魔王様と私の新婚生活
ある日、国を挙げての婚姻の前夜に一国の姫である私、エステルは魔王によって攫われた。
魔王が姫を攫って、人間達を混乱と恐怖に陥れるのは太古から続く様式美のようなお約束。
まさか自分がその対象として攫われるなんて、全く想定していなかったけれど!
しかし魔王の話を聞く限り、どうやら魔族が人と争うのは、放っておけば自滅していく人類を調整するのが目的だとか……?
難しい話は私にはわからなかったけれど、それに利用することになってしまった私を、魔王は責任とって妃にしてくださるとのこと。
責任の取り方が斜め上すぎるのでは!?
そう思いながらも、魔王は案外悪い人ではなさそうで、私はその手を取ったのでした。
これは魔王と人間の姫である私が、魔界で魔族の常識に振り回されながら愛を育んでいく日常の記録。
***
魔王の手を取り、結婚して始まった魔界での生活は思ったよりもずっと平和だ。
魔界は私の知っている太陽の光は届かないけれど、似たような淡い光で朝と昼は一応訪れる。
城には魔王様やその側近と違い、明らかに人ではない姿の人が歩いていたり、空には見たことのない怪鳥が奇声を発して飛んでいることもあるけど、慣れれば……慣れれば、なんとかっ。
(慣れなければならないのよ、私は!)
なぜなら私は、人間だけど魔王様の妃となったのだから!
そんな私の朝は、夫である魔王様と朝食を取ることから始まる。
出てくる食事は人である私も食べられそうなものが用意されている。とりあえず、見た目と味は問題ないけれど……原材料が何なのかは、怖くて聞けていない。
いつも食事は城の厨房に隣接した小さな部屋で、4人も座れば満員になってしまうテーブルの角を挟む形で斜向かいに座って取る。
平民を暮らしを思わせるようなそれに初めこそ驚いたものの、魔王様に話しかけるにはこの距離感はちょうどいいものだった。
「魔王様、今日は庭に出てみても良いですか?」
難しい顔をして書類を眺めながら食後のお茶を飲んでいる魔王様に、一応お伺いを立ててみる。
でも多分、訊かなくても許可は下りると思う。
城の中を散策したいとお願いした時も、「おまえの家なのだから好きにすればいい」と言われた。
それに私に何かあれば、呼べば自分が飛んでくるからいいと言って護衛も付けられていない。おかげで慣れない魔族を相手にすることなく、一人で好きにさせてもらえていたりする。
とりあえず攫われてからこれまでに、城の中は探索してみた。生まれ育った城とさほど造りに変わりはなかったことには安堵した。
……歩いている魔族の皆さんは、人の姿ではなかったけれど。
今のところ、彼らは私を遠巻きに見ている。
人間の娘など歓迎できないのかもしれない。けれど魔王様の手前、一応は妃である私に何もしてくることはないのが幸い。
「かまわないが……ああ、でも庭には小さくて光る物を見ると口に入れたがる鳥がいるから、気をつけるといい」
魔王様は案の定、金色の瞳を優しく細めてあっさりと許可をくれた。
わざわざそう忠告してくれるということは、付けている装飾品は外してから庭に出た方がいいということなのだと思う。
光るような装飾品は魔王様にいただいた指輪しかしていないけれど、大事なものだから部屋に置いていかなければ。
(カラスでもいるのかしら?)
人の世界では不吉がられる黒い鳥は、魔界こそが本来住む場所なのかもしれない。
魔族といえば、これまで見てきた限りでは黒を宿している者が多い。
人の姿をしている魔族は皆、漆黒の髪をしている。魔王様も例に違わず。癖一つない漆黒の長い髪は、けれど外から差し込む淡い光を反射してほんのり輝いて見えるから不思議だ。
(見慣れれば、とても綺麗だわ)
どんな色の介入も許さないその色は、むしろとても美しいと思う。
魔王様自身、私が並ぶと見劣りして霞んでしまうほどに美しい方だから、余計にそう見えるのかもしれないけれど。
「どうした?」
ぼんやり見つめていた私の視線に気づいたのか、さらりと髪を揺らして首を傾げる。
「魔王様の髪はお綺麗だと思って、見惚れていました」
ちょっと悩んだけれど、夫婦生活を円満にするためにはやはり言葉かけが大事だと思うので、素直に思っていたことを告げてみた。
言った後で、恥ずかしくなって目を逸らしてしまったけれど! これはちょっと素直に言いすぎてしまったわっ。恥ずかしい!
顔を俯かせて羞恥に耐えている私に、不意に魔王様の手が伸びてきた。
その長い指が私の銀髪を掬い上げ、その形の良い口元に……
(髪にキスされるなんてっ、想定外なのですけれど!)
突然のことに動揺して固まった私を見て、魔王様が微かに喉を鳴らして笑う。
「おまえの銀髪の方が綺麗だ」
「!」
しかもそんな言葉を言われてしまって、そういうことに全く耐性のない私は一気に真っ赤になった。喉を詰まらせて言葉が出ない。羞恥のあまり、全身の血が沸騰しそう。
魔王様、こんな恥ずかしいことを躊躇いもなくされるだなんて、実は女たらしというものなのではありませんか!?
(それともこれが魔族の普通なの!?)
文化の違いをまだ受け入れきれずに動揺する私の髪を離し、魔王様が立ち上がる。
「じゃあ私は仕事に行くが、万が一何かあれば呼ぶといい」
「はい。お仕事、いってらっしゃいませ」
慌てて立ち上がってせめて部屋の扉まで見送ろうとしたものの、手で制されたのでその場で見送る。
優しい眼差しで、優しい声で、私を気遣う魔王様は驚くほどに過保護で、こちらが恐縮するほどに甘い。
傍から見たら、とても順調な新婚生活に見えていると思う。
――しかしながら、現在この婚姻には個人的に問題に思うことがあったりする。
不意打ちであんなにも甘い雰囲気を醸し出す魔王様だけど。
実のところ正式に婚姻したにもかかわらず、私は魔王様と初夜はおろか、キスすらまだだったりするのです。