魔界で初めて喧嘩する
門が開くと言われたこの日は、朝が訪れる前から城の中はざわめく空気に包まれていた。
数日前から喧騒は増していたけれど、今日はいつも以上にピリピリした空気が漂っている。時間が経つにつれ、緊迫感が増していくのが感じられる。
私は魔王様に言われた通り、自室に籠ったまま出歩いていない。
何ができるわけでもないけど落ち着かなくて、手持無沙汰にそわそわと立ったり座ったりを繰り返すばかり。気がそぞろなせいで、ドールにすすめられて手慰みに刺していた刺繍は歪になってしまっていた。
(子犬のつもりが……魔獣が出来上がってしまいました)
ある意味、いつも通りの出来だけど。どうしていつもこうなるの。
溜息を吐きながら刺繍枠をテーブルの上に置いた。
窓の外を見れば、やっと空が夕焼けの朱へと変わっていくのが映る。
魔界の空は昼間はくすんでいるけれど、夕刻になると目に鮮やかな朱色へと姿を変える。鮮やかな赤から夜の闇へと染め替えられていく色合いの変化がとても美しい。けれど逢魔が時というだけあって、心が不安になる時間帯でもある。
どうしても外の様子が気になって、立ち上がってそっと扉から廊下に顔を覗かせた。既に朝から片手の数では足らないほどの行動だ。
けれど何度見ても私の部屋は魔王様の私的な階になっているので、外の喧騒が嘘のようないつも通りの景色が広がっている。
それに安心して息を吐いた、そんな時だった。
廊下の曲がり角から、黒い影が現れたのは。
「!」
黒い影は、真黒なローブに包まれている人だった。
フードを目深に被り、ローブの裾は僅かに床に擦らせほど長い。ほっそりとした姿で、たぶん身長はそれほど高くない。
(誰!?)
見慣れないその姿に、緊張で鼓動が脈打つ速度を上げる。
咄嗟に傍らにいるカヌレを見れば、牙を剥くわけでもなく大人しく座っていた。
(カヌレが大人しいなら、危険な方ではないのでしょうけれど)
でもこんな日にこんな場所に来るなんて、一体どなたなのでしょう。
こういう時に限って、対応してくれそうなドールが部屋にいないので困ってしまう。
ドールは私が不安そうにしているのを気遣って、私を落ち着かせるためにお茶を淹れに行ってくれている。まだ戻ってくるには時間が掛かりそう。
焦りながらも自分の左手に視線を落とし、指輪も嵌めていることを確認した。
(これがあれば、大丈夫)
そうこうしている内に、その影は私のすぐ前までやってきてしまった。緊張で喉が渇き、無意識に両手を強くに握り締める。
目の間に立つと私より僅かに高いだけで、ほっそりとした姿から多分、女性。
でも見覚えは、ない。
「あの……どちらさまでしたか?」
何度か目を瞬かせて、間抜けな質問をしてしまった。
するとフードの奥で、その人が呆れたように溜息を吐いた。綺麗に爪先まで整えられた白い手がフードを退け、そこから息を呑むほど綺麗な顔が現れる。
「ご挨拶ね。貴女が会いたがっているというから、わざわざ会いに来てあげたのに」
フードを脱いだ手で長い髪を払うと、綺麗に巻かれた豪奢な金髪が黒いローブから零れ落ちてきた。
小さな卵型の顔に、すっと通った鼻梁。私を見つめるけぶるような金の睫毛に縁どられた吊り目はアメジストのような色合いで、口元に一つあるほくろがとても艶っぽい。勝気で近寄りがたそうな見た目が、そのほくろひとつで甘さを添える。
(私が会いたがっているから、会いに来てくださった?)
私が会いたがった人は、最近では一人だけ。
つまりこの方は、まさか。
「先代の……!?」
そう口にすれば、目の前の女性の唇の端が蠱惑的に吊り上がった。
「そうよ。私に聞きたいことがあるのでしょう?」
小首を傾げる無邪気な仕草すら白いうなじが強調されて、同性なのに目のやり場に困ってしまう。
(つまりこの方が、インキュバスだという先代の姫のひ孫という方なのですか!?)
年齢は私と同じか、少し上ぐらい。
それでも色っぽさは比べるべくもない程に、彼女の方が凌駕している。
口元のほくろのせいでしょうか。それとも、その性質ゆえなのでしょうか。話す声はけして高い声ではないけれど、それが耳に心地よくて甘く感じられた。
彼女にじっと見つめられると、心臓が勝手に脈打つ強さを上げていく。さすがは、インキュバスです。同性である私までドキドキしてしまいます。
「それで、何が聞きたかったの?」
「その前に、もしよければお部屋に入られませんか?」
単刀直入に用件を切り出されて、慌てて部屋を手で示す。こんなところで立ち話だなんて、失礼にも程があるというものです。
けれど彼女は肩を竦めると、「いいわ」と断られてしまった。
「私も他に用があるから、長居する気はないの。それに貴女、まだ魔王様の本当の妃というわけではないのでしょう? だったら私から話すことはないもの」
そう言いながら私を見る目は、ひどく冷たく見えた。
「!」
侮蔑すら感じられて、一瞬背筋がゾッと震える。
それと同時に、言われた内容に心臓がぎゅっと鷲掴まれたように感じた。無意識に握り込んでいた手に力が入り、爪が食い込む。
「あの、私が本当の妃ではない、というのは……」
「それは自分が一番わかっているのではなくて?」
それはつまり、まだ私と魔王様が一線を越えていない、と。そのことを言っているのでしょうかっ。
(インキュバスというのは、そんなことまで一目で見抜いてしまわれるのですか!?)
じわり、と背筋に嫌な汗が滲んだ。
出来れば女の子の友達を作って、相談したいとは思っていた。けれど初対面で無遠慮に言い当てられたことに羞恥を感じる。
それと同時に、息苦しくなるほどの焦りに襲われた。
(なぜかとても、敵意を抱かれているようです)
初対面だと言うのに、その眼差しも、声音も、話す価値がないと言われているよう。
さりげなく視線をカヌレに向けたけれど、カヌレは問題ないと言わんばかりに伏せている。
ならば私を身体的に害するつもりはないと言うことなのだろうけれど、向けられている眼差しは冷たく鋭い。見えない刃を突き付けられているかのよう。
この状況に困惑して動揺している私を見て、呆れたように溜息が吐かれた。
「私に言えるのは、妃になる覚悟がないなら、ちょうど門も開いていることだし人間界に帰ったらいかが? という助言だけよ」
「っ覚悟がないわけではありません!」
咄嗟に声を荒げて言い返してしまった。
だってそんなこと、この方に言われる道理なんてありません!
けれど相手は怯むことなく、「どうかしら」と冷たい声で切り返されてしまう。
「じゃあ、なぜ貴女は未だにお飾りの妃なの?」
「それは、私はただ……まだ、恥ずかしくて、それでっ」
しどろもどろに言葉を選んで訴える。
(なぜ私は初めて顔を合わせた方相手に、こんなことを言わなければいけないのっ)
恥ずかしくて顔が熱い。耳まで熱くて、吐き出す息まで熱を怯えている気がする。
それでも、言い訳しないといけないような気がした。
無性に目の前の女性にだけは、そういうわけでないのだと訴えないといけないように思えた。
脳裏には、彼女のことを尋ねた時に魔王様が嫌そうな顔をしていたことが過っていく。それと以前に魔王様が、城に女性がいないのは言い寄られて迷惑したからだと言っていたことも。
(この方は、きっと魔王様のことが好きなのでしょう?)
だから魔王様もあんなにも私に会わせたがらなかったのでは、と今更ながらに気づいて顔から血の気が引いていく。
正直なところ、この方と並んだら私は確実に見劣りしてしまう。
タイプが全く違うと言ってしまえばそれまでだけど、それを差し引いても十中八九、彼女を選ぶ者の方が多いだろう。
それなのに、私が魔王様に選ばれた。
自分が選ばれなかったということに、面白くない気持ちになったのではないでしょうか。
そんな状態でも我慢していたのに、私が無神経にも会いたがっていると聞けば、さぞかし不愉快な気持ちにさせたに違いない。
知らなかったとはいえ、それに関しては申し訳ないことをしたと思います。
だけど。
(私だって、魔王様が好きだもの!)
ちゃんと、好きになっていたのだもの。
(その気持ちだけは、譲れないのです)
ぎゅっと唇を引き結び、アメジストの瞳が真っ向から見つめ返す。
すると冷たかった彼女の瞳が少しだけ瞠られて、なぜか微かに口元が笑ったように見えた。
「じゃあ聞くけれど。本当にただ恥ずかしいだけなのかしら。本当に?」
「!」
「違うでしょう?」
それまでとは、声のトーンが変わった。
冷たさが抜けて、優しくすら感じる声で彼女がゆっくりと私に問いかけてくる。
「怖いのでしょう? 本当に魔王様の妃になるのが。自分が人間ではなくなってしまうみたいで、躊躇っているのでしょう?」
言われた言葉に思い当たる節があって、思わずコクリと喉を嚥下させた。
『恥ずかしいから』
『勇気が出ないから』
それは、けして嘘じゃない。
だけどほんの少しだけ、それ以外の躊躇いもあるように感じていた。漠然と、怖い、と思ってしまっていた。未知なる経験が怖いのだと、そう思っていた。勿論それもある。
けれど突き付けられたことで、ようやく胸の奥で微かに引っかかっていた理由に思い至って息を呑んだ。
……結婚式を挙げたその日、魔王様が何もなさらずに部屋から立ち去られたことに拍子抜けした。
けれど、私はそれ以上に心から安堵もしていた。
私はまだ、人間のままでいられる――そう思ってしまった。
魔王様の妃になったところで、私が人間であることに変わりはない。だけどなんとなく、そこを超えると違う存在になるかのように思えていた。
それが、怖かった。
覚悟をしているようで、あの時の私は全然覚悟なんて出来ていなかった。
それでもそのとき一線を越えていれば、嫌でも覚悟は後から付いてきたのかもしれない。だけど魔王様はそうなさらなかった。私の気持ちを優先させて、引いてくれた。考える時間を与えてくれた。
待っていると、そう言ってくれた。
その言葉に甘えて、今の状態が心地よくて、ここまで来てしまった。
私の目の前に立っている人は、私が見ないように無意識に目を背けてきたことを容赦なく突き付けてくる。
「気持ちはわかるけど、それが乗り越えられないなら、貴女は魔王様の妃になれない」
ひどく静かな声で、彼女は言い切った。
「迷って宙ぶらりんなままでは、魔王様も迷わせるだけ。そんな妃ならいらないわ。魔王様だって、貴女がどうしても魔王様が嫌だと言うなら追ってきたりはしないわ。貴女は姫としての役割は果たしたのだし、魔王様を愛する役目は貴女じゃなくてもいいのだから」
「っ駄目です!」
それでも、その言葉には頷けなかった。咄嗟に声を荒げて遮る。
「私じゃないと、駄目です!」
「なぜ?」
「私が、魔王様を好きだからですっ!」
自分でも驚くほど声の限りに、言い放った。
(好きなの。本当に、好きなの。だから、譲れません。魔王様の妃になることは、誰にも譲れません!)
今更何を、と思うでしょう。引き延ばして来たくせに、ずるいと言われても仕方がない。
それでも、譲れません。譲れないのだと、わかりました。
私じゃなくてもいいのだと言われて、認められないと思ってしまった。誰でもいいだなんて、そんなことを言われたくない。
(だって魔王様は、私を選んでくださったのだもの)
私を見つけて、手を差し伸べてくださった。
あの方だけ。私を気に掛けてくれたのも、救ってくれたのも、不器用ながら愛そうとしてくれるのも。
そして私が、愛したいと思うのも。
(人間ではなくて、魔王様なの)
たぶん私は魔王様の手を取った時点で、とっくに人間ではなくて魔王様を選んでいた。
あのときは魔王様に逆らえる状況ではなかったけれど、それでもどこかで、人のしがらみから抜けられる自分に安堵していた。そしてそんな自分を認めたくなくて、目を背けてきた。
それを改めて目の当たりにした今、それでも私が選びたいのは魔王様なの。
(だから貴女にも、譲れません)
歯を食いしばって見据える私を見て、その人は一度目を瞬かせる。
言い返されるかと身構えた私に向かって、不意にその人は花が咲き零れるように笑った。
「ほら、とっくに答えは出ているじゃないの」
朗らかな声で、そんなことを言われて目を瞠った。
「…………え?」
「もし本当に覚悟が決まっていなければ、門が開いたと聞いてすぐに逃げる算段を立ててるわ。私のように」
そう言いながら、彼女は懐かしそうに目を細めた。
「貴女には魔王様は追ってこないと言ったけれど、嘘よ。貴女の魔王様はわからないけど、たぶん全力で追いかけてくるわ。私も逃げようとしたら何度も先回りされて妨害されたもの」
「え? あの、え……!?」
「魔王の妃なんて絶対嫌だと思っていたのに、不思議なものよね。いつの間にか好きになっていたのだもの。まず、あの顔からしてずるいわ。甘やかすのもずるいわ。自分は特別なんだって、思ってしまうもの。強引に攫われて憎らしかったのに、私に対しては不器用で、変に優しくて、最後は絆されてしまった自分が悔しいわ」
悔しい、という割に彼女の頬は少し照れているのか赤く染まっていた。
私が目を瞠ってまじまじと見つめている視線に気づいたのか、彼女は慌てて咳払いをして居住まいを正す。
「答えが出たなら、もういいかしら? 私もあまり時間がないの」
恥じらいを押し隠して慌てて取り繕おうとする仕草は、普通の人間の女の子のように見えた。私と、同じような。
「貴女の相談に乗るのを条件に神様がこちらに送ってくださったのだけど、私の一番の目的はひ孫に会うことなのよ」
「……ひ孫、ですか!?」
「ええ、ひ孫。私の魔王様に似ている男の子だと聞いて、今から楽しみなの。……なに、変な顔して。貴女には私がいくつぐらいに見えているのかしら?」
神様? 私の魔王様? それに、ひ孫? 言われた言葉を理解しようにも既にいっぱいいっぱいで、頭が追いついていかない。
けれど問われたことにはなんとか反応して答えた。
「私と、同じぐらいでいらっしゃるのかと」
「それならきっと、貴女が想像する私がそれぐらいなのでしょうね。私も貴女ぐらいの頃にここに来たのよ」
彼女は目を細め、見惚れるほど綺麗に笑った。
「経験者として言っておくけれど、案外悪くない人生だったわ。だから貴女も、頑張って」
そう言って彼女は両手でローブを抓みあげると、優雅に一礼をした。
服装こそ真黒な飾り気のないローブだったけれど、まるでドレスを着ているかのように錯覚するほどに優雅で完璧な所作だった。王宮で、私がよくしていたものと同じお辞儀。
けれどその持ち上げられたローブの裾、そこにあるはずの足は、なかった。
「!?」
(あ、ああああ足が、足が、ない!?)
両足、なかった。持ち上げた裾からは絨毯の如かれた床が見えているだけで、体を支えるための足が見当たらない。
そして私は足がないという存在を、たったひとつしか知らない。
「あの、貴女、は……」
くるりと躍るような軽やかさで体を翻した彼女の背に、緊張に擦れる声を投げかける。
本当は、聞かなくてもとっくにわかっている気がした。
今日は、あらゆる門が開く日。人間界と魔界、そして冥界を繋ぐ門。ならば彼女がここにいても、よく考えればおかしいことではないけれど!
「だから、貴女が会いたがっている人間だって、言ったじゃない」
振り返って悪戯っぽく告げた先代の姫は、幽霊だというのに私に恐怖心ではなく、勇気だけを置いて幻のように消えていった。