、嘆きなど、何かの感情を伴うものなのだが。



「感情が、こうまで見えないとは。一体どんな命が魂の進化を望んだのでしょう」



 進化の階梯(かいてい)は魂から生じる。一つの命が魂を成長させたいと心の底から望んだ時、天界へと続く階段がその魂から出現する。


 そうして努力を続け、己を磨いたものは、段を登る。天に向け、魂を高めてゆくのだ。


 それゆえ一つとして同じものはない。またその形は日々うつろいゆく。


 それでも天使たちには一つ一つの階段の区別がつく。それがどの魂から生じているものなのかも。しかし今回、シュリアには、この階段を生じさせた生き物の見当がつかなかった。それぐらい珍しかったのだ。


 興味を覚えたシュリアは、泥の階段に近づいた。そっと触れ、ついで階段をたどって降りてみる。


 段は曲がりくねり、はるか下へと続いていた。翼を広げてシュリアは、ゆっくりと降下した。円を描くように曲がる段をたどり、地上近くまで降りてゆく。


 そうして、段の一番下にいる生き物を見た。


 絶えず揺れて、定まらない形。


 どこが前でどこが後ろか、おそらく本人にも不明な体。


 溶けたように崩れ、(うごめ)く、その生き物を。



「………………、スライム?」



 凍てつく大気と夜明けの気配を濃厚にまとい、ぷるぷるどろどろと(うごめ)くそれは、腐った水のような色をした、巨大かつ凶悪な感じのゼリー状軟体生物だった。


 主に湿気た地下などに生息し、ひたすら食欲のみで生き、迂闊(うかつ)な冒険者を主食にしたりする生き物。



「なぜスライムが……。いえ。魂の進化を望む命には、等しく進化の機会が与えられる。このスライムにも何か、成長を望むきっかけがあったのでしょう」



 シュリアはスライムを見つめた。良く見ると、体が半分透けている。



「もう、地上での命は終わっているのですね。お聞きなさい。あなたは魂の成長を、進化を望んだ。それゆえあなたには魂が生じ、進化の階梯(かいてい)がその魂から現れた。あなたには、地上に生まれ変わり、魂を磨く機会が与えられます」



 そう言うと、半透明のスライムがぶるりと震えた。シュリアは力づけるように微笑むと、一歩近づいた。



「この(きざはし)を登るも降りるも、あなた次第なのです。望むのであれば、わたしがあなたの魂を地上に送りましょ、」




 ごわば!




 突然スライムが伸び上がり、シュリアに飛びかかった。体の先を触手のように伸ばして、彼女を取り込もうとする。


 すんでの所で飛び下がり、難を逃れた彼女は、ばくん! と軟体状の体を閉じ、うごうご震える相手に思わず青ざめ、あとずさった。この数百年は感じた事のない、心臓のばくばくする感じを味わう。


 シュリアに食いつきそこねたスライムは、階段の一番下で、でろでろぷるぷるしながら平たくなっている。



(食欲? 今のは食欲ですか? わたしに対して?)



 天使として多くの生き物を見てきたが、エサとして見られたのは初めてだ。どうしようかと思ったが、役目は役目だ。魂の成長を望んだ命に対しては、公平に導きを与えねばならない。



「……成長を、望みますか。進化を望むのではあれば。もう一度地上にて、生涯を全うしなさい。己を、磨く機会を与えましょう」



 まだ動揺が残っていたが、シュリアは言った。やや一本調子になってしまったが。



「この長き階梯(かいてい)を、登ってきなさい。幼子よ。汝の魂に祝福を」



 そう言うと、シュリアの翼から金色の光が散った。細かな粒子がやわらかに広がり、その場に降り注ぐ。


 半透明のスライムの様子が変わった。彼(?)はぶるりと震えると、でろりと揺れ、そうして輝きながら消えた。


 その場にあった、冬の朝の気配が消える。



「転生が成った」



 シュリアはつぶやいた。やはり、あのスライムは進化を望んでいたのだ。スライムの魂は地上に戻り、新たな命となって存在を始めているはずだ。


 そのはずだが。



「……」



 何やら不安になった。スライムの転生。一体、何に生まれ変わっているのだろう。


 シュリアはスライムの階段を見つめ、ついで階段の一番下、さっきまでスライムがいた辺りに目をやった。そこは白く霞む雲に取り巻かれ、先が消えている。そこから地上につながっているのだ。


 シュリアは目をこらした。


 視界が変わり、意識が次元を越える。地上の世界の様子が目の前に見えてきた。緑の木々。流れる小川。小鳥の歌声。



(あの魂はどこに?)



 階段からつながる意識の糸をたどり、元スライムの存在を追いかける。石造りの城が見えた。廃墟だ。


 中を歩く人間の姿が見える。


 松明を持ち、剣をかまえた男と、杖をもった女の二人組。このどちらかが、あのスライムなのだろうか?


 いや、違う。


 その時、男がはっとした顔になった。女が緊張して杖を構える。薄暗い廃墟の中。何かが現れる気配がした。



*  *  *



 廃墟の中を進んでいた男は、ぎくりとした。何かがくる。危険を知らせる感覚に従い、剣を持ち直す。後ろにいる女が、杖を構えたのが気配でわかった。


 次の瞬間、どろどろとした粘液に似た触手が一斉に男たちに襲いかかる。男は松明を投げつけた。


 炎にひるんだのか、それは後退した。じゅっという音と共に火が消える。



「何よこれ」



 肉色のどろりとしたそれに、女が声を上げた。男は叫んだ。



「火が効くのは確かだ。頼めるか?」


「まかせて」



 女は杖を粘液状の塊に向けた。



*  *  *



 現れたのは、どう見てもスライムだった。



「……」



 シュリアは沈黙した。転生を果たしたスライムだ。彼(?)の魂の気配がする。しかしなぜ。



「なぜ、ピンク色……」



 転生したスライムは、ピンク色になっていた。微妙と言えば微妙なバージョンアップである。


 とは言え薄暗い廃墟では、色など良くはわからない。二人の冒険者は即座にそれをスライムと認識し、魔法使いの女が炎の魔術を放った。



 ピンクのスライムは瞬殺された。



*  *  *



 凍てつく大気の気配がした。


 シュリアが見ていると、階段の一番下に、ゆらゆらと何かの影が現れた。ぶるぶる震え、でろりと溶け崩れる、


 半透明の、ピンクのスライム。


 転生した直後にあっさりと生涯を終えた彼(?)は、心なしか消沈しているようだ。ぷるぷる、ぶよぶよ、でろでろとしているが。



「残念でしたね」



 咳払いをしてからシュリアは言った。



「しかし魂の進化を、成長を望むのであれば、階梯(かいてい)を登る事ができます。地上にて今一度、生涯を全うしますか」



 ピンクのスライムはでろーんと横にのびた。表面がさざ波のように波うっている。



「望むのであれば、あなたを地上に送り、己を磨く機会を……」



 シュリアは言葉を止めた。スライムがでろでろーんと揺れたのだ。どういう反応だろう。



 ぷるぷるぷる。

 でろでろでろ。



 スライムは蠕動(ぜんどう)しながら進化の階梯(かいてい)の上で(うごめ)いた。そうしてじりじりと、じりじりと、カタツムリより遅い速度で階段を一段、登ろうとし始めた。



(おお)



 シュリアは目を見開いた。この魂は。こうまで天を目指し、光を求めている……。



 ぷるぷるぷる(ずるり)。

 でろでろでろ(ずるり)。



 這いずって登ろうとするたびにずり落ち、それでもあきらめることをよしとせず、ピンクのスライムは挑戦を続けた。


 そうして果てしない努力の末に、一段。階段を登ったのである。



「おお……。すばらしい。良くやりました」



 頬を紅潮させ、シュリアはスライムに近寄った。



「何と尊い努力でしょう。あなたのその純粋なまでの向上心は、人間に勝るとも劣らない。すばらしい事で……、」



 ぐおばっ!



 ばこっと中央が四つに分かれ、そこから触手を伸ばしたスライムに、シュリアは引きつった顔で飛んで逃げた。



(あ、危なかった……)



 翼から落ちた羽が、ひらひらと舞う。祝福でできた羽は溶けるように大気にまぎれ、輝いて消えてゆく。その内の一枚がスライムの上に舞い降り、細かな粒子になって消えた。


 次の瞬間。



「あ、」



 ピンクのスライムはぶるりと震えた。そうして輝くと、階段の二段目から消えた。




*  *  *




 地上に目をやったシュリアは、別の廃墟から彼(?)の魂の気配がする事に気づいた。無事に転生できたらしい。



「今度は一体、何に生まれ変わったのか……」



 そうつぶやくと、人間の姿が見えた。男と女の二人組。先程と同じような装備の冒険者たちだ。


 彼らは廃墟に入って行った。


 そうして何かの現れる気配に武器を構えた。




*  *  *




「本当にここに、宝なんてあるの?」



 杖を持った女が言う。剣をたずさえた男は「ああ」と答えた。



「噂では、かなりの珍品だって話だ」


「暗いし、じめじめしてるし、気が滅入るわ。こういう所って、どろどろ系のヤなやつが出てくるのよね。湿ったところが大好きな、そこの曲がり角に隠れてるようなのが!」



 叫ぶと女は杖から炎を撃ち出した。周囲が明るく照らし出され、廊下の曲がり角に隠れていた何かが飛び出してくる。



「スライムだ!」



 男がわめいて剣を構えた。



「だと思うけど……色が変ね」



 油断なく杖を構えながら女が言った。



「そうだな。こんなのは初めて見る。……動きも何だか変じゃないか?」



 二人の目の前に現れた巨大なスライムは、金色に輝いていた。そうしてその動きは、ぷるぷる蠕動(ぜんどう)してはいたものの、どこかぎこちなく、固かった。




*  *  *




「なぜ、金色……」



 シュリアはつぶやいた。冒険者の男女の前に現れたスライムは、前回同様、バージョンアップと言うには微妙な変化をしているように見えた。



「色彩を変える事が、彼の望んでいた進化……? いや、待って。この動き、どこかが……、あ」

 


 金のスライムの固い動き。それは。



「これは……背骨!?」



 何と言う事であろう。進化を望んだスライムは、『脊椎(せきつい)』を獲得(かくとく)していたのだ。


 しかしスライムはスライムである。ぷるぷるでろでろしながら冒険者を食べようと食欲に突き動かされ、触手をのばそうとして背骨に阻まれ。あげく巨大な体にある背骨が廊下の幅より大きかったもので、ひっかかって、つっかえた。



「…………」



 身動きのできなくなった所に魔法使いの女が杖を向ける。炎が撃ち出され、周囲を赤く染め上げて踊った。



 金のスライム(背骨つき)は瞬殺された。




*  *  *




「お帰りなさい」



 半透明の金のスライム(背骨つき)が、二段目の所に現れる。またもや転生した直後にあっさりと生涯を終えた彼(?)に、シュリアは優しく声をかけた。


 スライムは巨大な体の真ん中をべこりとへこませ、平たくなって震えている。しかし背骨があるもので平たくなりきれず、微妙に固い動きをしていた。へこんだままの真ん中辺りから、かたかたという音がする。背骨がどこかにぶつかっているらしい。


 冬の朝の、鋭い大気が周囲を取り巻く。


 スライムは、それ以上の動きをしようとしない。



「気落ちしないで下さいね」



 ひどく大人しい相手に、落ち込んでいるのだろうかと心配になり、シュリアはそう言った。



「何もなせなかったと思っていますか? 同じことをただ繰り返しているだけだと?」



 そっと近寄った。スライムは動かない。



「何をしても、どうがんばっても、前に進めない。同じ場所でずっと足踏みをしているような。そんな時はだれにでもあるものですよ」



 一歩近づく。


 さらにもう一歩。



「それでも、努力を続ける事が……」



 ごばああっっっ!



 ばこりと割れた、でろでろの腹から触手が伸びて、思い切りシュリアにつかみかかった。シュリアは飛び上がって上空に逃げ、触手がそれでも追いかけてくるのを見て青ざめた。すごい執念だ。



「何と言うか……食欲がすべてに勝っているのでしょうか。ひょっとして、食欲から進化を望んだ、とか……」



 つぶやきつつ離れると、触手が戻った。金のスライム(背骨つき)がでろりーんと平たくなる。


 不貞腐(ふてくさ)れているようにも見える。


 シュリアは小さく息をついた。話を続ける。



「先程も言いましたが。どうがんばっても、前に進めない。同じ場所でずっと足踏みをしているような。そんな時はだれにでもあるものです。わたしにも覚えがあります」



 そう言うと、スライムはぷるぷる震えた。聞いているのかどうかわからない。



「そんな時は自分が、本当に小さくてつまらない、何の意味もないものだと思ってしまう。つらくて、ただ、もがいているだけのようで、……つらくて」



 金のスライム(背骨つき)は、静かにぷるぷるしている。



「でも、そうではない。わたしたちは誰でも、愛され、許される存在なのです」



 ぷるぷるぷる。



「誰もが特別で、大切な存在なのです。あなたも」



 ぷるぷるぷるぷる。



「あなたがどうしてこの階段を登ろうと思ったのか、わたしにはわからない。けれどその心は、尊いと思います。もう一度言います。あなたは大切な存在なのですよ」



 ぷる。



「たとえ進んでいないと思っても。同じ事をただ繰り返しているだけのように思えても。続けて下さい。努力を。


 天をめざし、神の慈愛に感謝して、ただ続ける事が、実はとても大事なのです。全く進んでいないようでも、その間に力は蓄えられているものなのですよ。冬の間、枯れたように見える木々が、実は力を蓄えており、春には芽吹くように。


 あきらめないで下さいね……?」



 金のスライム(背骨つき)は、しばらく静かだった。


 それから思い立ったかのようにでろりーんと伸び上がると、どろどろしながら、何度も滑り落ちながら、階段を一段、登り始めた。



 でろでろでろ(ずるり)(ごちん)。

 ぷるぷるぷる(ずるずるり)(ごちん)。



 背骨があるもので、落ちるたびに痛そうな音がする。


 シュリアはその様子を見守った。そうしてでろでろずるり、ごちんを何度も繰り返した後、ようやっと次の段に登った金のスライム(背骨つき)に、満面の笑顔で「おめでとう」の言葉を送った。


 スライムの体が光に包まれる。


 彼(?)は地上へと転生した。




*  *  *




 地上を見やったシュリアは、やはり廃墟に彼(?)の魂の気配を感じた。前々回がピンク、前回が金色に背骨という変化をしている事を考えると、今回も基本的にはスライム、後は微妙なバージョンアップではなかろうか。


 そう思っていると、廃墟に数名の冒険者たちが近づくのが見えた。剣士、魔法使い、盗賊、僧侶。


 彼らは廃墟に入って行き……、


 悲鳴を上げた。




*  *  *




「今回はショボい仕事だなあ」



 不満そうに盗賊の青年が言った。



「仕方あるまい。ここの調査は何年もされておらん。そろそろ中を調べても良いころじゃ」



 白い(ひげ)の僧侶が言う。



「こういう所って、アンデッド系の魔物が良く出るわよね。その時は頼むわね。あたしの炎も一応効くとは思うけど」



 魔法使いの少女が言うと、



「おれの剣にも頼れよ」



 と、パーティのリーダーをつとめる剣士がぼやいた。



「頼ってるわよう。集中してる時に攻撃されたら、ひとたまりもないもん」


「まかせておけ。ところでそろそろ無駄口は終わりに……」



 剣士の男が言葉を途切れさせる。緊張が四人に走った。なにか、いる。


 廃墟の暗がりから、うぞうぞと(うごめ)くものがこちらへやって来る。微妙に固い動きでかたかたいう音がたまにするが、どうもスライムのようである。



「灯よ!」



 魔法使いの少女が光の球を撃ち出してそれを照らす。そして。



「……!」

「……!?」

「……!」

「……?」



 一行は固まった。



 照らし出されたものは、金色をしていた。


 でろでろのどろどろなゼリー状軟体生物らしくはあった。


 背骨らしきものがあって、一本筋の通った動きをしている、らしかった。


 そうして……、でろりとしてぶにぶに揺れる、目や鼻らしき穴や出っ張りのある、顔。のようなものが巨大な体のてっぺんに一つ、生えていた。



「いやーーーッ!! 気持ち悪いいいっ! 何コレ。何コレ。何なのコレーーーーーッッッッ!」



 少女が絶叫する。



「すらいむ……? でも、首……?」



 盗賊の青年がつぶやく。



「じいさん、アンデッドかコレ!?」



 剣士の男がわめく。



「そのようにも見えるが、違うと思うぞ。初めてみたわい。新種じゃな!」



 なぜかわくわくした風に僧侶の老人が叫ぶ。



 ずるりずるり、ぶにぶに、かたかた、ごち。

 ぷるぷるでろでろ、ぶに、ごちん。



 金のスライム(背骨と顔つき)は、滑るように動こうとしてやっぱり背骨がひっかかり、ぎこちない動きで前に出た。ついでにでっぱっている顔の部分を、あちこちに思い切りぶつけていた。


 そうしておもむろに、ばこりと腹を割って触手を伸ばそうとして……、



「燃えちゃええーーーーッッッ!」


「ああ、新種の魔物のサンプルが!」



 半狂乱になった魔法使いの少女の炎をまともに浴びた。



 金のスライム(背骨と顔つき)は瞬殺された。




*  *  *




「なぜ、顔……」


 シュリアはつぶやいた。スライムは本能で周囲の様子を把握する生き物だ。目や鼻などといった器官には頼らない。だと言うのに、なぜ顔が必要になるのか。と言うより、全く役に立っていなかった。壁にごんごんぶつけていたし。


 冬の朝の気配がした。階段の下から三段目に、半透明の金のスライム(背骨と顔つき)が現れた。


 でろりと横に広がって、ぷるぷるしている。


 ついでに背骨がかたかたいって、上に付いている顔らしきものが小刻みに揺れている。


 気落ちしているようだ。推測だが。



「ええっと」



 何か話しかけようかと思ったのだが、その途端、




 ごばああああっ!




 派手に腹を割って、びゅるびゅると触手を伸ばしてきた金のスライム(背骨と顔つき)に後退った。八つ当たりのようだった。それはそうだろう。転生のたびにあっさり瞬殺されているのだ。



(でも何だか……感情らしきものを持つようにはなっていますね)



 平べったくなってぷるぷるしている相手を黙って見ていると、その内彼(?)は小さく縮こまった。何か思案しているようだ。


 それから彼(?)は、断固とした様子で階段を一段、上り始めた。




*  *  *




 スライムはへこたれなかった。


 次の転生では体が小さくなった。廊下につっかえる事はなくなったがしかし、やっぱり瞬殺された。小さくなった分、触手が遠くまで伸びなくなる事に気がつかなかったのだ。


 その次は、手らしきものが生えた。触手の代わりに腕をビュルンと伸ばして、やって来た冒険者を捕まえようとした。しかし遠くからだったので、自分の方に引っ張るまでに時間がかかった。剣士が手を両断し、魔法使いが炎で焼いた。一撃で終わりだった。


 その次は、足を生やした。背骨と顔ができたので、移動がうまくいかなくなった為らしい。バランスを取るためか、十本ぐらいあった。その状態でしゃかしゃかと走る様は、女性の冒険者たちから、それはそれは不評だった。生理的嫌悪感とやらで、瞬殺された。


 次は、色が微妙に変わった。肌色に近い色になった。


 その次は、足に骨が入った。肋骨(ろっこつ)らしきものが、腰骨が、肩や腕の骨が、関節が、次第にできていった。


 ぐにぐにどろどろしていたスライムは、この頃にはもう、ゼリー状軟体生物ではなくなっていた。人間とほぼ同じような背丈で、顔と手足があり、二本足で歩行する生き物。


 ただ表皮や体を構成する物質は、基本的にスライムのままだったので、どろどろしていた。出くわした冒険者一行が、ゾンビと間違えて、やっぱり燃やした。



「何を思って、進化を望んだのか」



 何十回目かの転生を果たし、薄暗い廃墟に立つ彼(?)を見て、シュリアはつぶやいた。二本の足で、人間のように立っている。色彩もまるで人間だ。肌の部分はくすんではいるものの、白っぽいピンク。頭には、黒い髪が生えている。目は青。体格は痩せた少年といった所。


 ただし髪は太いミミズのようでのたうっており、目に当たる部分はぽっかり穴があき、皮膚はひっきりなしに蠕動(ぜんどう)しているのだが。


 なまじ形が人間めいているだけに、余計に怖い。夜道で、いや日中でも、子どもが出会ったら間違いなく泣くだろう。


 彼(?)は廃墟をゆっくりと歩いている。少し前から、妙な行動を取るようになった。花をつむのである。スライムとしての習性が抜けず、暗くじめじめした所を彼(?)は好んでいる。そうでありながら彼(?)は、花をつむために日の当たる場所に歩いて行く。陽光は、当たればつらいはずなのに。


 花を好みだした最初のころは、つもうとしては失敗し、押しつぶしていたのだが、最近は器用につめるようになってきた。白いヒナギクが好きなようで、それを探しては、自分のねぐらに持って帰る。ただ、つまれた花は長くもたない。懸命に土に差してみたりしているが、すぐしおれてしまう。


 そうしてしおれた花を見ると、彼(?)はうずくまる。嘆いているかのように見える。



「ずいぶんと複雑な感情を持つようになりましたね……」



 その様子を見ながらシュリアはつぶやいた。



「本当に、どうして進化を望んだのか」



 もう一度、シュリアはつぶやいた。懸命に前に進もうとするスライムの姿は、傷つきながらも前に進もうとする人間のそれに勝るとも劣らなかった。少なくともシュリアはそう思った。


 ただ、きっかけが何であったのかがわからない……。


 そうしてなぜか、彼が進化の階梯(かいてい)に現れる時は。決まって冬の気配が周囲を包む。夜明けの光が射し込むころの、冬の朝の気配が。


 あの季節に、あの時に、何の意味があるのか。


 わからないことばかりだ。だが。



「進化を望むもののきっかけなど、そんなものかもしれませんね。他の者にはささいな、あるいは意味のないこと。けれど本人には、その在り方が変わってしまうほど、衝撃的な何か。わかるのはただ、本人だけ。そういったささいな、どこにでもある、……聖なるもの」



 微笑んでシュリアはつぶやいた。そんなものだ。きっかけというのは。



 見下ろす地上で彼(?)は、穏やかに日々を過ごしていた。花をつみ、育てようとし、失敗しては嘆き。スライムとしては非効率的な、不格好な姿でのろのろ歩いて小鳥や小さな動物を食べようとし、失敗してはへたり込んだ。


 食べるものを手に入れる事は、かなり困難になっていた。彼(?)はいつも、飢えていた。


 そんなある日。廃墟に人間が迷い込んだ。


 迷い込んだのは、近くの村に住む少女だった。季節は初夏。かご一杯に山菜や木の実をつんでいた彼女は、誤ってその廃墟に迷い込んだ。


 少女は薄暗い廃墟に足を踏み入れ、出口がどこにあるのかわからなくなった。そうこうしている内に彼(?)と出会い、


 悲鳴を上げた。




*  *  *




 森には化け物がいる。入ってはならない……村人たちからはそう言われていたが、初夏の森は恵みに満ちていた。貧しい暮らしをしていた少女は村の大人たち同様、食べられる野草や木の実に詳しく、大人たちほど森の禁忌について詳しくは知らなかった。


 まだ熟していない黒いちごのしげみを見つけ、青い実を残念そうに見やる。これだけあったらいつもお腹をすかせている弟も喜ぶだろうに! 甘酸っぱい味を思い出して、自分も食べたくなってくる。一つぐらい熟した実がないかと探したが、どれもまだ青い。


 仕方がない。そう思って籠を見る。ガチョウの足(グースフット)の立派なものを見つけたし、野イチゴもひとつかみ。桜草(プリムローズ)の若い葉と花はサラダになる。そしてヒナギク(ローンデイジー)


 木々が不意にとぎれ、光が射し込んでいる辺りで、少女はヒナギクの群生を見つけた。森の中はひんやりしているので、まだ蕾のものが多い。でも村近くに生えているものよりも、葉がしっかりしているし、ずっと綺麗だ。この花は全部が食べられる。根も。ずっとイラクサのスープばかりだったから、うれしい。そう思って少女は、気をつけて根ごと掘り起こした。


 白い花びらを開くヒナギクは、小さな太陽のようにも見える。おばあちゃんはこの花を、お日さまの子ども花と呼んでいたっけ。


 少女は籠に、蕾のヒナギクを入れた。そうすると、籠は華やかになった。緑の葉や赤い実のつまる籠に、白いヒナギク。ふと思いついて、彼女は手早く花冠を編んだ。白と金色の花はとても綺麗だ。少しばかり楽しんでも良いだろう。


 頭に花冠をかぶり、髪にもヒナギクを編み込むと、にっこりして少女は楽しげに家に向かい、歩きだした。




 道に迷ったと気がついたのは、しばらくしてからだった。歩いても歩いても、見えてくるはずの森の出口が見えない。木の実や野草をつむのに夢中になりすぎて、森に入り込みすぎたらしい。


 不安を覚えつつ、少女は立ち止まった。薄暗い森の奥を見やる。どうしよう。戻った方が良いだろうか?


 その時、少女は木々の向こうに建物らしきものがある事に気づいた。どうしようかと思ったが、歩きづめで彼女はくたびれていた。少し休めるかもしれない。そう思ってそちらに向かって歩き出した。





 薄暗い廃墟で彼(?)は、何かが近づいてくる気配に気づいた。温かい血のかよう獲物。


 この間、ネズミを食べてからどれだけたっただろう。


 彼(?)は前に進み始めた。つかまえて、食べるのだ。





 少女は廃墟を見上げて目を丸くした。こんな所にこんな建物があるなんて。大人たちが言っていた事は本当だったのだろうか?



「魔物が、住んでたりしないわよね……?」



 不安げにつぶやきつつも、好奇心にかられて中をのぞいてみる。崩れた石のかけらが転がるそこに、数歩踏み込んでみた。


 そして、妙な物音を聞いた。



 ずず。ずず。ずず。



 何の音だ。そう思って音の聞こえる方を見透かすようにする。暗くて良く見えないが、何かがいる……。



 ずず。ずずず。



「……」



 少女の目が暗さになれた時。それは現れた。暗がりから。


 人のように見えた。かろうじて。


 恐ろしく不健康な肌の色をしていたが。


 それは這いずっていた。立とうとしてバランスが取れなかったらしい。


 ぶよぶよした髪が、ひっきりなしに蠢いている。


 いや、髪だけではない。体中がうごめいて、さざ波のように揺れている。でろっとした感じの肌は湿っぽいのを通り越して、腐った水が固まったかのようだ。


 そうして、一心に。這いずってくる。少女を目掛けて。



 全裸で。



 当然の事ながら、元々スライムの彼(?)に、服を着る習慣はない。なので少女が見たのは、不健康な肌色をした素っ裸の男が、こちらに向かってずるずると這いずってくる姿だった。



「いやあああ! 魔物が変態を見せびらかしにーーッッ!」



 立ち上がり、少女に襲いかかろうとした彼(?)は、気がはやったのもあったのか、思い切りひっくり返った。


 その隙に逃げようとした少女だったが、慌てすぎていた彼女もまた、足をもつれさせて転んだ。


 人間モドキの元スライムが、床をはいずり、素早い動きで少女に迫る。にゅるん! と腕をのばし、久々の食事を取ろうとして……


 止まった。


 少女にとって好運だったのは、その時、ヒナギクの花冠がまだ頭に載っており、何本かの花が髪に編み込まれていた事だった。彼(?)は躊躇した。このままこの獲物を食べると、ヒナギクをつぶしてしまう。


 少女は今にも襲われると体を硬くしていたのだが、相手が動かないのに気づいて不審に思った。どうしたのだろう。


 緊迫した時が流れる。


 片方はぷるぷる蠕動しながら、もう片方はびくびくして震えながら、相手の出方を見守った。



「……」(ぷるぷるぷる)

「……」(びくびくびく)



 やがて耐えられなくなった少女が、そっと動いてあとずさった。すると元スライムも同じだけ前に出る。


 右に動けば、相手も同じ方向に動く。


 左に動けば、やっぱり同じ方向に動く。



(逃げられない……) 



 少女は半泣き状態だ。それでも襲いかかって来ない相手に、やがて妙だと思い当たった。



(変ね。どうしてこの魔物、飛びかかってこないのかしら)



 動きを止めて、相手を見る。それから思いついて、恐る恐る籠を差し出した。



「こ、これ。あげるから!」



 元スライムは肌をぷるぷるさせながら、差し出された物を見た。


 ヒナギク。


 少女は彼(?)が興味を見せたと気づくと、籠を床に置いた。それから素早く後ろに下がる。今度は元スライムは、少女を追おうとはしなかった。黙って籠を見つめている。


 そうして彼(?)は、そーっとした動きでヒナギクを手にした。


 少女は目を丸くした。魔物は花が欲しかったらしい。



(花が好きな魔物??? そんなのいるの?)



 不思議に思ったが、ねろん、とした手でヒナギクを持った彼(?)は、つぶさないよう気をつけているようだ。開いた花を両手で持って、それから、


 下半身だけをざわざわ動かして、少女を見つめたまま、さかさかっと後ろに下がった。



「……」



 非常識な動きをする相手を思わず見つめてしまった少女だったが、大事そうにヒナギクを持つ相手に、少し安心した。ひょっとしたら悪い魔物ではないのかもしれないと、良い方に誤解する。


 実際には元スライムはかなり飢えており、少女がヒナギクの花冠さえかぶっていなければ、一気に一呑みしたいぐらいだったのだが。



「お花……好きなの?」



 声をかけてみる。元スライムはねろん、とろんとした顔で、黙って少女を見ている。何だか焦った少女は言葉を続けた。



「ヒ、ヒナギクってかわいいわよね。太陽の子どもみたいだものね。おばあちゃんがそう言ってたの。あの、ええとでも、そのままだとしおれちゃうかも……水に早く差してあげないと」



 そこで籠に目をやる。根のついた蕾のヒナギクが中に入ったままだった。



「これ! 日当たりの良い所に植えたらきっと、根がつくから」



 そう言ってから少しためらった後、籠の側ににじり寄った。根のついた蕾を籠から取り出し、床に置き、素早くまた後ろに下がる。


 元スライムはじっとその様子を見ていた。何だか良くわからないが、この獲物はこれを見ろと言っているようだ。


 見た。


 良くわからなかった。


 彼(?)の中でのヒナギクというのは、咲いている状態の花の事であり、蕾は違うものと認識していたのだ。


 そうこうしている内に、少女は立ち上がった。



「えと、それじゃ、……さよなら!」



 そう叫んで逃げ去る。


 ああ、食事が。


 そう思ったが、手に花を持っている状態だったので、つぶすのが怖かった。彼(?)は獲物が逃げてゆくのを見送るしかなかった。


 転機が訪れたのは、その翌日。


 彼(?)がのそのそと、少女の置いていった籠の辺りにやって来た時。置きっぱなしだったヒナギクは

、懸命に生きていた。根があったからかもしれない。


 花が咲いていた。



「……」



 彼(?)はぶよぶよどろどろしながら、花を見た。確かこれは、花ではなかった。


 なのになぜ、今は花なのだ?



「……」



 ぶよぶよぶよ。



「………」



 どろどろどろ。



「……………」



 かなり長い間、ぷるぷるずるずるしてみたが、わからなかった。しかし、ヒナギク。花がそこにある。彼(?)は手を伸ばし、ヒナギクをつもうとした。根から掘り起こされ、置いてあっただけのヒナギクは、あっさり持ち上がった。


 彼(?)の心に大いなる衝撃が走ったのは、その時だった。



 これは、同じものだ。


 前に花ではなかったあれと、いまここにある花は、同じものなのだ。


 花が枯れてしまうように、前の形のものが、こうして花に変わるのだ。



 いわゆる『エウレカ!』の状態である。理由も手順も何もかもすっ飛ばして、突然理解が訪れる。それで感動のあまり、裸で風呂から飛び出した学者などもおられるわけだが、今ここにいる元スライムにも、その神秘の瞬間が訪れたのであった。



 ぶぐわっっっ!



 感動のあまり元スライムは、体を八つに分裂させそうになった。だがそれをすると花がつぶれるかもしれなかったので、肩や腹から粘液状の何かをぼこっ! と盛り上がらせて戻すだけにする。


 生々流転。万物はかたちを変え、移り変わり、過ぎ行く。


 元スライムが、哲学的思考を手に入れた瞬間だった。





 後に、少女が再び廃墟にやって来た時。そこは花盛りの場所となっていた。あらゆる所にヒナギクが、その他の花々が植えられ、蕾のものも、花開いているものも、ていねいに盛り土がされ、水をまかれた跡が残されていた。


 元スライムはいなかった。


 変化する花々を喜び、植え回り、観察している内に、干からびてしまったのである。湿った所に生息する生き物であるというのに、明るい場所まで花をつみに行きまくったのも災いした。


 しかし少女にそんな事はわからない。


 花ざかりの場所に目を見張り、ここにいたのは心優しい魔物だったのかと改めて思った。魔物を探したが、見つからなかった。廃墟の中に入ると、自分の籠が落ちていた。中を見ると、土がついたままのヒナギクや桜草、野イチゴやその他のものが入っていた。元スライムが、最初籠に入っていた品物を何とか思い出しながら、同じようなものを籠で運び、廃墟に植えていたのだった(道具を使うという知恵も彼(?)は身につけたらしい)。


 そうして新たな知識や知恵に夢中になっている内にひからびてしまったのだが、少女にそんなことはわからない。純粋に、魔物からの贈り物だと考えた。



 数年の後、村には物語が伝えられる事となった。親とはぐれ、食べるものに困っていた少女を助けた、森の魔物の話である。


 彼はみにくい姿を恥じて隠れていたが、少女の為にヒナギクと黒いちごを持ってきてくれた。しかし魔物だったため、太陽に照らされて、死んでしまったというものである。


 この物語をつたえる村人たちは、良い行いをしていれば必ず良い事があるのだよ、とか、外見で人を判断してはならないよ、とかいう子どもたちへの教訓話にした。それに対して、へえ、そうだねという子どももいれば、けっ、そんなことあるかいという子どももいたが、大概はおとぎ話として聞き、自分の子どもにもそのように伝えた。


 本当の所はちょっと違っているのだが、微妙に真実を突いた物語であった事を、人々は知らない。




*  *  *




 シュリアは戻ってきた元スライムに微笑みかけた。目には涙が浮かんでいた。



「わたしはあなたを、誇らしく思います」



 階段の途中でぷるぷるしている半透明の元スライムは、何も言わず、うずくまっている。周囲には夜明けの気配。冬の冷たい大気。



「たとえ、あなたの本意ではなかったとしても。あなたは世界に美しく、優しい流れを一つ起こしたのです。あなたの物語を作った人々、語った人々は、……いさかいを起こしたり、間違いを起こす事もあるでしょうが。それでもその中から、自分の知らない、見たこともない相手……未知の存在に対して、敵意ではなく、理解しようとする態度を持つ人が現れるでしょう。


 その流れを起こしたのはあなたです。小さなものではありますが、それは確かに、あなたがいたからこそ起きたもの。


 愛し子よ。わたしはあなたを誇りに思う」



 元スライムは何も言わない。ぷるぷるしている。


 シュリアは近づき、人のかたちに似た姿に変化した彼(?)に手を差し伸べた。元スライムがぐおばっと膨張してシュリアに飛びかかろうとしたが、かまわなかった。


 天使は慈悲の涙と羽を、元スライムに注ぎ、彼(?)を抱きしめた。


 たとえスライムであろうと、天使である自分を食べる事などできはしない。それに食欲以外の感情を、彼(?)が持つようになったのはわかっていた。


 元スライムは、シュリアを何とか包み込んで消化しようとしたが、残念な事に彼(?)は霊体である。それに何だか良くわからない感情を覚え、うろうろと触手を伸ばし、結局あきらめてぶにぶに、と自分の中に触手を納めた。



「食べられませんよ。あなたがその姿なのは、あなたの記憶によるものです。ここに来るものは本来、飢えは感じていないはずなのです。体がないのですから。


 あなたが食欲を感じていたのは、それ以外の感情を持っていなかったから。それでもあなたの中に、他の感情や思考が生まれた。それがこれからのあなたの魂を支えるでしょう……それらはあなたに迷いももたらす。


 知恵や知識を求めた事をいつか、恨む事もあるでしょうが……」



 シュリアは半透明の元スライムをそっとなでた。



「それでも登っておいでなさい。わたしは、待っていますから」



 元スライムが階段を一つ登る。彼(?)の姿が輝いて消えてゆく。新たな人生(?)を送るために、転生したのだ。



「神とはただ、慈悲。全ての善きこと。あなたの存在もまた祝福です。登っておいでなさい。待っています」



 シュリアの羽が舞う。天使は魂を進化させようと望んだ生命に、祝福を送った。




*  *  *




 森の中の薄暗い廃墟で、彼は空を見上げた。近くの村人からは怪物だとか、魔物だとか言われて恐れられている。


 自分が何なのか、彼にはわからなかった。


 彼は熱に弱い。火や太陽は、肌に痛みをもたらした。それなのに彼は、太陽が好きだった。日に何度も空を見上げ、太陽を探す。


 温かい血の生き物を食べたいという欲求はあった。しかし不格好な体や、骨が入った腕ではうまくつかまえられない。


 仕方なく、木いちごや、どんぐりを食べてみた。最初は受け付けなかったが、その内大丈夫になってきた。そうすると、そちらの方が美味しく感じるようになってきた。今では彼は、草食の生き物となっている。


 するとなぜか、小鳥が近寄ってくるようになった。それまでは決して近寄ってこなかったのに。


 小鳥のさえずりは、彼の内側を技ざわざわさせた。それは不思議だったが、不快ではなかった。小鳥たちは時に、木の実を落としてゆく事もあり、彼はありがたくそれを食べた。


 そのお返しに、小鳥たちの良く来る辺りに野イチゴを置いてみた。小鳥たちは喜んで食べていた。それを見るとやはり、内側がざわざわした。そのざわざわを何と呼ぶのか、彼は知らなかった。ただ、もう一度感じたいと、感じるたびに思った。


 冬はそうした食べ物も見つからない。最初は冬になるたび飢えていたが、やがて森の動物たちを良く観察し、秋にどんぐりをたくさん集めたり、木の根っこを食べたりするようになった。


 春にはヒナギクを集める。ヒナギクが彼は、好きだった。小さな太陽のようなその花を見ると、遠い記憶を思い出す。


 遠い昔。じめじめした暗い所にいる自分。火や熱は苦痛だった。太陽はただ、恐れの対象でしかなかった。


 凍てつく寒さ。夜明け前の時。やって来た恐ろしい人間たち。手に手に松明や、炎を撃ちだす魔法の杖を持って。彼は彼らに殺された。自分の住処を荒らされ、火で焼かれて。


 なぜ、と思った。ただ疑問があった。ただここで、静かに暮らしていただけなのに。


 熱い。痛い。イタイ……。


 その時、何かを見た。凍てつく寒さをものともせず、夜明け前の光より輝かしく。


 白く輝く、翼持つ何か。


 それからは、ふんわりした気持ちの良さがやって来た。焼かれる痛みはそれが近づくと消え、ただ安心した。ああ。もう大丈夫だ。そう思った。


 そうして思った。あれがほしい。


 あのふんわりしたものが。大丈夫だと思えるものが。


 近づきたくて、必死に願った。それから彼は、自分を変化させる道を歩む事になった。


 薄暗い建物から出て、ヒナギクの咲く庭に出る。彼が作ったものだ。苦労したが、花の世話は随分うまくなった。光にも少しは耐性がついた。


 風に揺れるヒナギクの花。これはあの人に似ている。


 自分を見捨てず、見守ってくれている。人生の最初と最後にやっと会える、あの人。やわらかくて壊れそうで、でも本当は強い。見ていると内側がざわざわして。なぜかふわふわする。


 近づきたい。


 そう思いながら顔を上げた彼は、剣と杖を持つ人間たちが近寄ってくるのに気がついた。そう言えば、怪我をした人間を助けた事があった。傷ついた小鳥と同じように世話をしたのだが、その人間の仲間だろうか。



「いたよ。魔物だ」


「弱そうだな。経験上げるにはちょうど良いか」



 人間たちはそう言うと、剣と杖を構えた。彼は相手を見つめていた。進み出た剣士が、ヒナギクを踏みつけた。あ、と思った。


 踏むな。


 踏むな。それを。



「……よせ、やめろっ!」



 誰かが叫ぶ声がした。自分が助けた人間のようだった。だが彼にはもう、わからなかった。踏まれたヒナギクを助けようとして、剣を持った男の方へ進み出て、


 炎に焼かれた。



「なんだこいつ、まだ向かってくるぞ!?」



 男が斬りつけてくる。その足元で踏みにじられるヒナギク。


 駄目だ。


 自分は焼かれても良い。でもこの花は。


 花を、あのひとを、踏むのは駄目だ……。


 焼かれながら、斬られながら、男の足をつかんでひっくり返し、踏みにじられたヒナギクを見る。無残につぶれた花に触れ、杖を持った女がまだ炎を撃ちだすのに気づいて、花が焼かれないように身を挺して守った。



「やめろ! やめてくれ!」



 悲鳴じみた声がして、人間たちのもみ合う音が聞こえた。邪魔するなとか何とかいう声がして、しばらくしてから静かになった。



 光がさしてくる。


 あの人が来た。


 微笑んでいる。でも、泣いている……?


 腕を見た。焼かれたはずなのに痛くない。


 ヒナギクは?



「花は無事です。つぶれたように見えても根があれば。あなたが炎をその身で受けたので、死なずにすみました」



 あの人が言った。



「ご覧なさい」



 振り返ると、住んでいた廃墟が見えた。でもどこか遠い。三人の人間が見える。


 一人は傷ついて倒れていた。彼が以前、傷の手当てをした村人だ。出会った時には恐怖に震えていたが、手当てをするとなぜか、時折やって来て、遠くから彼をのぞき見するようになった。


 残る二人は剣を持つ男と杖を持つ女。二人は苦々しい顔をして、倒れた村人を見下ろしている。



「彼はあなたを助けようとして、剣の前に飛び出したのです。そうして斬られた。このままでは、ほどなく死ぬでしょう」



 あの人が、また涙を流した。



「今度の生涯であなたは、多くを助けました。傷ついたリスの親子。力尽きて倒れていた小鳥たち。狐や、狼や。人間の手当てもしましたね。


 彼はあなたを覚えていた。だから魔物討伐に雇われた冒険者たちが、この森に向かったと聞いて、やめさせようとしたのです」



 血を流してぐんにゃりとしている男は、まだ若い、少年のような顔をしていた。その姿が、踏みにじられたヒナギクと重なった。


 どうにかできませんか。そう思ってあの人を見ると、あの人が言った。



「あの女性は、治癒の魔法を持っている。けれどそれを使う気はないようです。


 村人に怪我をさせたと知られると、報酬がもらえなくなる。彼に、自分たちが彼を傷つけたと説明されるとまずい。それよりは、このまま死なせた方が良い。あなたに襲われて殺されたと、そう説明すれば手間がはぶけると思っているのです」



 仲間なのに。



「……知恵や知識が増えれば増えるほど、迷いや過ちもまた増えるもの。あなたが目指しているのはそのような道なのです」



 あの人を見つめ、倒れている男を見つめ、苦々しげな顔の冒険者二人を見つめた。それからもう一度、あの人を見た。


 どうにかできませんか。



「わたしには、この世で起きる出来事への関与は許されていません。それはあなたがた、地上で生きるものたちの持つ権利だから。


 もし何かできるとしたらそれは、あなたがなす事。


 あなたの命はまだ尽きていない。じきに終わりが来ますが」



 自分に何ができるか考える。死んでゆくものに対して。


 一つ、思いついた。



「戻りますか?」



 あの人の言葉にうなずく。すると、少し力を貸しましょうというささやきがあった。羽の一つがきらめきながら、自分の中に入ってくるのを彼は感じた。


 それから彼は、焼け焦げ、死にかけている体に戻った。




*  *  *




「ちっ。何だこのガキ、邪魔した挙げ句に」



 剣士の男が吐き捨てた。魔法使いの女は眉をひそめた。



「このボウヤをあたしたちが傷つけたって、バレたらまずいよ。報酬がもらえなくなるかも」


「放っておけや。このまま死ぬだろ、そうしたら。魔物に喰われたって事にして、シャツでも持って帰れば問題ないさ」


「そうね」



 報酬がもらえなくなるのは困る。そう思った女は血を流して倒れる村人から目をそらした。まだ少年のように若い男に対する罪悪感を押しつぶす。可哀相だが、いきなり出てきて邪魔した方が悪い。自分たちは、食べてゆかねばならないのだ。


 その時男があっという声をもらし、女は視線をそちらに向けた。そして目を見張った。


 魔物が動いている。



「おいおい、まだ生きてンのか? しぶといね」


「ここまで焼かれて、まだ動けるなんて」


「だいぶ弱ってるっぽいがな。どうする? とどめさすか?」



 弱々しく動く魔物を見、女は息をついた。



「魔力の無駄遣いはしたくない」


「じゃ、俺が」



 男は剣をかつぎ直すと、大股に魔物の方に歩み寄った。途中、自分が斬った青年を邪魔だとばかりに蹴飛ばして。


 すると、魔物の動きが素早くなった。



「気をつけな、そいつまだ動ける!」



 思わず女は叫んだが、少し遅かった。相手を侮りきっていた男は魔物に足をつかまれ、思い切り放り投げられた。地面に叩きつけられ、ぐう、と言って動かなくなる。失神したらしい。



「こいつ……ッ!」



 女は杖を構えた。その前で魔物が這いずる。倒れた村人に向かって、すさまじい速さで。



「喰う気かい!? そうはいくか!」



 自分たちがその青年を見捨てようとしていた事は綺麗に忘れ、怒りに燃えた女は呪文を唱え、炎を投げつけようとした。その前に魔物が村人にたどりつく。腕を伸ばし、まだ微かに息のある青年を抱きかかえる。


 かまわず女は炎を撃った。青年ごと、燃やし尽くすつもりだった。その方がまだ、青年にとっては幸せな死に方だろうと思ったのだ。


 魔物は、自分の体で青年をかばった。


 なんだこいつ、と女は思った。さっきも似たような事をしていた。なんでわざわざ自分から、炎にぶち当たるような真似をする。それほど頭が悪いのか? 


 もう一度炎を撃つ。更にもう一度。魔物は何度も、自分の身で炎を受けた。


 抱きかかえる青年には、一度も当てさせなかった。


 女は呪文を止めた。何が何だかわからなかった。魔物の癖にこいつは一体、何なんだ?


 燃え上がる体を苦痛によじらせながら、魔物は青年を見下ろした。そっと頭をなでるようにする。それから魔物は、歌いだした。小鳥の声で。


 優しくやわらかく、楽しげな小鳥の歌に、女は唖然とした。




 青年は、後悔していた。森の魔物の話を村の者にした事を。


 かつて自分が怪我をして動けなくなった時、現れた魔物は、手当てをしてくれた。不器用ではあったが。薬草らしきもので傷をまいてくれ、木の実や水を与えてくれ、歩けない自分をかついで森の入り口付近まで送ってくれた。外見は恐ろしかったが、優しさを感じた。だから、その話をしたのに。


 いつの間にか、森の魔物は人食いで、宝を山ほど溜め込んでいるという話になっていた。


 宝の話に目のくらんだ村長たちが、流れの冒険者を雇ったと聞いたのは今朝。あわてて彼は、優しい魔物を助けようと飛び出した。自分のせいだ。そう思って。


 たどりついた彼の住む廃墟で、今しも彼は、殺されようとしている所だった。必死でやめろと叫んだ。剣士に飛びかかって動きを止めようとして……斬られた。


 痛い。


 意識が遠のき、ああ、死ぬのかと思った。ドジを踏んだなと思ったが、仕方ないかとも思った。ただ、あの魔物が気がかりだった。自分のせいで死ぬ羽目になった哀れで優しい魔物が。


 死んだらどこに行くのだろう。


 暗い所に落ちてゆく感覚に、怖い、と思った。その時。


 歌声が聞こえた。楽しげな小鳥の声。なぜ小鳥が、と思った。うっすらと目を開けると、目の前に魔物がいた。小鳥の声は魔物の口からしていた。


 楽しげな、優しい歌。


 春の祭りを思い出した。気になっていた娘のくすくす笑う声を。母親の焼いてくれたパイや菓子を思い出した。父親に肩車されて村を歩いた子どもの時の事も。楽しい思い出って結構あるもんだな、と思った。普段は忘れているのにな。


 魔物が必死で、歌ってくれているのもわかった。死んでゆく自分の為に、何かできることがないかと、彼なりに考えたのだろう。


 ありがとう、と思った。


 ごめんな、とも。


 意識が薄れる。なぜか光を感じた。空からやって来る。


 綺麗だな、と思った。それがこの地上で彼が感じた最後のものだった。




 女は立ち尽くしていた。死にゆく青年をかばって炎を身に受け、歌を贈った魔物が今、事切れる所だった。


 自分は今、何を見たのだ?


 そう思っていると、後ろで男が起き上がる気配がした。



「ちくしょ……ああ? 死にやがったのか?」



 悪態をつくと男は、ずかずかと魔物と青年に近づいた。



「なんだ、最後に腹ごしらえをしようとでもしたのか。しょせん魔物は魔物だな」



 そう言うと、思い切り足蹴にする。魔物の体が崩れ、塵に変わった。青年の体はそのまま、地面に落ちた。



「こっちも死んだか。じゃ、魔物退治の報告して報酬をもらおうぜ」


「そうだな」


「その前に、このボウヤ、焼いといた方が良くないか? 死因が剣の傷ってわかるとヤバイ」



 女は顔をしかめた。



「悪いがそこまでは、ごめんだよ。爪のある魔物だったとか言やあいいだろ」


「そうだな。おまえ、頭いいわ」



 からからと笑うと男は青年を担ぎ上げた。



「じゃ、帰るか。気の毒なボウヤはおれが、連れ帰ってやろう」




 後にこの二人組は別れた。魔法使いの女の方がこの件以降、治癒の術が使えなくなった為である。


 使えねえ、の一言で男は女を放り出し、別の魔法使いと組んだ。女は各地をさまよった後、なぜか小さな村の教会の司祭の元に弟子入りし、祈りの生活を送るようになったのだが、それはまた別の話である。




*  *  *




「お帰りなさい。よくやりましたね」



 シュリアは声をかけた。目の前には半透明の元スライム、今はかなり人間らしくなった存在が立っていた。


 隣には、少年のような顔の青年が立っている。



『あの、あの、あなたは天使っ、ですかっ』



 泡を食った感じで青年が言った。シュリアは微笑んだ。



「はい。そのように呼ばれています。この『階の庭』で、魂の進化を望んだ生命を守り導く仕事をしております」


『きざはし……? 進化?』


「より良く生きようとし、善なる御方に近づこうとする魂を、見守っています」



 言いかえると青年は、うなずいた。



『それじゃあなたは、ぼくを見守ってくれていた天使さまですか? ばあちゃんが、天使さまは一人一人の人間を守ってるんだって』


「いいえ。わたしが見守っていたのは、あなたの隣にいた彼」



 この言葉に青年は、目を丸くした。



『だって、魔物なのに』


「魔物でも彼は、善き行いをしましたよ」



 そう言うと、青年は恥じたような顔をし、『そうですね』と言った。



『あの、天使さま。それならぼくは、これからどうなるのでしょう』


「その事ですが」



 シュリアは首をかしげた。



「あなたは今回、定められた寿命をかなり早く終えてしまったのです。本来ならあなたは、もう少し長く生きるはずでした」


『そうなのですか?』


「ええ。それに今回の事であなたと、わたしの担当する彼の間に、少なからぬ因果の糸が結ばれてしまいました。


 人間が人生を終えた場合、ある程度の年数を置いた後、転生するか否かの問いをするのですが……あなたの場合、すぐに転生がかないます。ただし、彼と同じ所にという条件がつきますが」



 青年は、ねろん、とした顔の元スライムを見た。



『かまいません。ぼくが死ぬ時、彼は歌ってくれました。ありがたかったんです。すごく。ぼくは死ぬのが怖かった。その怖いのを、彼は助けてくれたから』



 そう言った青年に、シュリアは微笑んだ。



「彼にもまだまだ学ぶことは多い。共に歩んでいってやって下さい。では、あなたがたをもう一度、地上に送りましょう」



 二人が階を登る。絡み合った二本の階段を。片方は小鳥の歌声やヒナギクの混じった段となり、もう片方は空の青さと母親の焼いたパイの香りを漂わせていた。


 冬の朝の冷たく鋭い大気が消えている事に、その時シュリアは気づいた。元スライムの方を見る。彼は何も言わず、ぷるぷるしていた。


 彼の足元からは次々と、ヒナギクが生まれている。小鳥の歌声と共に。今では彼の周囲は、春のやわらかな大気が取り巻いている。


 何かが、彼の中で生まれたのだろう。そうシュリアは思った。冷たく鋭い冬の夜明け、その記憶よりも強い何かが。いつか。言葉を覚えた時に話してくれるだろうか。ずっと後の事になるだろうが。


 二人の姿が輝いて消える。




 シュリアは翼を広げた。金色の光が散り、羽がやわらかく舞って大気に溶けた。溶けた羽は目に見えない、慈愛のしずくとなって地上に送られる。


 彼らの魂に幸いあれ。そう願ってシュリアは、天界の空に舞い上がった。


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