魔界のサラダは活きのよさが大事
悲鳴は喉の奥で引き攣って言葉にならなかった。
なぜ!? なんて疑問を感じている暇はない。考えるよりも早く、回れ右して脱兎の如くその場から逃げ出した。
(植物が動くなんて聞いていないのだけど!)
驚きすぎて、心臓がバックンバックンと胸を突き破りそうなほど激しく脈打っている。
むしろそれが今ちゃんと生きていることを実感できて安心すらする。ショックで心臓が止まるかと思った。
自分でも驚くほどの全速力で庭を駆け抜けて、入ってきた扉を勢いよく開ける。
「お妃様? どうなされました」
扉を開けた先には、先程別れたはずの雪男がまだ佇んでいた。飛び込んできた私を見て、白い毛の合間から覗く目を丸くする。
「あか、赤い花がっ、動いたの!」
中庭を指さして、息を切らしながら訴える。
すると雪男が可哀想なものを見るような、憐れみに満ちた眼差しを向けてきた。
まるでとうとう魔界に順応できずに狂ってしまったのかと思われているようで、慌てて大きく頭を振る。
(っ違うの! 気が狂ったわけじゃないの!)
訴えたいのに、全速力で駆け抜けてきたせいで喉がからからに乾いてうまく声にならない。
(本当に動いていたの! 嘘じゃないのっ!)
雪男はのっそりとした動作で大きな身を屈めると、今にも泣きそうになりかけていた私を覗き込んだ。
「お妃様。魔界の花は、動くものです」
雪男は渋い声を優しい声音に変えて、まるで幼子にでも言い聞かせるように言った。
彼の声のトーンと毛並みを見る限りでは結構なお爺さんのように感じるので、彼から見れば私は小さな子供に思えるのかもしれない。
「動くのが、普通、なのですか?」
一瞬理解できなかった言葉を脳内で数秒ほどかけて噛み砕いて、理解すると同時に息を呑む。
「よく動く花ほど、活きがいい証拠ですな」
大きく頷かれ、愕然として言葉を失う。
活きがいい!? そ、そうなの。動くのが活きがいい証拠……花に対して活きがいいなんて、初めて聞きましたっ。
(でも、そうよね。ここは魔界だもの。よく考えたら植物が動いてもおかしくないわ)
いつまでも人間の世界の常識に囚われていてはいけません。
魔界の植物は! 動いて当然!
私は魔王様の妃なのだから、それぐらい余裕で受け入れる度量を見せなくてはっ。
きっとあれを植物だと思うから駄目なのだと自分に言い聞かせる。あれは花の形をした魔族だと思えば、動いてもおかしくない。全然おかしくない。
あの花は魔族の一種。つまり魔界の立派な住民。
それによく考えれば何かをされたわけではない。どころか私が見ているときは動かないよう、固まっていてくれた。
私を覗き込もうとしていたのも、ちょっと考え込んでしまったから様子を見ようとしていたのかも……と考えるのは、楽観的すぎるかしら。
(でももしそうなら、とても優しい花なのではない?)
むしろ後から来た人間の私の方が、あの花に合わせるべきだったのに。いきなり怖がって逃げ出してしまって、悪いことをしてしまった。
(いきなり化け物扱いされたら、誰だって気分が悪いわ)
悪気はなかったけれど、とても申し訳ないことをしてしまったかも。
私の言うこともちゃんとわかっているようだったし、これは謝りに行くべきでしょう。城の中にいる魔族とは仲良くやっていきたいもの。
そう決めてもう一度戻るべく震える足を叱咤したところで、雪男が私を見下ろして目を細めた。
「お妃様が驚かれるほど活きがいいのでしたら、きっと食べ頃ですぞ」
「っ食べ頃なの!?」
「今夜の晩餐のサラダにするよう、厨房に伝えておきましょう」
「サラダにしてしまうのっ!?」
待って! それは待ってっ!
あの花と仲良くすると決めた途端、サラダにするのはやめてもらえる!? しかもサラダにするということは、食べるのは私なの!?
「だめ! 絶対だめです! 食べるなんていけません!」
「美味しいですよ? 活きのいいサラダはシャキシャキした食感で、美容にもいいと言われていまして」
「美味しくても、美容に良くても駄目です!」
反射的に力いっぱい叫ぶ。そんな恐ろしいこと出来ません!
全力で拒否された雪男は困惑しつつも「お妃様がそう仰るのなら、無理にはおすすめしませんが」と早々に諦めてくれた。
よかった……! 今夜の食卓に並んだら卒倒してしまう自信があった。
もしかしたら今までにも知らずに食べていたかもしれないけれど、さすがに知ってすぐに食べる勇気は出ない。サラダ恐怖症になってしまう。
(もしかしたらいつか食べる日が来るかもしれないけど、今まはまだちょっと無理ですっ)
情けないとは思うけど、私の中ではまだあの花を普通の植物としては認められそうにない。魔族としてなら、なんとか受け入れられそうだけど。
気持ちを落ち着かせるために一呼吸して、自分を納得させるためにも再び中庭に出る決意を固めた。
「花は動くものだとわかったので、もう大丈夫です。もう一度行ってまいります」
「左様でございますか。ご一緒してご説明させていただければよいのですが、生憎と儂は中庭とは相性が悪くて入れません」
「中庭に相性があるですか?」
「儂が外に出ると、雪雲が纏わりついてくるのです。植物は寒さに弱いものが多いので枯れてしまいます」
雪男は申し訳なさそうに言いながら扉を開けてくれた。雪男にはそういう弊害があるのね。
けれどもしかしたら扉のところにまだいたのは、それでも万が一私に何かあった時の為に待機していてくれたのかも。それ以外、こんな何もない廊下にいる理由がない。
実際、雪男がいてくれてとても助かった。早急に混乱が落ち着いたのは彼のおかげである。
もしあの勢いのままに魔王様のところに駆け込んでいたら、と考えると顔が引き攣る。私を驚かせたというだけで花は引っこ抜かれて、今夜の晩餐はサラダ尽くしになっていたのではないでしょうか。
やりかねないと思うのです、魔王様なら。
「もう大丈夫だと思いますから、どうぞお仕事に戻られてください。私を気にかけてくださったのなら、ありがとう」
念の為にお礼を言っておけば、白いもじゃもじゃの毛の奥の小さな目が細められた。目尻が下がったから、笑ってくれたように見える。
まだちょっと怖い気持ちは残っているけれど、微笑み返せば心がほっこりとあたたかくなる。
しかし彼の機嫌に反応したのか、周りの温度は一気に下がった。鳥肌が立つほど寒い。
どうやら喜んでくれると、寒気が増すのね……! 雪男だものね!