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魔界であなたと

※残酷描写注意


 目の前から掻き消えた姿を半ば呆然と見送って、何度か目を瞬かせた。


(私、なんて勘違いを……!)


 インキュバスではありませんでした。とても綺麗で、あまりにも艶っぽくていらっしゃるから、完全にそうだと思い込んでしまっていました!

 しかも勘違いからあらぬ疑いまでかけてしまった。己の愚行を思い返すと猛烈に恥ずかしくて顔が一気に熱を持つ。

 どうりでカヌレが大人しいはずです。彼女が先代の姫の幽霊だとわかっていたのでしょう。


(それにひ孫の方が男の子だったなんてっ)


 女の子の友達が欲しいと思っていたせいか、勝手に女性だと思い込んでいたことに気づいて更に熱が上がる。

 魔王様がとても渋い顔をしていらした理由がわかった気がします。私が魔王様にそういう女性が近づいてほしくないように、魔王様がいい顔をされないのも当然というもの。

 それだけ魔王様が私を愛してくださっている、ということでもある。

 ……そう。いつだって魔王様は、私を想ってくれていた。

 思い返してみれば、魔王様は迷う私に気づいていたのだろう。

 自分ですら見ないフリをして気づかなかったそれを見抜いて、時間を与えてくれた。私が迷ったまま安易に踏み込もうとすれば複雑そうな顔をして、適当な理由で引いて、私を逃がした。

 きっと私が後悔しないように。私が傷つかないように。真綿で包み込みように、心ごと守ろうとしてくれていた。

 愛してもらっていたのだ。たぶん私が想像するよりも、ずっと。


(今度こそ、ちゃんと向き合いたい)


 私も、あなたが好きなの。

 ちゃんと、好きになっていたの。


(私は魔王様の妃として、隣に立ちたいの)


 ぐっと拳を握りしめ、息を吸い込んだ。


「カヌレ。魔王様のところに連れていって」


 足元で伏せていた魔獣を見下ろして、覚悟を決めるとそう強請った。ゆっくりと身を起こした黒い魔獣は魔王様と同じ金色の瞳で探るように私を見上げる。


「お願い」


 魔王様が用意してくれたこの場所は、とても心地よい場所なのだと思う。外界で起こることなど何も見ず、何も聞かずにいても許されてしまう。


(でもきっと私は、ここで何も知らずに守られているだけではいけないの)


 魔王様の妃になりたいのなら、甘えているだけではいけないの。

 金色の瞳をまっすぐに見つめ返して言えば、渋々という仕草を隠しもしなかったけれどカヌレは歩き出した。長い毛足の尻尾をゆらりと振りながらチラリと私を振り返る。その視線に促されるままに足を踏み出す。

 心臓はドクドクと早鐘を打っていた。無意識に拳を握りしめているせいで掌に自分の爪が食い込む。

 これから向かう場所に、緊張と不安を感じないわけではない。少しでも気を抜けば足は止まってしまいそうになる。

 それでも、ここで立ち止まれない。

 ぐっと顎を引き、前に進む足に力を入れる。

 カヌレに先導されるままに階段を下り、長い廊下の先へ先へと歩を進める度、喧騒に近づいていく。

 門が開き、勇者様一行を迎え入れると魔王様は仰られていた。

 魔王様は勇者様のことなど歯牙にもかけていらっしゃらないようではあったけれど、他の魔族にとっては脅威となるのかもしれない。多少はやられてみせなければならないと言っていたから、怪我をする者たちだっているのだろう。先に進むにつれて刺々しさの増した空気が肌を刺す。

 人間の私は魔界に満ちている魔素というものを感じ取ることは出来ない。けれどさすがに今日ばかりは城に満ちている何かに肌が粟立つのを感じた。


(……こわい)


 恐怖が足に絡みついているかのよう。歩く度にふわりと揺れる白いドレスの裾が重いわけもないというのに、踏み出す足がやけに重くなる。

 だけど前に、進まなきゃ。


「お妃様!?」


 歩を進めてざわめきの中に足を踏み入れる。顔見知りになれた魔族の顔がいくつかが、私を見るなり驚愕にぎょっと目を剥いた。


「なんでこんなとこに来てるんです!? お戻りください!」


 慌てて私の前にやってきて、行き先が塞がれる。

 魔王様の妃と言っても私はただの人間でしかなくて、場違いであることは百も承知。けれど今だけは大人しくできない。怯みそうな心を奮い立たせて顔を上げた。


「通してください」

「できません。魔王様に怒られてしまいます!」

「魔王様のところに行きたいのです」

「後で落ち着いてからでいいでしょう。我儘仰らずに、部屋でおとなしくなさっていてください!」

「今じゃないと駄目なのですっ!」


 声を荒げて訴えれば、私の行き先を阻む魔族が強張った顔で……いえ、顔は毛に覆われていたり、包帯が巻かれていたりしてわからないのだけど、たぶん強張っている顔を見せた。

 けれどそれは私が声を張り上げたからだけではなく、私を先導していたカヌレが威嚇体勢になっていたからかもしれない。いくらなんでもカヌレをけしかけるつもりはないけれど、相手が対応に困って怯む。

 それに魔王様にいただいた指輪を私がしている以上、彼らが私に指一本触れることは出来ない。怯んだ隙に一歩踏み出す。


「お願い。通してください」

「ですが、今は……っ」


 そのときだ。不意に、閉め切られているはずの廊下に一陣の風が吹き抜けた。


「っ!」


 スカートが風に嬲られて大きく翻った。長い自分の髪が乱される。

 驚いて咄嗟に手で押さえたところで、この場を空気を両断する声が割り込んできた。


「騒がしい」


 不機嫌そうな声と共に、カツン、と廊下に靴音が響いた。

 それだけで周囲のざわめきが波が引くように収まった。反射的にそちらを向ければ、闇に溶け込みそうな黒いローブを纏った魔王様の姿が視界に入る。


「魔王さま」


 姿を見せただけで場の空気が息苦しいほど重くなり、肌がピリピリと痛むように感じられた。誰もが息を呑み、すぐさま傅く。カヌレすら床に伏せて、そうしてその場に立っているのは私と魔王様だけになる。

 私を見る魔王様の表情は、とても機嫌がいいとは言えない。


「今日は部屋で大人しくしていろと言ったはずだ」


 けして荒げた声ではないのに、低い声音は怒気を孕んでいるのがわかる。怒られていると感じて、ぎゅっと胸が竦んで体が強張った。本能的な恐怖を感じて、顔から血の気が引いていく。

 だけど私も引けなかった。委縮してしまいそうな胸を自分の拳でぎゅっと抑え、気を抜けばへたり込んでしまいそうな足に力を入れる。

 顎を引いて魔王様を見つめ返すと、縮こまる舌を叱咤して口を開いた。


「私を、勇者様に会わせてください」


 勇気を振り絞ってここまで来た目的を告げた私を見て、魔王様が瞳をすっと細めた。不快を露わに眉根を寄せ、金色の瞳が獰猛に輝いたように見えた。

 カツカツと靴底を響かせ、大股であっという間に私の真ん前まで距離を詰めると威圧的に見下ろしてくる。

 体が竦む。怖い。怖くないわけがない。でも目は逸らせない。

 魔王様の手が伸びてきて、咄嗟に肩が竦んで跳ねた。それを見て、魔王様が一瞬痛みを受けたような顔をする。

 今のはちょっと驚いただけだと言いたかったのに、魔王様はそれを遮るように指先で私の唇に触れた。その指先が移動してそっと私の頬を確かめるように撫でる。

 怒っているように見えるのに、触れる手はいつもと同じく優しい。


「魔王様。私は、」


 けれど頬を撫でた冷たい指先は更に肌を滑り、私の喉元に掛かった。


「!」


 指先は冷たかったのに、喉に触れる掌はやけに熱い。

 強く掴まれているわけではないけれど鼓動がドクリと大きく跳ねて、首筋に冷たいものが駆け抜けていく。全身は緊張に強張ったまま、指先一つ動かすことが許されない雰囲気に気圧される。


「会ってどうする? やはり勇者が来ると聞いて里心でもついたか」


 怒っていても醜く歪むことのない整った顔が私を覗き込む。金色の瞳が私の心を探るかのように細められた。


「勇者にここから助け出してほしいとでも叫ぶのか?」

「っ!?」


 考えてもいなかったことを言われて大きく目を瞠る。そんなことを言いたいわけがありません!

 しかし言いたかった言葉は開いた口から出てこなかった。なぜか、まったく声が出せない。


(なぜ声が出ないの!?)


 口がパクパク開くだけで、全然声が音になってくれない。魔王様が怖くて出ないわけではない。動揺して何度も喉に力を入れてみても、擦れた息が漏れていくだけ。

 混乱して魔王様に目で訴えても、魔王様は声なく口を動かすだけの私を不審に思う様子もない。見るからに焦っている私を感情の読めない無表情でただ見つめている。


「おまえの口からそんな言葉など聞きされたくもない」


 そう言って、私の喉元に掛かっている魔王様の熱を持っていた大きな手が離れていった。しかし私の声はまだ出ない。


(もしやこれは、喋れないようにされてしまったのっ!?)


 これでは弁解すらできません! なんてことをするのです!


「――魔王様。勇者が城まで到達したようです」


 咄嗟に魔王様の袖を掴んで態度で訴えようとしたところで、別の声が割って入った。

 声の方に目を向ければ、私が初めてここに来た時にいた魔王様の側近が深々と首を垂れていた。魔王様もチラリとそちらに視線だけを向けて、忌々しげに顔を歪める。

 そしてもう一度私に視線を戻し、魔王様の手を掴んで引き留めようとしていた腕を痛いぐらいの力で掴まれた。


「っ……!」


 引き剥がされるかと思ったけれど、痛みに顔を歪めた私を見て魔王様は少し手の力を緩めただけ。私の腕を乱暴に掴んだまま、魔王様が踵を返して歩き出す。


(どこにいくのです!?)


 連行されているような形になっているけれど、私を部屋に連れ戻すという感じではない。私の部屋は進行方向とは逆にある。

 この廊下の先にあるのは、私が初めてここに来た時に魔王様に連れられて降り立った場所。謁見の間だけ。


「勇者に会いたいのだろう? 会わせてやる」


 目を白黒させている私には目もくれず、魔王様が歩を進めていく。仰ぎ見た横顔は不快を隠しもしない。唇を引き結び、前を見据える金色の瞳は夜行性の獣のように輝いていた。

 歩調が合わされることもないために半ば小走りになって時折躓きそうになりながらも、腕を掴まれているので転ぶこともなく連れられていく。見るからに苛立って見える魔王様を前にして、心臓が先程からバクバクと脈打っている。

 すぐに辿り着いた謁見の間へと続く大きな扉が軋んだ音を立てて開かれていく。

 同時に、鉄錆に似た異臭が鼻を突いた。


「人間というのは、招待も受けていない城に剣を振り回しながら踏み込むのが流儀か?」


 謁見の間へと辿り着いていた人達は、たった4人だけだった。

 現れた彼らの姿に息を呑んで顔を蒼褪めさせた私に気づいたのか、魔王様が皮肉を言う。それほどに勇者様と思わしき青年の握る剣は赤く血塗られていた。弓を番えた女騎士と、もう一人いる筋肉隆々とした大男の着ている服も返り血と思われる赤で染まっている。彼らを守るように傍らに控えている、深くフードを被った女性の白かっただろうローブも薄汚れてボロボロだ。

 彼らは魔王様がわざわざ力を調整して招き入れたであろうはずが、既に満身創痍でところどころに血が滲んでいた。致命傷とまではいかないだろうけれど、けして浅くはない痛々しい傷も見える。

 立っているのが不思議な程に疲労困憊な状態だった。

 それなのに、こちらを睨み据える目だけはギラギラと輝いている。

 そこには、けして諦めないという強い意志が感じられた。彼らを突き動かすのは、成功による地位や名誉なんかじゃないとすぐに気づいた。私の甘い考えを粉々に打ち砕いていく。

 彼らは、自分たちの未来を懸けてここにいる――。


「人間の世を乱している魔王に礼儀など説かれたくない! おまえを倒して、姫を返してもらう!」

「!」


 不意に自分の名が出て、ギクリと全身が竦んだ。

 魔王様に腕を掴まれたままの私に視線を投げかけた勇者様と目が合った。ドクンッ、と心臓が大きく鳴り響く。

 けれどそれは助けに来てもらったことに対するときめき、なんてものではなかった。

 自分でも驚くことに、ただの罪悪感だった。


「まったく、こちらの気も知らずに好き勝手に言ってくれる」


 動揺している私の隣で魔王様が唇の端を吊り上げて自嘲気味に笑んだ。けれどそれも一瞬で、すぐに冷ややかに彼らを睥睨した。

 カツン、と靴音響かせて一歩踏み出す。その爪先から、黒曜石のように磨き上げられた床が勇者達の足元まで一気に凍り付いていく。

 彼らが悲鳴や怒号を上げる間もなく、いち早く魔王様の魔法に気づいたローブ姿の魔導士と思われる女性が杖を掲げた。彼らの足元に輝く円陣が浮かび上がって、済んでのところで凍り付くのを防ぐ。

 魔王様は防がれたことに小さく舌打ちした後、先程魔王様を呼びに来た側近に向かって低めた声を投げかけた。


「ファフニール。遊んでやれ」

「よろしいのですか?」

「忌々しいことに、向こうには奴が付いている。手を貸したら均衡を崩すと言っておきながら、ハンデのつもりか……多少派手にやったところで死ぬことはないだろうよ。いっそ死んでほしいがな」


 傍らに控えていたファフニールと呼ばれた彼は意外そうに目を瞠ったが、私にはわからない理由で納得したらしく首を垂れた。

 次の瞬間には、首を垂れた姿が大きく膨れ上がる。


「!」


 一気に人の数倍もの大きさになったトカゲにも似た体を覆うのは、固い黒い鱗。数階分が吹き抜けになっている謁見の間においても窮屈に思えるほどの体躯になると、長い首を擡げて大きな口を開く。鋭い牙を覗かせながら咆哮を上げた。

 鼓膜が破れそうなほどの咆哮だけで、謁見の間の空気を震わせた。肌に突き刺さるほどの衝撃が走る。


(この方、竜だったのですか!?)


 童話でしか見たことがない姿に目を真ん丸く見開いた。私の向かい側、勇者達も愕然と目を瞠って竜を見上げていた。


「竜……だと!?」

「まだこの世に存在したなんてっ!」


 悲鳴にも似た声が耳に届く。目の前で繰り広げられる光景に息を詰めて見入っていた私の心臓はバクバクと壊れそうなほどに脈打ち出した。顔から血の気が引いていく。


(魔王様は勇者様たちを殺すおつもりはない、はずなのに)


 でもこんな大きな竜相手では、人間なんてひとたまりもない。万に一つも勝ち目なんてないように見えた。

 咄嗟に仰ぎ見た魔王様は私に視線を向けることもない。冷たい眼差しで彼らを見下ろしているだけだ。


「姫! 大丈夫ですッ。必ず貴女をお助けします!」


 どういうつもりなのかわからなくて戸惑う私の不安が見えたのか、竜と対峙しながらも勇者様が力強い声を投げかけてきた。

 反射的にそちらに顔を向ければ、頬を引き攣らせながらも安心させるように微笑んでくれる。

 私はずっと、勇者が欲しいものは私を助けることによって得られる富と名声なのだと思っていた。勿論一番の目的は魔王様を倒して人の世に平和を取り戻すことだけど、私はおまけに過ぎないのだと。

 けれど彼は勇者に選ばれただけあって、きっととても善良で、真摯な人なのだろう。純粋に私を助けようとしてくれているのを感じる。そこに打算は欠片も見えない。

 こんな悲劇的な状況になっても私を見つめて迷いなく言い切られた言葉が、嬉しくないわけではない。


「エステル」


 不意に、魔王様が私を呼んだ。

 弾かれたように魔王様を見上げれば、私を見つめる魔王様と目が合った。私の心の内を探るように金色の瞳が細められる。


「奴はああ言っているが……いっそ目の前であの勇者を残虐に殺してやれば、おまえの希望を奪えるか?」

「!?」


 目を瞠った私が慌てて大きく首を横に振れば、魔王様が口元を歪ませて笑う。金色の瞳を獰猛に輝かせて、腕を掴んでいない方の手で私の頬を愛しげに撫でる。


「人の世界なんて滅ぼしてしまえば、おまえの帰る場所を失くしてやれるのに」


 恐ろしいことをいうくせに、魔王様が私に触れる手は驚くほど優しい。大切な宝物に触れるみたい。壊れないように、壊さないように、細心の注意を払って触れているよう。

 コクリ、と息を呑んで魔王様を食い入るように見つめ返す。


「…………けれどそんな真似をすれば、おまえは二度と私に笑いかけてくれなくなるのだろうな」


 歪めた口から苦々しい声を吐き出して、魔王様が笑った。

 自嘲を滲ませながら、ふと目元を緩ませて優しい目をして私を見つめる。慈しむように、愛しいと語る眼差しにそれまで早鐘を打っていた心臓がトクりと跳ねた。


「エステル。おまえが今までいた人間の世界にはどうしようもない輩も多かっただろうが、中にはああいう愚かな程に善良な人間もいる」


 言いながら、一瞬だけ魔王様が竜相手に対峙している勇者様達に視線を投げかけた。仕方ないと言いたげな、諦めた眼差し。


「ここで勇者と共に帰れば、あの男と添い遂げる未来がおまえにはある」

「!」

「人間として生まれたおまえはこんな化け物だらけの場所で生きていくよりも、その方が幸せなのかもしれない」


 切なそうに目を細め、それでいてとても優しく微笑む。


(その方が、私が幸せ……?)


 信じられないことを言い出した魔王様を食い入るように見つめたまま、呼吸すら忘れた。確かめるように頬を撫でていた手が僅かに躊躇いを見せて、けれど私の喉元に掛かる。


「魔王!? 貴様、姫に何をする気だ――ッ!」


 勇者様の鋭い声が飛んでくる。傍から見たら、魔王様が私を縊り殺そうとしているように見えたのだろう。

 魔王様がそんなこと、なさるわけがないのに。

 魔王様が触れている掌が熱い。喉に詰まったものを溶かすように、呼吸が楽になった。私の腕を強く掴んでいた手の力が緩む。私が振り解けば、簡単に逃れられてしまうほどに弱く。

 そのとき、矢を受けた竜の怒りの咆哮が響いた。長い尻尾が床を叩く振動が地響きのように伝わってくる。

 高い天井に反響した声がこの場の音を掻き回した。だから魔王様の声は、目の前にいる私にだけ届く。


「これで声は出るはずだ。叫べばいい。助けてくれと。……今ならまだ、おまえを手放してやれる」

「まお、……さま。わ、たし、は」


 まだぎこちない喉を振り絞り、魔王様を呼んだ。

 その間に反響していた声と振動がやっと収まり、こちらに駆けてくる勇者様の足音が耳に届く。切羽詰まった声で私を呼ぶのが聞こえる。

 勇者様が私を必死に助けようとしてくれているのが伝わってくる。そのとき魔王様が両手を離して、勇者様の方へと私の背を押した。押された勢いのまま蹈鞴を踏み、数段しかない階段を足が降りる形になってしまう。

 突き放すのは、魔王様の優しさだった。私に対する愛情だった。


(……それでも、私は!)


 動揺と不安と、怒りがごちゃ混ぜになって頭の中が真っ白になった。けれどここに来ても尚、私の芯の部分は変わらない。

 変わるわけが、ないの。

 魔王様の行動に驚愕して目を瞠った勇者様の手が私に届く寸前に、己の足に力を入れて踏み止まった。足を踏みしめた勢いのまま、勇者様とは逆、魔王様に向かって踵を返す。

 たったの数歩の距離。

 数段しかない階段。

 それが異様に遠くて感じる。だけどまだ手を伸ばせば届く。

 床を蹴って、風を孕んで揺れる白いドレスの裾を行儀悪く翻して駆け上がる。

 私は走るのは遅いけど、魔族を追いかけまわしたおかげで前よりずっと俊敏になれたと思うのです。空を掴む形となった勇者様を、振り返ったりはしない。

 私の行動に驚いて目を瞠る魔王様に向かって突き進み、伸ばした両手で黒いローブの胸元を力いっぱい引き寄せた。


「私の幸せを、勝手に決めつけないで!」


 不意打ちされた形になった魔王様が、引かれるままに身を屈ませる。

 私も精一杯背伸びをして、躊躇うことなく魔王様の唇に自分の唇を押し付けた。

 すぐ間近に真ん丸く見開かれた切れ長の瞳が映る。その瞳に映る私の瞳は怒っているせいで、愛を語るには鋭くなってしまっている。夫婦らしい艶っぽさなんて出せなかった。

 それでもこれは、私なりの誓いのキス。

 以前もここで婚姻式をあげた時に魔王様と交わしたけれど、それも額にされただけ。あの時の私はまだ全然覚悟なんてできていなかった。

 だけど今は、違う。


(私は私の意志で、ここで、あなたと生きていく)


 背伸びをしていた足の筋が痛くなってきて、ゆっくりと唇を離した。

 私の行動に誰もが動揺して固まっている。魔王様も目を瞠ったまま固まって動かない。その隙に魔王様の胸元を掴んだまま、言いたかった言葉を叩きつけた。


「一度妃にすると決めていただいたのなら責任をとっていただかないと困ると、私は前にも言いました!」


 魔王様を不安にさせてしまったのは、私の不徳の致すところです。弁解の余地もありません。散々お待たせして、ぐずぐずと悩んでいた私がここで怒るのはお門違いだというのも理解しています。

 けれど、それでも言わせてほしい。


「私は、魔王様とだから幸せになれるのです!」


 魔王様がいいの。あなたじゃないと駄目なの。

 それは、誰にも譲れないのです。


(ここで、あなたと生きていきたいの)


 ぐしゃぐしゃになってしまったローブから、ゆっくりと手を離した。階下で呆然としている勇者様に向き直る。

 一歩踏み出して、震えそうな体に力を込めて背筋を伸ばす。すっと息を吸い込んだ。

 これから告げる言葉に胸が痛まないわけではない。彼らには何の罪もない。あなた達の勇気を、真摯な思いを、私は今から踏み躙る。

 だって私は善人ではないから。とっくに人間を、見捨てていたのだから。

 魔王様の手を取った時点で私は人間の姫ではなくて、魔王様の妃になっていたのだから。


「勇者様。私のような者を助けようとしていただいたこと、心から感謝します」


 これは、私自身のけじめ。


「ですが、私はここに残ります」


 この言葉を告げるために、私はここに立った。

 満身創痍のあなたたちにとって、とても残酷な言葉を突き付ける。ごめんなさい、とは言いません。だって許してほしいとは思っていないから。


「私はここで、魔王様と生きていきます」


 憎んでくれていい。蔑んでくれていい。人間を裏切った悪女と呼ばれてもかまわない。


(それでも私は、魔王様を選びます)


 私は、魔王様の妃になる。


「ですからどうぞお引き取りください、勇者様」


 言い切った私を、勇者様が驚愕のあまりぽかんと口を開けた顔で見上げた。

 女騎士は目を瞠っているし、大男も息を呑んで愕然と固まっている。魔導士は怒りにか、体を震わせていた。

 ファフニールと呼ばれた竜だけが微笑ましそうに私を見つめていた。その顔を勇者様たちに見られたら威厳、台無しです。

 そのとき、くっ、と喉を震わせる声が隣から聞こえてきた。

 驚いて見上げれば、魔王様が喉を震わせて笑っている。しばらく笑って、金色の瞳を愛しげに細めながら伸びてきた魔王様の手が私の腰に回された。

 引き寄せられて、私は魔王様の隣に立つ。


「そういうことだ、勇者。どうやら貴様が出る幕じゃない」


 歌うように言いながら魔王様の指先が宙に不思議な文字を描いた。呼応するように、勇者様達の足元に不可思議な模様の輝く円陣が浮かび上がる。

 悲鳴と焦る声が響く。けれど溢れ出した光は陣から出ようとする彼らの行動を阻む。


「私の妃は貴様らの帰還を所望している。お帰りいただこうか」


 魔王様の一言を最後に、一際強く輝いた円陣が勇者様達を包み込んだ。眩しさのあまり、ぎゅっと目を閉じる。

 そして次の目を開けた時には、もうそこ勇者様一行の姿は残されていなかった。

 目を何度か瞬かせ、戦いの爪痕だけを残して誰もいなくなった空間を呆然と見つめた。


「……彼らを返した、のですか?」

「ああ。魔界に入ってきていた兵ごと纏めて上の城に叩き返した。今頃あちらは阿鼻叫喚だろうな。もうじき夜が明ける。やっと門も閉まるから、しばらくはゆっくり過ごせそうだ」


 はっきりいって、今回は勇者様たちから見たらとんでもない茶番です。今までの苦労も努力も全部が台無し。まさにこれぞ悪の所業と言って差し支えありません。

 そしてその片棒を担いだ私も、立派に魔王様の妃と言えるのではないでしょうか。

 仰ぎ見た魔王様は楽しそうに喉を震わせて笑う。見るからに上機嫌です。

 しばらく笑った後、しかし私を見下ろして不意に魔王様が仄暗く瞳を陰らせた。


「言っておくが、もうおまえを返してやる気はない」


 逃がさないとでも言うように、私の腰を抱く腕に力が込められる。

 なんだかそれがまだ少し不安に思っているように感じられて、私も魔王様の背に手を回した。ちゃんとここにいることを伝えるように、ぎゅっと力を込める。

 大丈夫、ここにいます。ここが私の生きていきたい場所なのだから、放り出されても困ります。


「ええ。どうぞ末永くよろしくお願いします、魔王様」


 これを言うのも、二度目ですけれど。改めて、もう一度。

 顔を上げると溢れんばかりの幸せを滲ませて、あなたに笑いかける。


「どうぞ私を、魔王様の妃にしてくださいませ」








次話、終幕。

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